断っても、なくならない
第88話 断っても、なくならない
前書き
「嫌なら断っていい」
そう言われても、断れるとは限らない。
断ったあとも、自分の居場所がなくならない。
そう思えることの方が、もしかすると大切なのかもしれない。
⸻
翌朝、敦が台所へ入ると、前原はすでに味噌汁を作っていた。
鍋から湯気が上がり、刻んだ油揚げと豆腐が表面をゆっくり回っている。炊飯器は保温に切り替わっていて、食卓には茶碗が人数分並べられていた。
「おはようございます」
「おう。卵焼け」
「いきなりですね」
「隼人がもう出る」
時計を見ると、六時四十分だった。
隼人は作業着の上着を椅子の背に掛け、スマートフォンで今日の電車を確認している。いつもより十分ほど早い。
「今日、早いんですか?」
「朝礼の前に昨日の検品、もう一回確認したいんで」
「ああ、品番を見間違えたっていう」
「出荷前に直したんですけど、一応」
敦が冷蔵庫から卵を出すと、前原が横からフライパンを差し出した。
「焦がすなよ」
「そこまで信用ないですか」
「お前の卵焼き、たまにスクランブルエッグになるだろ」
「味は同じです」
「形の話してんだよ」
隼人が小さく笑った。
そんな朝だった。
昨日、前原が坂口と会ったことなど、最初から何もなかったような朝だった。
もちろん、何もなかったわけではない。
ただ、それだけが隼人の生活ではないということなのだろう。
隼人には今日の仕事がある。
前原には味噌汁がある。
敦には卵焼きがある。
それぞれに、今日やることがあった。
敦がどうにか四角い形を保った卵焼きを皿へ移したところで、テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。
画面には「レン」と表示されている。
「朝から?」
隼人が聞いた。
「メッセージです」
敦は画面を開いた。
展示会で使ったパネルの一部を、別の場所でも展示できないかという問い合わせが来たらしい。レン一人では判断できないので、午後に少し相談したいという内容だった。
「いいよ。何時?」
そう打ちかけて、敦は指を止めた。
今日の午後は、佐伯と会う約束があった。
須賀の短期住宅について、今後必要になる手続きを一度整理することになっている。
「……三時以降なら」
そう書き直して送った。
「何だ」
前原が味噌汁をよそいながら聞いた。
「レンです。ちょっと相談したいって」
「そうか」
それだけだった。
隼人は朝食を食べ終えると、食器を流しへ運んだ。
「行ってきます」
「おう」
「行ってらっしゃい」
敦が言うと、隼人は玄関で靴を履きながら振り返った。
「敦さん」
「はい?」
「今日、夜います?」
「たぶん」
「じゃあ、昨日の検品どうだったか言います」
「はい」
「別に大した話じゃないですけど」
「大した話じゃなくても聞きますよ」
「じゃ」
扉が閉まった。
敦は少し笑った。
「頼られてんな」
前原が言った。
「そうですかね」
「嬉しそうな顔すんな」
「してませんよ」
「してる」
敦は否定しようとして、やめた。
実際、少し嬉しかった。
頼られること。
話を聞いてほしいと言われること。
自分がそこにいることを、誰かが当たり前のように予定へ入れていること。
以前の敦には、ほとんどなかったものだった。
*
十五歳の木島正義が坂口から最初に紹介された仕事は、本当にただの荷運びだった。
古い倉庫から酒屋へ段ボールを運び、空になった木箱を回収する。
朝八時に集合し、夕方には終わる。
日当は現金で支払われた。
「きつかったら言えよ」
初日の朝、坂口はそう言った。
「別に」
「持てねぇ箱まで持つな。落とした方が面倒だからな」
「持てる」
「そういう話じゃねぇよ」
正義は腹を立てた。
子ども扱いされたと思ったからだ。
実際には、十五歳だった。
体格は同年代より大きかったが、成人男性と同じように働けるわけではない。
それでも正義は、誰よりも多く運ぼうとした。
休憩を取れと言われても、もう一箱だけ運んだ。
夕方、坂口から日当の入った封筒を渡された時、正義は中身を三度数えた。
「足りねぇか?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「……こんなにもらっていいのか」
坂口は笑った。
「働いた分だ」
正義は、その言葉を長く覚えていた。
働いた分。
誰かから恵んでもらった金ではない。
盗んだ金でもない。
自分で箱を運んで受け取った金だった。
だから翌日も行った。
三日目も行った。
一週間後には、倉庫の男たちの顔と名前をほとんど覚えていた。
その仕事を断ろうと思ったことはない。
嫌なら辞めてもよかったし、実際、二日で来なくなった若者もいた。
誰も追いかけなかった。
正義がそこにいたのは、自分でいたかったからだった。
少なくとも、最初は。
二か月ほど経った頃だった。
仕事が終わったあと、坂口が正義を呼び止めた。
「正義。悪いけど、これ届けてくれねぇか」
小さな封筒だった。
「どこ」
「駅裏の雀荘。受付に田辺って奴がいるから、そいつに渡せばいい」
「それだけ?」
「それだけ」
正義は受け取った。
十分もかからなかった。
翌週には、別の店へ書類を届けた。
その次は、夜になってから車の鍵を別の男へ渡した。
どれも簡単だった。
正義にしかできない仕事ではない。
ただ、坂口に頼まれたからやった。
「助かった」
その一言が嬉しかった。
青葉園では、正義は何度も「勝手なことをするな」と言われた。
親戚の家では、「問題を起こさないでくれ」と言われた。
駅では、誰にも何も言われなかった。
坂口だけが、
「頼む」
と言った。
それが正義には、自分が必要とされているという意味に聞こえた。
半年ほど経ったある夜。
「正義、ちょっといいか」
坂口がいつものように声をかけた。
「何」
「これ、持ってってくれ」
封筒だった。
いつもより厚かった。
正義は受け取ってから、宛先を聞いた。
坂口が言った店の名前を聞いて、手が止まった。
「そこ、揉めてるんじゃねぇの」
数日前、倉庫の男たちが話しているのを聞いていた。
金のことで揉めている。
相手が怒っている。
しばらく近づかない方がいい。
「もう話はついてる」
坂口は言った。
「渡して帰ってくりゃいい」
「……」
「嫌ならいいぞ」
正義は坂口を見た。
嫌ならいい。
その言葉だけを見れば、断ることはできた。
「じゃあ、別の奴に頼む」
坂口もそう続けた。
正義は封筒を返そうとした。
だが、その瞬間、別の記憶が頭に浮かんだ。
駅前の定食。
一晩寝た部屋。
最初の日当。
底の剥がれた靴。
倉庫の仕事。
何度も言われた「助かった」という言葉。
「……行く」
「大丈夫か?」
「行くって言ってんだろ」
「無理すんなよ」
「してねぇ」
正義は封筒を上着の内側へ入れた。
あの時、坂口が無理やり行かせたわけではない。
断れば殴ると言ったわけでもない。
仕事を辞めさせると脅したわけでもない。
それでも正義は、断れなかった。
正確には。
断ったら何かが変わってしまうような気がした。
頼まれなくなるかもしれない。
必要とされなくなるかもしれない。
また一人になるかもしれない。
十五歳の正義には、その不安を言葉にすることができなかった。
*
「岡野さん」
名前を呼ばれ、敦は顔を上げた。
市役所近くの相談スペースで、佐伯が資料を机へ広げていた。
「すみません。聞いてました」
「本当ですか?」
「半分くらい」
「それは聞いてないって言うんですよ」
「すみません」
佐伯は笑って、資料の一枚を敦の前へ置いた。
「須賀さんの住宅は三か月です。今すぐ次を決める必要はありません。ただ、三か月目に入ってから慌てるより、選択肢だけは早めに見ておきたい」
「はい」
「本人には?」
「話してます。ただ、まだ仕事も決まってないので、全部一気にやるとしんどいかなと」
「その判断は本人と一緒にしてください」
「……はい」
「岡野さんが『しんどいだろう』と先回りして減らすのも、場合によっては本人の選択肢を減らします」
敦は資料を見た。
「難しいですね」
「難しいですよ」
佐伯はあっさり言った。
「だから、一人で全部やらないんです」
敦のスマートフォンが震えた。
レンからだった。
三時半に事務所へ行ってもいいかという確認だった。
「どうぞ」
と返した直後、もう一件通知が来た。
カナコだった。
展示会で使った音源について問い合わせが来たらしい。自分だけでは返事を決められないので、敦にも見てほしいという。
敦は画面を見たまま止まった。
「忙しいですか?」
佐伯が尋ねた。
「ちょっと相談が重なってて」
「今日中じゃないと駄目なんですか?」
「……たぶん、違います」
「じゃあ、いつ返すか決めればいいんじゃないですか」
「でも、頼まれたら早い方が」
「早い方が助かることと、岡野さんが全部すぐ引き受けることは別ですよ」
敦は苦笑した。
「前原さんみたいなこと言いますね」
「それはちょっと嫌ですね」
「本人に言いますよ」
「やめてください」
二人とも笑った。
敦はカナコへの返信を打った。
『今日は別件があるので、明日の午前中でもいい? 急ぎならレンにも共有して』
送信する。
数秒後、
『大丈夫! 明日でお願いします』
と返ってきた。
それだけだった。
敦は画面を見た。
「断ってないですね、それ」
佐伯が言った。
「え?」
「今日やらないと言っただけです」
「ああ……」
「頼まれたことを全部、やるか断るかの二択にしなくてもいいでしょう」
敦はスマートフォンを伏せた。
「そうですね」
*
夕方、事務所へ戻ると、レンが食卓いっぱいに資料を広げていた。
「おかえり」
「ただいま。これ?」
「うん。向こうが、展示の一部を地域のイベントで使いたいって」
「ますみには聞いた?」
「まだ。先に俺らで条件整理してからの方がいいかなって」
「先に本人に聞こう」
レンが顔を上げた。
「あ、そっか」
「使っていいかどうかを決めるのは、ますみだから」
「そうだな」
ちょうど奥の部屋から、ますみが出てきた。
「何?」
「噂をすれば」
「私?」
レンが事情を説明すると、ますみは資料を読んだ。
すぐには答えなかった。
「……今は、いいかな」
やがて言った。
「断る?」
「うん。展示が嫌だったわけじゃないんだけど、今は笑花を人に見せるためじゃなくて、自分で描きたい」
「分かった」
敦が答えると、ますみは少し意外そうに彼を見た。
「それだけ?」
「それだけって?」
「せっかく声かけてもらったのに、とか言われるかと思った」
「言わないよ」
レンも頷いた。
「じゃあ断っとく」
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「だって、レンが話持ってきてくれたのに」
「俺が描いた絵じゃないし」
ますみは少し笑った。
前原は台所から、そのやり取りを聞いていた。
「ヨシさん」
敦が声をかける。
「何だ」
「何か言いたそうですね」
「別に」
「顔が」
「元からだ」
前原は鍋の火を弱めた。
「ただ、断ったあとに普通に飯が出てくるなら、それでいいんじゃねぇか」
ますみが前原を見る。
「今日、何?」
「鶏の照り焼き」
「食べる」
「断らねぇのか」
「それは食べる」
「都合いいな、お前」
「ヨシさんが食べろって言ったんでしょ」
「まだ言ってねぇ!」
レンが笑った。
敦も笑った。
その時、玄関が開いた。
「ただいま」
隼人だった。
「おかえり」
敦が言う。
隼人は作業着の上着を脱ぎながら、まっすぐ敦のところへ来た。
「昨日の検品、全部大丈夫でした」
「よかったですね」
「あと、今日また一個ミスしました」
「えっ」
「伝票の置き場所間違えました」
「大丈夫だったんですか?」
「田辺さんに『そこじゃない』って言われて、直しました」
「それだけ?」
「それだけです」
隼人は少し笑った。
「仕事って、毎日何かありますね」
「そうですね」
「じゃ、手洗ってきます」
隼人が洗面所へ向かう。
敦はその背中を見送った。
頼られることは、嬉しい。
それは今でも変わらなかった。
だが、頼られたからといって、全部を引き受けなければ関係がなくなるわけではない。
今日できないと言ってもいい。
別の人に頼んでもいい。
本人に返してもいい。
断ってもいい。
そして、断ったあとにも。
「岡野!」
前原の声が飛んできた。
「はい?」
「皿出せ!」
「今行きます」
「レンも座ってねぇで手伝え!」
「俺、客じゃないの?」
「何回来てると思ってんだ!」
「ひどい扱いだなあ」
「飯食うんだろ!」
「食う」
「じゃあ働け!」
ますみが笑った。
「さっき、断ってもいいって言ってなかった?」
前原の動きが止まった。
「……飯の準備は別だ」
「別なんだ」
「別だ!」
敦は皿を出しながら笑った。
十五歳の木島正義が、あの夜、本当に欲しかった言葉が何だったのか。
今の前原にも、正確には分からないのかもしれない。
ただ。
もし、あの時。
「今日は嫌だ」
と言っても。
次の日になればまた、
「腹減ってるか」
と聞いてもらえると分かっていたなら。
選ぶものは、少し違っていたのかもしれなかった。
食卓に皿が並んだ。
玄関の向こうから、翔太の「ただいま」が聞こえた。
「おかえり」
今度は何人もの声が重なった。
⸻
後書き
第88話でした。
今回は、第87話で前原と坂口が話した「断れたのか」という問題を、十五歳の木島正義と現在の敦、そしてますみの三つの場面から描きました。
坂口が最初に紹介した荷運びの仕事そのものは、正義を騙して始めさせた仕事ではありません。給料も支払われ、辞めることもできました。
しかし、飯を食べさせてもらい、寝場所を用意してもらい、仕事を紹介してもらい、「助かった」と言われ続けるうちに、その関係は少しずつ変わっていきます。
「嫌なら断っていい」と言われても、断ったあとに頼られなくなるのではないか。居場所を失うのではないか。
十五歳の正義にとっては、そちらの方が怖かったのかもしれません。
現在の敦もまた、誰かに頼られることを嬉しいと感じています。
ただ今回は、頼まれたことを「全部引き受ける/全部断る」の二択にせず、「今日はできない」「本人に決めてもらう」「別の人にも頼る」という選択肢を覚え始めました。
そして、ますみが展示の話を断っても、夕食はいつもどおり出てきます。
断ったあとも、関係は続く。
次回は、若い頃の前原がさらに「頼られる側」へ回っていった時期と、現在の事務所で敦自身が誰かに頼む側になることを描きます。




