帰ってこなかった男
第92話 帰ってこなかった男
前書き
一度できたことが、次もできるとは限らない。
一度「嫌だ」を受け入れられたからといって、ずっと相手の意思を尊重できるとは限らない。
立場が変わる。
背負うものが増える。
自分を頼る人間が増える。
そしていつの間にか、
「頼む」
だった言葉が、
「やれ」
に変わっていくことがある。
⸻
石田誠が倉庫からいなくなったのは、正義が十八歳になる少し前だった。
最初の頃、倉庫にいる正義は、ただ仕事を教わる側だった。
荷物の置き場所。
伝票の見方。
トラックが来る時間。
誰に何を渡せばいいのか。
分からなければ坂口に聞いた。
坂口がいなければ、年上の男たちに聞いた。
だが二年も経つ頃には、それが逆になっていた。
「木島、明日の二便どうする?」
「午前の荷物が残ったら一本増やす」
「運転手は?」
「野田に聞いた。空いてる」
「こっちは?」
「それ俺がやる」
気づけば、正義に聞けば話が早いと言われるようになっていた。
それが嫌ではなかった。
むしろ、好きだった。
十五歳の頃には、自分がどこにいても邪魔なのだと思っていた。
青葉園では問題を起こす子ども。
親戚の家では預かるのが難しい子。
駅では、ただ腹を空かせている少年。
それが今では、
「木島、頼む」
と言われる。
自分がいなければ困る人間がいる。
その感覚を、正義は手放したくなかった。
そして、その頃には倉庫へ出入りする仕事の種類も変わっていた。
酒や雑貨を運ぶ普通の荷物もあった。
だが、夜になると別の荷物が増えた。
中身を聞かない箱。
名前を書かない封筒。
誰が使うのか分からない車。
受け取ったことを記録しない現金。
正義はもう、それが普通の仕事ではないと知っていた。
知らずに巻き込まれていたわけではない。
知った上で、そこにいた。
ある日の夜。
「木島さん」
誠が声をかけてきた。
「何だ」
「明日の夜、俺も来るんですか」
「来れる?」
「昼だけじゃ駄目ですか」
「夜、人足りねぇんだよ」
「……」
誠は黙った。
「何かある?」
「いや」
「じゃあ頼む」
正義はそう言って、別の伝票へ視線を落とした。
「木島さん」
「何だよ」
「俺、夜の方、やめたいです」
正義の手が止まった。
「夜だけ?」
「はい」
「何で」
「昼の仕事だけじゃ駄目ですか」
「理由聞いてんだよ」
誠は周囲を見た。
少し離れたところで、男が二人、車の荷台を閉めている。
「最近、何運んでるか分からないの多いし」
「前からだろ」
「前より増えました」
「だから?」
「嫌なんです」
正義は誠を見た。
以前、三崎ビルへの封筒を断られた日のことを思い出した。
あの時は、あとで話した。
理由を聞いた。
断ったからといって倉庫の仕事までなくなるわけではないと伝えた。
だから今回も、同じようにすればよかった。
「分かった」
そう言えばよかった。
だが、その日の正義には別のものがあった。
翌日の夜、どうしても一人足りなかった。
坂口は別件で動けない。
他の男にも断られていた。
そして正義自身が、
「何とかする」
と言ってしまっていた。
「明日だけ来れねぇ?」
正義は言った。
誠の表情が曇った。
「明日だけですか」
「ああ。次から昼だけでいい」
「……」
「頼む」
誠はすぐに答えなかった。
「誠」
「分かりました」
「助かる」
正義は、ほっとした。
その時、誠がどんな顔をしていたのか。
後になっても、うまく思い出せなかった。
*
翌日の夜。
誠は来なかった。
約束の時間を十分過ぎた。
二十分。
三十分。
「木島、どうすんだ」
「待て」
「もう出ないと間に合わねぇぞ」
「分かってる!」
正義は倉庫の電話から、誠が寝泊まりしていたアパートへ電話した。
出ない。
もう一度。
出ない。
「くそっ」
結局、正義が自分で穴を埋めた。
予定していた便を一つ遅らせ、別の男を途中から回した。
仕事が終わったのは深夜だった。
正義は怒っていた。
心配より先に、怒りが来た。
――来れねぇなら連絡しろ。
――こっちはお前が来ると思って組んでんだ。
――嫌なら嫌って言え。
そこまで考えて、正義は気づかなかった。
誠は前日に、ちゃんと「嫌だ」と言っていた。
翌朝も、誠は来なかった。
昼になっても来なかった。
三日目。
正義は誠のアパートへ行った。
古い木造の二階。
呼び鈴を押す。
返事はない。
何度か扉を叩いた。
「誠!」
隣の部屋の住人が顔を出した。
「うるさいよ」
「ここにいた奴、知らねぇ?」
「若い子?」
「ああ」
「昨日、荷物持って出てったよ」
「どこに」
「知らない」
正義は扉を見た。
「何持ってた」
「ボストンバッグ一個」
「誰かと?」
「一人」
正義は階段を下りた。
怒りはまだ残っていた。
だが、その下から、別の感情が出てきた。
――逃げた。
そう思った。
仕事から。
自分から。
正義はそれが、ひどく腹立たしかった。
*
現在。
須賀は約束の時間より十五分早く、倉庫会社の前に着いていた。
求人票を四つ折りにして、上着のポケットへ入れている。
入口の横には会社名の入った看板。
大型トラックが一台、ゆっくり構内へ入っていった。
須賀はスマートフォンを見た。
午後一時四十五分。
話を聞く約束は二時だった。
敦からは朝、
『分からないことは聞いてきた方がいいよ』
とだけメッセージが来ていた。
同行するとは言わなかった。
何を質問しろとも書かなかった。
須賀は求人票をもう一度開いた。
勤務時間。
時給。
交通費。
仕事内容。
試用期間。
分からないところに、自分で小さな丸をつけてある。
午後一時五十七分。
須賀は受付へ向かった。
「すみません。二時にお話を伺うことになっている須賀です」
声は少し震えた。
それでも、名前は最後まで言えた。
*
「それで、石田さんは?」
敦が聞いた。
前原は事務所の食卓で、昨日の続きを話していた。
「いなくなった」
「そのまま?」
「ああ」
「探したんですか」
「最初はな」
前原は腕を組んだ。
「アパート行って、よく行ってた店も見た。知ってそうな奴にも聞いた」
「見つからなかった?」
「見つからなかった」
「警察は」
前原は敦を見た。
「俺らが何の仕事してたと思ってんだ」
「……そうか」
「それに、あいつは自分で荷物まとめて出てる。事件だとも思わなかった」
「じゃあ、そのまま」
「そのまま」
敦は黙った。
「怒ってました?」
「ああ」
「心配じゃなくて?」
「最初は怒ってた」
前原は正直に答えた。
「俺の段取りを崩しやがったって」
「……」
「恩知らずだとも思った」
敦が顔を上げる。
「飯食わせた。仕事教えた。困ってりゃ手ぇ貸した。それなのに、何も言わずに消えやがったってな」
「今は?」
「逆だ」
「逆?」
「あいつ、言ってたんだよ」
前原は自分の手を見る。
「夜の仕事は嫌だって」
敦は何も言わなかった。
「俺が聞かなかった」
「でも、明日だけって」
「ああ」
「一回だけ頼んだ」
「そうだ」
前原は頷いた。
「だから余計に厄介なんだよ」
「何がです?」
「無理やりじゃねぇって言えるからだ」
敦は前原を見る。
「殴ってねぇ。脅してねぇ。金を取り上げてもねぇ。『明日だけ頼む』って言っただけだ」
「……」
「でも、あいつは俺を頼ってた。俺に仕事教わって、俺に聞いてた」
前原は短く息を吐いた。
「その俺から『人が足りねぇ』『明日だけ』って言われたら、断りづれぇだろ」
第87話で坂口と話したことと、ほとんど同じだった。
今度は前原自身が、坂口の側に立っていた。
「その時は分からなかった?」
「分かりたくなかったんだろうな」
前原は言った。
「人が足りねぇから。俺が困るから。仕事回さなきゃならねぇから」
「……」
「相手が嫌がってることより、そっちを優先した」
敦は、少し考えてから尋ねた。
「石田さんに、謝りたいですか」
前原はすぐに答えなかった。
「そりゃ、会えるならな」
「探します?」
「それは違う」
敦が顔を上げた。
「俺が謝りてぇからって、あいつを探し回るのは違うだろ」
「……」
「向こうは、俺に会いたくねぇかもしれねぇ」
前原は食卓の木目を見た。
「謝る側が楽になるために、逃げた奴を引っ張り出すわけにはいかねぇよ」
敦はゆっくり頷いた。
*
須賀が事務所へ来たのは、午後四時過ぎだった。
「ただいま……じゃないな」
玄関で言ってから、自分で困った顔をした。
敦が笑う。
「どっちでもいいよ」
「じゃあ……こんにちは」
「急に他人行儀になった」
「難しいですね」
「入って」
須賀は靴を脱いだ。
「どうだった?」
「話、聞いてきました」
「うん」
「思ってたより普通でした」
「普通?」
「もっと、面接みたいにいろいろ聞かれるのかと思って」
須賀は食卓に求人票を置いた。
「仕事内容を見せてもらって、倉庫も少し見ました」
「できそう?」
「……分からないです」
「そっか」
「でも、やってみてもいいかなって」
敦は求人票を見る。
「向こうは?」
「三日だけ、短期で試してもいいって」
「三日」
「はい。朝九時から四時まで」
「例の六時半じゃないんだ」
「あれとは別のところです」
「そうか」
須賀は頷いた。
「三日やって、無理だったら断ってもいいって言われました」
前原が、少し離れたところから顔を上げた。
須賀は気づいていない。
「それで、どうする?」
敦が聞いた。
「やってみようと思います」
「うん」
「でも」
「何?」
「無理だったら、本当に断っていいんですかね」
敦は答えようとして、前原を見そうになった。
やめた。
「いいと思う」
「でも、教えてもらったあとに辞めたら、迷惑じゃないですか」
「迷惑がゼロかどうかは分からない」
須賀が少し驚いた。
「教える時間は使うだろうし、向こうも続けてくれたら嬉しいとは思う」
「はい」
「でも、それと須賀が続けなきゃいけないことは別じゃない?」
「……」
「三日試していいって向こうが言ったなら、その三日は須賀が判断するための三日でもあるんだと思う」
須賀は求人票を見た。
「断ったら、もうそこには行かないですよね」
「仕事にはね」
「……」
「でも、それで須賀が悪い人になるわけじゃないよ」
須賀はしばらく黙っていた。
「やってみます」
「うん」
「明後日から」
「分かった」
「朝、起きられるかな」
「目覚まし何個かける?」
「三個」
「それだけあれば」
「岡野さん」
「ん?」
「電話、してくれます?」
敦は止まった。
「朝?」
「はい」
「何時?」
「七時」
敦は少し考えた。
「初日だけならいいよ」
「初日だけ?」
「二日目からは、自分で起きてみない?」
須賀は困った顔をした。
「……はい」
「嫌?」
「ちょっと不安です」
「じゃあ、初日やってみて、それから考えよう」
「はい」
前原は何も言わなかった。
敦も前原を見なかった。
自分で決めた。
*
その夜、川本が事務所へ寄った。
前原に頼まれていたわけではない。
近くまで来たから、と菓子の箱を持ってきただけだった。
「また甘いもんですか」
前原が箱を見る。
「嫌なら食べなくていいですよ」
「誰が食わねぇって言った」
「グエンさんに全部食べられますよ」
「隠す」
「ヨシ!」
台所からグエンの声が飛んだ。
「キコエテル!」
「地獄耳かお前は!」
川本が笑った。
しばらくして、敦と須賀が求人票を見ているのを横目に、前原が川本へ声をかけた。
「ちょっといいか」
二人は外へ出た。
夜風が冷たい。
自動販売機の明かりの下で、川本が缶コーヒーを二本買った。
「珍しいですね。前原さんから話したいなんて」
「坂口の話してたら、思い出した」
「何を」
「昔の奴だ」
前原は石田誠のことを話した。
川本は途中で口を挟まなかった。
「それで、いなくなった」
「何年前です?」
「もう四十年以上だ」
「今、生きていれば五十代後半くらいですか」
「そうなるな」
「探したいんですか」
「敦にも聞かれた」
「何て答えました?」
「俺が謝りたいから探すのは違うって」
「私もそう思います」
「即答かよ」
「ただ」
川本は缶を開けた。
「もし、別の理由で居場所が分かることがあったら?」
前原は黙った。
「例えば向こうから連絡してきたとか。誰かから偶然、元気だと聞いたとか」
「……」
「その時にどうするかは、その時決めればいいでしょう」
「そうだな」
「今から探偵ごっこをする必要はない」
「お前、黒岩に言うなよ」
「言いませんよ」
「絶対だぞ」
「前原さんがそう言うと、逆に黒岩さんに聞きたくなりますね」
「やめろ!」
川本は笑った。
前原も少し笑った。
そして、ふと真顔になった。
「川本」
「はい」
「俺、あいつが消えたあとも、しばらく同じ仕事続けてた」
「そうでしょうね」
「止めなかった」
「はい」
「それどころか、人を使う側に回った」
川本は前原を見る。
「石田さんがいなくなったから、すぐ目が覚めたわけじゃないんですね」
「ああ」
「それも、覚えておけばいいんじゃないですか」
「……都合悪ぃな」
「人生ですから」
「またそれか」
二人は缶コーヒーを飲んだ。
*
翌朝。
須賀の仕事はまだ始まっていない。
それなのに、敦は七時前に目が覚めた。
時計を見る。
六時五十八分。
「……違う。明日だ」
自分で呟いた。
隣の布団から声がした。
「何が明日だ」
前原だった。
「須賀に七時に電話するの」
「今日じゃねぇのか」
「明日です」
「じゃあ寝ろ」
「もう起きます」
「好きにしろ」
前原は布団をかぶった。
敦は台所へ行った。
冷蔵庫を開ける。
卵がある。
昨日の味噌汁も残っている。
米は炊けている。
フライパンを出したところで、隼人が入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日、敦さん作るんですか」
「目玉焼きくらいなら」
「俺やりましょうか」
「大丈夫」
「焦がしますよ」
「みんな俺の信用低すぎない?」
隼人は笑った。
「じゃあ一個だけ敦さんが焼いてください」
「一個だけ?」
「俺、自分のは自分でやります」
「勝負?」
「何で勝負になるんですか」
二人でフライパンを並べた。
敦の卵は、端が少し焦げた。
隼人の卵は、きれいに丸く焼けた。
「……何で?」
「火、強すぎるんですよ」
「同じコンロなのに」
「だから火加減です」
前原が起きてきた。
「朝から何やってんだ」
「目玉焼きです」
「見りゃ分かる」
敦が自分の皿を見た。
「ヨシさん、こっち食べます?」
「嫌だ」
「断った!」
「焦げてんだろ!」
「断っても関係はなくならないんですよね!」
「朝から面倒くせぇ!」
隼人が笑った。
敦も笑った。
石田誠がその後、どこで暮らしたのか。
前原は知らない。
家庭を持ったのか。
仕事をしたのか。
元気にしているのか。
もう亡くなっているのか。
何も知らない。
知らないまま生きることもある。
助けた相手の人生を、最後まで知る権利があるわけではない。
関わったからといって、その後まで自分の物語にする必要もない。
ただ、前原の中には、石田が残したものがある。
そして明日、須賀は新しい仕事へ行く。
三日後に続けるかもしれない。
断るかもしれない。
どちらになるかは、まだ誰にも分からない。
それでよかった。
⸻
後書き
第92話でした。
今回は、石田誠が前原のもとを去った出来事を描きました。
石田は突然何も言わずに拒否したわけではありません。
前日に「夜の仕事は嫌だ」と伝えていました。
しかし当時の正義には人手が必要で、「明日だけ」と頼みました。強制したわけではありません。それでも、正義を頼っていた石田にとって、その「頼む」がどれほど断りやすい言葉だったのか。
第87話で前原が坂口と話した問題が、今度は前原自身の側から現れています。
また、石田がいなくなったことによって前原が即座に改心したわけでもありません。
人は一つの出来事だけで、突然別人にはならない。
前原はその後も裏社会に残り、やがて自分が人を使う側へ回っていきます。
現在では、須賀が自分で仕事先へ話を聞きに行き、三日間の短期勤務を試すことを決めました。
続けることも、断ることも、まだ決まっていません。
次回は、若い木島正義が「人を使う側」になった時代へ。
そして現在では、須賀の三日間が始まります。
前原自身が裏社会から離れることを考え始めるまで、もう少し時間を遡ります。




