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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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85/105

帰ってきたんじゃない

第85話 帰ってきたんじゃない


前書き


記憶の中の場所は、なかなか歳を取らない。


長い廊下。


高い塀。


大きな玄関。


怖かった大人。


逃げ出した夜。


腹を空かせて戻った雨の日。


けれど何十年も経ってから同じ場所へ行けば、建物は驚くほど小さくなっていることがある。


変わったのは建物なのか。


自分なのか。


それとも、その両方なのか。


前原正義。


旧姓、木島正義。


四十年以上ぶりに、青葉園へ向かいます。


⸻


 土曜日の朝、前原はいつもより早く起きていた。


 午前六時半。台所では和子が味噌汁を温めている。まだ事務所の大半は眠っており、高架を走る電車の音だけが一定の間隔で天井を震わせていた。


 前原は食卓に座り、焼き鮭をほぐしている。


「食欲あるじゃない」


 和子が言った。


「何でねぇと思った」


「昔いたところに行くんでしょ。緊張して食べられないかと思った」


「遠足じゃねぇんだぞ」


「遠足でも食べる人でしょ」


「食う」


「じゃあ同じじゃない」


「何がだ」


 前原は文句を言いながら、二杯目のご飯をよそった。


 少なくとも食欲はある。


⸻


 七時を過ぎると、敦が起きてきた。


「おはようございます」


「おう」


「今日ですよね」


「ああ」


「何時に出ます?」


「八時半」


「分かりました」


 前原の箸が止まった。


「何が分かった」


「八時半」


「お前、何で行く気になってんだ」


「え?」


 敦も止まる。


「行かないんですか、俺」


「何で行くんだよ」


「……」


 敦は本気で考えた。


「ヨシさん一人だと」


「何だ」


「途中で帰りそう」


「帰って何が悪い!」


「悪いとは言ってません」


「じゃあいいだろ!」


⸻


「俺も行くよ」


 奥から川本が出てきた。


 前原。


「何でいる」


「昨日泊まったから」


「聞いてねぇ」


「言ってないから」


「お前ら何なんだ」


 川本は冷蔵庫から麦茶を出す。


「運転」


「俺がする」


「電車で行く」


「車の方が楽だよ」


「……」


「帰りたくなったら」


「すぐ帰れるし」


 前原が川本を見る。


「わざと言ってるだろ」


「何を?」


⸻


 敦は椅子に座った。


「じゃあ川本さんが行くなら、俺は――」


「岡野君も来れば?」


「おい」


 前原。


「何で増やす」


「嫌?」


「……」


 前原は敦を見る。


 敦は少し迷ってから言った。


「嫌なら行きません」


「……」


「本当に」


「事務所にいます」


 前原はしばらく黙った。


「別に」


「じゃあ?」


「来たきゃ来い」


「はい」


「ただし」


「はい」


「勝手に昔の話聞くな」


「聞きません」


「勝手に写真撮るな」


「撮りません」


「勝手に泣くな」


「何で俺が泣く前提なんですか!」


⸻


 午前八時二十分。


 玄関。


 前原。


 川本。


 敦。


 三人。


 靴を履く。


「行ってらっしゃい」


 和子。


「おう」


 前原。


 ドア。


 開ける。


「ヨシさん」


「何だ」


「忘れ物」


「何」


 和子が小さな紙袋を渡す。


「昼」


「……」


「おにぎり」


 前原。


 紙袋を見る。


「向こうで何かあるだろ」


「なかったら食べな」


「……」


「いらなきゃ」


「持って帰ればいい」


 前原は数秒黙り、受け取った。


「おう」


⸻


 青葉園までは、車で一時間少しだった。


 街を離れるにつれ、建物が低くなる。古い住宅地を抜け、小さな川沿いの道へ入った。


 川本が運転。


 助手席、前原。


 後部座席、敦。


 ラジオ。


 小さい。


 誰もあまり喋らない。


 敦は何度か口を開きかけ、そのたびにやめた。


 やがて前原が言った。


「気持ち悪ぃな」


「何がです?」


「お前」


「静かすぎる」


「喋ったら怒るじゃないですか」


「普通にしろ」


「難しい!」


 川本が笑う。


「正義の方が緊張してるんじゃない?」


「してねぇ」


「昨日から青葉園の紙、三回見てたよ」


「見てねぇ!」


「見てた」


「竜司!」


「前見てるから大丈夫」


「そういう意味じゃねぇ!」


⸻


 九時四十七分。


 車が細い坂を上る。


 前原が突然、黙った。


 右側。


 古い石垣。


 その向こうに、白い建物が見えた。


「……」


 川本は何も言わない。


 速度を落とす。


 門。


 看板。


社会福祉法人 青葉園


 その下。


旧園舎開放日


 前原は窓の外を見たまま動かなかった。


「着いたよ」


 川本。


「分かってる」


「降りる?」


「……」


 敦は黙っていた。


 前原はシートベルトを外した。


「来たんだから降りる」


 それだけ言った。


⸻


 門をくぐる。


 三歩。


 前原。


 止まる。


「……小せぇ」


 敦。


「建物?」


「ああ」


 写真では。


 いや。


 記憶では。


 もっと大きかった。


 二階建て。


 灰色の屋根。


 玄関。


 横に細長い運動場。


 端に古い鉄棒。


 建物自体は決して小さくない。


 だが。


「もっと」


 前原。


「でかかった」


 川本。


「正義が小さかったんだよ」


「……」


「十一歳だったんだろ」


「ああ」


 前原は自分の手を見る。


 もう。


 十四歳の手ではない。


⸻


 受付には、現在の職員が二人いた。


「こんにちは」


「旧入所者の方ですか?」


 前原。


「……はい」


「お名前を伺っても?」


「木島」


 言って。


 少し止まる。


「木島正義」


「確認しますね」


 職員が名簿を見る。


「あ、あります。昭和――」


「そこ読まなくていいです」


 敦が吹き出しそうになる。


 前原が睨む。


「笑ってねぇだろうな」


「笑ってません」


「顔が笑ってる」


「年齢は分かってるので!」


⸻


「同行の方は?」


「川本です」


「岡野です」


「ご家族ですか?」


「違います」


 前原。


 即答。


 敦。


「そんな全力で否定しなくても」


「違うもんは違う」


 受付の女性が少し笑った。


「ご友人ということで」


「それも――」


「友人です」


 川本。


「おい」


「書類上はそれでいいだろ」


「……」


 前原。


「好きにしろ」


⸻


 園舎へ入る。


 匂い。


 前原の足が止まった。


 古い木材。


 消毒液。


 畳。


 どこか。


 給食室。


 油。


 いろんな匂いが混ざっている。


「……」


 敦は、その変化に気づいた。


「ヨシさん?」


「何でもねぇ」


 前原は歩く。


 廊下。


「ここ」


「はい」


「もっと長かった」


 川本。


「だから正義が――」


「分かってる!」


⸻


 元食堂。


 机。


 ほとんど撤去。


 壁。


 子どもたちが作ったらしい古い掲示物。


 年代。


 バラバラ。


 閉園前の整理で見つかった写真や記録の一部が展示されている。


 前原はゆっくり歩いた。


「ここで飯?」


 敦。


「ああ」


「まずかった?」


「まずかった」


 即答。


「そんなに?」


「野菜」


「柔らけぇ」


「魚」


「固ぇ」


「逆じゃないですか」


「知らん」


⸻


 奥。


 厨房。


 立入禁止のロープ。


 前原。


 止まる。


「……」


 雨。


 夜。


 玄関。


 濡れた十四歳。


 おにぎり。


 二つ。


『食べたくなったら食べな』


「……」


 名前。


 何だった。


⸻


「木島君?」


 後ろ。


 声。


 前原。


 振り返る。


 八十代くらい。


 男性。


 杖。


 隣。


 娘らしい女性。


「……」


「木島正義君?」


 前原。


「そうですが」


「やっぱり」


 老人。


 笑う。


「目が同じだ」


「……誰です?」


「分からんか」


「すみません」


「いいよ」


 老人。


「こっちも」


「君がこんな爺さんになるとは思わなかった」


「お互い様でしょう」


 敦。


 思う。


 ヨシさん。


 初対面。


 敬語。


⸻


「杉浦」


 老人。


「杉浦信夫」


 前原の目が少し開く。


「……杉浦先生?」


「そう」


「……」


 前原。


 黙る。


「まだ生きてたんですか」


「第一声がそれか!」


 老人の娘。


 笑う。


「父、九十です」


「九十!?」


 敦。


「元気ですね」


「耳も聞こえるぞ」


「すみません!」


⸻


 杉浦。


 昔。


 青葉園の職員。


 前原が何度も逃げた時。


 探しに行った人。


 怒鳴った人。


『十四歳に全部勝手にさせられるか』


 あの男。


「……」


 前原。


「先生」


「何だ」


「俺」


「先生」


「嫌いでした」


 敦。


「ヨシさん!」


 杉浦。


 笑う。


「知ってる」


「……」


「俺も」


「お前」


「面倒だった」


「おい!」


「夜中に抜ける」


「学校さぼる」


「喧嘩する」


「煙草」


「それは十五から」


「そこ訂正するところか」


⸻


 前原も。


 少し。


 笑う。


「……」


 杉浦。


 その顔。


 見る。


「でも」


「木島」


「何です」


「あの時」


「お前が」


『帰りたくない』


「って言ってたの」


「……」


「俺」


「分かってなかった」


 前原。


 笑い。


 消える。


「……」


「園に?」


「ああ」


「……」


「逃げたら」


「連れ戻す」


「それが」


「仕事だと思ってた」


「……」


「実際」


「十四のお前を」


「夜中」


「外に放っとけない」


「……」


「今でも」


「連れ戻すこと自体は」


「間違いだったとは」


「思ってない」


 前原。


 黙って聞く。


「でも」


 杉浦。


「戻した後」


「何で帰りたくないか」


「もっと」


「聞けばよかった」


⸻


 前原。


「俺」


「言わなかったですよ」


「そうだな」


「聞かれても」


『うるせぇ』


「しか」


「言わなかった」


「そうだった」


「じゃあ」


「先生」


「悪くないでしょう」


「それも違う」


 杉浦。


 ゆっくり。


「子どもが」


「うるせぇしか言わんから」


「分からなくていい」


「ってことには」


「ならんだろ」


「……」


「分からないなら」


「分からないまま」


「そばにいる方法も」


「あったんだろうな」


⸻


 敦。


 何も言わない。


 最近。


 何度も。


 聞いた言葉。


 でも。


 四十年以上前の話をする老人から出ると。


 少し違って聞こえる。


⸻


「先生」


 前原。


「俺」


「何で」


「逃げてたと思います?」


「知らん」


「……」


 杉浦。


「今も」


「分からん」


 前原。


 少し。


 笑う。


「それでいいです」


「そうか」


「俺も」


「よく分からん」


⸻


 杉浦はしばらく前原を見ていた。


「木島」


「はい」


「今」


「何してる」


 前原。


 止まる。


「……」


 敦。


 見る。


 川本。


 見る。


「何だよ」


「自分で説明しなよ」


 川本。


「面倒くせぇな」


「何してるんですか?」


 杉浦。


 前原。


「……」


「人」


「来る場所」


「やってます」


「何だそれ」


「俺も」


「よく分かりません」


「仕事?」


「仕事でも」


「ある」


「……」


「家?」


「それも」


「ちょっと違う」


「……」


「困った奴」


「来たら」


「飯食わせて」


「寝るとこなきゃ」


「考えて」


「役所とか」


「必要なら」


「つないで」


「……」


「出ていく奴は?」


「出ていきます」


「戻ってきたら?」


「飯」


「食わせます」


 杉浦。


 目。


 細める。


「そうか」


⸻


「何です」


「いや」


「……」


 杉浦。


「小野寺さん」


「覚えてるか」


 前原。


 止まる。


「……誰」


「厨房」


「……」


「小野寺文江さん」


 前原。


 目。


 動く。


「……」


 雨。


 おにぎり。


 二つ。


『食べたくなったら食べな』


「……」


「文江」


 前原。


 小さく。


「そうだ」


⸻


「まだ」


 前原。


「生きてます?」


 杉浦。


 答えない。


 その沈黙で。


 前原。


 分かる。


「……そうですか」


「十七年前」


「……」


「八十二だった」


「……」


「長生きしたよ」


「はい」


⸻


 前原は厨房を見る。


 顔。


 はっきり。


 思い出せない。


 声。


 少し。


 思い出せる。


 手。


 おにぎり。


 海苔。


 雑な。


 三角。


「……」


「俺」


 前原。


「名前」


「忘れてました」


「四十年だ」


「……」


「仕方ない」


「でも」


「おにぎりは」


「覚えてる」


 杉浦。


 笑う。


「小野寺さんらしいな」


⸻


 娘。


 杉浦へ。


「お父さん」


「そろそろ座った方が」


「そうだな」


 杉浦。


 前原。


「木島」


「はい」


「会えて」


「良かった」


 前原。


 少し。


 困る。


「俺」


「まだ」


「先生」


「好きじゃないですよ」


「知ってる」


「……」


「俺も」


「今さら」


「好かれようとは」


「思わん」


「……」


「でも」


「来てくれて」


「良かった」


⸻


 前原。


 答えない。


 杉浦。


 去る。


 敦。


 横。


「ヨシさん」


「何だ」


「何も」


「じゃあ呼ぶな」


⸻


 正午。


 園庭。


 三人。


 ベンチ。


 和子の。


 紙袋。


「食うか」


 前原。


「はい」


 敦。


「俺も」


 川本。


 おにぎり。


 三つ。


「三つ?」


 敦。


「人数分」


「和子さん」


「最初から」


「俺ら来ると思ってた?」


「多分ね」


「……」


 前原。


 一つ。


 取る。


 鮭。


「昔の」


「おにぎり」


「何味だったんです?」


 敦。


「知らん」


「覚えてない?」


「ああ」


「でも」


「食べた?」


「二個」


「腹減ってたんですね」


「十四だからな」


「……」


 敦。


 自分。


 おにぎり。


 見る。


「ヨシさん」


「何だ」


「今」


「みんなに飯食えって」


「言うの」


「小野寺さんの影響?」


「知らん」


「……」


「多分」


 前原。


 少し。


 間。


「それだけじゃねぇ」


「……」


「いろんな奴」


「いたからな」


「……」


「名前」


「忘れてる奴も」


「顔」


「忘れてる奴も」


「いる」


「でも」


「残ってんのかもな」


⸻


 川本。


「正義」


「何」


「帰ってきた感じする?」


 前原。


 園舎。


 見る。


 長いと思っていた。


 短い廊下。


 高いと思っていた。


 低い門。


 広いと思っていた。


 小さな庭。


「……しねぇ」


「そう」


「ここ」


「もう」


「俺の帰る場所じゃねぇ」


「うん」


「……」


 敦。


「じゃあ」


「来たの」


「無駄だった?」


 前原。


 敦を見る。


「何で」


「帰る場所じゃないなら」


「……」


 前原。


 おにぎり。


 一口。


「帰るために」


「来たんじゃねぇ」


「……」


「見に来ただけだ」


「……」


「それでいいだろ」


 敦。


「はい」


⸻


 午後一時。


 自由見学。


 前原。


 一人で。


 園舎。


 歩く。


 敦。


 ついていかない。


 川本も。


 行かない。


 二人。


 園庭。


 待つ。


「いいんですか」


 敦。


「何が」


「一人」


「一人で見たいんだろ」


「……」


「昔の正義に」


「俺らはいなかったから」


「……」


「そっか」


⸻


 前原。


 二階。


 階段。


 一段。


 一段。


 上る。


 昔。


 駆け上がった。


 階段。


 今。


 狭い。


 部屋。


 四人部屋。


 もう。


 布団。


 ない。


 棚。


 ない。


 窓。


 同じ。


「……」


 十五歳。


 前原。


 荷物。


 少ない。


 鞄。


 一つ。


『二度と戻らねぇ』


 言った。


 誰に。


 言ったのか。


 覚えていない。


 多分。


 誰にでも。


 言った。


⸻


 部屋の。


 窓。


 開ける。


 外。


 園庭。


 敦。


 川本。


 ベンチ。


 見える。


 敦。


 何か。


 喋っている。


 川本。


 笑う。


「……」


 前原。


 小さく。


「うるせぇ奴らだ」


 窓。


 閉める。


⸻


 廊下。


 壁。


 古い。


 傷。


 一本。


「……」


 前原。


 指。


 触れる。


 覚えている。


 十四歳。


 喧嘩。


 椅子。


 ぶつけた。


「これ」


「俺じゃねぇだろうな」


 多分。


 自分。


 でも。


 分からない。


 何十年も。


 ここには。


 別の子どもたちが。


 いた。


 自分だけの。


 場所ではない。


⸻


 階段。


 降りる。


 玄関。


 そこ。


 前原。


 止まる。


 雨の日。


 自分。


 座っていた。


 小野寺文江。


 おにぎり。


 置いた。


「……」


 前原。


 誰も。


 いない玄関へ。


「ごちそうさん」


 小さく。


 言う。


⸻


 午後二時。


 帰る。


 受付。


「ありがとうございました」


 職員。


「何か」


「持ち帰りますか?」


「何を」


「昔の写真」


「複製できます」


 前原。


 例の。


 集合写真。


 見る。


「……」


「いらん」


 敦。


 前原を見る。


「本当に?」


「いらん」


「分かりました」


 受付職員。


「では」


「こちらで」


「保管終了後は」


「データ化予定です」


「……」


 前原。


 玄関。


 出る。


 三歩。


 止まる。


「……」


 戻る。


「すみません」


「はい?」


「一枚」


「もらえます?」


 敦。


 何も。


 言わない。


⸻


 車。


 帰り。


 写真。


 封筒。


 前原の膝。


「ヨシさん」


「何だ」


「やっぱり」


「欲しかった?」


「うるせぇ」


「はい」


「……」


 しばらく。


 沈黙。


「岡野」


「はい」


「今日」


「何見た」


 敦。


 考える。


「小さいヨシさん」


「ぶん殴るぞ」


「違う!」


「そうじゃなくて」


「……」


 敦。


 窓。


 外。


「ヨシさんにも」


「誰かに飯」


「もらってた時が」


「あったんだなって」


「……」


「それだけ?」


「あと」


「嫌いな場所にも」


「残ってるもの」


「あるんだなって」


 前原。


 何も。


 言わない。


⸻


 川本。


 運転しながら。


「正義は?」


「何が」


「今日」


「何見た」


「……」


 前原。


 写真。


 見る。


「小せぇ建物」


「うん」


「嫌いだった先生」


「うん」


「死んだ厨房のおばちゃん」


「うん」


「……」


「あと」


 前原。


 少し。


 考える。


「俺が」


「忘れてたもん」


「……」


「何」


「知らん」


「それじゃ答えになってない」


「分かんねぇんだから仕方ねぇだろ」


⸻


 午後三時半。


 事務所。


 ドア。


 開く。


「ただいま」


 敦。


「おかえり!」


 グエン。


 台所。


 前原。


「何でお前いる」


「カレー!」


「答えになってねぇ!」


「ヨシ!」


「オカエリ!」


 前原。


 止まる。


「……おう」


⸻


 ますみ。


 走る。


「どうだった?」


「何が」


「青葉園」


「小さかった」


「それだけ?」


「先生いた」


「怖かった人?」


「昔はな」


「今は?」


「爺さん」


「そりゃそうでしょ」


「九十」


「すご」


「……」


「あと」


 前原。


 写真。


 出す。


「これ」


「もらってきた」


 ますみ。


 目。


 輝く。


「小さいヨシさん!」


「だからその呼び方やめろ!」


⸻


 翔太。


 仕事前。


 写真。


 見る。


「昨日のと同じ?」


「複製」


「……」


「これ」


 翔太。


 後ろ。


 厨房。


 小さな女性。


「誰」


「小野寺さん」


「……」


「知ってる人?」


「昔」


「飯」


「食わせてもらった」


「……」


 翔太。


 写真。


 見る。


「じゃあ」


「ヨシさんも」


「最初」


「飯だったんですね」


 前原。


「……」


「多分な」


⸻


 夜。


 隼人。


 三日目。


 帰宅。


「ただいま」


「おかえり」


 須賀。


 内見。


 考え中。


 食卓。


 座る。


 ますみ。


 今日は。


 結局。


 笑花。


 描かなかった。


 藍。


 文章。


 書かなかった。


 カナコ。


 音楽。


 直さなかった。


 何も。


 進まない。


 日。


 でも。


 事務所。


 人。


 いる。


⸻


 夕食。


 グエンの。


 カレー。


「辛っ!」


 敦。


「キョウハ」


「スペシャル!」


「何入れた!」


「アイ!」


「愛で辛くならない!」


 前原。


 食う。


「うまい」


「ヨシ!」


「ワカル!」


「何がだ!」


⸻


 食後。


 前原。


 集合写真。


 壁。


 置く。


 まだ。


 飾らない。


 捨てない。


 机の。


 引き出しにも。


 入れない。


 ただ。


 置く。


⸻


 敦。


「飾らないんですか」


「まだいい」


「いつか?」


「知らん」


「……」


「分かりました」


 敦はもう、答えを急がなかった。


⸻


 夜。


 前原。


 一人。


 写真。


 見る。


 十四歳。


 木島正義。


 不機嫌。


 腕。


 組む。


 カメラ。


 見ない。


「……」


 前原。


 写真の。


 自分へ。


「お前」


「後で」


「だいぶ」


「面倒くせぇぞ」


 当然。


 返事。


 ない。


「……」


「でも」


 前原。


 少し。


 笑う。


「飯は」


「食えるようになる」


⸻


 青葉園は。


 来月。


 なくなる。


 だから。


 前原が。


 そこへ。


 帰ることは。


 もうない。


 でも。


 それで。


 全部。


 消えるわけではない。


 嫌だったこと。


 逃げたこと。


 連れ戻されたこと。


 聞いてもらえなかったこと。


 それと。


 雨の日。


 何も聞かず。


 おにぎりを。


 置いた人。


 どちらも。


 あった。


 片方を。


 消さなくてもいい。


⸻


 前原は。


 青葉園へ。


 帰ってきたのではない。


 過去を。


 取り戻したのでもない。


 許したのでも。


 許されたのでもない。


 ただ。


 一度。


 見に行った。


 そして。


 帰ってきた。


 今。


 自分がいる場所へ。


⸻


「ヨシさん!」


 奥。


 敦。


「何だ!」


「グエンが」


「残ったカレー」


「全部タッパーに入れてます!」


「入れさせろ!」


「冷蔵庫入りません!」


「グエン!」


「アシタモカレー!」


「多すぎんだよ!」


⸻


 前原は写真を置いて、立ち上がった。


 そして。


 いつもの。


 うるさい方へ。


 歩いていった。


⸻


後書き


第85話でした。


今回は前原の過去を「実は良い思い出だった」と塗り替えないことを大切にしました。青葉園は、前原にとって本当に嫌な場所でした。杉浦に連れ戻されたことも、当時の前原には苦しかった。一方で杉浦自身も「十四歳を夜中に放置できなかったこと」と「戻したあと十分に聞かなかったこと」を分けています。


そして、小野寺文江。


前原の「まず飯を食わせる」という現在のやり方は、彼自身が一から発明したものではありませんでした。名前さえ忘れていた誰かの小さな行為が、何十年後まで残っていた。


だから今回の題は、


「帰ってきたんじゃない」


です。


過去の場所へ行くことは、そこを再び自分の居場所にすることとは限らない。許す必要も、懐かしむ必要もない。ただ見に行き、また現在へ帰ることもできる。


そして前原の過去には、まだ青葉園の「その後」があります。


十五歳で園を出た木島正義が、どこで「前原」という姓になり、どうして裏社会へ入ったのか。次は、その空白へ進みます。

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