残すもの、変えるもの
第83話 残すもの、変えるもの
前書き
何か問題が起きた時、
全部なくしてしまえば分かりやすい。
逆に、
「良いところもあった」と言って、
何も変えなければもっと楽だ。
でも現実には、
同じ場所で救われた人と、
傷ついた人がいる。
なら必要なのは、
どちらかを嘘にすることではない。
残すものを決める。
変えるものを決める。
そして――
変えたあとも、本当に変わったのかを確かめ続ける。
それは、謝るよりずっと長い仕事なのかもしれない。
⸻
翌朝。
隼人の目覚ましは、昨日より十七分遅く鳴った。
正確には、十七分寝坊した。
「うわっ!」
隣室で何かが落ちる音がした。
敦が目を覚ます。
続いて廊下を走る音。
「靴下!」
隼人の声。
「知らねぇよ!」
前原。
「昨日ここに置いたんですよ!」
「俺が履くか!」
「片方しかない!」
翔太が襖を開け、眠そうな顔を出した。
「何色」
「黒」
「全部黒じゃん」
「そうなんだよ!」
高架下の事務所に、二日目の朝が始まった。
⸻
六時二十五分。
隼人は食卓でパンを口へ押し込みながら、片方だけ微妙に色の違う靴下を履いていた。
「それ」
翔太が指す。
「違うやつじゃない?」
「知ってる」
「右、紺」
「知ってる!」
「左、黒」
「靴履けば見えねぇ!」
和子が弁当を差し出す。
「はい」
「ありがとうございます」
「昨日より少し多いよ」
「何で」
「昨日、全部食べてきたから」
「……」
隼人は弁当箱を見る。
「そういうので増えるんですか」
「嫌なら戻すけど」
「いや」
隼人は鞄へ入れた。
「食べます」
前原がコーヒーを飲みながら言う。
「今日も行くのか」
「行きますよ」
「そうか」
「何ですか」
「別に」
「昨日より反応薄くない?」
「二日目だからな」
「……」
隼人。
「そういうもん?」
「毎朝拍手してほしいのか」
「嫌です」
「なら行け」
⸻
玄関で安全靴を履く。
昨日は、ここで数十秒止まった。
今日は。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
敦。
「おう」
前原。
「弁当忘れないで」
和子。
「持った」
隼人は出ていく。
ドアが閉まる。
翔太。
「昨日より速かった」
敦。
「ですね」
「明日は?」
「知りません」
「……」
前原が二人を見る。
「本人いねぇとこで成長観察すんな」
「すみません」
⸻
午前八時二十分。
倉庫。
「坂口君」
「はい」
主任の田辺が台車を指した。
「今日は昨日の続きと、午後から検品少しやるから」
「検品」
「数量と品番の確認」
「はい」
「分からなかったら」
「聞きます」
隼人が先に言った。
田辺が少し笑う。
「そうして」
昨日は、その言葉を聞くたびに驚いた。
今日は、自分から言えた。
それだけだった。
⸻
午前九時。
高架下。
須賀はまだ来ていない。
ますみは何も描いていない。
藍は昨日まで使っていた展示データを整理し、レンは意味不明なファイル名を直している。
「これ誰」
レン。
「何が」
「final_final_本当の最終2」
カナコ。
「私」
「最終って何だと思ってる?」
「その時は最終だった」
「その後変えたら?」
「次の最終」
「最終が増殖してる」
敦は笑いながら掃除機をかけていた。
文化展前までなら、今日も何かが始まっていなければ落ち着かなかったかもしれない。
今は、少し違う。
終わった翌日に何も起きない。
それも普通だった。
⸻
午前十時過ぎ。
前原のスマートフォンが鳴った。
「はい」
『前原さん。佐伯です』
「何だ」
『今日、少し時間いただけますか』
「何かあったか」
『あさがおの件です』
前原の顔が少しだけ変わる。
敦が掃除機を止めた。
『是正計画の骨格がまとまりました。桜井さんと川本さんにも共有します』
「俺も必要か」
『できれば』
「分かった」
『午後一時、市の会議室で』
「行く」
切れる。
「ヨシさん」
「何」
「組織?」
「ああ」
「俺も――」
敦。
止まる。
「……行った方がいいです?」
前原。
敦を見る。
「お前はどうしたい」
「聞きたいです」
「なら来い」
「はい」
⸻
午後一時。
市の小さな会議室。
佐伯。
桜井。
川本。
前原。
敦。
そして少し遅れて、高瀬と倉田。
大人数ではない。
記者もいない。
謝罪会見でもない。
長机に資料が並び、紙コップのお茶が置かれているだけだった。
「では」
佐伯が資料を開いた。
「現段階で確認できた事実と、今後の対応を整理します」
桜井が続ける。
「先に一つ」
全員が見る。
「今日ここで、施設全体が善だったか悪だったかを決めるつもりはありません」
倉田が静かに頷いた。
「はい」
「個々の行為と運用を見ます」
「……はい」
⸻
佐伯が最初の資料を示す。
「ユウさんの当時の記録について。本人から家庭内での暴力を示唆する発言がありました。それを施設内判断で『誇張の可能性』として扱い、外部機関への追加相談を行わなかった」
倉田。
「私の判断です」
「はい」
「そこは」
倉田は一度息を吐いた。
「今も、誤りだったと考えています」
佐伯はその言葉を記録する。
責めるために繰り返さない。
許すためにも繰り返さない。
「今後、児童から虐待・暴力・帰宅拒否等の訴えがあった場合、施設単独で『誇張』『情緒不安定』と結論づけず、外部の専門機関へ相談する」
「はい」
「本人の発言は、評価と分けて記録する」
「はい」
⸻
桜井が資料をめくる。
「次に、本人の希望」
そこには、
会いたい。
会いたくない。
帰りたい。
帰りたくない。
辞めたい。
戻りたい。
そうした言葉を記録する欄の案があった。
「これ」
前原が指す。
「記録して終わりじゃねぇだろうな」
佐伯。
「もちろんです」
「本人の希望どおりに必ずする、という意味でもありません。特に子どもの安全に関わる場合は、大人側が異なる判断をすることもあります」
「じゃあ」
敦。
「嫌だって言っても」
「ダメな時はある?」
「あります」
佐伯は即答した。
「例えば、危険な家庭へ今すぐ一人で戻りたいと子どもが言った場合、そのまま帰すことが本人尊重とは限りません」
「……」
「ただし」
佐伯は続ける。
「なぜ認められないのかを説明する。本人が嫌だと言った事実を消さない。そして状況が変われば判断を見直す」
敦。
ゆっくり頷く。
「北村さんが」
「前に言ってたのと同じですね」
「そうですね」
⸻
倉田が資料を見ながら言った。
「一つ、確認したい」
「どうぞ」
「本人の希望を記録することで、職員が判断を恐れるようになりませんか」
高瀬が倉田を見る。
「例えば、危険だと思って止めた。しかし本人は嫌だと言った。それが後から『本人の意思を無視した』と評価されるなら――」
「あり得ます」
佐伯。
倉田。
少し驚く。
「あり得る?」
「判断は、後から検証されることがあります」
「……」
「でも、それは職員を罰するためだけではありません」
佐伯は資料の余白へ指を置いた。
「本人だけでなく、支援する側も、止められる仕組みにするためです」
「……」
「誰も止められない善意は、危険です」
会議室が少し静かになった。
⸻
前原が腕を組む。
「だからって」
全員が見る。
「毎回ビビって」
「何もしなくなったら」
「意味ねぇぞ」
「はい」
佐伯。
「そこも課題です」
「飯食わせるのに」
「会議はいらねぇ」
「緊急時の安全確保にも」
「毎回事前承認は求めません」
「ならいい」
桜井が前原を見る。
「あなたは極端なんですよ」
「うるせぇ」
「でも」
川本が笑う。
「正義の言ってることも大事だよ」
前原。
「正義って呼ぶな」
「名前だろ」
⸻
高瀬が資料を見ていた。
「再相談窓口」
「はい」
佐伯。
「これ」
「退所した人も?」
「もちろんです」
「途中で支援を断った人も?」
「はい」
「職員と喧嘩して出た人も?」
「原則、相談自体を拒む理由にはしません」
「……」
高瀬。
「それ」
「入口に」
「書いてもいいですか」
倉田が顔を上げる。
「入口?」
「はい」
「ホームページだけじゃなくて」
「施設の」
「見えるところ」
高瀬は少し考えながら言う。
「辞めても」
「また相談できるって」
「最初から」
「見えるように」
佐伯。
「いいと思います」
⸻
「ただ」
桜井。
「文言は気をつけてください」
「文言?」
「『いつでも戻ってきてください』だけでは、施設への復帰を促す意味にも読めます」
「……」
「再相談は、同じ施設へ戻ることだけではありません」
敦。
昨日の。
須賀。
思い出す。
「別の場所を」
「探す相談でもいい?」
「はい」
桜井。
「むしろ重要です」
「……」
高瀬。
メモ。
戻る=同じ場所に戻す、ではない。
⸻
倉田が、その文字を見る。
「以前の私なら」
小さく言った。
「戻ってきた人を」
『今度こそ続けよう』
「と励ましたと思います」
「……」
「今は?」
川本。
倉田。
少し。
考える。
「まず」
「何で戻ってきたか」
「聞く」
「……」
「いや」
止まる。
「違うな」
前原。
「飯だろ」
「……」
高瀬。
思わず。
笑う。
倉田も少し笑った。
「そうですね」
「まず食事かもしれない」
「やっと分かってきたじゃねぇか」
「あなたに言われると腹が立ちますね」
「何だと」
川本。
「はいはい」
⸻
敦は、そのやり取りを見ていた。
少し前まで。
倉田は。
敵に見えていた。
高瀬も。
施設も。
でも。
今は。
何と呼べばいいのか分からない。
間違えた人。
助けた人。
傷つけた人。
助けられた人。
変えようとしている人。
全部。
同じ人の中にあることもある。
⸻
桜井が次の資料を出した。
「長谷川拓海さんの証言について」
高瀬の表情が少し硬くなる。
「二年ほど前、森川さんと二人の子どもを駅で見た。施設職員と思われる人物へ伝えた。その後、最近になって施設側から連絡があり、『余計なことは言わなくていい』という趣旨の発言をされた」
倉田。
「はい」
「現段階で」
桜井。
「これを組織的な証言妨害と認定する材料はありません」
敦。
少し息を吐く。
「ただし」
「外部調査や相談について、元利用者・職員・関係者の発言を抑制するような連絡は行わない。必要な連絡をする場合も、事実確認と個人情報保護の範囲に限定する」
「分かりました」
倉田。
「担当者については?」
「内部でも確認します」
「お願いします」
⸻
「拓海は」
高瀬。
「施設に」
「助けられたって」
「言ってました」
「はい」
桜井。
「それも記録されています」
「……」
「消えませんか」
「何が」
「今回のことで」
「……」
「施設に」
「助けられた人の話」
桜井。
少し。
高瀬を見る。
「消す理由がありますか」
「……」
「ありません」
「では消しません」
高瀬。
黙る。
「逆も同じです」
桜井。
「施設に助けられた人が百人いても、ユウさんへの対応が適切だったことにはなりません」
「……はい」
「ユウさんへの対応が不適切だったからといって、長谷川さんが助かったという事実が嘘になるわけでもない」
「はい」
「別々に記録します」
⸻
前原が椅子へ深く座る。
「それでいいんじゃねぇの」
高瀬。
前原を見る。
「……前原さん」
「何だ」
「俺」
「前」
「それが」
「できなかったです」
「知るか」
「……」
「今できんなら」
「今やれ」
「……はい」
⸻
午後二時四十五分。
会議。
終わり。
廊下。
敦。
佐伯へ。
「これで」
「終わりですか」
佐伯。
「何が」
「施設のこと」
「終わりません」
「……」
「改善計画を出したら」
「終わりじゃない?」
「実施されるか確認します」
「……」
「定期的に」
「はい」
「記録が変わったか」
「相談経路が実際に使えるか」
「職員が理解しているか」
「……」
「時間がかかります」
敦。
「そうですよね」
「派手じゃないですけど」
「行政って」
「だいたいそうです」
佐伯。
少し。
苦笑。
⸻
廊下の向こう。
高瀬。
倉田。
二人。
歩く。
「高瀬君」
「はい」
「美月さんとは」
「……」
高瀬。
止まる。
「会いました」
「そうか」
「謝りました」
「……」
「許してもらった?」
「分かりません」
倉田。
高瀬を見る。
「聞かなかった?」
「はい」
「……」
「そうか」
少し。
間。
「ユウ君は」
「会いません」
「そうか」
「……」
「それで」
「いいと思ってます」
倉田。
「……うん」
それ以上。
何も。
言わなかった。
⸻
午後三時半。
倉庫。
隼人。
検品。
「A-381」
「十二」
「はい」
「次」
「A-318」
「……」
隼人。
止まる。
「似てる」
中西。
「だろ」
「これ」
「昨日なら」
「間違えてた」
「今日も間違えるかもよ」
「縁起悪い」
「間違えたら直せ」
「……」
「はい」
隼人。
笑う。
⸻
午後五時十分。
二日目。
終了。
「坂口君」
田辺。
「お疲れ」
「お疲れ様でした」
「明日」
「検品続き」
「はい」
「足」
「大丈夫?」
「痛いです」
「靴擦れ?」
「少し」
「絆創膏貼っときな」
「はい」
隼人。
外。
出る。
昨日より。
ほんの少し。
建物が。
小さく見えた。
⸻
午後六時。
事務所。
「ただいま」
「おかえり」
今日は。
須賀が。
先にいた。
「……」
隼人。
「誰」
須賀。
「須賀です」
「隼人」
「……」
「何でいるの」
須賀。
「飯」
「……」
隼人。
前原を見る。
「馴染んでない?」
「昨日からだ」
「早くない?」
須賀。
「俺も」
「そう思います」
⸻
敦たち。
会議から。
帰る。
「ただいま」
「おかえり」
今度は。
須賀。
自然に。
言った。
敦。
少し。
止まる。
「……ただいま」
「何ですか」
「いや」
「何でもないです」
⸻
夕食。
今日。
豚汁。
焼き魚。
ご飯。
「で」
前原。
須賀。
「住むとこ」
「明日」
「一件」
「見せてもらえるって」
「そうか」
「短期ですけど」
「そうか」
「仕事」
「その後」
「そうか」
「……」
須賀。
「前原さん」
「何だ」
「もう少し」
「興味持ってください」
「持ってるから」
「聞いてんだろ」
「全部」
『そうか』
「じゃないですか」
「じゃあ何て言えばいい」
「……」
須賀。
「分かんない」
「だろ」
⸻
翔太。
仕事。
今日は。
休み。
「隼人」
「何」
「二日目」
「逃げた?」
「逃げてない」
「明日?」
「行く」
「すげえ」
「お前」
「それしか言わないの?」
「じゃあ」
「偉い」
「やめろ」
「何で」
「気持ち悪い」
「ひど」
⸻
和子。
隼人の。
足。
見る。
「靴擦れ」
「うん」
「絆創膏」
「あります」
「貼った?」
「まだ」
「何で」
「後で」
「今貼りなさい」
「……」
「はい」
隼人。
座る。
和子。
救急箱。
渡す。
自分で。
貼る。
和子は。
貼ってやらない。
⸻
ますみ。
食卓。
端。
昨日の。
スケッチ。
見せる。
「これ」
隼人。
「何」
「笑花」
「人」
「助けた」
「……」
隼人。
見る。
ベンチ。
パン。
二人。
「助けてる?」
「え」
「パン」
「置いただけじゃん」
「それでいいの!」
「じゃあ」
「いいんじゃない」
「感想薄!」
「疲れてんだよ」
⸻
須賀。
横から。
絵。
見る。
「この子」
「文化展の?」
「うん」
「……」
「何」
ますみ。
「いや」
「俺」
「あの展示見て」
「ここ来たから」
「うん」
「この子が」
「誰かに」
「パン渡してるの」
「変な感じ」
「何で」
「最初」
「ずっと」
「助けてもらってたから」
「……」
「でも」
須賀。
少し。
笑う。
「こうなるんですね」
「何が」
「知らない」
「……」
「ただ」
「いいと思います」
ますみ。
「それ」
「今日一番嬉しい」
「隼人より?」
「隼人は感想薄い」
「疲れてんだって!」
⸻
夜。
食事。
終わる。
敦。
皿。
洗う。
前原。
横。
布巾。
なぜか。
手伝う。
「ヨシさん」
「何だ」
「今日の会議」
「どう思いました」
「長ぇ」
「そこじゃなくて」
「……」
前原。
皿。
拭く。
「残るなら」
「変わり続けりゃいいんじゃねぇか」
「施設?」
「ああ」
「……」
「一回」
「ルール作って」
『改善しました』
「で終わったら」
「また同じだ」
「……」
「人」
「変わるからな」
「利用する奴も」
「働く奴も」
「……」
「じゃあ」
「完成しない?」
「場所なんか」
「完成するのか?」
敦。
手。
止まる。
⸻
前原。
事務所。
見る。
ますみ。
絵。
須賀。
それ。
見ている。
隼人。
足。
絆創膏。
翔太。
冷蔵庫。
開ける。
グエン。
「プリン!」
声。
「俺じゃないです!」
「ショウタ!」
「違う!」
騒ぐ。
「……」
前原。
「ここだって」
「最初から」
「こうじゃなかっただろ」
敦。
「……」
「はい」
「お前」
「最初」
「もっと」
「暗かったし」
「それは言わなくていいです」
「ますみ」
「人の話」
「聞かなかったし」
「聞いてる!」
「翔太」
「何も言わなかったし」
「……」
「グエン」
「プリン盗むし」
「イマモ!」
「変わってねぇじゃねぇか!」
⸻
笑い。
起きる。
敦。
少し。
笑う。
「完成しない方が」
「いいのかもしれないですね」
「知らん」
「……」
「またそれ」
「分からねぇもんは」
「分からねぇ」
「はい」
⸻
その頃。
施設。
玄関。
高瀬。
一枚の。
仮の紙。
貼る。
正式な掲示は。
まだ。
後日。
でも。
今日。
試しに。
書いた。
ここを離れたあとでも、相談できます。
同じ場所へ戻ることだけが、相談ではありません。
「戻りたくない」「別の方法を探したい」と言っても構いません。
高瀬。
少し。
離れて。
見る。
「……」
倉田。
後ろ。
「長いね」
「……」
「はい」
「もっと」
「短くする?」
「でも」
「削ると」
「意味」
「変わりそうで」
「そうだね」
二人。
紙。
見る。
⸻
倉田。
「高瀬君」
「はい」
「最後に」
「一つ」
「足したい」
「何を」
倉田。
ペン。
取る。
一番。
下。
分からない時も、相談してください。
「……」
高瀬。
見る。
「それ」
「いいですね」
「うん」
「前なら」
「書かなかったですか」
「前なら」
倉田。
少し。
笑う。
「相談する前に」
『自分で考えましょう』
「と書いたかもしれない」
「……」
「今は?」
「分からないから」
「一緒に考えるんだろう」
高瀬。
静かに。
頷く。
⸻
紙。
一枚。
それで。
過去が。
変わるわけではない。
ユウが。
受けたことも。
森川が。
背負ったことも。
なくならない。
拓海が。
助けられたことも。
なくならない。
高瀬が。
救われたことも。
なくならない。
倉田の。
判断も。
消えない。
だから。
紙を。
貼っただけで。
終わりには。
できない。
明日。
誰かが。
「戻りたくない」
と言った時。
本当に。
聞けるか。
誰かが。
「辞めたい」
と言った時。
裏切りだと。
思わずに。
いられるか。
誰かが。
「分からない」
と言った時。
「考えが足りない」
ではなく。
「じゃあ、一緒に考えよう」
と言えるか。
それを。
何度も。
確かめる。
場所は。
一度。
正しくなって。
完成するものではない。
人が。
出入りするたび。
少しずつ。
変わる。
変えられる。
そして。
間違えたら。
また。
直す。
倉庫の。
ラベルのように。
簡単では。
ないけれど。
少なくとも。
「一度間違えたから全部駄目」
でも。
「一度助けたから全部正しい」
でも。
なかった。
⸻
後書き
第83話でした。
今回は、長く続いた「あさがお」側の問題を、かなり着地点へ近づけています。
結論は施設を潰すことでも、逆に「良いところもあったから問題なし」にすることでもありません。
食事、宿泊、債務相談、同行支援など、実際に人を助けたものは残す。一方で、本人の拒否や退所を「未熟」「反省不足」と解釈してしまう仕組みは変える。そして重要なのは、改善計画を作っただけで終わらず、その後も外から確認できる状態にすることです。
隼人の二日目も同じです。昨日三回間違えたから駄目なのではなく、今日また行って、間違えたら直す。
須賀も同じ場所へ戻らない選択をしたから成功、というわけではありません。別の住居を探しながら、事務所には飯を食いに戻ってくる。もうすでに「帰る」は一種類ではなくなっています。
そして最後に高瀬と倉田が掲示へ加えた、
「分からない時も、相談してください。」
これは、この章を通して積み上げてきた「分からない」を、そのまま支援の入口にする言葉です。
ここで組織編は主軸から少しずつ退きます。次からは、事務所の日常へ戻りながら、前原自身の過去――これまで彼が「助ける側」になる以前に、誰から何を受け取り、何を間違えてきたのか――が少しずつ現在へ追いついてきます。




