頼む側になる
第89話 頼む側になる
前書き
誰かに頼られるのは、少し嬉しい。
けれど、自分から誰かに頼むのは難しい。
迷惑ではないか。
断られたらどうしよう。
自分でやるべきではないか。
そう考えているうちに、一人で抱え込んでしまうことがある。
若い頃の前原もまた、いつしか「頼まれる側」になっていった。
そして現在の敦は、今度は自分から誰かに「頼む」ことを覚えようとしていた。
⸻
翌朝、事務所の台所から鈍い音がした。
ガン、と一度。
続いて、ガラガラガラ、と何かが崩れる音。
敦は歯を磨いていた手を止めた。
「……何ですか、今の」
返事はない。
口をすすぎ、台所へ向かう。
入口から中を覗くと、前原が流し台の前で立ち尽くしていた。
足元には、引き出しから落ちたらしい箸やスプーンが散乱している。
「何してるんですか」
「見りゃ分かるだろ」
「分からないから聞いてるんです」
「引き出し直してた」
前原が顎で示した。
流し台の横にある古い木製の収納棚。その一段が半分ほど外れ、斜めになっていた。
「壊したんですか?」
「直してたんだよ」
「直ってませんけど」
「途中だ」
「床に全部落ちてますよ」
「だから途中だっつってんだろ」
敦はしゃがみ、箸を拾った。
「これ、昨日まで普通に使えてましたよね」
「昨日、和子が引っ掛かるって言ってた」
「それで朝から?」
「早い方がいいだろ」
「誰かに頼めばよかったのに」
前原が振り返った。
「こんなもん俺で直せる」
「直ってませんけど」
「うるせぇな!」
そこへ和子が入ってきた。
床と前原と外れた引き出しを順番に見る。
「壊したの?」
「お前まで言うのか!」
「昨日、引っ掛かるって言っただけなんだけど」
「だから直そうとしてんだろ!」
「取っ手のネジ締めればよかったのに」
前原の動きが止まった。
「……取っ手?」
「うん」
「引き出しじゃなくて?」
「取っ手が緩んで斜めになってたから、隣の板に当たってただけ」
沈黙した。
敦は引き出しを見る。
前原を見る。
「ヨシさん」
「何だ」
「全部外す必要なかったんじゃ」
「言うな」
「でも」
「言うな」
和子がため息をついた。
「朝ご飯までに戻しといてね」
「分かってる!」
和子は何事もなかったように冷蔵庫を開けた。
敦は笑いを堪えながら、床のスプーンを拾った。
「手伝いましょうか?」
「いらん」
「断るんですね」
「昨日の話を持ち出すな!」
*
十五歳だった木島正義が、誰かに頼られることを嬉しいと思ったのは、何も坂口に対してだけではなかった。
荷運びの仕事を始めて一年ほど経った頃には、正義は倉庫の中で顔を知られるようになっていた。
十六になったばかりだった。
「木島、これどこだ?」
「三番」
「こっちは?」
「それ四番。混ぜんな」
「車、何時に来る?」
「二時半って言ってた」
聞かれれば答えた。
知らなければ調べた。
誰かが遅れれば、その分を手伝った。
最初の頃は「ガキ」と呼んでいた男たちも、いつの間にか正義を名前で呼ぶようになった。
それが嬉しかった。
正義自身は、そう認めようとしなかったが。
ある日の夕方、一人の少年が倉庫へやって来た。
正義より二つ下だった。
痩せていて、髪は自分で切ったのか長さが揃っていない。大きすぎるジャンパーの袖から、指先だけが出ていた。
「坂口さん、いますか」
少年が聞いた。
「いねぇ」
「何時に戻ります?」
「知らねぇ。何だよ」
「仕事、あるって聞いたんですけど」
正義は少年を見た。
自分が初めてここへ来た時のことを、ほんの少し思い出した。
「名前」
「石田」
「下は」
「誠」
「歳」
「十四」
「学校は」
誠は黙った。
正義はそれ以上聞かなかった。
「待ってろ」
事務所の電話から坂口へ連絡すると、今日は戻れないという。
『正義、お前、仕事の説明できるか』
「できる」
『じゃあ倉庫だけ見せてやってくれ。働くかどうかは明日、俺が話す』
「分かった」
『勝手に決めんなよ』
「分かってるって」
受話器を置いた。
「明日、坂口さん来るってよ」
誠が不安そうに正義を見る。
「今日、働けないんですか」
「勝手に入れられねぇよ」
「金、今日欲しかったんだけど」
正義は黙った。
その言葉にも覚えがあった。
「飯は?」
「食いました」
直後、誠の腹が鳴った。
正義は眉を寄せた。
「食ってねぇじゃねぇか」
「昼は」
「今何時だと思ってんだ」
正義は財布を出した。
中に千円札が二枚入っていた。
一枚を渡しかけて、手を止めた。
駅前で坂口に飯を食わせてもらった夜を思い出したからだった。
「来い」
「どこ」
「飯」
「金ないです」
「知ってる」
「借りるの嫌なんですけど」
「じゃあ俺が食う。お前は横に座ってろ」
「意味分かんないです」
「うるせぇ。来い」
誠はしばらく迷ってから、ついてきた。
その日の正義は、少しだけ坂口になった気がしていた。
それがいいことなのか悪いことなのか、十六歳の彼にはまだ分からなかった。
*
午前十時過ぎ。
敦は、外れたままの引き出しを見下ろしていた。
前原は買い物に出ている。
結局、朝食までには直らなかった。
「これ、ネジ違うんじゃない?」
翔太がしゃがみ込んだ。
「やっぱり?」
「長すぎると思う」
「ヨシさん、どこから持ってきたんだろ」
「工具箱じゃないですか」
「工具箱見てみる?」
「勝手に触ったら怒られません?」
「でもこのままじゃ箸入れられないし」
二人で工具箱を開けた。
ネジ、釘、ドライバー、六角レンチ、何に使うのか分からない金属片。
どれが正しいのか分からなかった。
「……分かる?」
「俺に聞かないでくださいよ」
「コンビニでこういうの直さない?」
「直しませんよ。業者呼びます」
「だよね」
敦はスマートフォンを取り出した。
検索しようとして、止まった。
昨日、佐伯に言われたことを思い出した。
一人で全部やらない。
分からないなら、誰かに聞く。
敦は連絡先を開いた。
少し迷い、川本へ電話した。
『はい』
「あ、川本さん。今、大丈夫ですか」
『大丈夫ですよ。どうしました』
「引き出しが壊れまして」
電話の向こうが静かになった。
『……私に電話する内容ですか、それ』
「いや、川本さん、こういうの詳しそうなので」
『岡野君』
「はい」
『私を何だと思ってます?』
「何でもできる人」
『前原さんと同じこと言わないでください』
翔太が横で笑いを堪えている。
「すみません。でも本当に分からなくて」
『写真送ってください』
「いいんですか?」
『見るだけですよ。直せるとは言ってません』
「ありがとうございます」
敦は引き出しの写真を送った。
一分ほどして電話が鳴る。
『たぶんレールじゃなくて、前板を留めているネジですね』
「和子さんもそんなこと言ってました」
『じゃあ、なぜ全部外したんですか』
「ヨシさんが」
川本が黙った。
『前原さんが?』
「はい」
『……そうですか』
声に笑いが混じっていた。
「笑ってます?」
『笑ってません』
「絶対笑ってますよね」
『ホームセンターで同じ径の短いネジを買えば戻せると思います。現物一本持っていくと確実です』
「分かりました」
『岡野君』
「はい」
『電話してきてくれて、よかったですよ』
敦は少し驚いた。
「え?」
『分からないことを聞いただけでしょう。それでいいんです』
「……はい」
『ただし、前原さんには私が笑ったと言わないでください』
「そこですか」
『そこです』
*
十六歳の正義と十四歳の石田誠は、それから何度も同じ現場で働いた。
誠は口数が少なかったが、仕事は覚えた。
正義より身体が小さい分、狭いところへ入る作業や細かい仕分けが得意だった。
「木島さん」
「何だ」
「これ、どこ」
「二番」
「二番いっぱいです」
「じゃあ四番の奥」
「分かりました」
いつの間にか、誠は正義へ聞くようになっていた。
坂口ではなく。
倉庫の大人たちでもなく。
正義に。
それが、正義には心地よかった。
「木島に聞け」
大人からそう言われることも増えた。
正義はますます仕事を覚えた。
誰より早く来るようになった。
最後まで残ることも増えた。
そして、ある夜。
「木島さん」
誠が声をかけた。
「何」
「明日、休んでもいいですか」
「何で俺に聞くんだよ」
「坂口さん、いないから」
「休みたきゃ休めよ」
「怒られません?」
「誰に」
「木島さんに」
正義は誠を見た。
「俺?」
「この前、田村さんが遅れてきた時、めちゃくちゃ怒ってたから」
「あいつは連絡しなかったからだろ」
「じゃあ、言えばいい?」
「いいよ」
「……分かりました」
誠は少し安心した顔をした。
その表情を見た時、正義は初めて妙な感覚を覚えた。
自分が誠にとって、坂口と似た位置に立ち始めている。
そのことを、まだ言葉にはできなかった。
ただ。
頼られる側になるということは、頼む側にもなるということだった。
*
午後、敦はホームセンターから戻ってきた。
「ありました!」
袋を掲げる。
前原が振り返った。
「何が」
「ネジです」
「何の」
「引き出し」
「もういい。俺が後でやる」
「いや、川本さんに聞いたら、これでいけるって」
前原の眉が動いた。
「川本に?」
「はい」
「お前、あいつに電話したのか」
「しました」
「引き出しで?」
「引き出しで」
「……」
前原は何とも言えない顔をした。
「何ですか」
「いや」
「頼れって言ったじゃないですか」
「言ったけどよ」
「だから頼りました」
「もっとこう……あるだろ」
「何がですか」
「人生相談とか」
「引き出しも生活の一部です」
「屁理屈だけ上手くなりやがって」
敦は笑いながらしゃがんだ。
だが、いざネジを留めようとすると、板を押さえる手が足りない。
「翔太ー!」
返事がない。
仕事へ行ったあとだった。
「グエン!」
「イマ、テ、ヌレテル!」
台所から返ってきた。
敦は前原を見た。
前原も敦を見る。
「……ヨシさん」
「何だ」
「ここ、押さえてもらっていいですか」
「自分でやれ」
「無理です」
「膝使え」
「ずれます」
「テープで留めろ」
「手で押さえた方が早いです」
「……」
「お願いします」
前原は盛大にため息をついた。
「そこか」
「そこです」
「こう?」
「もうちょっと右」
「注文多いな!」
「頼まれた側は断っていいですよ」
「じゃあ断る!」
「ええっ!」
「冗談だ。早くやれ!」
二人で板を押さえ、ネジを締めた。
引き出しを戻す。
敦がゆっくり引いた。
するりと開いた。
閉める。
きれいに収まった。
「おお」
敦が声を上げる。
「直った」
「当たり前だ」
「ヨシさん、朝は直せなかったじゃないですか」
「余計なこと言うな」
「川本さんのおかげですね」
「俺が押さえただろ!」
「そこ?」
「そこ大事だろ!」
和子が通りかかり、引き出しを一度開けた。
閉める。
「直ったね」
「俺が直した」
前原が言った。
「川本さんに聞きました」
敦が言った。
「俺も押さえた!」
「はいはい」
和子は興味なさそうに去っていった。
「扱い軽くねぇか?」
「いつものことじゃないですか」
「お前まで言うな」
*
その日の夕方、須賀が事務所へ来た。
手には、市役所でもらった求人票が三枚あった。
「これ、見てもらっていいですか」
「いいよ」
敦は答えた。
須賀が椅子へ座り、三枚を並べる。
「どれがいいか、分からなくて」
敦は求人票を手に取った。
一枚目は清掃。
二枚目は倉庫。
三枚目は食品工場。
勤務時間も、場所も、給料も違う。
「須賀は、どれがいいと思ってる?」
「それが分からないです」
「じゃあ、一緒に見ようか」
「はい」
敦は一枚目から読み始めた。
その時、スマートフォンが鳴った。
カナコだった。
朝に約束した音源の件だ。
「あ」
須賀が顔を上げる。
「出ていいですよ」
「いや」
敦は画面を見た。
少し考えてから電話に出る。
「もしもし」
『敦? 今大丈夫?』
「ごめん。今、須賀と話してる」
『あ、じゃあ後でいいよ』
「今日中?」
『全然。明日の午前で大丈夫』
「じゃあ、明日こっちから連絡する」
『了解』
電話を切った。
須賀が言った。
「俺、待てましたけど」
「うん」
「よかったんですか」
「よかった」
敦は求人票へ視線を戻した。
「今は、須賀と話すって決めたから」
「……」
「でも、途中で急ぎの電話が来たら出るかもしれない。その時は言う」
「はい」
須賀は少し考えてから、一枚の求人票を指した。
「これ、朝早いですよね」
「六時半か」
「今の部屋からだと、最初のバスじゃ間に合わないです」
「じゃあ、これは難しい?」
「……自転車なら行けるかもしれない」
「自転車持ってないよね」
「はい」
「買う?」
「まだ分からない仕事のために買うの、ちょっと怖いです」
「そうだね」
敦はそこで答えを出さなかった。
「じゃあ、これは一旦横に置こう」
「はい」
二人で求人票を動かした。
それだけだった。
敦が仕事を決める必要はない。
須賀の代わりに電話する必要もない。
ただ、一緒に条件を並べることはできる。
「岡野さん」
「ん?」
「俺、これ、自分で電話してみます」
須賀が二枚目の求人票を指した。
「倉庫?」
「はい」
「今?」
「……今じゃなくて、明日」
「分かった」
「今日やれって言わないんですね」
「言ってほしい?」
「いや」
「じゃあ言わない」
須賀は笑った。
「明日やります」
「うん」
*
夜。
前原は一人で食卓に座り、古い手帳を開いていた。
敦が通りかかる。
「何見てるんです?」
「昔のメモだ」
「見ても?」
「別に」
敦は向かいに座った。
紙は黄ばんでいた。
名前と電話番号、金額、日付。
意味の分からない略号。
ページの端に、いくつもの人名が書かれている。
「石田誠」
敦が読んだ。
前原の指が止まった。
「知ってる人ですか」
「ああ」
「友達?」
「……何だったんだろうな」
前原は椅子にもたれた。
「俺が十六の時に来たガキだ。二つ下だった」
「十四歳?」
「ああ」
「ヨシさんが面倒見てたんですか」
「そんな大層なもんじゃねぇ。仕事教えただけだ」
前原は手帳を見た。
「でも、あいつ、何でも俺に聞くようになった」
「頼られてたんですね」
「そうだな」
「嬉しかった?」
前原は少し笑った。
「めちゃくちゃな」
敦は意外そうな顔をした。
「そんな顔すんな」
「いや、素直に言うんだなと思って」
「今だから言えるんだよ」
前原はページをめくった。
「そのうち、俺もあいつに頼むようになった」
「仕事を?」
「ああ」
「普通の?」
前原は答えなかった。
その沈黙だけで、敦には分かった。
「……断れたんですか。石田さんは」
前原は手帳を閉じた。
「一度、断った」
「一度?」
「ああ」
「それで?」
前原はすぐには答えなかった。
台所から、冷蔵庫を開ける音がした。
「ヨシ!」
グエンの声。
「ナイ!」
「何が!」
「プリン!」
「知らねぇよ!」
「ナマエ、カイタ!」
「翔太じゃねぇのか!」
「ショウタ、キョウ、オソイ!」
「じゃあ自分で食ったんだろ!」
「タベテナイ!」
前原が立ち上がった。
「まったく……」
敦も笑いながら立つ。
「話、続きは?」
「また今度だ」
「気になるんですけど」
「明日になっても逃げねぇよ」
前原は台所へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
「ただな」
「はい」
「断っていいって言っといて、実際に断られた時にどうするか」
敦は前原を見る。
「そっちの方が難しいんだよ」
前原はそれだけ言って、台所へ入った。
「グエン! 冷蔵庫の奥見たのか!」
「ナイ!」
「野菜室は!」
「プリン、ヤサイジャナイ!」
「知ってるわ!」
敦は一人、食卓に残された古い手帳を見た。
頼ること。
頼られること。
断ること。
そして、断られること。
どれも一人では成立しない。
相手がいるから、難しい。
敦は手帳には触れず、台所へ向かった。
「プリン、昨日ヨシさんが場所変えてませんでした?」
「……あ」
「ヨシ!」
「うるせぇ! 思い出したんだよ!」
その夜、グエンのプリンは冷蔵庫の最上段から無事に発見された。
前原が「邪魔だったから」という理由で移動させていた。
グエンは名前の横に、今度は大きく日付まで書いた。
さらにその下に、
『ウゴカスナ』
と、ひらがなで付け足した。
前原はそれを見て、
「読めるようになってんじゃねぇか」
と笑った。
敦も笑った。
けれど、頭の片隅にはまだ、前原の言葉が残っていた。
断っていいと言った相手から、本当に「嫌だ」と言われた時。
自分は、どうするのだろう。
⸻
後書き
第89話でした。
今回は、「頼られる側」になっていった若い前原と、「頼む側」になることを覚え始めた現在の敦を描きました。
前原は十五歳の頃、坂口から仕事を教わる側でした。しかし一年ほどすると、今度は十四歳の石田誠から質問され、頼られる立場になります。
頼られることが嬉しかった。
これは、現在の敦にも共通しています。
一方で敦は今回、分からない引き出しの修理を川本に聞き、須賀の仕事を代わりに決めず、カナコには「今はできない」と伝えました。
誰かを支える人が、何でも一人でできる必要はありません。
そして最後に、前原の古い手帳から再び石田誠の名前が出てきました。
前原は「断っていい」と言った。
石田は実際に断った。
問題は、その次です。
次回は、若い木島正義が初めて、自分を頼っていた相手から明確に「できません」と言われた日のことを描きます。




