許すということ
第69話 許すということ
前書き
謝ることと、
許されることは、
同じではない。
謝れば終わるわけでもない。
許さなければ前へ進めないわけでもない。
それでも。
言わなければ始まらない言葉がある。
第69話です。
⸻
午後四時十二分。
ひだまり食堂。
「皿、そっち!」
「こっち!?」
「そっち!」
「どっちだよ!」
「右!」
「俺から見て!?」
「私から!」
「分かるか!」
厨房の前。
隼人と神谷が。
いつものように揉めていた。
「隼人!」
恵子が声を飛ばす。
「はい!」
「怒鳴らない!」
「俺だけ!?」
「神谷も!」
「はい」
「返事早っ!」
神谷が笑う。
「人生経験」
「関係ねぇだろ」
その横。
グエンが。
大量のコップを並べている。
「ミズ!」
「まだ客来てないよ」
翔太が言う。
「ジュンビ!」
「準備しすぎ」
「ミズ、ダイジ!」
「水だけで店やる気?」
「カレー!」
「カレーもあります」
「プリン!」
「今日ない」
「ナンデ!」
「あなた昨日三個食べたから」
「サンコ?」
「四個だった?」
「……サンコ!」
「増えてるじゃん」
そんな騒ぎの中。
敦は。
入口に近い席を。
何度も見ていた。
「落ち着かねぇな」
前原。
「だって」
「森川さん来るんですよ」
「来るだろ」
「高瀬さんも」
「来るな」
「三年ぶりですよ」
「お前が三年ぶりじゃねぇだろ」
「そうですけど!」
前原は。
コーヒーを飲む。
「岡野」
「はい」
「お前」
「今日何する」
「え?」
「二人が話してる時」
「……」
敦は考えた。
何かあったら止める。
高瀬が言い訳したら。
森川が怒ったら。
前原が怒ったら。
「聞く」
と答えた。
前原が。
少しだけ頷いた。
「それでいい」
⸻
今日。
ひだまり食堂は。
通常営業を少し早めに切り上げていた。
恵子が。
「大事な話なら」
と。
奥の小さな座敷を貸してくれた。
ただし。
完全に店を閉めることはしなかった。
「変にすると緊張するでしょ」
それが理由だった。
厨房では。
神谷。
隼人。
グエン。
翔太。
恵子。
表では。
前原。
敦。
桜井。
黒岩。
川本。
少し離れて。
佐伯。
そして。
今日は。
ますみたちは来ていない。
話を聞く必要のない人まで。
集めない。
前原がそう決めた。
正確には。
「来たけりゃ来てもいいが」
「聞いたら面倒くせぇ話だぞ」
と言ったら。
ますみが。
「じゃあ絵描く」
と言っただけだった。
⸻
午後四時三十八分。
入口の扉が開いた。
「いらっしゃ――」
隼人が。
言葉を止める。
男。
四十代。
少し痩せている。
髪は短い。
以前の写真より。
ずっと普通だった。
それが。
かえって敦には印象的だった。
「……森川さん?」
敦が立つ。
男は。
少し緊張したように。
頭を下げた。
「森川修平です」
本当に。
来た。
電話の声だけだった人が。
目の前に。
「飯」
前原が言った。
森川が。
顔を上げる。
「え?」
「食ってきたか」
「……まだです」
「神谷!」
「はい!」
「一人前!」
「何が!」
「あるもん!」
「雑!」
厨房から。
隼人が笑う。
森川も。
少しだけ。
笑った。
「本当に」
「飯なんですね」
「何が」
「最初に聞くの」
「他に何聞くんだ」
「いろいろあるでしょう」
「後だ」
森川は。
しばらく前原を見た。
「……そうですか」
「そうだ」
その顔から。
少しだけ。
力が抜けた。
⸻
カレー。
小さなサラダ。
味噌汁。
「カレーと味噌汁?」
森川が聞く。
神谷が。
「うちは自由なんで」
と答えた。
「合う?」
「知らない」
「出してから言うなよ」
隼人。
「食べれば分かる」
恵子。
「はい」
森川が。
スプーンを持つ。
一口。
止まる。
もう一口。
「……美味しいです」
「でしょ」
恵子が笑う。
「前にも食べたよね」
森川が。
驚く。
「覚えてるんですか」
「全部は覚えてない」
「でも」
少し考える。
「あなた」
『また普通の人になれた気がします』
「って言った人でしょ」
森川の手が。
止まった。
「……はい」
「普通の人って何か知らないけど」
恵子は。
水を置く。
「今日も食べな」
「はい」
森川は。
少し俯いた。
「ありがとうございます」
⸻
午後五時三分。
もう一度。
扉。
今度は。
高瀬。
入口で。
止まった。
森川も。
スプーンを置いた。
二人。
三年。
言葉がない。
「……森川さん」
「……高瀬さん」
高瀬は。
深く。
頭を下げた。
「すみませんでした」
早かった。
座る前。
説明も。
挨拶も。
何もなし。
「俺」
「ユウに」
「あなたに」
「……」
「間違ったことを」
言葉。
詰まる。
「しました」
森川は。
何も言わない。
「すみません」
もう一度。
高瀬が頭を下げる。
長い。
誰も。
口を挟まない。
やがて。
森川が言った。
「座ってください」
高瀬が。
顔を上げる。
「……はい」
二人。
向かい合う。
前原たちは。
少し離れた席。
完全に外ではない。
でも。
間には入らない。
⸻
「高瀬さん」
森川が言う。
「はい」
「俺」
「今」
「あなたを許せるかって聞かれたら」
「……はい」
「分かりません」
高瀬の顔が。
少し下がる。
「当然です」
「いや」
「当然かどうかも」
「分かりません」
「……」
「俺」
森川は。
自分の手を見る。
「三年」
「ずっと」
「あなたのこと」
「怒ってたと思うんです」
「……はい」
「でも」
「今日会ったら」
少し苦笑。
「そんなに怒ってない」
高瀬が。
顔を上げる。
「だから許したって意味じゃないです」
「……はい」
「たぶん」
「怒る時間が」
「なかったんです」
「……」
「美月とユウが」
「毎日」
「何かやらかすから」
森川が。
ほんの少し笑った。
「最初」
「牛乳こぼす」
「皿割る」
「宿題忘れる」
「喧嘩する」
「夜泣く」
「朝起きない」
「……」
「高瀬さんのこと」
「ずっと考えてる暇なかった」
高瀬の目が。
少し赤くなる。
「良かった」
とは。
言わなかった。
言えるはずもなかった。
⸻
「俺」
高瀬が言う。
「記録を見ました」
「どの」
「最初の」
「ユウが」
「森川さんと話したいって」
「……」
「言ってた」
森川の顔から。
笑みが消える。
「それ」
「知ってたんですか」
「いいえ」
「……」
「初めて聞きました」
高瀬が。
完全に俯く。
「すみません」
「……」
「俺」
「知らなかった」
「だからって」
「許されるとは思ってません」
森川が。
少し長く。
高瀬を見る。
「高瀬さん」
「はい」
「あなた」
「本当に知らなかったんですか」
「はい」
「ユウが」
「家でのこと話してたのも」
「森川さんと話したいって言ってたのも」
「知りませんでした」
「……」
「俺は」
「ユウが」
「何も言わない子だと思ってました」
高瀬の声が。
震える。
「だから」
「言葉にさせようとして」
「書かせて」
「……」
「自分が悪いって」
「書くようになってるのに」
「それを」
「成長だと思った」
森川は。
静かだった。
「高瀬さん」
「はい」
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「今」
「ユウが目の前にいたら」
「何て言います」
高瀬は。
すぐには答えられなかった。
謝る。
ごめんなさい。
悪かった。
でも。
それは。
自分が言いたいこと。
ユウが。
聞きたいこととは限らない。
「……」
「分かりません」
森川の目が。
少しだけ動いた。
「そうですか」
「はい」
「じゃあ」
「たぶん」
森川が言う。
「三年前より」
「いいんじゃないですか」
高瀬が。
目を上げる。
「何が」
「すぐ答えを出さなくなった」
高瀬は。
何も言えなかった。
⸻
厨房。
隼人は。
話を聞かないようにしていた。
でも。
全部は無理だった。
皿を洗いながら。
耳へ入ってくる。
「隼人」
神谷。
「何」
「割れる」
「え?」
「皿」
隼人の手。
力が入っている。
「あ」
「置け」
「……うん」
皿を置く。
「気になる?」
「別に」
「そう」
「……」
「気になる」
「そっか」
隼人は。
小さく息を吐く。
「ユウさ」
「うん」
「今」
「どんな感じなんだろ」
「分かんない」
「会ってみたい?」
「……」
隼人は。
少し考える。
「分かんね」
「そっか」
「でも」
「うん」
「もし会って」
「俺みたいに」
「自分が悪いとか言ってたら」
隼人は。
蛇口を止める。
「違うって」
「言いたいかも」
神谷は。
何も言わなかった。
ただ。
「それ」
「覚えとけば」
と言った。
⸻
「森川さん」
高瀬が。
もう一度口を開く。
「はい」
「三年前」
「どうやって」
「二人を」
「……」
「その後」
「生活させたんですか」
森川が。
前原を見る。
「言っていいですか」
「俺に聞くな」
森川が。
少し笑う。
「そうでした」
そして。
高瀬へ。
「俺一人じゃ」
「無理でした」
高瀬は黙って聞く。
「最初の二日」
「本当に」
「俺の部屋にいました」
「……」
「古いワンルーム」
「布団一枚」
「冷蔵庫」
「ほぼ空」
「金」
「そんなにない」
「仕事も」
「安定してない」
「それで」
森川は苦笑した。
「三人」
「無理ですよ」
前原が。
「最初から分かれ」
「うるさいです」
森川が返す。
敦が。
少し驚く。
森川。
前原に。
普通に言い返すようになっている。
「で」
森川は続けた。
「三日目」
「美月が熱出しました」
「高熱?」
「三十九度くらい」
「……」
「俺」
「病院行かなきゃと思った」
「でも」
「保険証ない」
「身元」
「ちゃんと説明できない」
「警察に繋がったら」
「ユウがパニックになる」
「……」
「詰みました」
森川が。
あっさり言った。
「俺」
「何もできなかった」
「水飲ませて」
「冷やして」
「朝まで」
「……」
「美月」
「震えてて」
「ユウ」
「俺のせいですって」
「ずっと」
高瀬が。
目を閉じる。
「その時」
「助けてくれた人が」
「いるんですか」
「はい」
⸻
森川は。
ポケットから。
一枚の名刺を出した。
古い。
角が丸い。
高瀬へ。
差し出す。
書かれていた名前。
北村千佳子
その下。
NPO法人 こもれび生活支援ネット
相談員
「北村さん?」
佐伯が。
離れた席から。
思わず声を出す。
森川が見る。
「知ってるんですか」
「名前だけ」
佐伯が近づく。
「かなり前から」
「住居や女性支援」
「若者支援」
「外国人支援まで」
「制度の隙間を繋ぐ人です」
「そうです」
森川が頷く。
「俺は」
「北村さんに助けてもらいました」
⸻
三年前。
深夜。
美月。
三十九度。
森川は。
携帯電話を握っていた。
誰へ。
電話すればいい。
分からない。
救急車。
警察。
施設。
全部。
怖かった。
正確には。
森川がではない。
ユウが。
怖がる。
でも。
美月を。
放っておけない。
『森川さん』
ユウが。
震えながら。
『ぼくが』
『もっとちゃんと――』
『違う』
森川は。
何度も言った。
『お前のせいじゃない』
『でも』
『俺のせいでもない』
『美月のせいでもない』
そう言いながら。
自分自身は。
全部自分のせいだと思っていた。
その時。
財布。
一枚の名刺。
以前。
ひだまり食堂で。
恵子から渡されていた。
『本当に困った時』
『ここへ電話してみな』
その名刺。
森川は。
持っていた。
使うつもりは。
なかった。
迷惑を掛けるから。
でも。
美月が。
震えていた。
だから。
電話した。
⸻
『はい』
夜中。
女性の声。
『こもれびです』
『……すみません』
『はい』
『子どもが』
『熱』
『三十九度』
『あなたのお子さん?』
『違います』
沈黙。
『今』
『一緒にいる大人はあなた一人?』
『はい』
『子どもは何人』
『二人』
『年齢』
『七歳と十歳』
『住所』
森川は。
怖かった。
言えば。
終わる。
連れて行かれる。
でも。
『住所を言ってください』
その声は。
強かった。
『話は後でいい』
『まず』
『その子の熱です』
森川は。
住所を言った。
⸻
一時間後。
北村千佳子は。
来た。
五十代。
短い髪。
大きなトートバッグ。
「夜中に」
「知らない男の部屋へ」
敦が驚く。
「一人で?」
「最初は」
森川が言う。
「あとから」
「医療系の支援者も来ました」
北村は。
美月を見て。
森川を見る。
『救急へ行くよ』
ユウ。
『嫌!』
『戻される!』
『ごめんなさい!』
『ちゃんとするから!』
パニック。
北村は。
ユウへ近づかなかった。
しゃがみも。
しなかった。
少し離れたところへ。
座った。
『君』
ユウを見る。
『この子』
『大事?』
ユウが。
泣きながら頷いた。
『じゃあ』
『今』
『君が決めていいことが一個ある』
『……』
『一緒に病院へ来るか』
『ここで待つか』
『……』
『どっちでもいい』
『でも』
『この子は病院へ連れていく』
ユウは。
混乱した。
『戻される?』
『今夜』
『その話はしない』
『嘘』
『嘘かどうかは』
『明日の私を見て決めな』
ユウは。
北村を見た。
『……一緒に行く』
『分かった』
それだけ。
⸻
病院。
美月は。
感染症などではなかった。
強い風邪。
脱水気味。
点滴。
朝には。
少し落ち着いた。
「その後」
高瀬が聞く。
「警察には」
「すぐには行きませんでした」
「……」
「でも」
森川は。
高瀬を見る。
「ずっと隠したわけでもない」
「どうしたんです」
「北村さんが」
「言ったんです」
『このままじゃ』
『三人とも詰む』
『でも』
『いきなり全部話して』
『子どもがまた逃げるのも困る』
『順番決めよう』
まず。
医療。
次。
食事。
睡眠。
森川自身の住居。
子どもの身元確認。
法的な相談。
児童支援。
学校。
そして。
本人たちへの説明。
「……」
「北村さん」
森川は言う。
「何でも」
「本人に言いました」
「どこへ相談する」
「誰に名前を伝える」
「何が起きる可能性がある」
「……」
「ユウが嫌だって言ったら」
「全部やめた?」
「いいえ」
高瀬が。
少し驚く。
「やめなかった?」
「はい」
「じゃあ」
「本人の意思って」
「北村さんは」
森川が言う。
「こう言いました」
『子どもに』
『全部決めさせるのも』
『大人の責任放棄だよ』
高瀬が。
止まる。
『だから』
『大人が決めなきゃいけないこともある』
『でも』
『決めた理由は』
『ちゃんと説明する』
『嫌だと言われたら』
『嫌だったことは忘れない』
『それで』
『後から変えられることは変える』
森川は。
ゆっくり息を吐いた。
「俺」
「その時」
「初めて」
「守るって」
「全部言うこと聞くことでも」
「全部決めることでもないんだなって」
「少しだけ」
「分かりました」
前原が。
少し鼻を鳴らす。
「少しか」
「今も分からないので」
「そうか」
⸻
北村は。
弁護士。
児童支援の専門職。
自治体。
医療。
複数の人間へ。
少しずつ。
繋いだ。
森川一人が。
二人の子どもを「隠して育てた」わけではない。
むしろ。
途中から。
支援者は。
何人もいた。
ただし。
子どもたちの過去と所在については。
必要以上に。
広げなかった。
正式な確認。
法的な整理。
学校生活。
必要な手続きを。
時間を掛けて。
進めた。
「じゃあ」
敦が聞く。
「今」
「二人が学校行けてるのも」
「その人たちが」
「はい」
「俺だけじゃ」
「絶対無理でした」
森川は。
はっきり言った。
「俺」
「一回」
「北村さんに」
「言われました」
『あんた』
『子ども助けてる顔して』
『一緒に沈む気だったでしょ』
「……」
「図星でした」
前原が。
「馬鹿だな」
「あなたにだけは」
「言われたくないです」
「何だと」
「俺もそう思います」
敦。
「岡野!」
少しだけ。
空気が緩んだ。
⸻
高瀬は。
名刺を。
長い時間見ていた。
「北村さん」
「はい」
「俺」
「会えますか」
「それは」
森川が言う。
「本人に聞いてください」
「……はい」
高瀬は。
少し笑った。
「そうですね」
自分で決めない。
でも。
他人に決めさせない。
その中間。
以前の高瀬には。
存在しなかった場所だった。
⸻
「森川さん」
「はい」
「もう一つ」
高瀬。
「何です」
「三年前」
「最初に」
「美月とユウが逃げた時」
「警察に保護されて」
「戻された記録があります」
「……」
「知ってますか」
森川の顔が。
少し変わった。
「詳しくは」
「二人から」
「後で聞きました」
「やっぱり」
「はい」
「それが」
「警察を怖がった理由?」
森川は。
首を横へ振った。
「それだけじゃないです」
全員。
静かになる。
「他にも?」
「はい」
「ユウは」
森川が。
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「警察を」
「最初から」
「怖がってた」
「施設に来る前から?」
「たぶん」
「理由は」
桜井。
「……」
森川は。
長く黙る。
「俺も」
「全部は知りません」
「本人が」
「まだ」
「全部話してくれたわけじゃない」
「そうか」
「でも」
森川は。
一つだけ。
「ユウが」
「俺に言ったことがあります」
敦が。
息を止める。
「何て」
「警察に行ったら」
森川。
「また」
「嘘を言わなきゃいけない」
「……」
「そう言いました」
桜井の目が。
鋭くなる。
「嘘?」
「はい」
「誰に言わされていたか」
「分かる?」
「いいえ」
「父親を名乗ってた男?」
「分かりません」
「前の家?」
「分かりません」
「……」
「だから」
森川は言う。
「俺も」
「そこは」
「勝手に決めたくない」
桜井が。
ゆっくり頷いた。
「それでいい」
⸻
厨房。
隼人は。
動けなくなっていた。
『警察に行ったら、また嘘を言わなきゃいけない』
自分なら。
何を思う。
助けを求める場所で。
本当のことを言えない。
それは。
どれだけ。
怖いのだろう。
神谷が。
隼人の肩を軽く叩く。
「洗い物」
「……」
「今日は」
「俺やる」
「いい」
「いや」
隼人が。
また皿を取る。
「やる」
「そっか」
「うん」
逃げるわけでも。
無理するわけでもない。
ただ。
今は。
手を動かしたかった。
⸻
「高瀬さん」
森川が言う。
「はい」
「俺からも」
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「あなた」
「あそこ」
「辞めるんですか」
高瀬の顔が。
少し曇る。
「分かりません」
「……」
「まだ」
「嫌いになれないんです」
森川は。
頷いた。
「そうですか」
「軽蔑します?」
「何で」
「……」
「俺も」
森川が言う。
「あさがお」
「全部嫌いじゃないです」
高瀬が。
顔を上げる。
「飯」
「食わせてもらいました」
「仕事」
「教えてもらいました」
「須藤さんにも会った」
「あなたにも」
「助けてもらったこと」
「ある」
「……」
「だから」
「全部悪かったって言われても」
「俺も違うと思う」
高瀬の目から。
涙が落ちた。
「でも」
森川は。
そこで終わらない。
「だからって」
「ユウにしたことが」
「消えるわけじゃないです」
「……はい」
「俺が」
「あなたに感謝してることと」
「怒ってること」
「両方ある」
「はい」
「それで」
「いいと思います」
高瀬は。
何度も。
頷いた。
「……はい」
⸻
「謝罪」
森川が言う。
「受け取ります」
高瀬が。
息を呑む。
「でも」
「許すかは」
「今は」
「答えません」
「はい」
「それと」
「俺じゃなくて」
「本当に聞くべきなのは」
「ユウだと思います」
「……はい」
「ただ」
「会わせるかどうか」
「俺が決めることでもない」
高瀬が。
静かに。
「本人が」
「はい」
「本人が」
森川が言う。
「会いたいって言ったら」
「その時」
「お願いします」
「……分かりました」
「嫌だって言ったら」
「会えません」
「はい」
「それで」
「いいです」
高瀬が。
もう一度。
頭を下げる。
今度は。
最初ほど深くない。
長くもない。
ただ。
相手を見る。
「ありがとうございます」
森川は。
「はい」
と答えた。
⸻
午後六時半。
話は。
いったん終わった。
完全な解決ではない。
まだ。
記録。
行政。
倉田。
施設。
ユウの過去。
美月の母親。
何も。
全部は終わっていない。
でも。
一つだけ。
人と人が。
直接。
話した。
それだけで。
少し。
形が変わった。
「で」
恵子が奥から。
「高瀬さん」
「はい」
「ご飯食べた?」
「……」
高瀬が。
森川を見る。
森川が。
笑う。
「ここ」
「それ聞かれるんですよ」
「そうみたいですね」
「食べてないです」
高瀬が答える。
「じゃあ食べな」
「はい」
「カレー?」
神谷。
「今日それしかないです」
「味噌汁付き」
隼人。
「合うんですか」
「俺も聞いた」
森川。
「で?」
「美味かったです」
「じゃあ」
高瀬が。
少し笑う。
「お願いします」
⸻
しばらくして。
森川。
高瀬。
前原。
敦。
桜井。
隼人。
翔太。
グエン。
みんな。
同じ店で。
カレーを食べていた。
誰も。
仲間になったわけではない。
過去が消えたわけでもない。
でも。
同じ食卓には。
座れた。
「グエン」
隼人。
「何でカレーにプリン乗せようとしてんの」
「デザート!」
「後で食え!」
「イッショ!」
「絶対違う!」
「ウマイカモ!」
「やめろ!」
高瀬が。
思わず笑う。
森川も。
笑った。
高瀬は。
その笑い声を聞いた。
三年前。
森川と。
こんなふうに。
飯を食う未来など。
想像もしなかった。
⸻
午後七時四十二分。
店の外。
森川が。
帰ろうとしていた。
前原が。
隣へ。
「これからどうすんだ」
「帰ります」
「子どもらんとこ」
「はい」
「そうか」
「……」
森川が。
少し迷う。
「前原さん」
「ん」
「俺」
「二人に」
「この話」
「するつもりです」
「高瀬と会ったこと?」
「はい」
「好きにしろ」
「それから」
「高瀬さんが」
「会いたいって言ってることも」
「……」
「でも」
森川。
「誘導しないように」
「どう言えばいいか」
「分かりません」
前原が。
少し考える。
「そのまま言え」
「そのまま?」
「高瀬が会いたいって言ってる」
「お前らはどうしたい」
「……」
「それで」
「嫌って言ったら?」
「嫌だろ」
「迷ったら?」
「待て」
「会うって言ったら?」
「会わせろ」
「簡単ですね」
「難しく言うな」
森川が。
笑った。
「分かりました」
少し歩いて。
振り返る。
「前原さん」
「何だ」
「俺」
「戻ってきてよかったです」
「どこに」
「分かりません」
森川は笑う。
「でも」
「逃げたままじゃ」
「高瀬さんと」
「今日話せなかった」
前原は。
何も言わない。
「じゃあ」
「また」
「おう」
森川が。
歩いていく。
今度は。
誰にも追われていない背中。
ただ。
帰る人間の背中。
⸻
少し離れたところ。
高瀬も。
店から出てきた。
「高瀬さん」
敦。
「はい」
「どうでした」
「……」
高瀬が。
夜空を見る。
「分かりません」
「最近みんなそれですね」
「でも」
少し笑う。
「謝れてよかった」
「はい」
「許されなくても?」
敦が聞く。
高瀬は。
少し考えた。
「はい」
「許してもらうためだけに」
「謝ったんじゃないって」
「今」
「少し分かりました」
敦が。
頷く。
「これから」
「どうします」
「職場?」
「はい」
「……」
高瀬は。
食堂を見る。
「まだ」
「辞めません」
敦が。
少し驚く。
「そうですか」
「はい」
「逃げたくないから?」
「違います」
高瀬は。
首を横へ振る。
「中にいる人を」
「見たいから」
「……」
「今いる利用者」
「職員」
「倉田さん」
「記録」
「俺」
自分の胸を指す。
「今まで」
「助ける側のつもりで」
「人を見てなかったから」
「今度は」
「ちゃんと見たい」
敦は。
少し笑った。
「じゃあ」
「辞めたくなったら」
「辞めます」
「それでいいと思います」
「前原さんみたいですね」
「また!?」
高瀬が。
声を出して笑った。
⸻
その夜。
高架下。
ますみ。
藍。
カナコ。
航平。
レン。
小さな机。
「題名」
藍が言う。
「これでいい?」
ますみのスケッチブック。
『笑花――帰る場所を探す子どもたち』
「……仮」
「分かった」
「まだ仮」
「はい」
航平が。
紙を広げる。
「じゃあ町の地図」
「もう描いてるの?」
「仮」
「早い」
「仮だから」
カナコ。
「曲」
「作ってみた」
「もう!?」
「仮」
レン。
「ロゴ」
「待って!」
「仮」
「みんな仮を盾にしてない!?」
藍が笑う。
「いいじゃん」
「出さなくても」
「作るだけ作れば」
ますみが。
少し止まる。
出さなくても。
作っていい。
人に見せなくても。
作っていい。
失敗しても。
やめても。
戻っても。
「……うん」
ますみは。
新しい紙を出した。
「じゃあ」
「最初」
「どこから?」
藍が聞く。
ますみは。
少し考える。
「笑花が」
「帰る場所を」
「なくすところ」
藍が。
ペンを持つ。
「じゃあ」
「そこから」
新しい物語が。
始まった。
⸻
そして。
その日の夜。
森川の家。
小さなリビング。
テレビ。
ゲーム機。
ランドセル。
洗濯物。
生活。
「ただいま」
「おかえり!」
美月。
もう。
黄色いレインコートの小さな子ではない。
少し背が伸びた。
「遅い」
ユウ。
声変わりには。
まだ少し早い。
でも。
三年前より。
ずっと大きい。
「ごめん」
「晩飯」
「食べてきた」
「ずる」
美月。
「カレー」
「もっとずるい!」
「明日作るよ」
「絶対」
「はいはい」
森川が。
鞄を置く。
それから。
二人を見る。
「ちょっと」
「話ある」
ユウの顔が。
一瞬。
強張った。
森川は。
それに気づく。
「悪い話じゃない」
言ってから。
止まる。
「……いや」
「俺が悪くないって決めるのも」
「違うか」
ユウが。
少し怪訝な顔。
「何」
「今日」
森川は座る。
「高瀬さんに」
「会った」
美月が。
動きを止めた。
ユウは。
何も言わない。
「高瀬さん」
「お前らに」
「会いたいって」
「言ってる」
沈黙。
「でも」
森川は。
二人を見る。
「会うかどうかは」
「お前らが決めていい」
美月。
ユウ。
顔を見合わせる。
「すぐ決めなくてもいい」
森川は続ける。
「嫌なら嫌でいい」
「会いたいなら」
「その時」
「考える」
ユウは。
長い時間。
俯いていた。
やがて。
小さく。
「……会わない」
森川が。
頷く。
「分かった」
即答。
ユウが。
顔を上げる。
「いいの」
「何が」
「……」
「会わなくて」
「お前がそう決めたんだろ」
「……」
「うん」
「なら」
「今は会わない」
ユウが。
何も言わない。
美月も。
ユウを見る。
「私は」
美月が言った。
「……分かんない」
「そうか」
「うん」
「じゃあ」
「分かるまで」
「そのままでいい」
美月が。
少しだけ笑った。
ユウは。
まだ。
何も言わない。
でも。
その夜。
寝る前。
森川の部屋の前で。
立ち止まった。
「修平さん」
「ん?」
「高瀬さん」
「うん」
「……怒ってた?」
森川が。
少し考える。
「自分に?」
「……うん」
「たぶん」
「……」
「泣いてた」
ユウの顔が。
ほんの少し。
揺れた。
「そう」
「うん」
ユウは。
部屋へ戻ろうとする。
「ユウ」
「何」
「会わなくていいからな」
「……」
「今日決めたこと」
「明日変えてもいい」
「……」
「ずっと変えなくてもいい」
ユウは。
背中を向けたまま。
「うん」
と答えた。
扉が閉まる。
森川は。
その扉を。
開けなかった。
ただ。
そこにいた。
⸻
後書き
第69話でした。
森川と高瀬。
ようやく再会しました。
ですが、
ここで「謝罪→許し→和解」にはしていません。
森川は高瀬の謝罪を受け取った。
しかし、
許すかどうかは今は決めない。
そして本当に高瀬が向き合う相手は、
森川だけではなくユウ本人です。
ただし、
ユウは今回、
「会わない」
と決めました。
これも大切な答えです。
会わないことも選択。
許さないことも選択。
その答えを大人が「成長のため」と変えさせない。
ここまで描いてきたテーマが、
ようやく具体的な形になってきました。
そして森川が三年間を一人で乗り切ったわけではないことも明らかになりました。
北村千佳子。
制度そのものではなく、
制度と人を「繋ぐ」側の人です。
彼女は子どもの意思を何でも優先するわけでもない。
必要な時には大人として決める。
でも、
決めた理由を説明する。
嫌だったことを無かったことにしない。
後から変更できる余地を残す。
ここが倉田たちとの大きな違いです。
そして美月はまだ、
「分からない」。
ユウは、
「会わない」。
二人の答えは違う。
それでいい。
次回、第70話では、森川編・組織編の大きな区切りへ入ります。
高瀬が内部の記録保全へ動き、倉田自身も「施設を守ること」と「利用者を守ること」が同じではなかったと突きつけられる。
ただし、施設そのものを派手に潰す結末にはしません。
助かった人も現在利用している人もいるからです。
そして――
翔太の前に、久しぶりに長谷川拓海が現れます。
「俺は、あそこがなかったら死んでた」
その言葉によって、
この章の最後にもう一度、
“誰かを救った場所は、誰かを傷つけたからといって全部嘘になるのか”
という問いへ戻ります。




