恩があるからこそ
第87話 恩があるからこそ
前書き
かつて自分を助けてくれた人が、別の誰かを傷つけた。
その時、受けた恩をなかったことにする必要はない。けれど、恩があるからといって、その人の行いをすべて受け入れる必要もない。
前原は、隼人の父・坂口正志と会う約束をした。
隼人の代わりに話をつけるためではない。昔の借りを返すためでもない。
十五歳の木島正義と、今の前原正義。その間にあったことを、坂口と一度、話すためだった。
翌日の昼前、前原は事務所の台所で弁当箱を洗っていた。
和子が隣で夕食用の野菜を切っている。まな板に包丁が当たる音を聞きながら、前原は洗い終えた弁当箱を水切りかごへ伏せた。
「今日、出かけるんでしょ」
「ああ」
「昼は?」
「外で食う」
「そう」
和子はそこで話を終えた。前原は手を拭き、冷蔵庫から麦茶を出したが、何となくその場を離れなかった。
「……坂口と会う」
「そう」
「お前、知ってたか」
「昨日、敦君が言ってた」
「余計なことを」
「隼人君には、何も聞いてないよ」
前原は麦茶を一口飲んだ。
「それでいい」
「帰りは?」
「夕方までには戻る」
「分かった。晩ご飯は残しておく」
和子は野菜を切り続けた。前原は「おう」と答え、空になったコップを流しへ置いた。
十五歳の自分なら、出かける先も帰る時間も聞かれた時点で腹を立てていただろう。今は、夕食を残しておくと言われることに、特に反発する理由が見つからなかった。
午後一時。前原が指定したのは、駅から少し離れた昔ながらの喫茶店だった。
裏通りに面した店で、昼の混雑はすでに落ち着いている。前原は奥の席に座り、コーヒーを注文した。店の時計が一時十分を指した頃、入口のベルが鳴った。
坂口正志が入ってきた。
前原と同じく、もう若くはない。以前より痩せ、髪には白いものが増えていた。店内を見渡して前原を見つけると、坂口は一度だけ頭を下げ、向かいの椅子を引いた。
「待たせたな」
「十分だ」
「悪い」
坂口はコーヒーを頼んだ。店員が去るまで、二人とも口を開かなかった。
「青葉園、どうだった」
坂口が先に尋ねた。
「小さかった」
「建物が?」
「ああ。昔は、あの門がもっとでかく見えた」
「そういうもんか」
「お前は行ったことねぇだろ」
「ない。話に聞いただけだ」
坂口は少し笑った。
「お前、園の話になると、すぐ怒ってたからな」
「今でも好きじゃねぇよ」
「そうか」
「でも、見に行ってよかったとは思ってる」
坂口は頷いた。何がよかったのかを、無理に聞き出そうとはしなかった。
「お前と初めて会った日のこと、思い出した」
前原が言うと、坂口は顔を上げた。
「駅前か」
「ああ」
「腹減ってるくせに、減ってねぇって言い張ってたな」
「覚えてんのか」
「腹が鳴ったからな。忘れようがない」
「うるせぇ」
坂口が笑い、前原も口元を緩めた。
あの夜、坂口は正義に定食を食べさせ、一晩の寝場所を用意した。翌日には荷運びの仕事を紹介した。正義はそこで働き始め、初めて自分で稼いだ金で靴を買った。
その靴は、三か月もしないうちに底が剥がれた。
「安物だったからな」
坂口が言う。
「お前が勧めたんだろ」
「値段だけ見て決めたのはお前だ」
「余計なことまで覚えてんな」
二人はしばらく、そんな昔話をした。
笑って話せる出来事は、確かにあった。
前原はそれを否定するつもりがなかった。
コーヒーが半分ほど減ったところで、坂口はカップを置いた。
「正義。隼人は、どうしてる」
前原は坂口を見た。
「俺に用があるって言っただろ」
「分かってる。ただ、元気かどうかくらいは……」
「仕事してる」
「仕事?」
「倉庫だ。自分で応募して、面接行って、働いてる」
坂口の表情が変わった。
「そうか。あいつが……」
「お前に伝えていいか、本人には聞いてねぇ。だから、今の話はここまでだ」
「……分かった」
坂口は視線を落とした。少し間を置いてから、また口を開いた。
「俺と会うことについて、何か言ってたか」
「会いたくないって言ってた」
「そうか」
「俺がお前と会うのは構わねぇとも言ってた。あいつは、そこを分けて考えてる」
坂口はゆっくり頷いた。
「俺は、あいつに何を言えばいいんだろうな」
「俺に聞くな」
「……そうだな」
「それに、今は言う相手が目の前にいねぇだろ。あいつが会いたくないと言ってるうちは、会うことを前提に話を進めんな」
「分かった」
前原は坂口の顔を見た。返事が本心から出たものかどうかを、今ここで確かめることはできない。だが、隼人の意向を伝えることと、坂口がそれを守るかどうかは別の問題だった。
「お前、昔は違ったな」
坂口が言った。
「何が」
「誰かに嫌だと言われても、必要だと思ったら無理にでも連れていった。そういうこと、あっただろ」
「あったな」
「俺も同じだった」
坂口は窓の外を見た。歩道を自転車が通り過ぎ、信号待ちの車が短くクラクションを鳴らした。
「隼人が小さい頃、俺は普通の父親になろうとしたんだ。組も抜けた。あいつに、俺みたいな生き方はさせたくなかった」
「聞いてる」
「なのに、家で思いどおりにならないことがあると、腹を立てた。あいつが黙ると、余計に腹が立った。何を考えてるか分からなくてな」
坂口はコーヒーカップの取っ手に触れた。
「怖がらせてるのは俺なのに、黙るな、ちゃんと話せって怒鳴った」
前原は黙って聞いた。
「俺は、家族を守ってるつもりだった。外で働いて、金を入れて、危ない連中とも距離を置いて……それで十分だと思ってた」
「隼人が何を怖がってるかは、聞かなかったのか」
「聞いた。だが、あいつが答える前に、俺が答えを決めてた」
「……」
「今になって思えば、あれじゃ聞いたことにならねぇな」
前原はコーヒーを飲んだ。
「今になって分かったからって、あいつの家で起きたことは変わらねぇぞ」
「ああ」
「お前が組を抜けたことも、普通の父親になろうとしたことも事実だ。だからって、隼人が怖がってたことまで消すな」
「分かってる」
「本当に分かってるなら、あいつが会いたくないって言ってる間は、そのままにしとけ」
坂口は顔を上げた。
「……ああ」
少しして、坂口が言った。
「正義。俺はお前にも、似たようなことをしたかもしれねぇ」
「何だ、急に」
「十五の頃、お前は俺の紹介した仕事を断れなかったんじゃないかと思ってな」
前原は眉を寄せた。
「断れたぞ」
「本当に?」
「最初の荷運びはな。嫌なら辞められたし、給料もちゃんと出た」
「……」
「その後は別だ。お前の周りの連中とつるむようになって、仕事の中身も変わった。俺も自分で選んだことがある」
坂口は黙った。
「でも、最初に飯を食わせた相手から頼まれたら、断りづらかったこともあった」
前原は続けた。
「お前がそれを分かって使ってたのかどうか、俺には分からねぇ。今さら『全部お前のせいだ』とも言わねぇ。ただ、借りがある相手に何か頼む時は、相手が本当に断れるか、考えなきゃならなかったんだろうな」
坂口は長い間、返事をしなかった。
「……そうだな」
その声は小さかった。
「俺は、お前が来てくれるのが嬉しかった。仕事も覚えるし、口は悪いが、途中で投げ出さなかった。だから、次も頼んだ」
「俺も頼られるのが嬉しかったんだよ」
前原は苦笑した。
「誰かに必要とされてるって思えたからな」
「……」
「それで、嫌なことまで引き受けた。お前が悪いだけじゃねぇし、俺が悪いだけでもねぇ。だが、やったことの責任は、それぞれにある」
坂口は頷いた。
前原はそこで話を止めた。十五歳の少年が何を選べたのかと、今の自分が何を引き受けるのかを、簡単に一つの答えへまとめたくなかった。
午後二時半。店の客が少しずつ増えてきた。
坂口は伝票を手に取ったが、前原が先に押さえた。
「今日は俺が払う」
「いや、俺が呼び出したんだ」
「場所を決めたのは俺だ」
「昔から、変なところで張り合うな」
「お前に言われたくねぇ」
前原は伝票を持って立ち上がった。
会計を済ませて店を出ると、風が少し冷たくなっていた。二人は歩道の端に立ち、別々の方向へ向かう前に、もう一度顔を合わせた。
「正義」
「何だ」
「今日は、来てくれてありがとう」
「話があったから来た。それだけだ」
「ああ」
坂口は少し迷い、続けた。
「また会えるか」
「分からん」
「そうか」
「用があるなら連絡しろ。ただし、隼人の居場所を探るために俺を使うな」
「分かった」
前原は頷き、駅の方へ歩き始めた。
背後から呼び止める声はなかった。
事務所へ戻ったのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
敦が台所から顔を出した。食卓には、翔太がコンビニの仕事へ行く前に食べたらしい菓子パンの袋が残っている。
「ヨシさん、会えました?」
「ああ」
「どうでした」
「コーヒー飲んだ」
「それは分かりますけど」
「何が聞きてぇんだ」
敦は少し考えた。
「……会って、よかったですか」
前原は靴を脱ぎ、揃えてから答えた。
「話したいことは話した」
「そうですか」
「全部じゃねぇけどな」
「はい」
敦はそれ以上聞かなかった。
前原は食卓に座り、和子が残しておいた昼の煮物をつまんだ。冷めていたが、味はよく染みていた。
夕方、隼人が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
敦が答えると、隼人は前原を見た。
「……会ったんですか」
「ああ」
「親父、何か言ってました?」
「お前のことを聞かれた。会いたくないって言ってたことは伝えた」
「……そうですか」
「それ以上、話したくねぇなら話さなくていい」
隼人は鞄を床へ置いた。
「俺、今日は普通に仕事してきました」
「おう」
「検品で、品番を一個見間違えたんですけど、出荷前に気づいて直しました」
「そうか」
「……親父には、別に言わなくていいです」
「分かった」
隼人は少しだけ笑った。
「ヨシさんには言いたかったんで」
前原は顔を上げた。
「そうか」
「それだけです」
「おう。飯食え」
「まだ手洗ってないです」
「じゃあ洗え!」
隼人は笑いながら洗面所へ向かった。
その夜、敦は事務所の戸締まりをしながら、前原が机の上に置いた青葉園の写真に目を留めた。
十四歳の木島正義。
駅前で腹を空かせていた十五歳の少年。
坂口から仕事を紹介され、やがて裏社会へ足を踏み入れた若者。
母方の姓を選び、前原正義になった男。
そして今、帰ってきた隼人へ「飯食え」と言うヨシさん。
敦は写真を手に取らなかった。
どの時代の前原も、今ここにいる前原の一部なのだろう。だが、昔の写真を一枚見たからといって、その人のすべてが分かるわけではない。
「岡野」
背後から声がした。
「はい」
「電気消すなら早くしろ」
「今やります」
「あと、翔太のパンの袋、捨てさせろ」
「分かりました」
敦は食卓の明かりを消した。
奥の部屋では、隼人が明日の仕事の準備をしている。ますみは笑花のスケッチブックを閉じ、グエンは冷蔵庫に貼った自分の名前を指して、プリンの所有権を主張していた。
前原はその騒ぎを聞きながら、いつもの椅子に座っている。
坂口と会ったことで、昔の恩が消えたわけではない。隼人の受けたことが軽くなったわけでもない。前原が過去に選んだことの責任が、誰かへ移ったわけでもなかった。
それでも、今日、話せたことはあった。
そして明日も、ここでは朝ご飯を作る人がいて、仕事へ出かける人がいて、帰ってくる人がいる。
前原は廊下へ向かって声を張った。
「グエン! プリンに名前書くなら、日付も書いとけ!」
「ヨシ! ナンデ!」
「いつのか分かんねぇだろ!」
「キノウ!」
「昨日のなら今日食え!」
「ショウタノ、モ、アル!」
「人のは食うな!」
敦は思わず笑った。
前原も、少しだけ笑っていた。
後書き
第87話でした。
前原と坂口は、昔の恩を確かめ合いました。しかし、十五歳の正義を助けた坂口と、息子の隼人を怖がらせた坂口は、別人ではありません。どちらも同じ人がしたことです。
今回、前原は隼人の代わりに父親を許したり、二人を仲直りさせたりしませんでした。隼人が会いたくないという意思を伝え、それを尊重するよう坂口に求めています。一方で、前原自身には坂口と話したいことがあり、会うことを選びました。
そして、隼人が帰宅後に話したのは、父親のことよりも仕事で品番を見間違えたことでした。父親へ伝えるための報告ではなく、ヨシさんに聞いてほしかっただけの、普通の一日の話です。
次回は、前原が十五歳の頃に紹介された仕事と、その後に「断りづらい頼み」を引き受けていった時期へ。現在の事務所では、敦が誰かに頼られることの嬉しさと、その頼みをどこまで引き受けるかの難しさに向き合います。




