ヨシさんにも、帰れない場所がある
第84話 ヨシさんにも、帰れない場所がある
前書き
誰かに、
「帰ってきてもいい」
と言える人がいる。
けれど、その人自身にも、
帰れなかった場所があるかもしれない。
前原正義は、これまでほとんど自分のことを話してこなかった。
昔、何をしていたのか。
誰といたのか。
なぜ、今のようになったのか。
知っている者はいる。
川本。
黒岩。
そして、坂口正志。
だが――彼らの知っている前原にも、まだその前がある。
文化展が終わり、あさがおの問題も一つの区切りへ向かい始めた頃。
事務所に、一通の封筒が届く。
⸻
午前九時十三分。
高架下の事務所は、久しぶりに何の予定もない朝を迎えていた。
隼人は三日目の倉庫勤務へ出かけ、翔太は午後からコンビニ。須賀は市の紹介で短期滞在先の内見へ行っている。ますみは「今日は絶対描かない」と宣言したわりに、十分前からスケッチブックを開いたまま鉛筆を握っていた。
「描いてるじゃん」
藍が言う。
「描いてない」
「その線は?」
「考えてる」
「鉛筆で?」
「うん」
「紙に?」
「うん」
「それを普通は描いてるって言うんだよ」
「違う」
そんなやり取りの横で、敦は郵便物を仕分けていた。
請求書。
地域の広報。
保険関係。
よく分からない営業の葉書。
そして最後に、一通だけ、妙に古びた茶封筒が残った。
「ヨシさん」
「何だ」
「手紙です」
「そこ置いとけ」
「はい」
敦は机へ置こうとして、手を止めた。
宛名が少し変だった。
住所は、この事務所。
名前は。
前原正義 様
その下に、小さく。
旧姓 木島
「……」
敦は二度見した。
「ヨシさん」
「何だよ」
「これ」
「何だ」
「木島って」
前原の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、敦には分かった。
「……」
「ヨシさん?」
「貸せ」
前原は封筒を取った。
裏を見る。
差出人。
そこには個人名ではなく、
社会福祉法人 青葉園
とだけ書かれていた。
⸻
「施設?」
ますみが顔を上げる。
「お前は聞くな」
「聞いてない。見えた」
「同じだ」
前原は封筒を開けない。
机の端へ置く。
「開けないんですか」
敦。
「後で」
「何で」
「今じゃねぇから」
「……」
敦は、それ以上聞かなかった。
少し前なら、何か重大な秘密だと思って追及したかもしれない。
今は。
「分かりました」
それだけ言って、残りの郵便物を片付けた。
⸻
午前十時。
川本が来た。
「おはよう」
「おはようございます」
「正義いる?」
「奥です」
「珍しいね。朝から静かだ」
「手紙来てから」
敦がそこまで言うと、前原が奥から出てきた。
「余計なこと言うな」
「すみません」
川本が机の茶封筒を見る。
そして。
表情が変わった。
「……青葉園?」
前原。
「ああ」
「まだあったのか」
「知らん」
「開けた?」
「まだ」
「そう」
川本は、それ以上何も言わずコーヒーを淹れた。
敦は二人を見比べる。
「川本さん」
「うん?」
「知ってるんですか」
「少しね」
前原。
「竜司」
「分かってるよ」
川本は笑った。
「俺から話すことじゃない」
⸻
ますみ。
小声で藍へ。
「気になる」
「分かる」
「木島って誰」
「ヨシさんでしょ」
「何で前原?」
「知らない」
「養子?」
「知らない」
「結婚?」
「それは違うと思う」
「何で」
「何となく」
「二人とも」
前原。
「聞こえてるぞ」
「ごめんなさい」
二人同時。
⸻
午前十一時二十分。
前原は、ようやく封筒を開けた。
誰も見ていない時に開けるつもりだったらしい。
しかし、事務所には常に誰かいる。
諦めたように封を切った。
便箋。
一枚。
そして。
小さな写真。
「……」
前原の眉が動く。
敦は見ない。
見ないようにする。
ただ、前原が長く黙っていることだけは分かった。
「何だった?」
川本。
「……園」
「うん」
「閉めるらしい」
「そうか」
「来月」
「……」
「建物も」
「取り壊す」
川本はコーヒーカップを置いた。
「それで」
「昔いた人に」
「連絡?」
「ああ」
「最後に見学できる日を作るって」
「……」
前原。
写真。
机。
置く。
⸻
古い。
集合写真だった。
色褪せている。
子ども。
十数人。
職員らしい大人。
建物。
その中。
後ろ。
端。
一人。
不機嫌そうな少年。
髪。
短い。
腕。
組んでいる。
「……」
敦。
「ヨシさん?」
「見るな」
「もう見えました」
「忘れろ」
「無理です」
ますみも近づく。
「ヨシさん?」
「お前も見るな!」
「え」
「可愛い」
「ぶん殴るぞ!」
「子どもに言ってる!」
「今のお前にだ!」
⸻
写真の裏。
鉛筆。
木島正義 十四歳
「十四」
翔太はいない。
隼人もいない。
でも、敦は妙な感覚を覚えた。
写真の少年は、今の前原とはまるで違う。
なのに。
目だけ。
少し似ている。
誰かに、
「こっちを見ろ」
と言われても。
絶対に見ないような目。
⸻
「児童養護施設?」
敦が聞く。
「昔は」
川本。
「呼び方も運用も、今とはかなり違ったけどね」
「ヨシさん」
「そこにいたんですか」
「……」
前原。
煙草。
出す。
和子。
台所から。
「吸うなら外」
「まだ火つけてねぇ!」
「出した時点で言っとくの」
前原は煙草を戻した。
「いた」
短く。
答えた。
「何歳から?」
「……十一」
「十四まで?」
「十五」
「その後?」
「……」
前原は敦を見る。
「質問多くねぇか」
「すみません」
「まあ」
川本。
「今日くらい」
「竜司」
「本人が聞きたくないならやめるけど」
敦は前原を見る。
「……」
前原。
長く。
息を吐く。
「別に」
「聞かれて困るような」
「立派な話じゃねぇ」
⸻
前原は椅子へ座った。
「親父」
「いた」
「母親も」
「いた」
敦。
黙って聞く。
「親父が」
「酒飲むと」
「暴れる」
「……」
「母親」
「逃げた」
「俺置いて」
ますみの鉛筆が止まる。
「親父」
「その後」
「捕まった」
「何で」
「いろいろだ」
「……」
「俺」
「親戚」
「回された」
「でも」
「長く置く家」
「なかった」
「……」
「それで」
「青葉園」
⸻
敦は何か言おうとした。
でも。
言葉が出ない。
「可哀想とか」
「言うなよ」
前原。
「言いません」
「本当か」
「……」
「今」
「ちょっと思いました」
「おい」
「でも」
敦。
「言わない方がいいかなって」
「もう言ってんじゃねぇか」
川本が笑う。
⸻
「青葉園」
前原。
「嫌だった」
「……」
「何が」
ますみ。
「全部」
「全部?」
「飯」
「まずかった」
「そこ?」
「大事だろ」
和子。
「大事だね」
「だろ」
「でも」
前原。
少し。
写真を見る。
「職員」
「嫌いだった」
「……」
「ルール」
「嫌いだった」
「消灯」
「外出」
「学校」
「全部」
「……」
「逃げた?」
敦。
「何回も」
「……」
「戻った?」
「連れ戻された」
⸻
「じゃあ」
ますみ。
「帰れる場所じゃ」
「なかった?」
前原。
少し。
止まる。
「……」
「当時は」
「違った」
「……」
「じゃあ」
「今は?」
「知らん」
「行ってないから」
「……」
「何十年?」
「数えんな」
「でも」
「四十――」
「数えるな!」
⸻
川本。
写真。
見る。
「正義」
「何だ」
「行く?」
「行かん」
即答。
「そう」
「……」
「止めねぇのか」
「何で」
「普通」
『最後なんだから行ってこい』
「とか」
「俺が決めることじゃない」
「……」
前原。
少し。
不満そう。
「何だよ」
「いや」
「お前」
「昔なら」
「行けって言った」
「昔はね」
「……」
「俺も」
「少しは変わったんだよ」
⸻
正午。
昼食。
焼きそば。
グエン。
来る。
「オー!」
写真。
発見。
「チイサイヨシ!」
「見るな!」
「カワイイ!」
「お前まで言うな!」
「メガコワイ!」
「どっちだ!」
写真。
食卓。
回る。
「返せ!」
ますみ。
「髪ある」
「今もあるわ!」
「いや、今もあります」
敦。
「フォローすんな!」
⸻
笑いが起きる。
でも。
敦は。
少し。
気づく。
前原。
本当に。
嫌なら。
写真を。
取り上げて。
しまうはず。
でも。
そのまま。
置いている。
⸻
午後一時半。
倉庫。
隼人。
三日目。
「坂口君」
「はい」
「これ」
田辺。
伝票。
「数」
「合わない」
「……」
隼人。
確認。
「俺ですか」
「まだ分からない」
「……」
「一緒に見よう」
昨日までなら。
「すみません」
と。
先に言った。
今日は。
止まる。
「はい」
二人。
確認。
原因。
別工程。
入力。
違い。
「坂口君じゃなかった」
「……」
「良かった?」
田辺。
「はい」
「でも」
隼人。
少し。
考える。
「俺だったら」
「直せばいいんですよね」
「まあ」
「内容によるけど」
「今回はね」
「……はい」
⸻
午後二時。
事務所。
須賀。
帰る。
「ただいま」
「おかえり」
敦。
もう。
誰も。
止まらない。
「内見」
「どうでした」
「狭かった」
「はい」
「古い」
「はい」
「駅から」
「遠い」
「はい」
「……」
「嫌?」
「……」
須賀。
考える。
「でも」
「鍵」
「自分で持てる」
「……」
「門限」
「ない」
「はい」
「人呼ぶのは」
「ダメ」
「はい」
「三か月」
「……」
「どうします?」
「明日まで」
「考える」
「分かりました」
⸻
「前の寮より」
敦。
「いい?」
須賀。
「それ」
「比べないと」
「ダメですか」
「……」
敦。
「あ」
「すみません」
「いや」
須賀。
「俺も」
「比べてたんで」
「……」
「でも」
「前が悪いから」
「こっちが良い」
「じゃなくて」
「今の俺が」
「住めるか」
「考えたい」
敦。
「……」
「そうですね」
須賀。
「岡野さん」
「何」
「今」
「俺の方が」
「ちゃんとしてなかった?」
「ちょっと」
「やった」
「喜ぶとこですか」
⸻
前原は、その会話を奥から聞いていた。
鍵を。
自分で持てる。
門限がない。
前原。
少し。
昔。
思い出す。
⸻
十四歳。
青葉園。
「木島!」
夜。
玄関。
職員。
若い男。
「また抜けたな!」
少年。
前原。
「うるせぇ!」
「何時だと思ってる!」
「知らねぇ!」
「みんな心配したんだぞ!」
「頼んでねぇ!」
「そういう問題じゃない!」
「俺の勝手だろ!」
「十四歳に」
「全部勝手にさせられるか!」
「……」
「中入れ!」
「嫌だ!」
⸻
雨。
少年。
濡れている。
腹。
減っている。
でも。
中。
入りたくない。
「帰れ」
と言われる。
帰る場所。
ここ。
しか。
ない。
だから。
余計。
入りたくない。
⸻
「木島」
別の声。
女性。
年配。
厨房。
担当。
「何」
「ご飯」
「いらねぇ」
「そう」
「……」
「じゃあ」
「そこ置いとく」
「……」
おにぎり。
二つ。
玄関。
脇。
「食べたくなったら」
「食べな」
「……」
「説教しねぇの」
「私」
「職員じゃないから」
「……」
「厨房のおばちゃんだから」
⸻
少年。
前原。
十分後。
おにぎり。
一個。
食う。
もう一個。
食う。
年配女性。
何も。
言わない。
⸻
「ヨシさん?」
敦。
声。
現在。
前原。
顔。
上げる。
「何だ」
「ぼーっとしてた」
「してねぇ」
「してました」
「してねぇ!」
⸻
「青葉園」
須賀。
写真。
見る。
「前原さん」
「施設にいたんですか」
「そうだ」
「……」
「意外」
「何が」
「ずっと」
「こういう人だと」
「どういう人だ!」
「最初から」
「前原さん」
「意味分かんねぇよ!」
⸻
須賀。
少し。
写真。
見る。
「戻りたいですか」
「戻らん」
「……」
「じゃあ」
「行かない?」
「行かん」
「……」
「俺」
須賀。
「前の寮」
「戻らないって」
「決めました」
「ああ」
「でも」
「建物」
「なくなるって」
「言われたら」
「……」
前原。
須賀を見る。
「行くかも?」
「分かんない」
「だろ」
「……」
「俺も」
「分からん」
⸻
午後四時。
翔太。
仕事へ。
出る前。
写真。
発見。
「誰」
「ヨシさん」
「嘘」
「本当」
「……」
翔太。
前原。
見る。
写真。
見る。
「昔」
「子どもだったんですね」
「当たり前だろ!」
「想像したことなかった」
「俺を何だと思ってんだ!」
「ヨシさん」
「答えになってねぇ!」
⸻
翔太。
靴。
履く。
「今日」
「レジ」
「はい」
「怖い?」
「昨日より」
「ちょっとマシ」
「そうか」
「でも」
「怖い」
「そうか」
「……」
前原。
「行ってらっしゃい」
翔太。
少し。
止まる。
「行ってきます」
⸻
夕方。
隼人。
「ただいま」
「おかえり」
三日目。
今日は。
それだけ。
誰も。
「続いたな」
と。
言わない。
隼人も。
報告。
しない。
弁当箱。
台所。
「全部食べた」
和子。
「そう」
「明日も」
「同じくらい」
「分かった」
それだけ。
⸻
夜。
夕食後。
川本。
まだ。
いる。
前原。
封筒。
また。
見る。
「竜司」
「うん」
「青葉園」
「……」
「行ったら」
「何になる」
川本。
少し。
考える。
「知らない」
「……」
「行かなかったら?」
「それも」
「何にもならないかもしれない」
「……」
「役に立たねぇな」
「答え欲しいなら」
「別の人に聞きな」
「誰だよ」
「自分」
「一番役に立たねぇ」
川本。
笑う。
⸻
「正義」
「何だ」
「行くことが」
「前へ進むことだとは」
「思わないよ」
「……」
「行かないことが」
「逃げだとも」
「思わない」
「……」
「じゃあ」
「何で迷う」
「知らない」
「お前今日」
「そればっかだな」
「最近」
「周りから移った」
⸻
川本。
帰る。
夜。
十一時。
事務所。
静か。
前原。
一人。
茶封筒。
写真。
そして。
案内。
青葉園 閉園に伴う旧園舎開放日
日時。
来週。
土曜日。
午前十時から。
午後三時。
予約。
不要。
⸻
前原は。
紙を。
裏返す。
捨てる。
ことも。
できる。
行かない。
と。
決めることも。
できる。
「……」
でも。
もう一度。
表。
見る。
⸻
十一歳。
初めて。
青葉園。
連れてこられた日。
少年。
前原。
玄関。
立つ。
「入りたくねぇ」
誰か。
「今日から」
「ここが家だから」
「家じゃねぇ」
「……」
「俺の家じゃねぇ」
⸻
十五歳。
出ていく日。
「二度と」
「戻らねぇ」
少年。
言う。
本当に。
戻らなかった。
⸻
何十年。
経った。
今。
自分は。
人に。
「戻ってもいい」
と。
言っている。
「出てもいい」
と。
言っている。
「飯食え」
と。
言っている。
どこで。
覚えた。
⸻
前原。
写真。
見る。
端。
十四歳。
自分。
そして。
後ろ。
厨房。
窓。
小さく。
写る。
年配女性。
顔。
ぼやけている。
「……」
名前。
何だった。
⸻
翌朝。
午前六時。
和子。
台所。
朝食。
準備。
前原。
来る。
「和子」
「何」
「来週」
「土曜」
「俺」
「いねぇ」
「そう」
「……」
「何」
「聞かねぇのか」
「聞いてほしいの?」
「いや」
「じゃあ聞かない」
「……」
前原。
腹立たしそう。
「青葉園」
「行く」
和子。
味噌汁。
混ぜる。
「そう」
「……」
「それだけか」
「何て言ってほしいの」
「知らん」
「じゃあ」
和子。
味見。
「朝ご飯」
「食べてから行きな」
「……」
前原。
少し。
笑う。
「おう」
⸻
その朝。
前原正義は。
四十年以上。
帰らなかった場所へ。
行くことを。
決めた。
仲直りを。
するためではない。
過去を。
許すためでもない。
自分が。
変わったことを。
証明するためでもない。
ただ。
なくなる。
と。
聞いた。
それで。
少し。
気になった。
理由は。
それだけでも。
よかった。
⸻
後書き
第84話でした。
ここから前原自身の章へ入ります。
今回初めて出てきたのが、前原の旧姓「木島」と、十一歳から十五歳まで暮らした青葉園です。前原が後年なぜ「まず飯を食わせる」にこだわるようになったのか、その原点らしいものも少しだけ見えてきました。
ただし、青葉園を「実は素晴らしい施設だった」という話にはしません。前原は当時、本当に嫌だった。何度も逃げたし、「家じゃない」と思っていた。それも消しません。一方で、説教せずにおにぎりだけ置いてくれた厨房の女性もいた。
そして重要なのは、青葉園へ行くことを「成長」、行かないことを「逃げ」と評価しないことです。前原自身も、なぜ行くのかまだよく分かっていません。
ただ、四十年以上前に「二度と戻らない」と言った少年が、今は人に「戻ってもいい」と言う側にいる。
次回は、閉園前の青葉園へ。
前原、川本、そして意外な人物も同行することになります。そこで前原は、記憶の中とはずいぶん小さくなった建物と、ずっと忘れていた一人の名前に再会します。




