名前を変えた日
第86話 名前を変えた日
前書き
十五歳で青葉園を出た木島正義は、まだ前原正義ではなかった。
園を出れば自由になれると思っていた。門限も、消灯時間も、帰ってこいと怒鳴る職員もいなくなる。
けれど、誰にも帰ってこいと言われない夜が、どんな夜なのかは知らなかった。
青葉園を訪ねた翌週。前原のもとに、今度は昔の仲間から連絡が入る。
月曜日の午後、前原は事務所の奥で、青葉園から持ち帰った集合写真を封筒に戻そうとしていた。
机の上に置いたままでは、通りかかるたびに誰かが覗き込む。ますみは「小さいヨシさん」と呼ぶし、グエンは写真の少年を指して「コワイベイビー」と笑った。十四歳の自分に同情する気はないが、あれ以上好き勝手に言われるのも腹立たしい。
引き出しを開けたところで、スマートフォンが震えた。
表示された名前を見て、前原は手を止める。
坂口正志
隼人の父親だった。
前原は一度だけ画面を見つめ、それから電話に出た。
「何だ」
『久しぶりだな、正義』
「用件を言え」
『相変わらずだな』
「切るぞ」
『待て。青葉園へ行ったんだって?』
前原は椅子に座り直した。
「誰から聞いた」
『竜司だよ。偶然会った時にな』
「余計なことを」
『あいつを責めるな。俺が聞いたんだ』
電話の向こうで、坂口が小さく咳をした。
『……木島の頃のこと、思い出したか』
「お前に話すことじゃねぇ」
『そうだな』
そこで会話が途切れた。前原は切ろうとしたが、坂口が先に口を開いた。
『今度、少し会えないか。隼人のことじゃない。お前と俺の、昔の話だ』
「何で今さら」
『今さらだからだよ』
前原は返事をしなかった。
電話を切ったあとも、前原はしばらく写真を封筒へ戻せずにいた。
窓の外では電車が通り、振動で机の上のボールペンがわずかに転がった。廊下からは翔太とグエンが冷蔵庫の中身について言い争う声が聞こえる。
「プリン、名前書いてあるじゃないですか!」
「ショウタ、コレ、キノウノ!」
「昨日のでも俺のです!」
前原は立ち上がり、廊下へ顔を出した。
「食い物で毎日騒ぐな!」
「ヨシ、ワタシ、タベテナイ!」
「まだ何も聞いてねぇ!」
いつものやり取りを終えて戻ると、写真はまだ机の上にあった。前原は封筒に入れ、今度こそ引き出しを閉めた。
十五歳で青葉園を出たあとのことは、誰かに聞かれれば話せないわけではない。ただ、どこから話せばいいのかが分からなかった。
あの頃の自分は、助けてくれた人間の顔より、腹が立った相手の顔ばかり覚えている。
坂口も、その一人だった。
十五歳の春。
木島正義は、小さな鞄を一つ持って青葉園の門を出た。
行き先は、園が手配した親戚の家だった。中学校を卒業し、働きながら暮らすという話になっていたが、正義自身はその家に長くいるつもりがなかった。親戚は悪い人間ではない。食事を出し、寝る場所を用意し、就職先を探すのも手伝ってくれた。
ただ、その家にはすでに家族がいた。
夕食の時間には決まった席があり、テレビを見る時の場所も、風呂に入る順番も決まっている。正義のために一つずつ調整されるたび、彼は自分がそこへ割り込んでいるように感じた。
ある晩、親戚の男性が言った。
「正義。ここにいる間は、うちの決まりを守ってくれ」
正義は箸を置いた。
「分かってるよ」
「分かってるなら、帰る時間くらい連絡しなさい」
「仕事探してたんだよ」
「それならそう言えばいいだろう」
「……」
男性は怒鳴っていなかった。それでも正義には、青葉園の職員と同じことを言われているように聞こえた。
翌朝、彼は鞄を持って家を出た。
親戚の女性が玄関まで追いかけてきた。
「正義君、帰ってくるんでしょう?」
「……分かんねぇ」
「せめて、どこへ行くか教えて」
「決まってねぇよ」
女性は困った顔をしたが、腕をつかんで引き留めることはしなかった。代わりに、財布から紙幣を数枚取り出そうとした。
「これだけでも持って――」
「いらねぇ!」
正義は断って、外へ出た。
角を曲がってから、財布を確かめた。
残っていた金は、三日も持ちそうになかった。
最初の二晩は、知り合った年上の少年の部屋に泊めてもらった。
三晩目には、その少年から「悪いけど、そろそろ出てくれ」と言われた。正義は腹を立てたが、部屋を借りている本人が困っていることも分かっていた。
四晩目、彼は駅前のベンチに座った。
春とはいえ、夜は冷える。終電が近づくにつれ人通りが減り、閉店した店のシャッターが次々と下りていった。正義は自動販売機で買った缶コーヒーを握り、どこへ行こうか考えた。
青葉園には戻らない。
親戚の家にも戻らない。
そう決めていたのに、代わりに行く場所は決めていなかった。
「おい」
顔を上げると、見知らぬ若い男が立っていた。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。短い髪に革靴。上着はきちんと着ていたが、左の頬に新しい傷があった。
「こんなとこで何してんだ」
「関係ねぇだろ」
「家出か?」
「違ぇよ」
「じゃあ帰れよ」
「……」
男は正義の隣に腰を下ろした。
「帰るとこねぇのか」
「うるせぇな」
「腹は?」
「減ってねぇ」
その瞬間、正義の腹が鳴った。
男は声を上げて笑った。
「分かりやすい奴だな。来いよ。飯くらい食わせてやる」
「何で」
「俺も腹減ってんだよ。一人で食うより二人の方がいいだろ」
正義は男を睨んだ。
それでも、男が立ち上がると後を追った。
その男が、若い頃の坂口正志だった。
駅裏の小さな食堂で、坂口は正義に定食を注文した。
正義は最初こそ警戒していたが、味噌汁を一口飲むと、あとはほとんど喋らずに食べた。坂口はその様子を見ながら、自分の皿から唐揚げを一つ移した。
「食え」
「頼んでねぇ」
「いらねぇなら返せ」
正義は唐揚げを食べた。
坂口は笑った。
「名前は?」
「木島」
「下は」
「正義」
「へえ。いい名前じゃねぇか」
「名前で人間決まるかよ」
「決まらねぇな」
坂口は水を飲んだ。
「俺は坂口正志。字は違うけど、同じマサシだ」
「だから何だよ」
「別に。珍しいと思ってな」
正義は初めて、男の顔をまともに見た。
坂口は少し得意そうに笑っていた。
食事を終えたあと、坂口は正義に今夜の寝場所があるか聞いた。
正義が黙っていると、坂口は知り合いの営む小さな宿泊所へ電話をかけた。空きが一つあるという。坂口は一晩分の料金を払い、正義に場所を教えた。
「明日はどうすんだ」
「仕事探す」
「当ては?」
「ねぇよ」
「じゃあ朝、ここへ来い。荷運びなら人手が足りねぇところ知ってる」
正義は顔をしかめた。
「何でそこまですんだよ」
「人手が足りねぇからだって」
「俺が使えなかったら?」
「そん時は別の仕事探せ」
「……」
坂口は立ち上がり、伝票を持った。
「来なくてもいい。ただ、来るなら遅れるなよ」
正義はその背中を見送った。
翌朝、約束の時間より十分早く食堂へ行った。
現在。
午後四時過ぎ、川本が事務所へやって来た。
「正義、坂口から電話あった?」
「ああ」
「会うって?」
「まだ返事してねぇ」
川本は前原の向かいに座った。敦は二人分の茶を置き、離れようとしたが、前原に呼び止められた。
「岡野。お前も座れ」
「いいんですか?」
「話すことあるんだろ」
「……聞きたいことはあります」
「なら座れ」
敦が椅子を引くと、前原はしばらく湯呑みを眺めてから話し始めた。
「青葉園を出たあと、俺は坂口に拾われた」
敦は黙って頷いた。
「飯を食わせてもらって、仕事を紹介されて、寝る場所も世話になった。最初はそれだけだ」
「……はい」
「それから、あいつの周りにいる連中と顔を合わせるようになった」
川本が続ける。
「坂口は当時、もう組の仕事に関わってた。正義に最初から全部話したわけじゃないけどね」
「じゃあ、ヨシさんは知らずに……?」
「途中からは知ってた」
前原が遮った。
「知らなかったことにする気はねぇ。あいつに世話になったのも、あいつの仕事を手伝うようになったのも事実だ」
敦は前原の顔を見た。
「でも、最初は助けてもらったんですよね」
「ああ」
「それと、その後のことは……」
「別だ」
前原は湯呑みを置いた。
「飯を食わせてもらったからって、あいつがやったことまで全部正しいわけじゃねぇ。俺が自分でやったことも、あいつのせいにはできねぇ」
「名前は、いつ変わったんですか」
敦が尋ねた。
前原は少しだけ顔をしかめた。
「……二十歳を過ぎてからだ」
川本が頷く。
「その頃には、正義も坂口とは別に仕事を持つようになってた。事情があって、母方の姓を使うようになったんだよ」
「前原が?」
「ああ」
前原は短く答えた。
「母親の姓だ。法的な手続きをして変えた。組からもらった名前でも、誰かに名乗れと言われた名前でもねぇ」
「そうだったんですね」
「何だと思ってた」
「……通り名とか」
「漫画の読みすぎだ!」
川本が吹き出した。
前原は敦を睨んだが、すぐに視線を戻した。
「木島って名前が嫌で変えたわけじゃねぇ。母親に会えたわけでもない。いろいろあって、そうしただけだ」
敦は頷いた。理由を詳しく聞きたい気持ちはあったが、前原はそこで話を止めた。
夕方、隼人が仕事から帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
敦が答えると、隼人は鞄を下ろし、川本の姿を見て軽く頭を下げた。
「お疲れさまです」
「お疲れ。仕事は?」
「今日は検品でした。数字ばっか見てたんで、もう何も見たくないです」
「じゃあ飯まで休んでな」
隼人はソファへ座ろうとして、前原の机に置かれたスマートフォンに気づいた。画面には、少し前の着信履歴が表示されたままだった。
父親の名前。
隼人の顔が強張る。
「……親父から?」
前原は画面を伏せた。
「ああ。俺に用があるらしい」
「俺のこと?」
「違う。昔の話だ」
「……」
隼人はしばらく黙っていた。
「会うんですか」
「まだ決めてねぇ」
「そうですか」
それだけ言って立ち上がろうとしたが、前原が呼び止めた。
「隼人」
「何ですか」
「お前に会わせるつもりはねぇ。会いたいなら別だが、俺があいつに会うからって、お前も会う必要はない」
隼人は前原を見た。
「……会いたくないです」
「分かった」
「でも、ヨシさんが会うのは、別にいいです」
「おう」
隼人は少し迷ってから言った。
「親父、昔はいい奴だったんですか」
前原は即答しなかった。
「俺には、助けてもらったことがある」
「……」
「お前にしたことがなくなるわけじゃねぇ」
隼人は目を伏せ、やがて小さく頷いた。
「そうですよね」
その声には、安心したような響きも、寂しそうな響きもあった。前原はどちらなのか決めつけず、隼人が台所へ向かうのを見送った。
夜、食卓には和子の作った肉じゃがが並んだ。
グエンが「コレ、カレー二ナル?」と鍋を覗き、和子に「今日はならない」と即答される。翔太は仕事中にポイントカードを尋ね忘れなかったことを報告し、隼人は「毎日それ言うのか」と呆れた。ますみは笑花の新しい絵を描きかけていると話したが、藍に「休むって言ってなかった?」と指摘され、「休みながら描いてる」と言い張った。
前原はいつもどおり、騒がしい食卓の端でご飯を食べていた。
青葉園を出た日のこと。
坂口と初めて会った夜のこと。
母方の姓を名乗るようになったこと。
今日、敦に話したのは、そのほんの一部だった。
前原は箸を置き、スマートフォンを手に取った。
坂口へ短いメッセージを送る。
明日の午後なら時間がある。場所はこっちで決める。
すぐに返信が来た。
分かった。ありがとう。
前原は画面を消した。
「ヨシさん、肉じゃがまだありますよ」
敦が声をかける。
「食う」
「ご飯も?」
「食う」
「じゃあ持ってきます」
敦が立ち上がると、前原はその背中を見た。
昔、腹を空かせて駅のベンチに座っていた自分へ、坂口が飯を食わせてくれた。
それは確かに、あったことだ。
だからといって、今の坂口に何を言われても受け入れるつもりはない。
会うと決めたのは、借りを返すためでも、昔へ戻るためでもなかった。
ただ、今の自分として話をする。
明日は、それだけのことだった。
後書き
第86話でした。
前原と坂口の出会いは、駅前の食堂での一食から始まりました。坂口が十五歳の正義を助けたことは事実ですが、それによって後年の行動まで正当化されるわけではありません。前原自身も、裏社会に関わるようになってからの選択を、すべて坂口の責任にはしていません。
「前原」は母方の姓で、成人後に本人が法的な手続きをして名乗るようになった名前です。その詳しい事情は、まだ本人の中に残っています。
次回は、現在の前原と坂口が向き合います。隼人を間に立たせず、昔の恩と今の責任を混ぜないまま、二人が何を話せるのかを描きます。




