最初の日は、最初の日
第82話 最初の日は、最初の日
前書き
新しい仕事の初日。
人生が変わる日。
――なんて言うと、少し大げさだ。
実際には、
靴を履く。
電車に乗る。
知らない建物へ入る。
名前を覚えられない。
やり方を間違える。
昼休みが妙に長い。
そして、帰ってくる。
たったそれだけの日かもしれない。
でも。
一度「普通」から落ちたと思った人にとって、
その普通の一日は、
意外なほど怖い。
文化展が終わった翌日。
今度は隼人の番だった。
⸻
午前五時四十八分。
高架下の事務所で、目覚まし時計が鳴った。
止まらない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
「……うるせぇ!」
隣室から前原の声が飛んだ。
「起きてます!」
隼人が布団の中から叫ぶ。
「起きてる奴は止めろ!」
「今止めます!」
ようやく電子音が止まった。
そして、静かになる。
一分後。
「……」
二分後。
「……」
三分後。
廊下。
足音。
襖が開いた。
「寝てんじゃねぇか!」
「起きてます!」
「目閉じてんだろ!」
「考えてました!」
「何を!」
「起きるかどうか!」
「起きろ!」
⸻
六時十分。
隼人は食卓に座っていた。
黒いパーカーではない。今日は紺色の作業着に近い上着と、昨日買ったばかりの安全靴。髪もいつもより少し整えている。
倉庫勤務、初日。
和子が味噌汁を置いた。
「食べられる?」
「食べます」
「気持ち悪くない?」
「ちょっと」
「じゃあ半分でいい」
「全部食べます」
「何で意地張るの」
「初日なんで」
「初日と味噌汁は関係ないでしょ」
隼人は黙って味噌汁を飲んだ。
向かいでは翔太が眠そうな顔でパンをかじっている。今日はコンビニが午後からなので、本来ならまだ寝ていてもいい時間だ。
「翔太」
「何ですか」
「何で起きてんの」
「知らない」
「寝れば」
「隼人がうるさかったから」
「俺?」
「目覚まし」
「ああ……」
「あとヨシさん」
「俺のせいか!」
奥から声が飛んだ。
⸻
敦も起きてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「隼人」
「はい」
「今日ですね」
「……はい」
「駅まで――」
敦。
止まる。
隼人を見る。
「どうします?」
以前なら、「駅まで行きましょうか」と先に言っていたかもしれない。
隼人は少し考えた。
「今日は」
「一人で行きます」
「分かりました」
それだけ。
隼人が少し笑う。
「何ですか」
「いや」
「岡野さん」
「何」
「聞くようになったなって」
「……」
「前」
「勝手についてきそうだった」
「そこまでじゃない!」
「面接の時」
「入口まで来たじゃないですか」
「あれは隼人が途中で入口までって言ったんでしょ!」
「そうでした」
「忘れないで!」
⸻
六時四十二分。
隼人。
玄関。
安全靴。
履く。
立つ。
「……」
動かない。
翔太。
「どうした」
「別に」
「行かない?」
「行く」
「じゃあ行けば」
「分かってる」
「……」
隼人はドアノブへ手を伸ばした。
その手が、少し止まる。
「隼人」
前原。
「何」
「今日」
「一日で」
「人生決めんなよ」
隼人。
振り返る。
「……」
「どういう意味」
「良かったから一生続けるとか」
「嫌だったから全部終わりとか」
「今日だけで決めんな」
「……」
「初日は」
「初日だ」
隼人は数秒、前原を見る。
「それ」
「まともですね」
「お前ら最近そればっかだな!」
翔太が笑う。
「行ってきます」
「おう」
「行ってらっしゃい」
「気をつけて」
隼人。
外へ。
⸻
午前七時五十一分。
物流倉庫。
隼人は受付前にいた。
面接の日にも来た場所。
なのに今日は、建物が大きく見える。
トラック。
フォークリフト。
作業着の人たち。
自動ドア。
「……」
帰ろうと思えば。
帰れる。
駅。
十分。
事務所。
電車。
二駅。
そして。
戻っても。
多分。
「だから言っただろ」
とは言われない。
それを知っているせいで。
逆に。
もう少し。
行ける気がした。
「……よし」
隼人。
入る。
⸻
「今日からの坂口君?」
四十代くらいの男性。
「はい」
「主任の田辺」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「倉庫経験」
「ないんだよね」
「はい」
「じゃあ最初から」
「はい」
「分からなかったら聞いて」
「……」
また。
その言葉。
隼人は少しだけ顔を上げた。
「はい」
「あと」
田辺。
「最初から速くやろうとしなくていいから」
「はい」
「速くやって間違える方が面倒」
「……はい」
「じゃあ着替えて」
⸻
午前八時半。
最初の仕事。
段ボール。
番号。
棚。
台車。
「A12」
「はい」
「A21じゃないよ」
「……」
隼人。
止まる。
「すみません」
「似てるからね」
「こっち」
「はい」
怒鳴られない。
それだけで。
妙に。
戸惑う。
⸻
九時十五分。
二回目。
「坂口君」
「はい」
「それ」
「逆」
「……すみません」
「こっち向き」
「はい」
終わり。
九時四十分。
三回目。
「坂口君」
「はい」
「ラベル」
「一枚足りない」
「……」
心臓。
跳ねる。
「すみません!」
「予備あるから」
「貼っといて」
「はい」
「次から数確認してね」
「はい」
それだけ。
⸻
隼人は、少し不思議になった。
失敗する。
注意される。
直す。
次。
失敗する。
注意される。
直す。
次。
そこに。
「お前はだから駄目なんだ」
が。
ない。
過去。
父親。
家。
何か一つ。
間違える。
そこから。
全部へ。
広がった。
「お前は」
「昔から」
「何をやっても」
でも。
ここでは。
ラベルが一枚足りないなら。
ラベルが一枚足りない。
それだけだった。
⸻
午前十時。
高架下。
事務所。
「静か」
ますみ。
文化展。
終わった。
壁。
白い。
箱。
隅。
笑花。
入っている。
「昨日まで」
「ずっと」
「文化展だったから」
藍。
「何その言い方」
「分かんない」
ますみは机へスケッチブックを置いた。
昨日の夜に描いた新しい場面。
ベンチ。
知らない女の子。
パン。
笑花。
少し離れて座っている。
「今日」
「続きを描く?」
藍。
「……」
ますみ。
鉛筆。
持つ。
止める。
「描かない」
「珍しい」
「今日」
「休む」
「いいんじゃない」
「……」
「文化展終わったら」
「すぐ何かしないと」
「消える気がしてた」
「何が」
「笑花」
「消える?」
「でも」
ますみ。
箱を見る。
「昨日」
「終わっても」
「いた」
「うん」
「だから」
「今日」
「描かなくても」
「いる」
藍。
少し笑う。
「それ」
「かなり進歩じゃない?」
「何が」
「知らない」
「じゃあ言わないで」
⸻
午前十時半。
敦。
電話。
「はい」
『岡野さん』
「須賀さん?」
『はい』
「どうしました」
『……』
少し。
間。
『今日』
『相談員の人と』
『前の寮について』
『話すことになって』
「はい」
『戻るかどうか』
『まだ』
『決めてないんですけど』
「はい」
『……』
「何です?」
『そっち』
『行っていいですか』
敦。
一瞬。
前原を見る。
でも。
すぐ。
やめる。
「はい」
「俺はいます」
『……』
「ただ」
「何時くらい?」
『昼前』
「分かりました」
『いいんですか』
「来たいんですよね」
『はい』
「じゃあ」
「来てください」
⸻
電話。
切れる。
前原。
「誰」
「須賀さん」
「来るって」
「そうか」
「……」
敦。
「ヨシさん」
「何だ」
「今」
「聞かなかったです」
「何を」
「来ていいか」
「ヨシさんに」
「……」
前原。
「で?」
「いや」
「前なら」
「聞いてたなって」
「そうか」
「……」
「いいですよね?」
「聞いてんじゃねぇか!」
「癖で!」
⸻
午前十一時二十分。
須賀。
来る。
昨日と。
同じリュック。
「こんにちは」
「おう」
敦。
「座ります?」
「……はい」
須賀。
ソファ。
端。
座る。
前原。
新聞。
川本。
コーヒー。
和子。
台所。
「お昼」
「食べる?」
須賀。
「……」
敦。
笑う。
「何ですか」
「いや」
「やっぱり」
「そこからなんだなって」
和子。
「何が」
「何でもないです」
⸻
「食べます」
須賀。
「じゃあ」
「待ってて」
須賀。
少し。
肩。
下がる。
敦。
向かい。
座る。
「相談」
「今日?」
「はい」
「午後」
「前の寮の人も」
「電話で」
「話すかもしれないって」
「……」
「戻りたい?」
須賀。
すぐ。
答えない。
「分かんないです」
「そうですか」
「……」
「怖いんです」
「戻るのが?」
「戻るのも」
「戻らないのも」
「……」
「戻ったら」
「また」
「同じになる気がする」
「……」
「でも」
「戻らなかったら」
「仕事も」
「住むとこも」
「一から」
「……」
「はい」
⸻
「岡野さんなら」
須賀。
「どうします?」
敦。
止まる。
「俺?」
「はい」
「……」
以前。
自分なら。
逃げろ。
と言う。
自分は。
逃げて。
助かった。
でも。
高瀬は。
逃げず。
施設に残り。
助かった。
隼人は。
家を出た。
翔太も。
でも。
拓海は。
施設に。
戻ったことがある。
助かったやり方と。
誰にでも正しいやり方は。
同じではない。
「俺は」
敦。
「前」
「逃げました」
「……」
「それで」
「助かりました」
「じゃあ」
「でも」
敦。
「須賀さんが」
「逃げた方がいいかは」
「分かりません」
「……」
「ずるい」
「すみません」
「いや」
須賀。
少し。
笑う。
「最近」
「それ聞き慣れました」
⸻
「ただ」
敦。
「戻るなら」
「戻っても」
「また出られるか」
「聞いた方が」
「いいかもしれない」
須賀。
「……」
「出られる?」
「戻ったら」
『今度こそ最後までやれ』
「になるのか」
「……」
「嫌だったら」
「また相談していいのか」
「……」
「それ」
「聞いてみたら」
「いいんじゃないですか」
須賀。
少し。
考える。
「戻るかどうかより?」
「それも」
「大事だと思います」
「……」
川本。
新聞。
向こう。
少しだけ。
敦を見る。
何も。
言わない。
⸻
正午。
倉庫。
昼休み。
隼人。
一人。
弁当。
開く。
和子。
作。
卵焼き。
唐揚げ。
野菜。
「うまそうだな」
隣。
三十代くらい。
作業員。
座る。
「自分で?」
「違います」
「彼女?」
「もっと違います」
「母ちゃん?」
隼人。
少し。
止まる。
「……」
「今いるところの」
「人です」
「へえ」
作業員。
それ以上。
聞かない。
「俺」
コンビニ」
「昨日も」
「今日も」
「同じ」
おにぎり。
二個。
「交換する?」
「何を」
「唐揚げ」
「嫌です」
「即答かよ」
隼人。
少し。
笑う。
⸻
「新人?」
「はい」
「俺」
「中西」
「坂口です」
「ここ」
「きつい?」
「まだ」
「分かんないです」
「初日だもんな」
「はい」
「俺も」
「最初」
「三日で辞めると思った」
「何年?」
「六年」
「……」
「分かんないもんだろ」
「はい」
「でも」
中西。
おにぎり。
「六年続いたから」
「良い会社とも」
「限らんけどな」
「……」
「何で」
「嫌なとこ」
「普通にあるし」
「じゃあ」
「何でいるんですか」
「家から近い」
「……」
「それだけ?」
「それ大事だぞ」
隼人。
思わず。
笑う。
「何か」
「もっと」
「立派な理由かと」
「仕事に」
「そんなもん」
「毎日いらんだろ」
⸻
午後一時。
高瀬。
施設。
会議室。
倉田。
佐伯。
外部支援機関。
市側担当。
是正計画。
机。
資料。
以前なら。
この会議は。
「誰が悪かったか」
を。
決める場所に。
見えただろう。
今日は。
違う。
「まず」
佐伯。
「現時点で」
「施設の即時閉鎖を」
「求めるものではありません」
倉田。
頷く。
「はい」
「現在利用中の方への」
「支援継続も」
「必要です」
「はい」
「一方」
「児童ケースについて」
「施設内部のみで」
「最終判断を完結させる運用は」
「改めていただく」
「……はい」
⸻
高瀬。
資料。
見る。
一。
児童からの暴力・虐待等の訴えは、外部専門機関へ相談。
二。
本人が「会いたい」「会いたくない」「戻りたい」「戻りたくない」と表明した場合、その希望を記録。
三。
施設退所者への再相談窓口を明示。
四。
退所・拒否・中断を、それ自体で「支援失敗」「本人の未熟」と評価しない。
五。
施設への異議・苦情を、反省不足や依存傾向の証拠として扱わない。
倉田。
四。
見る。
「……」
「ここ」
「はい」
佐伯。
「少し」
「気になります」
「どうぞ」
「退所した人が」
「明らかに危険な状況へ」
「戻ろうとする場合も」
「評価しない?」
佐伯。
「止めるな」
「という意味ではありません」
「……」
「危険性は」
「危険性として」
「評価する」
「ただ」
「退所を希望したという事実だけで」
『この人は判断能力がない』
「とはしない」
倉田。
ゆっくり。
頷く。
「……」
「そこは」
「必要だと思います」
⸻
外部支援員。
「残すものも」
「確認したいです」
倉田。
「残す?」
「はい」
「今回」
「問題が確認されたからといって」
「現在の支援を」
「全否定して」
「一から作り直せばいい」
「とも思っていません」
「……」
倉田。
顔。
上げる。
「食事支援」
「緊急宿泊」
「債務相談」
「就労への同行」
「生活リズムの支援」
「これらで」
「助かった方もいる」
「……はい」
「長谷川さんの」
「証言も」
「記録されています」
倉田。
少し。
目。
伏せる。
⸻
「残すもの」
高瀬。
初めて。
口。
開く。
「俺」
「飯だと思います」
会議室。
少し。
静か。
佐伯。
「食事支援?」
「はい」
「……」
「俺が」
「あそこに来た時」
「最初」
「何も」
「考えられなかった」
「……」
「でも」
「飯」
「出してもらって」
「風呂入って」
「寝た」
「……」
「それで」
「次の日」
「話せた」
倉田。
高瀬を見る。
「そこは」
「残したいです」
「……」
「それから」
「一緒に」
「役所とか」
「会社とか」
「行くこと」
「……」
「でも」
「行く先を」
「俺たちが」
「決めない」
⸻
佐伯。
「長谷川さんは」
「施設に」
「救われたと」
「今も話しています」
「はい」
「同時に」
『余計なことを言わなくていい』
「と言われたことに」
「違和感があったとも」
「話しています」
倉田。
目。
閉じる。
短く。
「……はい」
「現時点では」
「発言の意図を」
「断定しません」
「ただし」
「元利用者や関係者が」
「外部へ話すことを」
「妨げると受け取られ得る連絡は」
「今後」
「避ける必要があります」
「……」
「分かりました」
⸻
高瀬。
倉田。
見る。
怒るか。
反論するか。
以前なら。
そう。
思った。
でも。
倉田。
資料。
余白。
ペン。
書く。
退所者への連絡文面――「施設を守る」目的で書かない。
「……」
高瀬。
「倉田さん」
「何」
「それ」
「……」
倉田。
自分のメモ。
見る。
「忘れそうだから」
「……」
「はい」
⸻
午後二時半。
事務所。
須賀。
相談へ。
向かう。
「じゃあ」
敦。
「行ってらっしゃい」
「……」
須賀。
玄関。
「今日は」
「来ないんですか」
「必要?」
「……」
「今日は」
「大丈夫です」
「分かりました」
「でも」
須賀。
「帰ってきても」
「いいですか」
敦。
少し。
止まる。
「はい」
「ここに?」
「はい」
「……」
「相談終わって」
「話したかったら」
「来てください」
「話したくなかったら?」
「来て」
「飯だけ食っても」
「いいんじゃないですか」
奥。
前原。
「勝手に飯約束すんな」
「ヨシさん!」
和子。
「別に一人増えるくらいいいでしょ」
「……」
前原。
「だそうだ」
須賀。
笑う。
「行ってきます」
敦。
「行ってらっしゃい」
⸻
午後三時。
倉庫。
隼人。
足。
痛い。
安全靴。
重い。
腰。
少し。
張る。
時計。
三時。
「……まだ」
終業。
五時。
あと。
二時間。
午前中より。
長く感じる。
台車。
押す。
「坂口君」
「はい」
田辺。
「疲れた?」
「……」
隼人。
反射。
「大丈夫です」
言う。
でも。
少し。
止まる。
「いや」
「疲れました」
田辺。
「初日だしな」
「はい」
「五分」
「水飲んで」
「いいんですか」
「倒れられる方が困る」
「……」
「はい」
⸻
休憩所。
水。
飲む。
隼人。
壁。
もたれる。
「疲れた」
自分で。
言う。
何も。
壊れない。
仕事。
なくならない。
怒鳴られない。
弱い。
とも。
言われない。
「……」
それだけで。
少し。
楽。
⸻
午後五時七分。
終業。
「坂口君」
「はい」
「明日も」
「同じ時間」
「はい」
「分からないこと」
「今日より」
「増えるかも」
「え」
「仕事」
「増やすから」
「……」
田辺。
笑う。
「一気にはやらせないよ」
「はい」
「お疲れ」
「お疲れ様でした」
隼人。
外。
出る。
空。
まだ。
明るい。
「……」
終わった。
初日。
それだけ。
採用。
人生。
再出発。
そんな。
大きな言葉。
何も。
浮かばない。
「足いてぇ」
それだけ。
⸻
駅。
ホーム。
スマートフォン。
出す。
誰に。
連絡。
する。
翔太。
終わった
すぐ。
既読。
逃げた?
逃げてない
すげえ
普通だろ
俺はレジで袋つけた
知らん
大事件
隼人。
笑う。
⸻
午後六時。
事務所。
ドア。
開く。
「ただいま」
「おかえり」
敦。
最初。
返す。
「どうでした」
「疲れた」
「嫌だった?」
「……」
隼人。
靴。
脱ぐ。
「分かんない」
「明日?」
「行く」
「……」
「じゃあ」
敦。
「今日は」
「それでいいですね」
「うん」
⸻
前原。
「辞めなかったか」
「初日から辞めさせたいんですか」
「別に」
「三回」
「間違えた」
「そうか」
「注意された」
「そうか」
「怒鳴られなかった」
「……」
前原。
少し。
隼人を見る。
「そうか」
「……」
「それだけ?」
「何て言ってほしい」
「知らない」
「じゃあ飯食え」
「やっぱりそれ!」
⸻
食卓。
隼人。
箸。
持つ。
和子。
「どう」
「何が」
「仕事」
「普通」
「良かった?」
「分かんない」
「嫌だった?」
「分かんない」
「明日行く?」
「行く」
「じゃあ」
「明日の弁当」
「いる?」
隼人。
「……」
「いる」
「分かった」
和子。
それ以上。
聞かない。
⸻
午後六時四十分。
ドア。
また。
開く。
「……ただいま」
須賀。
自分で。
言ってから。
固まる。
「……」
敦。
見る。
須賀。
見る。
「すみません」
「何で」
「いや」
「今」
「ただいまって」
「……」
敦。
少し。
笑う。
「おかえり」
須賀。
黙る。
⸻
「どうだった」
前原。
須賀。
ソファ。
座る。
「前の寮」
「戻らないことにしました」
「そうか」
「……」
「今日」
「決めました」
「そうか」
「……」
「理由」
「聞かないんですか」
「話したきゃ話せ」
「……」
須賀。
少し。
考える。
「戻ったら」
「仕事」
「紹介してもらえる」
「住むところも」
「ある」
「……」
「悪いところ」
「ばっかじゃないです」
「うん」
「でも」
「もう一回出たいって」
「言った時」
「どうなるか」
「聞いたら」
「……」
「担当の人」
『今度こそ途中で投げ出さない覚悟が必要』
「って」
「……」
前原。
黙る。
「それ聞いて」
「やっぱ」
「戻れないって」
「思いました」
「そうか」
⸻
「相談員の人」
須賀。
「別の」
「一時的な住居」
「探してくれるって」
「……」
「まだ」
「決まってません」
「うん」
「仕事も」
「ない」
「うん」
「……」
「俺」
「間違えました?」
前原。
「知らん」
須賀。
苦笑。
「やっぱり」
「でも」
敦。
口。
挟む。
「戻らなかったから」
「間違い」
「って」
「今決めなくても」
「いいんじゃないですか」
須賀。
敦を見る。
「……」
「怖いですけど」
「はい」
「戻らなかった方が」
「もっと怖い」
「……」
「じゃあ」
「今日は」
「それが」
「須賀さんの答えなんじゃないですか」
須賀。
少し。
頷く。
⸻
「飯」
前原。
「食うか」
「……はい」
「今日は」
「余ってます?」
「知らん」
和子。
台所。
「あるよ」
「あるそうだ」
「……」
須賀。
笑う。
「いただきます」
⸻
その夜。
隼人。
風呂。
出る。
足。
湿布。
「痛っ」
翔太。
横。
「明日」
「行くの?」
「行く」
「何で」
「……」
隼人。
考える。
「今日」
「まだ」
「分かんなかったから」
「……」
「嫌じゃなかったから」
「じゃない?」
「それも」
「分かんない」
「面倒」
「お前に言われたくない」
⸻
「でも」
隼人。
「仕事って」
「間違えたら」
「その間違えたやつ」
「直せばいいんだな」
翔太。
「何それ」
「今日」
「ラベル」
「足りなくて」
「……」
「俺」
『すみません』
「って」
「めちゃくちゃ」
「謝った」
「うん」
「そしたら」
『予備あるから貼っといて』
「って」
「……」
「それだけ」
「それだけ」
「……」
翔太。
「俺も」
「袋」
「つけた時」
「それだけだった」
「……」
二人。
少し。
黙る。
「普通」
隼人。
「変だな」
「ですね」
⸻
同じ頃。
ますみ。
スケッチブック。
開く。
でも。
今日は。
描かない。
昨日。
描いた。
パン。
半分。
笑花。
そのページだけ。
見る。
閉じる。
机。
置く。
「今日は」
「休み」
誰に。
言うでもなく。
呟く。
作品を。
続けるために。
毎日。
続けなくてもいい。
仕事も。
人生も。
もしかしたら。
似ている。
⸻
初日は。
初日だった。
隼人は。
人生を。
やり直したわけではない。
過去を。
乗り越えたわけでもない。
父親とのことが。
消えたわけでもない。
仕事が。
向いているかも。
まだ。
分からない。
ただ。
朝。
家を出た。
倉庫へ。
行った。
三回。
間違えた。
昼飯を。
食べた。
疲れたと。
言った。
五分。
休んだ。
仕事を。
終えた。
そして。
帰ってきた。
「ただいま」
と。
言った。
明日も。
行く。
今。
決まっているのは。
それだけ。
でも。
それだけの一日を。
誰にも。
「それだけ」
と。
小さくされる必要は。
なかった。
⸻
後書き
第82話でした。
文化展が終わり、物語はいったん普通の日常へ戻りました。
今回は隼人の倉庫初日です。
大事件は起きません。
三回間違える。
注意される。
疲れる。
昼飯を食べる。
それでも一日働いて帰ってくる。
隼人にとって重要だったのは、失敗が「人格の評価」へ広がらなかったことでした。
ラベルが一枚足りなければ、ラベルが一枚足りないだけ。
これは彼の家庭での経験とはかなり違います。
一方、須賀は前の寮へ戻らないことを選びました。
決め手は、その場所が全部悪かったからではありません。
「もう一度出たくなった時にも出られるのか」を確認したところ、
「今度こそ途中で投げ出さない覚悟が必要」
と言われた。
そこで須賀自身が「戻れない」と判断した。
ここでも、
戻れるから、出られる。
そして逆に、
もう出られないと思う場所には、戻れない。
というこれまでのテーマが現実側へつながっています。
組織についても、いよいよ「潰す/守る」ではなく、何を残して何を変えるかへ。
食事、緊急宿泊、債務相談、同行支援など、実際に人を助けたものは残す。
一方で、拒否・退所・異議を「本人の未熟さ」に変換する仕組みは変える。
組織編はここから静かに着地へ向かいます。
そして敦。
須賀が事務所へ戻ってきて、無意識に、
「ただいま」
と言った時。
敦は自然に、
「おかえり」
と返しました。
まだ小さな場面ですが、終盤へ向けてかなり大事な変化です。




