断られた日のこと
第90話 断られた日のこと
前書き
「嫌なら断っていい」
そう言うのは簡単だ。
けれど、本当に断られた時。
がっかりしないか。
不機嫌にならないか。
相手を見る目を変えないか。
「断っていい」という言葉が本物だったかどうかは、そのあとの態度で分かる。
⸻
石田誠が初めて正義の頼みを断ったのは、雨の日だった。
正義は十七歳になっていた。
倉庫の仕事を始めて二年近くが経ち、もう誰も彼を子ども扱いしなくなっていた。
朝から降り続いていた雨は、夕方になっても弱くならなかった。
倉庫のトタン屋根を雨粒が叩き続け、搬入口から吹き込んだ湿った風が、積み上げられた段ボールの端をわずかに揺らしている。
「木島、こっち終わったぞ」
「じゃあ三番閉めて。鍵、事務所に置いといて」
「おう」
正義は伝票を確認しながら答えた。
少し離れたところでは、誠が空になった台車を壁際へ戻している。
十四歳だった誠も、もう十五になっていた。
相変わらず細かったが、倉庫へ初めて来た頃より背が伸びていた。髪も以前ほど無造作ではなくなり、給料日に自分で買った紺色のジャンパーを着ている。
「誠」
「はい」
「終わったらちょっと来い」
「分かりました」
正義は机の引き出しを開けた。
中には封筒が一つ入っていた。
茶色い、何の変哲もない封筒だった。
正義はそれを手に取った。
昼過ぎ、坂口から頼まれていた。
『俺、今日はそっち戻れねぇ。悪いけど一件頼めるか』
「何」
『封筒届けてほしい』
「どこ」
店の名前を聞いた。
正義は知っていた。
駅から少し離れた雑居ビルの二階。
以前にも何度か行ったことがある。
表向きは小さな金融関係の事務所だったが、そこで交わされている話が、倉庫の荷運びとはまったく違う種類のものだということくらいは、もう正義にも分かっていた。
「俺が行けばいい?」
『できればな。ただ、今日は遅くなるんだろ』
「まだ分かんねぇ」
『無理なら誰かに頼んでくれ』
「誰でもいいの?」
『中身開けなきゃな』
坂口はそう言った。
正義は、その言葉を特におかしいとは思わなかった。
だから誠を呼んだ。
「何ですか」
仕事を終えた誠がやってくる。
「これ、届けてくれねぇ?」
正義は封筒を差し出した。
誠は受け取らなかった。
「どこです?」
「駅裏の三崎ビル。二階」
誠の目が、一瞬だけ動いた。
「……あそこですか」
「知ってんの?」
「前、一回行きました」
「なら話早ぇな」
「木島さんと一緒に」
「そうだったか?」
「はい」
正義は覚えていなかった。
誠は封筒を見た。
「誰に渡すんですか」
「榊って奴」
「中、何ですか」
「知らねぇ」
誠は黙った。
「開けんなよ」
「いや……」
「何だよ」
誠は視線を落とした。
「俺、それ、行きたくないです」
正義は、最初は意味が分からなかった。
「何?」
「あそこ、嫌です」
「渡して帰ってくるだけだぞ」
「でも、嫌です」
「何かされたのか」
「されてないです」
「じゃあ何だよ」
誠は答えなかった。
雨音だけが聞こえた。
正義は封筒を持ったまま、誠を見た。
「別に危ねぇ仕事じゃねぇよ」
「……」
「俺も何回も行ってる」
「はい」
「じゃあいいだろ」
誠は小さく首を振った。
「できません」
その言葉に、正義の胸の奥で何かが引っかかった。
「できねぇって何だよ」
「そのままです」
「お前、今までこういうの何回もやってんだろ」
「でも、今日は嫌です」
「理由は?」
「……分かんないです」
「分かんねぇのに断るのか?」
誠の肩が少し縮んだ。
それを見て、正義はさらに苛立った。
「嫌なら断っていいって言っただろ」
「だから断ってます」
正義は言葉を失った。
誠も、言ってからまずかったと思ったのだろう。
視線を逸らした。
正義の口から、次の言葉が出た。
「……あっそ」
それだけだった。
「じゃあいい」
「木島さん」
「いいって言ってんだろ」
正義は封筒を机へ放った。
「帰れよ」
誠はしばらく立っていた。
「すみません」
「別に」
「……」
「何だよ」
「何でもないです」
誠は頭を下げ、倉庫を出ていった。
正義は追わなかった。
怒鳴らなかった。
殴らなかった。
給料を減らしもしなかった。
仕事を辞めろとも言わなかった。
だから、自分はちゃんと「断らせた」と思った。
その時は。
*
「これ、どっちに入れるんですか?」
現在。
敦は台所で、二つの保存容器を持ったまま前原に尋ねていた。
「何が」
「昨日の照り焼き。こっち冷蔵で、こっち冷凍って書いてありますけど」
「明日の昼に食うなら冷蔵」
「誰が?」
「知らん」
「知らないんですか」
「余ったから残してんだよ」
敦は冷蔵庫を開けた。
グエンのプリンには、昨日追加された大きな文字で、
『ウゴカスナ』
と書かれている。
その隣には、翔太のヨーグルト。
さらに奥に、誰のものか分からない小さな紙袋があった。
「これ誰のです?」
「知らん」
「ヨシさん、知らないこと多いですね」
「俺を冷蔵庫の管理人だと思うな」
「昨日プリン動かしたじゃないですか」
「一回だけだろ!」
敦が紙袋を取り出すと、中には二個のおにぎりが入っていた。
ラップの上に油性ペンで、
『朝』
とだけ書いてある。
「これ?」
和子が台所へ入ってきた。
「ああ、それ翔太の」
「朝?」
「今日、早番なんだって」
「じゃあ持っていくやつですか」
「たぶん」
敦は時計を見た。
六時二十分。
翔太はまだ起きてこない。
「起こしてきます」
敦が言うと、和子が首を傾げた。
「七時に出るって言ってたよ」
「じゃあまだ大丈夫か」
「本人が六時半に目覚ましかけてる」
「……じゃあ、起こさなくていいですね」
「そうね」
敦は紙袋を元へ戻した。
以前なら、念のため起こしに行っていたかもしれない。
寝坊したら困る。
仕事に遅れたら困る。
そう考えて。
けれど、目覚ましをかけるところまで翔太が自分でやっているなら、まず任せてみればいい。
「岡野」
「はい」
「昨日の須賀、どうだった」
「求人票を三つ見ました。一つは時間的に難しそうで、一つは本人が電話してみるって」
「お前が電話しなかったのか」
「しませんでした」
「そうか」
前原は味噌汁をかき混ぜた。
「ちょっと心配ですけど」
「何が」
「本当に電話するかなって」
「しなかったら?」
「……その時また考えます」
「それでいい」
敦は頷いた。
そこで、昨日の話を思い出した。
「ヨシさん」
「何だ」
「石田さんの話」
前原の手が止まった。
「朝からかよ」
「昨日、いいところでプリンに持っていかれたので」
「俺のせいじゃねぇだろ」
「プリン動かしたのヨシさんですよ」
「話が混ざってんだよ!」
敦は笑った。
前原は味噌汁の火を弱めた。
「……あいつが一回、俺の頼みを断ったって話か」
「はい」
「俺、怒った」
「怒ったんですか」
「怒鳴ってはいねぇ」
「でも怒った?」
「ああ」
前原は鍋の蓋を閉めた。
「断っていいって、俺から言ってたくせにな」
*
翌日。
誠はいつもどおり倉庫へ来た。
「おはようございます」
正義は伝票を見たまま答えた。
「おう」
それだけだった。
いつもなら、
「三番からやれ」
とか、
「昨日の残り、先に片づけろ」
とか、何かしら言っていた。
その日は言わなかった。
誠も何も聞かなかった。
自分で周囲を見て、空いている台車を持っていった。
昼。
「木島さん」
「何」
「午後の便、俺どっち乗ればいいです?」
「知らねぇ。田村に聞け」
「……分かりました」
正義は顔を上げなかった。
夕方。
「これ、どこ置きます?」
「好きにしろ」
「……はい」
誠は離れていった。
正義は、自分が何をしているのか分かっていた。
分かっていて、やめなかった。
誠が頼みを断ったことが気に入らなかった。
自分なら行った。
坂口に頼まれたら、多少嫌でも行った。
それなのに、自分が頼んだ相手は行かなかった。
正義の中で、そのことが妙に引っかかった。
恩知らずだ、とまでは思わなかった。
だが、
――俺がどれだけ教えたと思ってんだ。
そんな気持ちは、確かにあった。
三日目。
坂口が倉庫へ来た。
「正義」
「何」
「お前、誠と喧嘩したのか」
「してねぇ」
「じゃあ何だ、あれ」
坂口が顎で示した。
倉庫の奥で、誠が一人で荷物を仕分けている。
「別に」
「お前、あいつに何も振ってねぇだろ」
「自分でできんだろ」
「そういう話じゃねぇ」
「何だよ」
坂口は正義を見た。
「何があった」
「……仕事断られた」
「何の」
「封筒」
「三崎ビルの?」
「ああ」
「お前、誠に頼んだのか」
「誰でもいいって言っただろ」
「言ったけどよ」
「嫌だって言うから、別に行かせてねぇよ」
「それで三日無視してんのか」
「無視してねぇ」
「同じだろ」
正義は黙った。
「お前、あいつに嫌なら断れって言ってたんじゃねぇのか」
「言ったよ」
「断ったじゃねぇか」
「だから行かせてねぇだろ!」
正義の声が倉庫に響いた。
誠が一瞬こちらを見た。
正義は舌打ちし、声を落とした。
「……行かせてねぇ」
「その代わり、断った後で態度変えてんだろ」
「変えてねぇよ」
「変わってる」
坂口は言い切った。
正義は反論できなかった。
「正義」
「何だよ」
「断れるってのはな、断った後も同じじゃねぇと意味ねぇぞ」
正義は坂口を睨んだ。
「お前がそれ言うのかよ」
坂口は黙った。
「俺がお前の頼み断れなかった時もあっただろ」
「……あったな」
「じゃあ偉そうに言うな」
「そうだな」
あっさり認められて、正義の方が困った。
「俺もできてねぇ。だから言ってんだよ」
坂口はそう言った。
正義は何も返さなかった。
*
午前十一時。
須賀から敦のスマートフォンへメッセージが届いた。
『電話しました』
続けて、
『明後日、話を聞きに行きます』
敦は思わず立ち上がった。
「おお」
「何だ」
前原が新聞から顔を上げる。
「須賀、電話したって」
「そうか」
「明後日、面接……じゃないな。話を聞きに行くみたいです」
「そうか」
「一人で」
「そうか」
「ヨシさん、それしか言わないですね」
「何て言えばいいんだよ」
「もうちょっとこう、よかったな、とか」
「本人に言え」
「それもそうですね」
敦は返信を打った。
『お疲れさま。明後日、何時?』
送信しかけて、止まった。
何時かを聞いてどうするのだろう。
同行する約束はしていない。
須賀も頼んでいない。
敦は文章を消した。
『お疲れさま。電話できたんだね。話を聞いてきて、また必要なら一緒に整理しよう』
送った。
しばらくして、
『はい』
と返ってきた。
それだけだった。
「何ニヤニヤしてんだ」
「してませんよ」
「してる」
「ヨシさんも昨日言いましたよ、それ」
「お前、最近いちいち覚えてんな」
前原が新聞へ視線を戻した。
敦もスマートフォンを置いた。
嬉しかった。
須賀が自分で電話できたことが。
でも、その嬉しさを理由に、次の行動まで敦が決める必要はない。
そこまでは、少しずつ分かるようになってきた。
*
正義はその日の夕方、誠を呼んだ。
「誠」
「はい」
「ちょっと来い」
誠の顔が固くなった。
その表情を見て、正義は胸の奥がざらついた。
以前なら、名前を呼べばすぐ近づいてきた。
今は、何を言われるのか警戒している。
「何ですか」
「……この前の」
「はい」
「封筒」
「はい」
正義は言葉に詰まった。
謝るつもりで呼んだわけではなかった。
というより、どう謝ればいいのか分からなかった。
「何で嫌だったんだ」
結局、そんなことを聞いた。
誠は少し考えた。
「あそこ、怖いんです」
「何が」
「前に木島さんと行った時、奥で誰か殴られてたから」
正義は黙った。
覚えていなかった。
「見たのか」
「はい」
「何で言わなかった」
「木島さん、普通にしてたから」
正義は返す言葉を失った。
「俺が?」
「はい。だから、あれくらい普通なのかなって」
「……普通じゃねぇよ」
「でも木島さん、何も言わなかった」
その通りだった。
正義にとって、その頃には珍しくない光景になっていた。
怒鳴り声。
金の話。
誰かが殴られる音。
見ないふりをして通り過ぎること。
いつの間にか、それが普通になっていた。
だが誠にとっては、普通ではなかった。
「だから、一人では行きたくなかったです」
「……そうか」
「すみません」
「何で謝んだよ」
「断ったから」
正義は息を吐いた。
「それは……俺が断っていいって言ったんだから、謝んな」
誠は正義を見る。
「でも、木島さん怒ってたじゃないですか」
「……」
「俺、もう頼まれないのかなって思ってました」
正義はその言葉を聞いて、初めて分かった。
自分が、坂口に対して感じていたのと同じことを。
今度は誠が、自分に感じていた。
「悪かった」
声が小さくなった。
「え?」
「聞こえただろ」
「もう一回言ってください」
「調子乗んな」
誠が少し笑った。
正義も、わずかに口元を緩めた。
「明日、普通に来い」
「はい」
「別に、ああいう仕事やらなくても、倉庫の仕事はある」
「はい」
「あと」
「何ですか」
「嫌な理由、言いたくなきゃ言わなくてもいい」
誠は少し考えた。
「でも、聞いてもらった方がよかったです」
「そうか」
「木島さん、聞く前に怒るから」
「うるせぇ」
「ほら」
「お前な!」
誠は笑いながら逃げた。
正義は追わなかった。
その日のことを、前原は長い間、比較的「うまくやり直せた出来事」として覚えていた。
実際、その後もしばらく誠は倉庫へ来た。
二人の関係も戻った。
だからこそ。
前原は後になって知ることになる。
一度うまくできたからといって、次も同じようにできるとは限らない。
*
夕方、翔太がコンビニの制服を入れたバッグを肩に掛けて、玄関へ向かっていた。
「行ってきます」
「おう」
前原が答える。
「翔太」
和子が冷蔵庫から朝のおにぎりを取り出した。
「これ」
「あ」
翔太が止まった。
「忘れてた」
「持ってく?」
「……今日、店で廃棄もらえるかもしれないんですよね」
「じゃあ置いとく?」
「はい。帰ってから食べます」
「分かった」
和子はそのまま冷蔵庫へ戻した。
前原が言った。
「腹減るぞ」
「大丈夫です」
「持ってけよ」
「ヨシさん」
敦が横から呼んだ。
「何だ」
「断ってますよ」
「……」
前原が翔太を見る。
翔太も前原を見る。
「何だよ」
「いや」
前原は頭を掻いた。
「じゃあ、いらねぇならいい」
「はい」
「でも腹減ったら何か食えよ」
「分かってます」
「金は?」
「あります」
「そうか」
「行ってきます」
「おう」
翔太が出ていった。
扉が閉まる。
敦は前原を見る。
「何だよ」
「できてるじゃないですか」
「何が」
「断られたあと」
「うるせぇ」
前原は台所へ戻った。
敦は笑った。
「石田さんとは、その後どうなったんですか」
前原の足が止まった。
「……しばらく一緒に働いてた」
「しばらく?」
「ああ」
前原は冷蔵庫を開けた。
中を見るでもなく、しばらくそのまま立っていた。
「俺が十八になる前だったかな」
敦は黙って待った。
「あいつ、倉庫を辞めた」
「何かあったんですか」
「俺が頼んだ仕事を、また断った」
敦は前原を見る。
「今度は?」
「今度は、俺がうまくできなかった」
前原は冷蔵庫を閉めた。
「それっきりだ」
「……」
「少なくとも、俺が知ってる限りじゃな」
敦はそれ以上聞かなかった。
前原も話さなかった。
台所では、和子が夕食の鍋に火を入れている。
ますみが奥の部屋から出てきて、食卓の隅にスケッチブックを置いた。
グエンが帰ってきて、冷蔵庫を開けた。
「プリン、アル!」
「当たり前だ!」
「ヨシ、ウゴカシテナイ!」
「動かしてねぇよ!」
「エライ!」
「何でお前に褒められなきゃなんねぇんだ!」
敦が吹き出した。
前原は文句を言いながら、食卓に皿を並べ始めた。
断られたからといって、次の日の飯がなくなるわけではない。
頼みを聞かなかったからといって、名前を呼ばれなくなるわけではない。
そんな当たり前のことを、前原は十七歳の時に一度だけ学んだ。
そして、一度学んだはずのことを、後になってまた間違えた。
人は、一度分かっただけでは変わらない。
たぶん何度も間違えて、何度も覚え直す。
敦は食卓へ皿を置いた。
玄関の外は、また雨が降り始めていた。
⸻
後書き
第90話でした。
石田誠は、正義から頼まれた封筒の配達を断りました。
正義は「嫌なら断っていい」と言っていました。実際、無理やり行かせることもしませんでした。
しかし、その翌日から態度を変えてしまいます。
命令しなくても、脅さなくても、「断ったら関係が悪くなる」と相手に思わせてしまえば、次から本当に断れるのか。
今回の正義は坂口に指摘され、誠本人から理由を聞くことで、一度はそれに気づくことができました。
一方、現在の翔太は前原に「おにぎりを持っていけ」と言われても普通に断り、前原も最終的には「じゃあいい」と引きました。
昔できなかったことが、何十年も経てば自然にできることもあります。
ただ、前原と石田の話は、これで終わりではありません。
前原自身が言ったように、石田は後にもう一度、彼からの頼みを断ります。
そしてその時、若い木島正義は同じようには振る舞えませんでした。
次回は、現在の敦が前原のいない時間に一つの相談を受けます。
「ヨシさんならどうするだろう」ではなく、自分で考え、自分で誰かに頼む。
敦が少しずつ、前原の隣ではなく、自分自身の足で人と向き合い始めます。




