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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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88/105

断っても、なくならない

第88話 断っても、なくならない


前書き


「嫌なら断っていい」


そう言われても、断れるとは限らない。


断ったあとも、自分の居場所がなくならない。


そう思えることの方が、もしかすると大切なのかもしれない。


⸻


 翌朝、敦が台所へ入ると、前原はすでに味噌汁を作っていた。


 鍋から湯気が上がり、刻んだ油揚げと豆腐が表面をゆっくり回っている。炊飯器は保温に切り替わっていて、食卓には茶碗が人数分並べられていた。


「おはようございます」


「おう。卵焼け」


「いきなりですね」


「隼人がもう出る」


 時計を見ると、六時四十分だった。


 隼人は作業着の上着を椅子の背に掛け、スマートフォンで今日の電車を確認している。いつもより十分ほど早い。


「今日、早いんですか?」


「朝礼の前に昨日の検品、もう一回確認したいんで」


「ああ、品番を見間違えたっていう」


「出荷前に直したんですけど、一応」


 敦が冷蔵庫から卵を出すと、前原が横からフライパンを差し出した。


「焦がすなよ」


「そこまで信用ないですか」


「お前の卵焼き、たまにスクランブルエッグになるだろ」


「味は同じです」


「形の話してんだよ」


 隼人が小さく笑った。


 そんな朝だった。


 昨日、前原が坂口と会ったことなど、最初から何もなかったような朝だった。


 もちろん、何もなかったわけではない。


 ただ、それだけが隼人の生活ではないということなのだろう。


 隼人には今日の仕事がある。


 前原には味噌汁がある。


 敦には卵焼きがある。


 それぞれに、今日やることがあった。


 敦がどうにか四角い形を保った卵焼きを皿へ移したところで、テーブルに置いていたスマートフォンが震えた。


 画面には「レン」と表示されている。


「朝から?」


 隼人が聞いた。


「メッセージです」


 敦は画面を開いた。


 展示会で使ったパネルの一部を、別の場所でも展示できないかという問い合わせが来たらしい。レン一人では判断できないので、午後に少し相談したいという内容だった。


「いいよ。何時?」


 そう打ちかけて、敦は指を止めた。


 今日の午後は、佐伯と会う約束があった。


 須賀の短期住宅について、今後必要になる手続きを一度整理することになっている。


「……三時以降なら」


 そう書き直して送った。


「何だ」


 前原が味噌汁をよそいながら聞いた。


「レンです。ちょっと相談したいって」


「そうか」


 それだけだった。


 隼人は朝食を食べ終えると、食器を流しへ運んだ。


「行ってきます」


「おう」


「行ってらっしゃい」


 敦が言うと、隼人は玄関で靴を履きながら振り返った。


「敦さん」


「はい?」


「今日、夜います?」


「たぶん」


「じゃあ、昨日の検品どうだったか言います」


「はい」


「別に大した話じゃないですけど」


「大した話じゃなくても聞きますよ」


「じゃ」


 扉が閉まった。


 敦は少し笑った。


「頼られてんな」


 前原が言った。


「そうですかね」


「嬉しそうな顔すんな」


「してませんよ」


「してる」


 敦は否定しようとして、やめた。


 実際、少し嬉しかった。


 頼られること。


 話を聞いてほしいと言われること。


 自分がそこにいることを、誰かが当たり前のように予定へ入れていること。


 以前の敦には、ほとんどなかったものだった。


         *


 十五歳の木島正義が坂口から最初に紹介された仕事は、本当にただの荷運びだった。


 古い倉庫から酒屋へ段ボールを運び、空になった木箱を回収する。


 朝八時に集合し、夕方には終わる。


 日当は現金で支払われた。


「きつかったら言えよ」


 初日の朝、坂口はそう言った。


「別に」


「持てねぇ箱まで持つな。落とした方が面倒だからな」


「持てる」


「そういう話じゃねぇよ」


 正義は腹を立てた。


 子ども扱いされたと思ったからだ。


 実際には、十五歳だった。


 体格は同年代より大きかったが、成人男性と同じように働けるわけではない。


 それでも正義は、誰よりも多く運ぼうとした。


 休憩を取れと言われても、もう一箱だけ運んだ。


 夕方、坂口から日当の入った封筒を渡された時、正義は中身を三度数えた。


「足りねぇか?」


「違う」


「じゃあ何だ」


「……こんなにもらっていいのか」


 坂口は笑った。


「働いた分だ」


 正義は、その言葉を長く覚えていた。


 働いた分。


 誰かから恵んでもらった金ではない。


 盗んだ金でもない。


 自分で箱を運んで受け取った金だった。


 だから翌日も行った。


 三日目も行った。


 一週間後には、倉庫の男たちの顔と名前をほとんど覚えていた。


 その仕事を断ろうと思ったことはない。


 嫌なら辞めてもよかったし、実際、二日で来なくなった若者もいた。


 誰も追いかけなかった。


 正義がそこにいたのは、自分でいたかったからだった。


 少なくとも、最初は。


 二か月ほど経った頃だった。


 仕事が終わったあと、坂口が正義を呼び止めた。


「正義。悪いけど、これ届けてくれねぇか」


 小さな封筒だった。


「どこ」


「駅裏の雀荘。受付に田辺って奴がいるから、そいつに渡せばいい」


「それだけ?」


「それだけ」


 正義は受け取った。


 十分もかからなかった。


 翌週には、別の店へ書類を届けた。


 その次は、夜になってから車の鍵を別の男へ渡した。


 どれも簡単だった。


 正義にしかできない仕事ではない。


 ただ、坂口に頼まれたからやった。


「助かった」


 その一言が嬉しかった。


 青葉園では、正義は何度も「勝手なことをするな」と言われた。


 親戚の家では、「問題を起こさないでくれ」と言われた。


 駅では、誰にも何も言われなかった。


 坂口だけが、


「頼む」


 と言った。


 それが正義には、自分が必要とされているという意味に聞こえた。


 半年ほど経ったある夜。


「正義、ちょっといいか」


 坂口がいつものように声をかけた。


「何」


「これ、持ってってくれ」


 封筒だった。


 いつもより厚かった。


 正義は受け取ってから、宛先を聞いた。


 坂口が言った店の名前を聞いて、手が止まった。


「そこ、揉めてるんじゃねぇの」


 数日前、倉庫の男たちが話しているのを聞いていた。


 金のことで揉めている。


 相手が怒っている。


 しばらく近づかない方がいい。


「もう話はついてる」


 坂口は言った。


「渡して帰ってくりゃいい」


「……」


「嫌ならいいぞ」


 正義は坂口を見た。


 嫌ならいい。


 その言葉だけを見れば、断ることはできた。


「じゃあ、別の奴に頼む」


 坂口もそう続けた。


 正義は封筒を返そうとした。


 だが、その瞬間、別の記憶が頭に浮かんだ。


 駅前の定食。


 一晩寝た部屋。


 最初の日当。


 底の剥がれた靴。


 倉庫の仕事。


 何度も言われた「助かった」という言葉。


「……行く」


「大丈夫か?」


「行くって言ってんだろ」


「無理すんなよ」


「してねぇ」


 正義は封筒を上着の内側へ入れた。


 あの時、坂口が無理やり行かせたわけではない。


 断れば殴ると言ったわけでもない。


 仕事を辞めさせると脅したわけでもない。


 それでも正義は、断れなかった。


 正確には。


 断ったら何かが変わってしまうような気がした。


 頼まれなくなるかもしれない。


 必要とされなくなるかもしれない。


 また一人になるかもしれない。


 十五歳の正義には、その不安を言葉にすることができなかった。


         *


「岡野さん」


 名前を呼ばれ、敦は顔を上げた。


 市役所近くの相談スペースで、佐伯が資料を机へ広げていた。


「すみません。聞いてました」


「本当ですか?」


「半分くらい」


「それは聞いてないって言うんですよ」


「すみません」


 佐伯は笑って、資料の一枚を敦の前へ置いた。


「須賀さんの住宅は三か月です。今すぐ次を決める必要はありません。ただ、三か月目に入ってから慌てるより、選択肢だけは早めに見ておきたい」


「はい」


「本人には?」


「話してます。ただ、まだ仕事も決まってないので、全部一気にやるとしんどいかなと」


「その判断は本人と一緒にしてください」


「……はい」


「岡野さんが『しんどいだろう』と先回りして減らすのも、場合によっては本人の選択肢を減らします」


 敦は資料を見た。


「難しいですね」


「難しいですよ」


 佐伯はあっさり言った。


「だから、一人で全部やらないんです」


 敦のスマートフォンが震えた。


 レンからだった。


 三時半に事務所へ行ってもいいかという確認だった。


「どうぞ」


 と返した直後、もう一件通知が来た。


 カナコだった。


 展示会で使った音源について問い合わせが来たらしい。自分だけでは返事を決められないので、敦にも見てほしいという。


 敦は画面を見たまま止まった。


「忙しいですか?」


 佐伯が尋ねた。


「ちょっと相談が重なってて」


「今日中じゃないと駄目なんですか?」


「……たぶん、違います」


「じゃあ、いつ返すか決めればいいんじゃないですか」


「でも、頼まれたら早い方が」


「早い方が助かることと、岡野さんが全部すぐ引き受けることは別ですよ」


 敦は苦笑した。


「前原さんみたいなこと言いますね」


「それはちょっと嫌ですね」


「本人に言いますよ」


「やめてください」


 二人とも笑った。


 敦はカナコへの返信を打った。


『今日は別件があるので、明日の午前中でもいい? 急ぎならレンにも共有して』


 送信する。


 数秒後、


『大丈夫! 明日でお願いします』


 と返ってきた。


 それだけだった。


 敦は画面を見た。


「断ってないですね、それ」


 佐伯が言った。


「え?」


「今日やらないと言っただけです」


「ああ……」


「頼まれたことを全部、やるか断るかの二択にしなくてもいいでしょう」


 敦はスマートフォンを伏せた。


「そうですね」


         *


 夕方、事務所へ戻ると、レンが食卓いっぱいに資料を広げていた。


「おかえり」


「ただいま。これ?」


「うん。向こうが、展示の一部を地域のイベントで使いたいって」


「ますみには聞いた?」


「まだ。先に俺らで条件整理してからの方がいいかなって」


「先に本人に聞こう」


 レンが顔を上げた。


「あ、そっか」


「使っていいかどうかを決めるのは、ますみだから」


「そうだな」


 ちょうど奥の部屋から、ますみが出てきた。


「何?」


「噂をすれば」


「私?」


 レンが事情を説明すると、ますみは資料を読んだ。


 すぐには答えなかった。


「……今は、いいかな」


 やがて言った。


「断る?」


「うん。展示が嫌だったわけじゃないんだけど、今は笑花を人に見せるためじゃなくて、自分で描きたい」


「分かった」


 敦が答えると、ますみは少し意外そうに彼を見た。


「それだけ?」


「それだけって?」


「せっかく声かけてもらったのに、とか言われるかと思った」


「言わないよ」


 レンも頷いた。


「じゃあ断っとく」


「ごめん」


「何で謝るんだよ」


「だって、レンが話持ってきてくれたのに」


「俺が描いた絵じゃないし」


 ますみは少し笑った。


 前原は台所から、そのやり取りを聞いていた。


「ヨシさん」


 敦が声をかける。


「何だ」


「何か言いたそうですね」


「別に」


「顔が」


「元からだ」


 前原は鍋の火を弱めた。


「ただ、断ったあとに普通に飯が出てくるなら、それでいいんじゃねぇか」


 ますみが前原を見る。


「今日、何?」


「鶏の照り焼き」


「食べる」


「断らねぇのか」


「それは食べる」


「都合いいな、お前」


「ヨシさんが食べろって言ったんでしょ」


「まだ言ってねぇ!」


 レンが笑った。


 敦も笑った。


 その時、玄関が開いた。


「ただいま」


 隼人だった。


「おかえり」


 敦が言う。


 隼人は作業着の上着を脱ぎながら、まっすぐ敦のところへ来た。


「昨日の検品、全部大丈夫でした」


「よかったですね」


「あと、今日また一個ミスしました」


「えっ」


「伝票の置き場所間違えました」


「大丈夫だったんですか?」


「田辺さんに『そこじゃない』って言われて、直しました」


「それだけ?」


「それだけです」


 隼人は少し笑った。


「仕事って、毎日何かありますね」


「そうですね」


「じゃ、手洗ってきます」


 隼人が洗面所へ向かう。


 敦はその背中を見送った。


 頼られることは、嬉しい。


 それは今でも変わらなかった。


 だが、頼られたからといって、全部を引き受けなければ関係がなくなるわけではない。


 今日できないと言ってもいい。


 別の人に頼んでもいい。


 本人に返してもいい。


 断ってもいい。


 そして、断ったあとにも。


「岡野!」


 前原の声が飛んできた。


「はい?」


「皿出せ!」


「今行きます」


「レンも座ってねぇで手伝え!」


「俺、客じゃないの?」


「何回来てると思ってんだ!」


「ひどい扱いだなあ」


「飯食うんだろ!」


「食う」


「じゃあ働け!」


 ますみが笑った。


「さっき、断ってもいいって言ってなかった?」


 前原の動きが止まった。


「……飯の準備は別だ」


「別なんだ」


「別だ!」


 敦は皿を出しながら笑った。


 十五歳の木島正義が、あの夜、本当に欲しかった言葉が何だったのか。


 今の前原にも、正確には分からないのかもしれない。


 ただ。


 もし、あの時。


「今日は嫌だ」


 と言っても。


 次の日になればまた、


「腹減ってるか」


 と聞いてもらえると分かっていたなら。


 選ぶものは、少し違っていたのかもしれなかった。


 食卓に皿が並んだ。


 玄関の向こうから、翔太の「ただいま」が聞こえた。


「おかえり」


 今度は何人もの声が重なった。


⸻


後書き


第88話でした。


今回は、第87話で前原と坂口が話した「断れたのか」という問題を、十五歳の木島正義と現在の敦、そしてますみの三つの場面から描きました。


坂口が最初に紹介した荷運びの仕事そのものは、正義を騙して始めさせた仕事ではありません。給料も支払われ、辞めることもできました。


しかし、飯を食べさせてもらい、寝場所を用意してもらい、仕事を紹介してもらい、「助かった」と言われ続けるうちに、その関係は少しずつ変わっていきます。


「嫌なら断っていい」と言われても、断ったあとに頼られなくなるのではないか。居場所を失うのではないか。


十五歳の正義にとっては、そちらの方が怖かったのかもしれません。


現在の敦もまた、誰かに頼られることを嬉しいと感じています。


ただ今回は、頼まれたことを「全部引き受ける/全部断る」の二択にせず、「今日はできない」「本人に決めてもらう」「別の人にも頼る」という選択肢を覚え始めました。


そして、ますみが展示の話を断っても、夕食はいつもどおり出てきます。


断ったあとも、関係は続く。


次回は、若い頃の前原がさらに「頼られる側」へ回っていった時期と、現在の事務所で敦自身が誰かに頼む側になることを描きます。

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