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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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82/105

最初の日は、最初の日

第82話 最初の日は、最初の日


前書き


新しい仕事の初日。


人生が変わる日。


――なんて言うと、少し大げさだ。


実際には、


靴を履く。


電車に乗る。


知らない建物へ入る。


名前を覚えられない。


やり方を間違える。


昼休みが妙に長い。


そして、帰ってくる。


たったそれだけの日かもしれない。


でも。


一度「普通」から落ちたと思った人にとって、


その普通の一日は、


意外なほど怖い。


文化展が終わった翌日。


今度は隼人の番だった。


⸻


 午前五時四十八分。


 高架下の事務所で、目覚まし時計が鳴った。


 止まらない。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


「……うるせぇ!」


 隣室から前原の声が飛んだ。


「起きてます!」


 隼人が布団の中から叫ぶ。


「起きてる奴は止めろ!」


「今止めます!」


 ようやく電子音が止まった。


 そして、静かになる。


 一分後。


「……」


 二分後。


「……」


 三分後。


 廊下。


 足音。


 襖が開いた。


「寝てんじゃねぇか!」


「起きてます!」


「目閉じてんだろ!」


「考えてました!」


「何を!」


「起きるかどうか!」


「起きろ!」


⸻


 六時十分。


 隼人は食卓に座っていた。


 黒いパーカーではない。今日は紺色の作業着に近い上着と、昨日買ったばかりの安全靴。髪もいつもより少し整えている。


 倉庫勤務、初日。


 和子が味噌汁を置いた。


「食べられる?」


「食べます」


「気持ち悪くない?」


「ちょっと」


「じゃあ半分でいい」


「全部食べます」


「何で意地張るの」


「初日なんで」


「初日と味噌汁は関係ないでしょ」


 隼人は黙って味噌汁を飲んだ。


 向かいでは翔太が眠そうな顔でパンをかじっている。今日はコンビニが午後からなので、本来ならまだ寝ていてもいい時間だ。


「翔太」


「何ですか」


「何で起きてんの」


「知らない」


「寝れば」


「隼人がうるさかったから」


「俺?」


「目覚まし」


「ああ……」


「あとヨシさん」


「俺のせいか!」


 奥から声が飛んだ。


⸻


 敦も起きてきた。


「おはようございます」


「おはよう」


「隼人」


「はい」


「今日ですね」


「……はい」


「駅まで――」


 敦。


 止まる。


 隼人を見る。


「どうします?」


 以前なら、「駅まで行きましょうか」と先に言っていたかもしれない。


 隼人は少し考えた。


「今日は」


「一人で行きます」


「分かりました」


 それだけ。


 隼人が少し笑う。


「何ですか」


「いや」


「岡野さん」


「何」


「聞くようになったなって」


「……」


「前」


「勝手についてきそうだった」


「そこまでじゃない!」


「面接の時」


「入口まで来たじゃないですか」


「あれは隼人が途中で入口までって言ったんでしょ!」


「そうでした」


「忘れないで!」


⸻


 六時四十二分。


 隼人。


 玄関。


 安全靴。


 履く。


 立つ。


「……」


 動かない。


 翔太。


「どうした」


「別に」


「行かない?」


「行く」


「じゃあ行けば」


「分かってる」


「……」


 隼人はドアノブへ手を伸ばした。


 その手が、少し止まる。


「隼人」


 前原。


「何」


「今日」


「一日で」


「人生決めんなよ」


 隼人。


 振り返る。


「……」


「どういう意味」


「良かったから一生続けるとか」


「嫌だったから全部終わりとか」


「今日だけで決めんな」


「……」


「初日は」


「初日だ」


 隼人は数秒、前原を見る。


「それ」


「まともですね」


「お前ら最近そればっかだな!」


 翔太が笑う。


「行ってきます」


「おう」


「行ってらっしゃい」


「気をつけて」


 隼人。


 外へ。


⸻


 午前七時五十一分。


 物流倉庫。


 隼人は受付前にいた。


 面接の日にも来た場所。


 なのに今日は、建物が大きく見える。


 トラック。


 フォークリフト。


 作業着の人たち。


 自動ドア。


「……」


 帰ろうと思えば。


 帰れる。


 駅。


 十分。


 事務所。


 電車。


 二駅。


 そして。


 戻っても。


 多分。


「だから言っただろ」


 とは言われない。


 それを知っているせいで。


 逆に。


 もう少し。


 行ける気がした。


「……よし」


 隼人。


 入る。


⸻


「今日からの坂口君?」


 四十代くらいの男性。


「はい」


「主任の田辺」


「よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


「倉庫経験」


「ないんだよね」


「はい」


「じゃあ最初から」


「はい」


「分からなかったら聞いて」


「……」


 また。


 その言葉。


 隼人は少しだけ顔を上げた。


「はい」


「あと」


 田辺。


「最初から速くやろうとしなくていいから」


「はい」


「速くやって間違える方が面倒」


「……はい」


「じゃあ着替えて」


⸻


 午前八時半。


 最初の仕事。


 段ボール。


 番号。


 棚。


 台車。


「A12」


「はい」


「A21じゃないよ」


「……」


 隼人。


 止まる。


「すみません」


「似てるからね」


「こっち」


「はい」


 怒鳴られない。


 それだけで。


 妙に。


 戸惑う。


⸻


 九時十五分。


 二回目。


「坂口君」


「はい」


「それ」


「逆」


「……すみません」


「こっち向き」


「はい」


 終わり。


 九時四十分。


 三回目。


「坂口君」


「はい」


「ラベル」


「一枚足りない」


「……」


 心臓。


 跳ねる。


「すみません!」


「予備あるから」


「貼っといて」


「はい」


「次から数確認してね」


「はい」


 それだけ。


⸻


 隼人は、少し不思議になった。


 失敗する。


 注意される。


 直す。


 次。


 失敗する。


 注意される。


 直す。


 次。


 そこに。


「お前はだから駄目なんだ」


 が。


 ない。


 過去。


 父親。


 家。


 何か一つ。


 間違える。


 そこから。


 全部へ。


 広がった。


「お前は」


「昔から」


「何をやっても」


 でも。


 ここでは。


 ラベルが一枚足りないなら。


 ラベルが一枚足りない。


 それだけだった。


⸻


 午前十時。


 高架下。


 事務所。


「静か」


 ますみ。


 文化展。


 終わった。


 壁。


 白い。


 箱。


 隅。


 笑花。


 入っている。


「昨日まで」


「ずっと」


「文化展だったから」


 藍。


「何その言い方」


「分かんない」


 ますみは机へスケッチブックを置いた。


 昨日の夜に描いた新しい場面。


 ベンチ。


 知らない女の子。


 パン。


 笑花。


 少し離れて座っている。


「今日」


「続きを描く?」


 藍。


「……」


 ますみ。


 鉛筆。


 持つ。


 止める。


「描かない」


「珍しい」


「今日」


「休む」


「いいんじゃない」


「……」


「文化展終わったら」


「すぐ何かしないと」


「消える気がしてた」


「何が」


「笑花」


「消える?」


「でも」


 ますみ。


 箱を見る。


「昨日」


「終わっても」


「いた」


「うん」


「だから」


「今日」


「描かなくても」


「いる」


 藍。


 少し笑う。


「それ」


「かなり進歩じゃない?」


「何が」


「知らない」


「じゃあ言わないで」


⸻


 午前十時半。


 敦。


 電話。


「はい」


『岡野さん』


「須賀さん?」


『はい』


「どうしました」


『……』


 少し。


 間。


『今日』


『相談員の人と』


『前の寮について』


『話すことになって』


「はい」


『戻るかどうか』


『まだ』


『決めてないんですけど』


「はい」


『……』


「何です?」


『そっち』


『行っていいですか』


 敦。


 一瞬。


 前原を見る。


 でも。


 すぐ。


 やめる。


「はい」


「俺はいます」


『……』


「ただ」


「何時くらい?」


『昼前』


「分かりました」


『いいんですか』


「来たいんですよね」


『はい』


「じゃあ」


「来てください」


⸻


 電話。


 切れる。


 前原。


「誰」


「須賀さん」


「来るって」


「そうか」


「……」


 敦。


「ヨシさん」


「何だ」


「今」


「聞かなかったです」


「何を」


「来ていいか」


「ヨシさんに」


「……」


 前原。


「で?」


「いや」


「前なら」


「聞いてたなって」


「そうか」


「……」


「いいですよね?」


「聞いてんじゃねぇか!」


「癖で!」


⸻


 午前十一時二十分。


 須賀。


 来る。


 昨日と。


 同じリュック。


「こんにちは」


「おう」


 敦。


「座ります?」


「……はい」


 須賀。


 ソファ。


 端。


 座る。


 前原。


 新聞。


 川本。


 コーヒー。


 和子。


 台所。


「お昼」


「食べる?」


 須賀。


「……」


 敦。


 笑う。


「何ですか」


「いや」


「やっぱり」


「そこからなんだなって」


 和子。


「何が」


「何でもないです」


⸻


「食べます」


 須賀。


「じゃあ」


「待ってて」


 須賀。


 少し。


 肩。


 下がる。


 敦。


 向かい。


 座る。


「相談」


「今日?」


「はい」


「午後」


「前の寮の人も」


「電話で」


「話すかもしれないって」


「……」


「戻りたい?」


 須賀。


 すぐ。


 答えない。


「分かんないです」


「そうですか」


「……」


「怖いんです」


「戻るのが?」


「戻るのも」


「戻らないのも」


「……」


「戻ったら」


「また」


「同じになる気がする」


「……」


「でも」


「戻らなかったら」


「仕事も」


「住むとこも」


「一から」


「……」


「はい」


⸻


「岡野さんなら」


 須賀。


「どうします?」


 敦。


 止まる。


「俺?」


「はい」


「……」


 以前。


 自分なら。


 逃げろ。


 と言う。


 自分は。


 逃げて。


 助かった。


 でも。


 高瀬は。


 逃げず。


 施設に残り。


 助かった。


 隼人は。


 家を出た。


 翔太も。


 でも。


 拓海は。


 施設に。


 戻ったことがある。


 助かったやり方と。


 誰にでも正しいやり方は。


 同じではない。


「俺は」


 敦。


「前」


「逃げました」


「……」


「それで」


「助かりました」


「じゃあ」


「でも」


 敦。


「須賀さんが」


「逃げた方がいいかは」


「分かりません」


「……」


「ずるい」


「すみません」


「いや」


 須賀。


 少し。


 笑う。


「最近」


「それ聞き慣れました」


⸻


「ただ」


 敦。


「戻るなら」


「戻っても」


「また出られるか」


「聞いた方が」


「いいかもしれない」


 須賀。


「……」


「出られる?」


「戻ったら」


『今度こそ最後までやれ』


「になるのか」


「……」


「嫌だったら」


「また相談していいのか」


「……」


「それ」


「聞いてみたら」


「いいんじゃないですか」


 須賀。


 少し。


 考える。


「戻るかどうかより?」


「それも」


「大事だと思います」


「……」


 川本。


 新聞。


 向こう。


 少しだけ。


 敦を見る。


 何も。


 言わない。


⸻


 正午。


 倉庫。


 昼休み。


 隼人。


 一人。


 弁当。


 開く。


 和子。


 作。


 卵焼き。


 唐揚げ。


 野菜。


「うまそうだな」


 隣。


 三十代くらい。


 作業員。


 座る。


「自分で?」


「違います」


「彼女?」


「もっと違います」


「母ちゃん?」


 隼人。


 少し。


 止まる。


「……」


「今いるところの」


「人です」


「へえ」


 作業員。


 それ以上。


 聞かない。


「俺」


 コンビニ」


「昨日も」


「今日も」


「同じ」


 おにぎり。


 二個。


「交換する?」


「何を」


「唐揚げ」


「嫌です」


「即答かよ」


 隼人。


 少し。


 笑う。


⸻


「新人?」


「はい」


「俺」


「中西」


「坂口です」


「ここ」


「きつい?」


「まだ」


「分かんないです」


「初日だもんな」


「はい」


「俺も」


「最初」


「三日で辞めると思った」


「何年?」


「六年」


「……」


「分かんないもんだろ」


「はい」


「でも」


 中西。


 おにぎり。


「六年続いたから」


「良い会社とも」


「限らんけどな」


「……」


「何で」


「嫌なとこ」


「普通にあるし」


「じゃあ」


「何でいるんですか」


「家から近い」


「……」


「それだけ?」


「それ大事だぞ」


 隼人。


 思わず。


 笑う。


「何か」


「もっと」


「立派な理由かと」


「仕事に」


「そんなもん」


「毎日いらんだろ」


⸻


 午後一時。


 高瀬。


 施設。


 会議室。


 倉田。


 佐伯。


 外部支援機関。


 市側担当。


 是正計画。


 机。


 資料。


 以前なら。


 この会議は。


「誰が悪かったか」


 を。


 決める場所に。


 見えただろう。


 今日は。


 違う。


「まず」


 佐伯。


「現時点で」


「施設の即時閉鎖を」


「求めるものではありません」


 倉田。


 頷く。


「はい」


「現在利用中の方への」


「支援継続も」


「必要です」


「はい」


「一方」


「児童ケースについて」


「施設内部のみで」


「最終判断を完結させる運用は」


「改めていただく」


「……はい」


⸻


 高瀬。


 資料。


 見る。


 一。


 児童からの暴力・虐待等の訴えは、外部専門機関へ相談。


 二。


 本人が「会いたい」「会いたくない」「戻りたい」「戻りたくない」と表明した場合、その希望を記録。


 三。


 施設退所者への再相談窓口を明示。


 四。


 退所・拒否・中断を、それ自体で「支援失敗」「本人の未熟」と評価しない。


 五。


 施設への異議・苦情を、反省不足や依存傾向の証拠として扱わない。


 倉田。


 四。


 見る。


「……」


「ここ」


「はい」


 佐伯。


「少し」


「気になります」


「どうぞ」


「退所した人が」


「明らかに危険な状況へ」


「戻ろうとする場合も」


「評価しない?」


 佐伯。


「止めるな」


「という意味ではありません」


「……」


「危険性は」


「危険性として」


「評価する」


「ただ」


「退所を希望したという事実だけで」


『この人は判断能力がない』


「とはしない」


 倉田。


 ゆっくり。


 頷く。


「……」


「そこは」


「必要だと思います」


⸻


 外部支援員。


「残すものも」


「確認したいです」


 倉田。


「残す?」


「はい」


「今回」


「問題が確認されたからといって」


「現在の支援を」


「全否定して」


「一から作り直せばいい」


「とも思っていません」


「……」


 倉田。


 顔。


 上げる。


「食事支援」


「緊急宿泊」


「債務相談」


「就労への同行」


「生活リズムの支援」


「これらで」


「助かった方もいる」


「……はい」


「長谷川さんの」


「証言も」


「記録されています」


 倉田。


 少し。


 目。


 伏せる。


⸻


「残すもの」


 高瀬。


 初めて。


 口。


 開く。


「俺」


「飯だと思います」


 会議室。


 少し。


 静か。


 佐伯。


「食事支援?」


「はい」


「……」


「俺が」


「あそこに来た時」


「最初」


「何も」


「考えられなかった」


「……」


「でも」


「飯」


「出してもらって」


「風呂入って」


「寝た」


「……」


「それで」


「次の日」


「話せた」


 倉田。


 高瀬を見る。


「そこは」


「残したいです」


「……」


「それから」


「一緒に」


「役所とか」


「会社とか」


「行くこと」


「……」


「でも」


「行く先を」


「俺たちが」


「決めない」


⸻


 佐伯。


「長谷川さんは」


「施設に」


「救われたと」


「今も話しています」


「はい」


「同時に」


『余計なことを言わなくていい』


「と言われたことに」


「違和感があったとも」


「話しています」


 倉田。


 目。


 閉じる。


 短く。


「……はい」


「現時点では」


「発言の意図を」


「断定しません」


「ただし」


「元利用者や関係者が」


「外部へ話すことを」


「妨げると受け取られ得る連絡は」


「今後」


「避ける必要があります」


「……」


「分かりました」


⸻


 高瀬。


 倉田。


 見る。


 怒るか。


 反論するか。


 以前なら。


 そう。


 思った。


 でも。


 倉田。


 資料。


 余白。


 ペン。


 書く。


退所者への連絡文面――「施設を守る」目的で書かない。


「……」


 高瀬。


「倉田さん」


「何」


「それ」


「……」


 倉田。


 自分のメモ。


 見る。


「忘れそうだから」


「……」


「はい」


⸻


 午後二時半。


 事務所。


 須賀。


 相談へ。


 向かう。


「じゃあ」


 敦。


「行ってらっしゃい」


「……」


 須賀。


 玄関。


「今日は」


「来ないんですか」


「必要?」


「……」


「今日は」


「大丈夫です」


「分かりました」


「でも」


 須賀。


「帰ってきても」


「いいですか」


 敦。


 少し。


 止まる。


「はい」


「ここに?」


「はい」


「……」


「相談終わって」


「話したかったら」


「来てください」


「話したくなかったら?」


「来て」


「飯だけ食っても」


「いいんじゃないですか」


 奥。


 前原。


「勝手に飯約束すんな」


「ヨシさん!」


 和子。


「別に一人増えるくらいいいでしょ」


「……」


 前原。


「だそうだ」


 須賀。


 笑う。


「行ってきます」


 敦。


「行ってらっしゃい」


⸻


 午後三時。


 倉庫。


 隼人。


 足。


 痛い。


 安全靴。


 重い。


 腰。


 少し。


 張る。


 時計。


 三時。


「……まだ」


 終業。


 五時。


 あと。


 二時間。


 午前中より。


 長く感じる。


 台車。


 押す。


「坂口君」


「はい」


 田辺。


「疲れた?」


「……」


 隼人。


 反射。


「大丈夫です」


 言う。


 でも。


 少し。


 止まる。


「いや」


「疲れました」


 田辺。


「初日だしな」


「はい」


「五分」


「水飲んで」


「いいんですか」


「倒れられる方が困る」


「……」


「はい」


⸻


 休憩所。


 水。


 飲む。


 隼人。


 壁。


 もたれる。


「疲れた」


 自分で。


 言う。


 何も。


 壊れない。


 仕事。


 なくならない。


 怒鳴られない。


 弱い。


 とも。


 言われない。


「……」


 それだけで。


 少し。


 楽。


⸻


 午後五時七分。


 終業。


「坂口君」


「はい」


「明日も」


「同じ時間」


「はい」


「分からないこと」


「今日より」


「増えるかも」


「え」


「仕事」


「増やすから」


「……」


 田辺。


 笑う。


「一気にはやらせないよ」


「はい」


「お疲れ」


「お疲れ様でした」


 隼人。


 外。


 出る。


 空。


 まだ。


 明るい。


「……」


 終わった。


 初日。


 それだけ。


 採用。


 人生。


 再出発。


 そんな。


 大きな言葉。


 何も。


 浮かばない。


「足いてぇ」


 それだけ。


⸻


 駅。


 ホーム。


 スマートフォン。


 出す。


 誰に。


 連絡。


 する。


 翔太。


終わった


 すぐ。


 既読。


逃げた?


逃げてない


すげえ


普通だろ


俺はレジで袋つけた


知らん


大事件


 隼人。


 笑う。


⸻


 午後六時。


 事務所。


 ドア。


 開く。


「ただいま」


「おかえり」


 敦。


 最初。


 返す。


「どうでした」


「疲れた」


「嫌だった?」


「……」


 隼人。


 靴。


 脱ぐ。


「分かんない」


「明日?」


「行く」


「……」


「じゃあ」


 敦。


「今日は」


「それでいいですね」


「うん」


⸻


 前原。


「辞めなかったか」


「初日から辞めさせたいんですか」


「別に」


「三回」


「間違えた」


「そうか」


「注意された」


「そうか」


「怒鳴られなかった」


「……」


 前原。


 少し。


 隼人を見る。


「そうか」


「……」


「それだけ?」


「何て言ってほしい」


「知らない」


「じゃあ飯食え」


「やっぱりそれ!」


⸻


 食卓。


 隼人。


 箸。


 持つ。


 和子。


「どう」


「何が」


「仕事」


「普通」


「良かった?」


「分かんない」


「嫌だった?」


「分かんない」


「明日行く?」


「行く」


「じゃあ」


「明日の弁当」


「いる?」


 隼人。


「……」


「いる」


「分かった」


 和子。


 それ以上。


 聞かない。


⸻


 午後六時四十分。


 ドア。


 また。


 開く。


「……ただいま」


 須賀。


 自分で。


 言ってから。


 固まる。


「……」


 敦。


 見る。


 須賀。


 見る。


「すみません」


「何で」


「いや」


「今」


「ただいまって」


「……」


 敦。


 少し。


 笑う。


「おかえり」


 須賀。


 黙る。


⸻


「どうだった」


 前原。


 須賀。


 ソファ。


 座る。


「前の寮」


「戻らないことにしました」


「そうか」


「……」


「今日」


「決めました」


「そうか」


「……」


「理由」


「聞かないんですか」


「話したきゃ話せ」


「……」


 須賀。


 少し。


 考える。


「戻ったら」


「仕事」


「紹介してもらえる」


「住むところも」


「ある」


「……」


「悪いところ」


「ばっかじゃないです」


「うん」


「でも」


「もう一回出たいって」


「言った時」


「どうなるか」


「聞いたら」


「……」


「担当の人」


『今度こそ途中で投げ出さない覚悟が必要』


「って」


「……」


 前原。


 黙る。


「それ聞いて」


「やっぱ」


「戻れないって」


「思いました」


「そうか」


⸻


「相談員の人」


 須賀。


「別の」


「一時的な住居」


「探してくれるって」


「……」


「まだ」


「決まってません」


「うん」


「仕事も」


「ない」


「うん」


「……」


「俺」


「間違えました?」


 前原。


「知らん」


 須賀。


 苦笑。


「やっぱり」


「でも」


 敦。


 口。


 挟む。


「戻らなかったから」


「間違い」


「って」


「今決めなくても」


「いいんじゃないですか」


 須賀。


 敦を見る。


「……」


「怖いですけど」


「はい」


「戻らなかった方が」


「もっと怖い」


「……」


「じゃあ」


「今日は」


「それが」


「須賀さんの答えなんじゃないですか」


 須賀。


 少し。


 頷く。


⸻


「飯」


 前原。


「食うか」


「……はい」


「今日は」


「余ってます?」


「知らん」


 和子。


 台所。


「あるよ」


「あるそうだ」


「……」


 須賀。


 笑う。


「いただきます」


⸻


 その夜。


 隼人。


 風呂。


 出る。


 足。


 湿布。


「痛っ」


 翔太。


 横。


「明日」


「行くの?」


「行く」


「何で」


「……」


 隼人。


 考える。


「今日」


「まだ」


「分かんなかったから」


「……」


「嫌じゃなかったから」


「じゃない?」


「それも」


「分かんない」


「面倒」


「お前に言われたくない」


⸻


「でも」


 隼人。


「仕事って」


「間違えたら」


「その間違えたやつ」


「直せばいいんだな」


 翔太。


「何それ」


「今日」


「ラベル」


「足りなくて」


「……」


「俺」


『すみません』


「って」


「めちゃくちゃ」


「謝った」


「うん」


「そしたら」


『予備あるから貼っといて』


「って」


「……」


「それだけ」


「それだけ」


「……」


 翔太。


「俺も」


「袋」


「つけた時」


「それだけだった」


「……」


 二人。


 少し。


 黙る。


「普通」


 隼人。


「変だな」


「ですね」


⸻


 同じ頃。


 ますみ。


 スケッチブック。


 開く。


 でも。


 今日は。


 描かない。


 昨日。


 描いた。


 パン。


 半分。


 笑花。


 そのページだけ。


 見る。


 閉じる。


 机。


 置く。


「今日は」


「休み」


 誰に。


 言うでもなく。


 呟く。


 作品を。


 続けるために。


 毎日。


 続けなくてもいい。


 仕事も。


 人生も。


 もしかしたら。


 似ている。


⸻


 初日は。


 初日だった。


 隼人は。


 人生を。


 やり直したわけではない。


 過去を。


 乗り越えたわけでもない。


 父親とのことが。


 消えたわけでもない。


 仕事が。


 向いているかも。


 まだ。


 分からない。


 ただ。


 朝。


 家を出た。


 倉庫へ。


 行った。


 三回。


 間違えた。


 昼飯を。


 食べた。


 疲れたと。


 言った。


 五分。


 休んだ。


 仕事を。


 終えた。


 そして。


 帰ってきた。


「ただいま」


 と。


 言った。


 明日も。


 行く。


 今。


 決まっているのは。


 それだけ。


 でも。


 それだけの一日を。


 誰にも。


「それだけ」


 と。


 小さくされる必要は。


 なかった。


⸻


後書き


第82話でした。


文化展が終わり、物語はいったん普通の日常へ戻りました。


今回は隼人の倉庫初日です。


大事件は起きません。


三回間違える。


注意される。


疲れる。


昼飯を食べる。


それでも一日働いて帰ってくる。


隼人にとって重要だったのは、失敗が「人格の評価」へ広がらなかったことでした。


ラベルが一枚足りなければ、ラベルが一枚足りないだけ。


これは彼の家庭での経験とはかなり違います。


一方、須賀は前の寮へ戻らないことを選びました。


決め手は、その場所が全部悪かったからではありません。


「もう一度出たくなった時にも出られるのか」を確認したところ、


「今度こそ途中で投げ出さない覚悟が必要」


と言われた。


そこで須賀自身が「戻れない」と判断した。


ここでも、


戻れるから、出られる。


そして逆に、


もう出られないと思う場所には、戻れない。


というこれまでのテーマが現実側へつながっています。


組織についても、いよいよ「潰す/守る」ではなく、何を残して何を変えるかへ。


食事、緊急宿泊、債務相談、同行支援など、実際に人を助けたものは残す。


一方で、拒否・退所・異議を「本人の未熟さ」に変換する仕組みは変える。


組織編はここから静かに着地へ向かいます。


そして敦。


須賀が事務所へ戻ってきて、無意識に、


「ただいま」


と言った時。


敦は自然に、


「おかえり」


と返しました。


まだ小さな場面ですが、終盤へ向けてかなり大事な変化です。

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