抜けるということ
第93話 抜けるということ
前書き
始める時には、きっかけがある。
誰かに誘われた。
金が必要だった。
居場所が欲しかった。
頼られるのが嬉しかった。
けれど、そこから離れる時には、もっと多くのものが絡みつく。
世話になった人。
自分を頼る人。
自分がしてきたこと。
そして何より、
「ここを出たあと、自分は何になるのか」
という怖さが残る。
⸻
石田誠がいなくなったあとも、木島正義の生活は変わらなかった。
朝になれば倉庫へ行った。
荷物を確認し、人を割り振り、車を回した。
夜になれば、昼間とは違う仕事が入った。
封筒。
現金。
中身を聞かない荷物。
正義はそれを運び、自分で運べない時には誰かへ頼んだ。
誠のことを思い出さなかったわけではない。
だが、仕事は止まらなかった。
誰かが一人いなくなれば、別の誰かが穴を埋めた。
そして、その穴を埋める段取りを考えるのも、いつの間にか正義の仕事になっていた。
十九歳。
二十歳。
二十一歳。
時間が経つにつれ、正義は「木島」と呼ばれるより、
「木島さん」
と呼ばれることの方が増えていった。
昔、自分へ指示を出していた男が、
「木島、こっちどうする?」
と判断を求めてくることもあった。
正義はそれを誇らしく思っていた。
同時に、怖くもあった。
もしここを離れたら、自分には何が残るのか。
学校をまともに出たわけではない。
資格もない。
履歴書に書けるような経歴も少ない。
だが、ここなら自分を知っている人間がいる。
電話一本で動く男がいる。
正義に仕事を頼む人間がいる。
だから、離れる理由がなかった。
正確には。
離れる理由を、考えないようにしていた。
*
二十代の半ばを過ぎた頃だった。
「正義」
夜の倉庫で、坂口が声をかけてきた。
「何だ」
「ちょっといいか」
二人は搬入口の外へ出た。
冬の空気が冷たい。
坂口は缶コーヒーを二本持っていた。
「ほら」
「何だよ」
「奢りだ」
「気持ち悪ぃな」
「いらねぇなら返せ」
「もらう」
正義は缶を開けた。
しばらく二人とも黙っていた。
「俺な」
坂口が言った。
「抜けようと思ってる」
正義は缶を口へ運びかけたまま止まった。
「何から」
「分かるだろ」
「……マジで?」
「ああ」
「何で」
坂口は少し笑った。
「何でって聞くのか」
「聞くだろ」
「お前なら、もう分かってると思った」
「分かんねぇよ」
坂口は倉庫の中を見た。
男たちが荷物を運んでいる。
「俺、家庭持ちたいんだ」
「は?」
「そんな顔すんな」
「いや……」
「付き合ってる女がいる」
「それは知ってる」
「結婚の話が出てる」
正義は坂口を見た。
「それで辞めんのか」
「全部すぐ切れるわけじゃねぇ。でも、今みたいなことはやめる」
「向こうが許すのか」
「話はしてる」
「簡単じゃねぇだろ」
「簡単じゃない」
坂口はコーヒーを飲んだ。
「でも、子どもができた時に、今のままじゃ嫌なんだよ」
「まだできてねぇだろ」
「だから、その前にだ」
正義は黙った。
後に生まれる隼人は、この時まだ存在していなかった。
坂口は、本当に変わろうとしていた。
少なくとも、この時は。
「正義はどうする」
「俺?」
「ああ」
「何が」
「ずっとここにいるのか」
正義は鼻で笑った。
「お前が抜けるから、俺も抜けろって?」
「言ってねぇよ」
「じゃあ何だ」
「考えたことあるのかって聞いてんだ」
正義は答えなかった。
「ないだろ」
「うるせぇ」
「俺もなかった」
「じゃあ偉そうに言うな」
「だから言ってんだよ」
坂口は笑った。
「俺、お前をここに連れてきたからな」
「最初は倉庫だろ」
「ああ」
「その後は俺が選んだ」
「それも分かってる」
「だったら変な責任感じんな」
「責任はあるだろ」
正義は坂口を見る。
「全部じゃない。でも、ゼロでもない」
坂口はそう言った。
正義は返事をしなかった。
*
現在。
朝六時五十七分。
敦はスマートフォンを握っていた。
「まだ早いだろ」
前原が味噌汁を飲みながら言った。
「三分前です」
「七時って言ったんだろ」
「はい」
「じゃあ七時にしろ」
「起きてるかもしれないし」
「なら電話いらねぇだろ」
「でも初日だけって約束したから」
「じゃあ待て」
敦は時計を見る。
六時五十八分。
「長いな……」
「三分が?」
「こういう時の三分って長くないですか」
「知らん」
六時五十九分。
敦が発信ボタンへ指を置く。
「まだだ」
「分かってますよ」
「押そうとしてただろ」
「してません」
「してた」
七時。
敦が電話をかけた。
一回。
二回。
三回。
『……はい』
須賀の声がした。
「あ、おはよう」
『おはようございます』
「起きてた?」
『六時四十分に起きました』
敦は止まった。
「……じゃあ俺の電話いらなかった?」
『でも、約束だったから』
「そうだね」
『今、ご飯食べてます』
「何食べてる?」
『パンと、ゆで卵』
「いいじゃん」
『昨日作りました』
「おお」
敦は少し嬉しくなった。
「じゃあ、気をつけて」
『はい』
「終わったら……」
敦はそこで止まった。
『何ですか』
「いや。必要なら連絡して」
『分かりました』
電話が切れた。
敦はスマートフォンを置いた。
「起きてた」
「聞こえてた」
「ゆで卵も作ってました」
「それも聞こえた」
「何か、すごくないです?」
「ゆで卵だぞ」
「そこじゃないですよ」
「分かってる」
前原は味噌汁を飲んだ。
「明日は電話すんなよ」
「しません」
「心配でも?」
「……しません」
「今、間があったぞ」
「努力します」
「電話しねぇのに努力がいるのかよ」
*
坂口が抜けると決めてから、正義の周囲も少しずつ変わった。
急にすべてが終わったわけではない。
坂口は関係者へ話を通し、残っていた仕事を整理した。
正義も何度かその場に同席した。
「お前も一緒に来るか」
一度だけ、坂口に聞かれた。
「どこへ」
「こっちを離れた後だよ」
「何すんの」
「運送関係。知り合いが会社やってる」
「普通の?」
「普通のだよ」
「給料下がるだろ」
「下がる」
「嫌だね」
正義は笑った。
坂口も笑った。
「そう言うと思った」
「俺、今困ってねぇし」
「そうか」
「お前は行けよ」
「ああ」
「女、泣かせんなよ」
「お前に言われたくねぇ」
その時、正義は本気で残るつもりだった。
坂口がいなくても、自分ならやれる。
むしろ。
坂口が抜けた後、自分がその穴を埋められる。
そんなことすら考えていた。
実際、その通りになった。
坂口が担っていた仕事の一部が、正義へ回ってきた。
人を集める。
金を渡す。
車を手配する。
揉め事があれば間に入る。
正義は忙しくなった。
金も増えた。
そして、自分を頼る人間も増えた。
それから何年か経った。
ある夜。
一人の若い男が、正義の前に座っていた。
名前は村瀬亮介。
二十四歳。
車の運転が上手く、口数は少ない。
「明日の夜、これ頼む」
正義は住所を書いた紙を渡した。
村瀬が見る。
「ここ、最近揉めてるところじゃないですか」
「話はついてる」
「本当に?」
「大丈夫だ」
村瀬は紙を見たまま動かなかった。
「何だ」
「いや……」
「嫌なら別の奴に回すぞ」
正義は言った。
村瀬はすぐに首を振った。
「行きます」
「いいのか」
「はい」
「無理すんなよ」
「大丈夫です」
正義はその返事を聞いて、紙を渡した。
村瀬は受け取った。
翌日の夜。
村瀬は帰ってこなかった。
*
「……またですか」
敦が言った。
前原は食卓の向かいに座っている。
「まただ」
「石田さんとは別の人?」
「別だ」
「村瀬さん」
「ああ」
「何歳だったんです?」
「二十四」
「ヨシさんは?」
「二十代後半だな」
敦は少し黙った。
「何があったんです」
前原はすぐには答えなかった。
「俺が、大丈夫だって言った」
「はい」
「話はついてるって」
「本当は?」
「ついてると思ってた」
「……」
「少なくとも、そう聞いてた」
前原は指を組んだ。
「でも、違った」
*
村瀬が戻らないと分かったのは、夜中の一時を過ぎてからだった。
正義は何度も電話をかけた。
繋がらない。
予定の場所へ人をやった。
村瀬の車は、少し離れた港の倉庫街で見つかった。
本人はいなかった。
「警察か?」
正義が聞いた。
「いや」
戻ってきた男が首を振る。
「救急車で運ばれたらしい」
「どこ」
「分からん」
「調べろ!」
正義は怒鳴った。
病院が分かったのは明け方だった。
正義は一人で向かった。
村瀬は死んではいなかった。
頭を縫い、肋骨を痛めていた。
顔も腫れていた。
正義が病室へ入ると、村瀬は目だけを向けた。
「……木島さん」
「悪ぃ」
正義は最初にそう言った。
「本当に悪かった」
村瀬は何も言わなかった。
「話はついてるって聞いてた」
「……」
「俺も確認した」
「はい」
「こんなことになるとは」
「木島さん」
村瀬が遮った。
「俺、あの仕事、もうやりたくないです」
正義は止まった。
「分かった」
今回は、すぐに言えた。
「もういい。やらなくていい」
「……」
「治るまで金のことは何とかする」
「そうじゃなくて」
村瀬は天井を見た。
「俺、全部やめたいです」
正義は答えられなかった。
「倉庫も?」
「はい」
「昼の仕事も?」
「はい」
「……そうか」
村瀬の目から涙が流れた。
「俺、昨日、帰りたかったんです」
正義は何も言えなかった。
「途中で変だと思って」
「……」
「でも木島さんが、大丈夫って言ったから」
その言葉が、正義の中に残った。
――木島さんが、大丈夫って言ったから。
石田は、嫌だと言って消えた。
村瀬は、正義を信じて行った。
どちらも違う。
だが、どちらにも自分がいた。
「悪かった」
正義はもう一度言った。
村瀬は返事をしなかった。
*
須賀の仕事初日は、午後四時に終わった。
敦は時計を見ていた。
四時五分。
スマートフォンは鳴らない。
四時十五分。
まだ鳴らない。
「電話すんなよ」
前原が言った。
「してませんよ」
「顔がしてる」
「顔で電話できません」
「屁理屈言うな」
四時二十八分。
メッセージが来た。
『終わりました』
敦はすぐに開いた。
『疲れました』
続いて、
『でも明日も行きます』
敦は笑った。
「来ました」
「そうか」
「明日も行くって」
「そうか」
「もうちょっと喜びません?」
「お前が二人分喜んでるからいいだろ」
「そんな仕組みなんですか」
敦は返信した。
『お疲れさま。今日はゆっくり休んで』
送る。
それだけにした。
「電話しないのか」
今度は前原が聞いた。
「しません」
「何で」
「向こうから必要って言ってないから」
「そうか」
「でも電話したいです」
「しろよ」
「どっちなんですか!」
前原が笑った。
「自分で決めろ」
「最近そればっかりですね」
「そういう話してんだろ、今」
*
村瀬の一件のあと、正義は初めて本気で、
――抜ける。
ということを考えた。
石田がいなくなった時には、そこまで考えなかった。
坂口が抜けた時にも、自分は残ると言った。
だが、病室の村瀬の顔が消えなかった。
自分はもう、頼まれるだけの人間ではない。
人へ仕事を渡す側になっていた。
そして、
「大丈夫だ」
という自分の一言で、誰かが危ない場所へ行く。
その事実が、ようやく怖くなった。
数日後。
正義は坂口に電話した。
『もしもし』
「俺」
『正義? 珍しいな』
「今、時間ある?」
『あるけど』
「……お前、抜ける時どうした」
電話の向こうが静かになった。
『何かあったか』
「別に」
『別にで電話してくる奴じゃねぇだろ』
「うるせぇ」
『人に聞く態度か』
「じゃあ切るぞ」
『待て待て』
坂口の声が少し真面目になった。
『抜けたいのか』
正義はすぐに答えられなかった。
「……分からん」
『そうか』
「ただ」
正義は病室の村瀬を思い出した。
「このままは、嫌になってきた」
坂口はしばらく黙っていた。
『じゃあ、そこから考えりゃいい』
「何を」
『抜けるかどうかじゃなくて、今の何が嫌なのか』
「面倒くせぇな」
『お前は昔から、答えを先に決めすぎるんだよ』
「お前に言われたくねぇ」
『それも昔から言ってるな』
正義は少し笑った。
抜けると決めたわけではなかった。
その日からすぐに仕事をやめたわけでもない。
ただ。
初めて、
ここではない場所で生きる自分を考え始めた。
*
現在の夜。
須賀から二通目のメッセージが届いた。
写真だった。
小さなフライパン。
目玉焼き。
端が少し焦げている。
『明日の朝の分です』
敦は思わず笑った。
「ヨシさん」
「何だ」
「須賀、目玉焼き作ったみたいです」
「見せろ」
前原が覗き込む。
「焦げてんな」
「俺のと同じくらい」
「お前よりマシだ」
「そんなことないですよ」
隼人も横から見る。
「敦さんよりマシですね」
「隼人まで!」
ますみがスケッチブックから顔を上げた。
「写真、見せて」
「はい」
ますみは画面を見て、小さく笑った。
「いいじゃん」
「ですよね」
「うん」
前原は椅子へ戻った。
「明日も行くんだろ」
「はい」
「じゃあ今日は早く寝るだろ」
「たぶん」
「なら返信しまくるなよ」
「一通だけです」
敦は、
『いいじゃん。俺より上手いって言われた』
と打った。
少し考え、
『明日も気をつけて』
を加えた。
送信する。
須賀からは、しばらく返事が来なかった。
それでよかった。
きっと、もう自分の部屋で明日の準備をしている。
ここに来なくても。
敦へ電話しなくても。
前原に飯を作ってもらわなくても。
須賀の夜は、須賀の部屋で続いている。
前原はそれを見ながら、遠い昔の村瀬を思い出していた。
誰かが帰ってこない夜にも、いろいろある。
逃げた夜。
傷ついて戻れなかった夜。
そして、自分の部屋へ帰って、次の日のために眠る夜。
同じ「ここにいない」でも、まるで違う。
前原は立ち上がった。
「風呂、空いてるか」
「グエン入ってます」
「また長ぇのか?」
台所の向こうから声が飛んできた。
「キコエテル!」
「風呂から聞こえんのかよ!」
「イマ、デタ!」
「じゃあ服着てから喋れ!」
敦が吹き出した。
いつもの夜だった。
誰かがここにいる。
誰かは、別の場所にいる。
それぞれに帰る場所があることを、前原は今なら悪くないと思えた。
⸻
後書き
第93話でした。
今回は、前原が裏社会から離れることを初めて本気で考え始めた時期を描きました。
きっかけになったのは村瀬亮介です。
石田誠は「嫌だ」と言って去った。
一方、村瀬は前原の「大丈夫だ」という言葉を信じて仕事へ行き、傷つきました。
前原に悪意があったわけではありません。本人も安全だと聞いていました。しかし、人を動かす側になった以上、「知らなかった」「そう聞いていた」だけでは済まないことがある。
それを前原が初めて自分の問題として受け止め始めます。
ただし、この一件で即座にすべてを捨てて改心するわけではありません。
長くいた場所から抜けるには、仕事、人間関係、金、そして「ここを出たら自分は何者なのか」という問題が残ります。
現在では、須賀の三日間の短期勤務が始まりました。
初日は終了。
須賀は事務所へ戻ってくるのではなく、自分の部屋へ帰り、翌朝の目玉焼きを作りました。
「ここにいない」ことが、悪いことではなくなっていく。
次回は、若い正義が実際に仕事を減らし、裏社会から離れる準備を始めます。
そして、長く使ってきた「木島正義」という名前から、なぜ「前原正義」へ変わったのか。
その選択にも、少しずつ近づいていきます。




