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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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ヨシさんがいない日

第91話 ヨシさんがいない日


前書き


誰かのそばで、人を助けることはできる。


分からなければ、その人を見る。

迷ったら、その人に聞く。


けれど、いつかはその人がいない時にも、誰かが扉を開ける。


その時、


「ヨシさんならどうするだろう」


ではなく、


「自分はどうするか」


を考えなければならない。


⸻


 その日、前原は朝から出かけていた。


「昼過ぎには戻る」


 玄関で靴を履きながら、前原が言った。


「どこ行くんです?」


「川本んとこ」


「何かあったんですか」


「別に。ちょっと話すだけだ」


「坂口さんのこと?」


 敦が聞くと、前原は一瞬だけ動きを止めた。


「それもある」


「一緒に行きましょうか」


「何でだよ」


「いや、何となく」


「いらん」


 前原は立ち上がり、上着を羽織った。


「お前は留守番してろ」


「留守番って、子どもじゃないんですから」


「じゃあ好きにしろ」


「どっちですか」


「面倒くせぇな!」


 台所から和子が顔を出した。


「正義、電球買ってきて」


「何の」


「廊下」


「昨日まで点いてただろ」


「今朝切れた」


「敦に頼め」


「敦君、今日はいるんでしょ」


「いますけど」


「じゃあ敦君でいい」


「俺に頼んどいて簡単に変えるな!」


「誰でもできるから」


 前原は何とも言えない顔をした。


「……じゃあ行ってくる」


「行ってらっしゃい」


「おう」


 扉が閉まった。


 敦は和子を見る。


「電球、何ワットです?」


「外して見て」


「そこからですか」


「そこから」


 朝は、そんなふうに始まった。


         *


 午前中は静かだった。


 翔太は学校へ行き、隼人は倉庫。


 グエンも仕事へ出ている。


 ますみは自室で絵を描いていた。


 和子は昼前に買い物へ出た。


 敦は事務所の机で、佐伯から渡された資料を整理していた。


 須賀が利用している短期住宅。


 仕事の相談窓口。


 生活費についての制度。


 緊急時の連絡先。


 以前なら、こういう紙を見るだけで頭が痛くなった。


 今も得意ではない。


 ただ、分からないものを全部分かったふりする必要はないと知っただけ、少し楽になった。


 十一時十五分。


 玄関のチャイムが鳴った。


 宅配便だと思った。


「はい」


 敦が扉を開ける。


 立っていたのは、知らない女性だった。


 四十歳くらいだろうか。


 黒いコートを着て、小さなショルダーバッグを両手で抱えている。


「あの……」


「はい」


「前原さん、いますか」


 敦は一瞬、女性の後ろを見た。


 一人だった。


「今、出てます。午後には戻ると思いますけど」


「そうですか」


 女性は俯いた。


「何かご用ですか?」


「いえ……」


 帰ろうとした。


 けれど、足が動かなかった。


 敦はそこで初めて気づいた。


 女性の靴のつま先が、雨でもないのにかなり汚れている。


 髪も整ってはいるが、ところどころ乱れていた。


「前原さんと、お知り合いですか」


「いえ」


「じゃあ、誰かから聞いて?」


 女性は少し迷った。


「知り合いの知り合いから……困った時に、話を聞いてくれる人がいるって」


 敦の頭の中に、最初に浮かんだ言葉があった。


 ――ヨシさん、いつ戻るんだろう。


 時計を見る。


 まだ十一時過ぎ。


「すみません。俺、岡野っていいます」


 女性が顔を上げた。


「前原さんじゃないですけど……話を聞くだけなら、俺でもできます」


 言ってから、不安になった。


 本当にできるのか。


 何を抱えている人なのかも分からない。


 前原ならどうする。


 そう考えかけて、敦はやめた。


「ただ」


 続けた。


「俺にできないことだったら、別の人に相談するかもしれません。その時は、勝手に話さないで、先に聞きます」


 女性は敦を見た。


「……入ってもいいですか」


「はい」


 敦は扉を大きく開けた。


         *


 女性は、田島美穂と名乗った。


 四十二歳。


 敦はお茶を出した。


 美穂は湯呑みに両手を添えたまま、なかなか飲まなかった。


「お腹、減ってません?」


 敦が聞いた。


「大丈夫です」


 そう言った直後、美穂は少し笑った。


「こういう時、大丈夫って言うものなんですかね」


「分かりません」


「前原さんなら、ご飯出してくれるって聞きました」


「ああ……」


 敦も笑った。


「それは、たぶん本当です」


「岡野さんは?」


「俺も出しますよ」


「そうですか」


「食べます?」


 少し間があった。


「……はい」


 敦は冷蔵庫を開けた。


 昨日の照り焼きが残っている。


 朝、前原と話していた保存容器だった。


 ご飯を温め、味噌汁を作り直し、照り焼きを皿へ載せる。


 大したものではない。


 美穂は「いただきます」と小さく言った。


 最初の一口を食べるまでに、ずいぶん時間がかかった。


 敦は向かいに座らなかった。


 少し離れた机で資料を整理しながら待った。


 半分ほど食べたところで、美穂が言った。


「昨日、家に帰ってないんです」


 敦は手を止めた。


「そうなんですね」


「駅の近くのホテルに泊まりました」


「はい」


「今日も帰りたくなくて」


 敦はすぐに理由を聞かなかった。


 美穂は箸を置いた。


「でも、ホテルに何日も泊まれるほど、お金ないし」


「今夜の場所が必要ですか」


「……分かりません」


 敦は頷いた。


 分からない。


 それも答えなのだと思った。


「家に戻ると、今すぐ危ないとかは?」


 美穂は考えた。


「たぶん、ないです」


「誰かが追いかけてきてるとか」


「ないです」


「じゃあ、今ここにいることは?」


「知られてないです」


「分かりました」


 敦はそこまで聞いて、止めた。


 何があったのか。


 夫なのか。


 親なのか。


 子どもなのか。


 借金なのか。


 暴力なのか。


 聞こうと思えば、いくらでも聞ける。


 けれど、今必要なのは事件の全容を知ることではない。


「今日、どうしたいですか」


 美穂は困った顔をした。


「それが分からないから来たんです」


「そうですよね」


 敦は頭を掻いた。


「すみません」


「いえ」


「俺も、どうすればいいか全部は分からないです」


 美穂は少し驚いたように敦を見た。


「でも、今日帰りたくないなら、今日どうするかは一緒に考えられると思います」


「ここに泊まれますか」


 敦は黙った。


 事務所の奥には、人が横になれる場所はある。


 以前なら、


「いいですよ」


 と言っていたかもしれない。


 だが、ここは敦一人の家ではない。


 女性を泊めるとなれば、他の人たちの生活にも関わる。


「すみません。それは、俺一人では決められないです」


 美穂の表情が曇った。


 敦は慌てて言葉を足しそうになった。


 ――ヨシさんが帰ってきたら。


 そこまで言いかけて、やめた。


「でも、ここに泊まれないなら終わり、ではないです」


 美穂が顔を上げる。


「今日相談できるところを探します。緊急で泊まれる場所があるかも含めて。ただ、俺だけじゃ分からないので……一人、詳しい人に聞いてもいいですか」


「誰ですか」


「市の福祉関係の仕事をしてる佐伯さんって人です」


「全部話すんですか」


「いや」


 敦は首を振った。


「まず、四十代の女性で、今夜帰宅したくない人がいて、相談できる場所を探してる、くらいで聞きます。名前とか、詳しい事情は言いません」


 美穂はしばらく考えた。


「それなら」


「いいですか」


「はい」


 敦はスマートフォンを取った。


         *


「なるほど」


 佐伯は電話の向こうで一度言葉を切った。


『本人は今、岡野さんのところに?』


「います」


『差し迫った危険は』


「本人は、たぶんないって」


『“たぶん”ですね』


「はい」


『詳しい事情は聞きました?』


「まだです」


『それでいいと思います。まず本人が何を話したいかです』


 敦は少し安心した。


「今日帰りたくないみたいで」


『分かりました。いくつか選択肢があります。ただ、事情によって窓口が変わります』


「やっぱり聞かないと駄目ですか」


『全部は必要ありません』


 佐伯は言った。


『本人に、私と直接話すことができるか聞いてもらえますか』


「今からですか」


『私は今日は四時半までなら動けます』


 敦は時計を見た。


 十二時を少し過ぎている。


「分かりました」


『岡野さん』


「はい」


『一つだけ』


「何ですか」


『泊める場所を岡野さんが今すぐ作ろうとしなくていいですよ』


 敦は苦笑した。


「考えてました」


『でしょうね』


「何で分かるんですか」


『岡野さんだからです』


「それ褒めてないですよね」


『半分くらいは』


 電話を切った。


 敦は美穂のところへ戻った。


「佐伯さんが、直接話せるなら話したいって」


「市役所に行くんですか」


「近くの相談室でもいいそうです。俺も一緒に行けます」


 美穂は黙った。


「一人の方がよければ、俺は行きません」


「……一緒に来てもらってもいいですか」


「はい」


 敦は答えた。


 その時、玄関が開いた。


「ただいま」


 和子だった。


 買い物袋を持っている。


「あ、おかえりなさい」


 和子は見知らぬ女性がいることに気づいた。


 だが、何も聞かなかった。


「お客さん?」


「はい」


「そう」


 それだけ言って、台所へ向かった。


 敦はその反応に少し救われた。


         *


 午後一時過ぎ。


 前原は川本の事務所にいた。


「それで」


 川本がコーヒーを置いた。


「坂口さんとは話せたんですね」


「ああ」


「隼人君のことは?」


「会いたくねぇって言ってることだけ伝えた」


「それで十分でしょう」


「お前もそう思うか」


「前原さんが親子を仲直りさせる必要はありません」


「分かってる」


「本当に?」


「うるせぇな」


 川本は笑った。


「昔の話もした」


「坂口さんと?」


「ああ」


 前原は、十五歳の頃の仕事について話した。


 最初は普通の荷運びだったこと。


 自分から続けたこと。


 その後、少しずつ頼まれる内容が変わったこと。


「俺も、あいつに恩があった」


「はい」


「でも、それだけじゃねぇ。頼られるのが好きだったんだ」


「それも前原さんが選んだことですね」


「ああ」


「だからといって、十五歳と大人の責任が同じになるわけでもない」


 前原は黙った。


「お前、面倒くせぇ言い方するな」


「前原さんが簡単にしすぎるんです」


「俺が?」


「全部俺が選んだ、で終わらせると楽でしょう」


「……」


「全部坂口さんのせいだ、でも楽です」


「じゃあどうしろってんだ」


「両方覚えておけばいいんじゃないですか」


 川本はコーヒーを飲んだ。


「助けてもらったことも。利用された部分があったかもしれないことも。自分で選んだことも。十五歳では見えなかったことも」


「多いな」


「人生ですから」


「雑にまとめやがって」


 前原は鼻で笑った。


 その時、スマートフォンが震えた。


 敦からだった。


『今、相談に来た人と佐伯さんのところへ行ってきます。和子さんには言ってあります。急ぎじゃないので帰ってこなくて大丈夫です』


 前原は画面を二度読んだ。


「どうしました」


 川本が聞く。


「岡野だ」


「何か?」


「知らねぇ女が相談に来たらしい」


「それで?」


「佐伯のとこ連れてくって」


「そうですか」


「……」


「何です?」


「いや」


 前原はスマートフォンを置いた。


「俺に聞いてねぇなと思って」


 川本は笑った。


「聞いてほしかったですか」


「そうじゃねぇよ」


「じゃあ、いいじゃないですか」


「……そうだな」


 前原はコーヒーを飲んだ。


 少しぬるくなっていた。


         *


 相談室までの道で、美穂はほとんど話さなかった。


 敦も無理に話さなかった。


 信号待ちで、美穂がふいに言った。


「前原さんじゃなくて、よかったのかもしれない」


「え?」


「ごめんなさい。悪い意味じゃなくて」


「はい」


「私、前原さんって、もっと怖い人だと思って来たから」


「怖いですよ」


「怖いんですか」


「顔は」


 美穂が初めて声を出して笑った。


「本人には言わないでください」


「はい」


「でも、飯は作ります」


「岡野さんも作ってくれました」


「あれは昨日の残りです」


「十分です」


 信号が青になった。


 二人は歩き出した。


 相談室では、佐伯が待っていた。


「田島さんですね。佐伯です」


 美穂が頭を下げる。


「ここから先、岡野さんにも一緒にいてもらいますか?」


 佐伯が最初に聞いた。


 美穂は敦を見る。


「最初だけ」


「分かりました」


 敦は答えた。


 美穂が話し始めた。


 敦が知らなかったこともあった。


 だが、ここで全部を知る必要はなかった。


 途中で美穂が、


「ここからは、二人で話してもいいですか」


 と言った。


「もちろん」


 敦は立ち上がった。


 廊下の椅子へ移る。


 扉が閉まった。


 敦は一人になった。


 何となく落ち着かなかった。


 自分が外へ出たあと、何を話しているのか気になった。


 大丈夫だろうか。


 ちゃんと話せているだろうか。


 自分がいた方が――。


 そこまで考えて、やめた。


 美穂が「二人で」と決めた。


 ならば、今の敦の仕事は待つことだった。


 スマートフォンを見る。


 須賀からメッセージが来ていた。


『明後日の話、午後二時になりました』


 敦は少し笑った。


『了解。終わったら、必要なら連絡して』


 そう返した。


         *


 夕方。


 敦が事務所へ戻ると、前原はすでに帰っていた。


「ただいま」


「おう」


 前原は食卓で新聞を読んでいる。


「連絡見ました?」


「見た」


「すみません。勝手に」


「何が」


「佐伯さんに連絡して、連れていったこと」


「何で俺に謝んだ」


 敦は靴を脱ぎながら止まった。


「いや……一応」


「俺の許可いるのか?」


「いらない……ですね」


「じゃあ謝んな」


 敦は少し笑った。


「どうだった」


「相談できました」


「今日の寝る場所は?」


「候補が見つかりました。本人がどうするかは、もう少し話して決めるそうです」


「そうか」


「明日以降も佐伯さんたちと話すって」


「そうか」


「詳しいこと、聞かないんですか」


「本人が俺に話したいなら聞く」


 前原は新聞を畳んだ。


「で、お前は?」


「俺?」


「どうだった」


 敦は考えた。


「怖かったです」


「何が」


「俺が決めていいのか分からなくて」


「決めたのか」


「決めてません」


「じゃあいいだろ」


「佐伯さんに頼みました」


「おう」


「途中で、田島さんに部屋から出てって言われました」


「追い出されたのか」


「言い方!」


 前原が笑った。


「で、出たんだろ」


「出ました」


「それでいい」


 敦は食卓の向かいに座った。


「ヨシさんならどうするかなって、最初は考えました」


「俺なら飯食わせる」


「それは俺もしました」


「じゃあ同じじゃねぇか」


「でも途中で、考えるのやめました」


 前原が敦を見る。


「ヨシさんがいないからって、何もできないのも違うなって」


「……そうか」


「はい」


 前原は少しだけ黙った。


「俺がいなくても回るなら、その方がいい」


 敦は意外そうに顔を上げた。


「寂しくないんですか」


「何で寂しいんだよ」


「頼られなくなるとか」


 前原は何か言いかけて、止まった。


 石田誠のことを思い出したのかもしれない。


「……昔なら、そう思ったかもな」


「今は?」


「楽でいい」


「本当に?」


「うるせぇな!」


 台所から和子の声がした。


「正義ー」


「何だ!」


「電球」


 前原が止まった。


 敦も止まった。


「……忘れてた」


 和子が台所から顔を出す。


「買ってきてって言ったよね」


「敦が買うと思ってた」


「俺!?」


「朝、そういう話だっただろ!」


「ヨシさんが頼まれたんじゃないですか!」


「途中でお前に変わっただろ!」


「和子さん!」


「どっちでもいいから買ってきて」


「ほら!」


「何がほらだ!」


 和子は呆れた顔をした。


「明日でいいよ」


「暗いだろ」


「他の電気点くから」


「じゃあ明日な」


「うん」


 話は終わった。


 敦と前原は顔を見合わせた。


「……こんなもんですかね」


「何が」


「頼むとか、頼られるとか」


「知らん」


 前原は立ち上がった。


「飯にするぞ」


 敦も立った。


 その日の食卓には、美穂はいなかった。


 須賀もいない。


 隼人は残業で少し遅い。


 翔太もまだ仕事から戻っていない。


 全員が毎日ここにいるわけではない。


 それでも、それぞれが別の場所で、自分の今日を過ごしている。


 敦は皿を並べた。


 玄関の鍵が開いた。


「ただいま」


 隼人だった。


「おかえり」


 敦が答える。


「今日どうだった?」


「今日は品番、間違えませんでした」


「おお」


「でも段ボール一個、上下逆に積みました」


「何か毎日ありますね」


「あります」


 隼人は笑った。


「手洗ってきます」


「うん」


 前原が鍋の蓋を開けた。


「早くしろ。冷めるぞ」


 いつもの夕方だった。


 前原がいなくても、昼は進んだ。


 敦がいなくても、きっと進む。


 誰か一人がいなければ止まる場所ではなく。


 誰かがいない時には、別の誰かが考えられる場所。


 その方が、たぶん長く続く。


 敦は、そう思った。


⸻


後書き


第91話でした。


今回は、前原がいない時間に敦が初めて一人で相談者を迎えました。


田島美穂が何を抱えているのか、今回はすべてを明らかにしていません。


敦も、最初から事情を全部聞き出そうとはしませんでした。


まず確認したのは、今すぐ危険があるのか、今夜どうしたいのか。そして、自分一人では判断できないところで佐伯へ頼ることでした。


「助ける側になる」ことと、「自分一人で全部できるようになる」ことは同じではありません。


また、美穂が途中で「ここからは二人で話したい」と言った時、敦は部屋を出ました。


話を聞くことも支援なら、聞かないこと、待つことも場合によっては支援になります。


そして前原は、自分がいない間に敦が判断して動いたことを咎めませんでした。


前原自身もまた、「自分がいなければ回らない場所」である必要はないと少しずつ理解しています。


次回は、再び石田誠の過去へ。


一度目の「できません」を受け入れた若い木島正義が、なぜ二度目には受け入れられなかったのか。


そして現在では、須賀が自分で選んだ仕事の話を聞きに行きます。

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