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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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68/105

正しかった人

第68話 正しかった人


前書き


間違っている人が、


悪い顔をしているとは限らない。


むしろ、


自分は正しいと信じている人ほど、


迷わず誰かの人生に手を伸ばせる。


それでも。


正しさだけでは、


救えないものがある。


第68話です。


⸻


 午前七時十二分。


 高架下の事務所。


「……何これ」


 隼人が冷蔵庫を開けたまま固まっていた。


「どうした」


 敦が歯を磨きながら覗く。


「プリン」


「うん」


「めちゃくちゃ増えてる」


 冷蔵庫。


 一段。


 ほぼ全部。


 プリン。


 十個。


 いや。


 十二個。


「昨日グエンさん買ったみたい」


「何で」


「木戸さんに食われたから」


「仕返し?」


「対策じゃない?」


 一個一個。


 マジックで。


グエン


グエン


グエン


 全部。


 書いてある。


「怖ぇよ」


 隼人が言う。


「執念を感じる」


 翔太も起きてくる。


「一個くらい」


「やめた方がいい」


「食わねぇよ」


「木戸さんなら食べそう」


 三人。


 同時に。


 ソファを見る。


 木戸が寝ている。


「……」


 その手。


 何かを握っている。


 空のプリン容器。


「早っ!」


 隼人が叫ぶ。


「もう食ってる!」


「朝六時台ですよ!?」


「グエンさん!」


 翔太が叫ぶ。


 奥。


「ナニー!」


「事件です!」


「ナニ!?」


 足音。


 数秒後。


「キドォォォォ!」


「うわっ!」


 木戸が飛び起きる。


「朝から何!?」


「プリン!」


「……」


「オマエ!」


「待てグエン!」


「カエセ!」


「だから返せないって!」


 追いかけっこ。


 前原が。


 布団を頭から被った。


「……朝から殺すぞ」


「ヨシさんの方が怖い!」


⸻


 その頃。


 高瀬健は。


 自宅のテーブルに座っていた。


 ほとんど眠れなかった。


 時計。


 七時十九分。


 倉田との約束。


 午前十時。


 三時間弱。


 昨日。


 桜井に電話した。


『一人にはしません』


 でも。


 会話そのものは。


 高瀬がしなければならない。


 誰かが代わってくれるわけではない。


 スマートフォン。


 着信。


 桜井。


「はい」


『起きてますか』


「寝てません」


『それは良くない』


「無理です」


『朝飯は』


「……」


『高瀬さん』


「何で」


『何が』


「前原さんの周りの人」


「みんな飯の話するんですか」


 電話の向こう。


 少し沈黙。


『影響されたかな』


「桜井さんまで」


『食べてください』


「はい」


『あと』


「はい」


『今日の目的は』


『倉田さんを言い負かすことじゃありません』


「……はい」


『事実を確認する』


『それだけ』


「はい」


『怒ってもいい』


『でも』


『怒りに仕事させない』


 高瀬は。


 その言葉を。


 何度か頭の中で繰り返した。


「……分かりました」


『それから』


「はい」


『危険を感じたら』


『会話を切り上げて外へ出る』


「倉田さんは」


 高瀬は苦笑した。


「暴力振るう人じゃありません」


『そうでしょうね』


「なら」


『暴力だけが危険じゃない』


 高瀬は。


 黙った。


『では』


『九時半に』


「はい」


 電話が切れる。


 高瀬は。


 冷蔵庫を開けた。


 卵。


 パン。


 牛乳。


「……飯」


 一人で呟く。


 少し笑った。


⸻


 午前九時二十七分。


 施設から二本離れた通り。


 小さな喫茶店。


 桜井。


 黒岩。


 佐伯。


 三人が座っていた。


 高瀬が入る。


「すみません」


「早いですね」


 佐伯が時計を見る。


「寝てないんで」


「顔に出てます」


「そんなに?」


「かなり」


 黒岩が言う。


「ヨシさんより酷い」


「それ比較になります?」


「なりません」


 桜井が紙を出す。


「もう一度確認します」


「はい」


「録音については?」


「自分が参加する会話として、記録を残します」


「無理に誘導しない」


「はい」


「書類を盗まない」


「はい」


「倉田さんの机を勝手に開けない」


「しません」


「相手が認めなくても」


「追い詰めない」


「……はい」


「高瀬さん」


「分かってます」


「今日」


 高瀬は。


 少しだけ笑った。


「刑事になるわけじゃない」


「そうです」


「俺は」


「俺が知らなかったことを」


「聞くだけ」


「それで十分です」


 黒岩が。


 紙コップのコーヒーを飲む。


「それに」


「何です」


「全部今日分かる必要もない」


「……」


「一発で全部解決しようとすると」


「大体失敗する」


 高瀬は。


 小さく頷いた。


⸻


 午前十時。


 施設。


 会議室。


 倉田修一は。


 先に座っていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「休めた?」


「少し」


「そう」


 高瀬が座る。


 机。


 水。


 資料。


 倉田は。


 何も持っていない。


「さて」


 穏やかな声。


「何から話そうか」


「……」


「高瀬君」


「はい」


「君が」


「何を見たのか」


「そこから聞いてもいい?」


 高瀬は。


 倉田を見る。


「緊急対応記録です」


 倉田の表情。


 変わらない。


「どの?」


「三年前」


「警察から」


「二人の児童が戻された時のものです」


「……」


「ユウと」


「美月」


 初めて。


 倉田の指が。


 少しだけ動いた。


「その名前」


「久しぶりに聞いたな」


「覚えてるんですね」


「もちろん」


「じゃあ」


 高瀬は。


 息を吸う。


「ユウが」


「家庭内暴力を示唆する話をしたことも」


「覚えてますか」


「覚えている」


 即答だった。


 高瀬が。


 止まる。


「……覚えてる?」


「ああ」


「じゃあ」


 声が少し大きくなる。


「何で!」


 昨日の言葉。


 怒りに仕事をさせない。


 高瀬は。


 拳を握る。


「……すみません」


「いや」


 倉田は静かだった。


「怒るのは当然だ」


「なら」


「教えてください」


「何で」


「聞き取りを止めたんです」


 倉田は。


 しばらく。


 高瀬を見ていた。


「高瀬君」


「はい」


「あの二人が」


「どういう経緯で施設に来たか」


「知っている?」


「……家庭の事情」


「それだけ?」


「はい」


「そうか」


 倉田は。


 ゆっくり椅子にもたれた。


「なら」


「まずそこから話そう」


⸻


 美月。


 当時七歳。


 ユウ。


 当時十歳。


 二人は。


 兄妹ではない。


 それは。


 すでに分かっている。


「美月は」


 倉田が言う。


「母親と一緒に来た」


 高瀬の目が動く。


「母親?」


「ああ」


「記録には」


「保護者が曖昧だった」


「そう見えるようになっている」


「……どういう意味です」


「最初の受け入れは」


「正式な長期利用じゃない」


 倉田は。


 指を組む。


「緊急宿泊だった」


⸻


 その頃。


 美月の母親は。


 住む場所を失っていた。


 家賃滞納。


 仕事。


 交際相手。


 家庭内の揉め事。


 行政窓口にも。


 何度か相談していた。


 だが。


 書類が揃わない。


 連絡がつかない。


 予約日に来ない。


 支援先を紹介しても。


 途中で途切れる。


「……」


「最終的に」


 倉田が言う。


「夜」


「美月を連れて」


「うちに来た」


「誰が紹介したんです」


「地域の支援者」


「名前は」


「記録にある」


「あとで正式な手順で確認すればいい」


 高瀬は。


 黙る。


「母親は」


「三日ほどいた」


「それから」


「いなくなった」


「美月を置いて?」


「ああ」


 高瀬の胸が。


 少し重くなる。


「連絡は」


「最初はあった」


「迎えに行く」


「仕事を決める」


「部屋を探す」


「そのうち」


「繋がらなくなった」


「行政は」


「相談した」


「児童相談関係にも」


「でも」


 倉田は。


 少し顔をしかめた。


「誰が正式な保護者なのか」


「誰が一時的に預かっているのか」


「施設側の位置づけも」


「曖昧なまま」


「時間だけ過ぎた」


「そんなこと」


 高瀬が言う。


「あるんですか」


「ある」


 倉田は。


 即答した。


「綺麗な制度の図だけ見てると」


「ないように見える」


「でも」


「現場には」


「その隙間から落ちる人間がいる」


⸻


「ユウは?」


 高瀬が聞く。


 倉田の表情が。


 少し変わる。


「ユウは」


「もっと複雑だった」


「どういう」


「最初に連れてきたのは」


「父親だ」


「……」


「実父?」


「記録上は」


「そうなっていた」


「なっていた?」


「確認が不十分だった」


 高瀬が眉を寄せる。


「どういうことです」


「身分証」


「住所」


「関係書類」


「全部揃っていたわけじゃない」


「でも」


「親子だと言った」


「ユウも」


「否定しなかった」


「……」


「男は」


「仕事を探したい」


「住居が決まるまで」


「子どもを一時的に預かってほしい」


「そう言った」


「それで」


「預かった?」


「ああ」


「何日」


「最初の予定は三日」


「実際は?」


「……」


 倉田が。


 一度。


 目を伏せた。


「迎えに来なかった」


 高瀬の喉が。


 鳴る。


「連絡」


「途切れた」


「警察は」


「照会した」


「行政にも」


「でも」


「身元情報に」


「いくつか不一致があった」


「……」


「ユウ本人は」


「何て」


「父親だと言った」


「本当に?」


「少なくとも」


「最初は」


⸻


 高瀬は。


 少しずつ。


 嫌なものを感じていた。


「じゃあ」


「家庭内暴力って」


「誰から」


「ユウは」


 倉田が言う。


「明確には言わなかった」


「……」


「叩かれる」


「怒鳴られる」


「帰りたくない」


「でも」


「誰に」


「どこで」


「いつ」


「聞くたび」


「話が変わった」


「だから誇張だと?」


「違う」


 倉田は。


 初めて。


 少し強い口調になった。


「判断できなかった」


「なら」


「判断できないって」


「外へ出せばよかったじゃないですか」


「出した」


「え?」


「最初は」


 倉田は言う。


「相談した」


「でも」


「確定できない」


「緊急性を判断する情報が足りない」


「そして」


「ユウ自身が」


「次の日には」


『もう大丈夫です』


『僕が悪かったです』


「そう言った」


 高瀬の顔が。


 固まった。


 僕が悪かったです。


 また。


 その言葉。


「だから」


 倉田は続ける。


「当時の私は」


「情緒不安定」


「不安から話が膨らんだ可能性」


「そう判断した」


「……」


「間違っていたかもしれない」


 高瀬が。


 倉田を見る。


 予想していなかった。


「認めるんですか」


「何を」


「間違ってたかもしれないって」


「当たり前だろう」


 倉田は。


 疲れたように笑った。


「私は神様じゃない」


 その言葉。


 前原も。


 似たことを言っていた。


 なのに。


 どうして。


 こんなに違って聞こえるのだろう。


⸻


「でも」


 高瀬が言う。


「記録には」


「聞き取り継続不要って」


「ああ」


「関係機関への追加報告も不要って」


「ああ」


「それ」


「あなたが止めたんでしょう」


「止めた」


 また。


 即答。


「何で」


 倉田は。


 長く黙った。


「……守りたかった」


「誰を」


「施設を」


 高瀬の顔が。


 ゆっくり変わる。


「施設?」


「ああ」


「子どもじゃなくて?」


「両方だ」


「違うでしょう」


「違わない」


 倉田の声も。


 少し強くなる。


「高瀬君」


「当時」


「この施設は」


「閉鎖寸前だった」


「……」


「補助金の見直し」


「行政からの指導」


「定員」


「人員配置」


「受け入れ資格」


「曖昧な緊急宿泊を」


「何人も抱えていた」


「それ自体」


「問題だった」


「なら」


「ちゃんと報告すれば」


「報告したら」


 倉田が。


 高瀬を見る。


「美月はどこへ行った?」


「……」


「ユウは?」


「……」


「森川君は?」


「……」


「須藤君は?」


 高瀬が黙る。


「私は」


 倉田は。


 ゆっくり言う。


「正しいことをすれば」


「全員助かるとは」


「思えなくなっていた」


⸻


 倉田は。


 若い頃。


 福祉とは関係のない会社員だった。


 妻。


 子。


 住宅ローン。


 普通の生活。


 弟が。


 借金で家を失った。


 アルコール。


 仕事。


 離婚。


 家族全員。


 弟を助けようとした。


 金を貸した。


 家へ入れた。


 仕事を探した。


 でも。


 弟は。


 何度も消えた。


「最後」


 倉田は言う。


「弟は」


「冬の公園で」


「倒れていた」


 高瀬は。


 何も言わない。


「死ななかった」


「でも」


「その時」


「初めて」


「制度に繋がった」


「……」


「私は思った」


「どうして」


「ここまで落ちなければ」


「誰も捕まえてくれないんだって」


 捕まえて。


 その言葉。


 高瀬は。


 引っ掛かった。


「それで」


「あさがおに?」


「ああ」


「最初はボランティア」


「その後」


「運営へ」


「……」


「私は」


 倉田が言う。


「誰も落としたくなかった」


「行政が拾えないなら」


「こっちで拾う」


「書類がないなら」


「後から揃える」


「金がないなら」


「先に飯を出す」


「家がないなら」


「先に寝かせる」


 高瀬は。


 前原を思い出した。


 腹減ってりゃ飯。


 寝る場所がなければ寝かせる。


 似ている。


 始まりは。


 驚くほど。


 似ていた。


⸻


「でも」


 高瀬が言う。


「いつから」


「人に反省文を書かせるようになったんです」


 倉田が。


 黙る。


「いつから」


「出ていった人を」


「いなかったみたいにするようになった」


「……」


「いつから」


「ここを守るために」


「子どもの話まで」


「止めるようになったんです」


 倉田の顔から。


 少しずつ。


 穏やかさが消えていく。


「高瀬君」


「はい」


「君は」


「ここに来た時」


「何度逃げた」


「……三回」


「仕事は」


「何度無断欠勤した」


「五回」


「借金返済の金を」


「一度」


「競馬に使いました」


「それでも」


「私たちは」


「君を追い出さなかった」


「はい」


「なぜ」


「……」


「君が」


 倉田は言う。


「自分で立てるようになるまで」


「諦めなかったからだ」


「……」


「それが」


「悪いことか」


「違います」


 高瀬は答えた。


「俺は」


「それで助かった」


「なら」


「でも」


 高瀬は。


 倉田を見る。


「俺は」


「二十四歳だった」


 倉田が止まる。


「ユウは」


「十歳だった」


「……」


「俺は」


「ここから逃げようと思えば」


「逃げられた」


「実際三回逃げた」


「……」


「ユウは」


「どこへ逃げればよかったんですか」


 倉田は。


 答えない。


「俺は」


「日報書くの嫌なら」


「嫌だって言えた」


「競馬に行けた」


「仕事サボれた」


「……」


「ユウは」


「あなたたちに嫌だって言ったら」


「どこに帰れたんですか」


 沈黙。


「同じじゃない」


 高瀬が言う。


「俺と」


「あの子は」


「同じじゃない」


 倉田の目が。


 ほんの少し。


 揺れた。


⸻


「高瀬君」


「はい」


「君は」


「外の人間に何を吹き込まれた」


 高瀬の胸が。


 冷たくなる。


「……」


「前原という男か」


「なぜ名前を」


「調べた」


「……」


「元暴力団関係者」


「そうでしょう」


「だから何です」


「君は」


 倉田が。


 少し身を乗り出す。


「そんな人間の言葉を」


「信じるのか」


「……」


「我々と」


「彼と」


「どちらが」


「社会の中で」


「人を救ってきた?」


 高瀬は。


 長く。


 黙った。


 以前なら。


 答えは簡単だった。


 組織。


 実績。


 人数。


 制度。


 就職率。


 生活再建率。


 前原には。


 そんな数字はない。


「分かりません」


 倉田の眉が動く。


「またそれか」


「はい」


「最近」


「その言葉が好きだね」


「好きじゃないです」


「じゃあ」


「分からないから」


「分からないって言ってます」


 倉田が。


 黙る。


「でも」


 高瀬は続けた。


「一つだけ」


「分かります」


「何だ」


「前原さんは」


「自分が救ったって」


「言わない」


「……」


「俺たちは」


「言いすぎたんじゃないですか」


「何を」


「この人を救った」


「立ち直らせた」


「自立させた」


「……」


「本当は」


「その人が」


「自分で生きただけなのに」


 倉田の顔が。


 初めて。


 はっきり歪んだ。


⸻


「綺麗事だ」


 倉田が言った。


「そうかもしれません」


「現場を知らない人間ほど」


「本人の意思」


「選択」


「自由」


「そんな言葉を使う」


「……」


「自由にさせて」


「死んだらどうする」


 高瀬が止まる。


「帰りたいと言って」


「暴力のある家へ帰ったら?」


「……」


「酒を飲みたいと言って」


「依存症の人間へ酒を渡すのか」


「……」


「働きたくないと言って」


「一生税金で食わせるのか」


「……」


「子どもが」


「学校へ行きたくないと言えば」


「一生行かせないのか」


 高瀬は。


 答えられない。


 倉田の言葉にも。


 正しい部分がある。


 だから。


 簡単ではない。


「人は」


 倉田が言う。


「いつも正しい選択をするわけじゃない」


「はい」


「なら」


「誰かが」


「止めなきゃいけない時がある」


「はい」


「導かなきゃいけない時がある」


「……はい」


「それを」


「支配と呼ぶのか」


 高瀬は。


 考えた。


 長く。


 そして。


「分かりません」


 倉田が。


 小さく息を吐く。


「でも」


 高瀬は続ける。


「だからこそ」


「止める側にも」


「止められる仕組みが」


「必要なんじゃないですか」


 倉田の目が。


 高瀬を見る。


「俺たちが」


「間違えた時」


「誰が」


「止めるんです」


 会議室。


 静かだった。


⸻


 倉田は。


 長い時間。


 何も言わなかった。


 やがて。


 立ち上がる。


「ついてきなさい」


「どこへ」


「見せるものがある」


 高瀬の身体が強張る。


 桜井。


 危険なら出る。


 高瀬は。


 スマートフォンをポケットの中で握った。


「どこですか」


「資料室」


 二人。


 廊下。


 階段。


 一階。


 古い書庫。


 鍵。


 倉田が開ける。


「ここは」


「旧記録?」


「ああ」


 段ボール。


 ファイル。


 年度。


 利用者番号。


「電子化前のものだ」


 倉田は。


 一箱。


 引き出した。


 埃。


 机へ。


「美月」


「ユウ」


「最初期の記録」


 高瀬の心臓が。


 速くなる。


「何で」


「昨日見たファイルに入ってないんです」


「別管理だった」


「なぜ」


「正式利用になる前の」


「緊急受け入れだからだ」


 倉田が。


 一冊。


 薄いファイルを出す。


「見ろ」


 高瀬は。


 開いた。


 美月。


 母親。


 緊急宿泊。


 相談。


 連絡途絶。


 行政照会。


 そして。


 写真。


 黄色い傘。


 美月。


 母親らしき女性。


 高瀬は。


 次。


 ユウ。


 男。


 父親と申告。


 住所不定。


 本人確認不十分。


 照会。


 連絡途絶。


 そして。


 備考。


 高瀬の指が。


 止まった。


本人談:「お父さんじゃない」


「……」


 高瀬が。


 顔を上げる。


「倉田さん」


「ああ」


「これ」


「……」


「最初」


「父親って」


「言ってましたよね」


「ああ」


「でも」


 指。


 文字。


「本人」


「お父さんじゃないって」


「言ってる」


 倉田は。


 目を閉じた。


「三日目にな」


「……誰なんです」


「分からない」


「調べなかった?」


「調べた」


「でも」


「男は消えた」


「警察は」


「相談した」


「……」


「それで」


 倉田は。


 もう一枚。


 出す。


 警察相談。


 児童関連機関への照会。


 身元確認。


 しかし。


 ユウ本人が。


 氏名。


 生年月日。


 住所。


 何度聞いても。


 少しずつ違う。


「何で」


 高瀬が言う。


「嘘ついてたんです」


「分からない」


 倉田は答える。


「怖かったのか」


「教えられていたのか」


「本人も正確に知らなかったのか」


「……」


「ただ」


 さらに一枚。


 高瀬が見る。


 子どもの聞き取り。


 短い文章。


「前の家には帰りたくない」


「あの人のところにも帰りたくない」


「美月ちゃんのところにいたい」


 高瀬は。


 息を止めた。


「……美月」


「あの二人は」


 倉田が言う。


「施設で知り合った」


「最初からじゃない」


「……」


「ユウは」


「美月を守ることで」


「自分の役割を作った」


 高瀬は。


 あの姿を思い出す。


 荷物を持つ。


 道を見る。


 大人の顔を見る。


 美月が失敗すると。


 自分が謝る。


「だから」


「僕が悪いって……」


「おそらく」


 倉田が言う。


「自分が役に立たなければ」


「ここにもいられない」


「そう思っていたのかもしれない」


「……」


「私は」


 倉田が。


 小さく言った。


「そこを」


「直そうとした」


 高瀬が見る。


「でも」


「やり方を」


「間違えた」


 倉田は。


 初めて。


 はっきり言った。


⸻


 その頃。


 高架下。


「えっ」


 ますみの声。


「何」


 藍が覗く。


「これ」


 文化展の募集要項。


「展示」


「うん」


「一人じゃなくていいんだ」


「グループ参加?」


「うん」


 カナコが。


 すぐ寄ってくる。


「じゃあ音つけられる?」


「たぶん」


 航平。


「地図も?」


「何で地図」


「世界観」


「いる?」


「いる」


「絶対?」


「絶対」


 レンまで。


「ロゴいる?」


「なんで全員来るの」


 ますみが困る。


 藍が笑う。


「こうなると思った」


「私」


「出すってまだ」


「決めてない」


「分かってる」


「じゃあ何で」


「仮に」


 藍が言う。


「仮に出すなら」


「みんなでできる」


 ますみは。


 スケッチブックを見る。


 笑花。


 一人だった少女。


 でも。


 今。


 その周りに。


 少しずつ。


 世界ができ始めている。


「……じゃあ」


「うん」


「仮に」


「うん」


「話」


「考える」


「うん」


「仮だからね」


「分かった」


「まだ出さないから」


「はいはい」


「はい一回!」


「分かりました」


 ますみは。


 少し笑った。


⸻


 書庫。


 高瀬は。


 最後のページを見ていた。


 そこに。


 短いメモ。


本人希望:施設外の大人と話したい。


 その横。


 名前。


森川修平


「……」


 高瀬が。


 倉田を見る。


「これ」


「ああ」


「ユウが」


「森川さんと話したいって」


「そうだ」


「じゃあ」


「何で」


 高瀬の声が。


 震える。


「会わせなかったんです」


 倉田は。


 答えない。


「倉田さん」


「……」


「何で」


「森川君は」


 倉田が言う。


「施設の正式な支援者ではなかった」


「だから?」


「身元も」


「当時は安定していなかった」


「住居」


「仕事」


「過去の借金」


「……」


「子どもを任せられる人物だとは」


「判断できなかった」


「会わせるだけでしょう」


「会えば」


 倉田が言う。


「ユウは」


「森川君のところへ行きたがる」


「……」


「そう思った」


 高瀬は。


 息を呑む。


「だから」


「会わせなかった?」


「ああ」


「本人のために?」


「ああ」


 その言葉。


 高瀬の頭に。


 何度も響く。


 本人のため。


 本人のため。


 本人のため。


「……倉田さん」


「何だ」


「それ」


 高瀬は。


 ゆっくり言った。


「誰が」


「決めたんですか」


 倉田が。


 止まる。


「ユウのためになるって」


「誰が」


 高瀬は。


 自分の胸へ。


 手を当てた。


「俺たちが」


「決めたんですよね」


 倉田は。


 答えなかった。


⸻


 しばらく。


 二人とも。


 何も言わない。


 やがて。


 倉田が。


 椅子へ座った。


「高瀬君」


「はい」


「私は」


「間違ったと思うか」


 高瀬は。


 すぐには答えなかった。


 昨日までなら。


 はい。


 か。


 いいえ。


 どちらか。


 選ばなければと思った。


 でも。


 今は。


「分かりません」


 倉田が。


 苦笑する。


「またか」


「はい」


「でも」


 高瀬は。


 ファイルを見る。


「間違ったかもしれないことを」


「外から確認してもらう必要は」


「あると思います」


 倉田の笑顔が。


 消える。


「外へ出すのか」


「はい」


「この記録を」


「勝手には持ち出しません」


「……」


「でも」


「あることは」


「伝えます」


「高瀬君」


「はい」


「ここが」


 倉田は。


 低い声で言った。


「なくなるかもしれない」


 高瀬の胸が。


 痛んだ。


 自分を救った場所。


 飯。


 布団。


 仕事。


 ノート。


 初めて貯めた金。


 全部。


 ここにある。


「……はい」


「今いる利用者は」


「どうする」


「分かりません」


「職員は」


「分かりません」


「君自身は」


「分かりません」


「それでも?」


 高瀬は。


 長く。


 黙った。


 そして。


「だから」


「俺たちだけで」


「決めちゃ駄目なんじゃないですか」


 倉田の顔が。


 動いた。


「残すか」


「閉めるか」


「正しいか」


「間違ってるか」


「それも」


「俺たちだけで決めたら」


 高瀬は。


 ユウの記録へ。


 目を落とした。


「また」


「同じことになる」


⸻


 午後一時十一分。


 喫茶店。


 扉が開く。


 高瀬が入ってきた。


 桜井。


 黒岩。


 佐伯。


 三人。


 高瀬は。


 座る前に。


「ありました」


 と言った。


「何が」


 桜井。


「最初の記録」


「美月とユウの」


 三人の表情が変わる。


「それから」


 高瀬は続ける。


「倉田さん」


「記録を」


「外から確認してもらうことに」


「反対すると思います」


「……」


「でも」


「俺」


 椅子へ座る。


「伝えます」


「存在を」


 桜井が。


 ゆっくり頷く。


「分かりました」


「あと」


 高瀬が言う。


「森川さんに」


「会いたいです」


「……」


「謝るため?」


 黒岩が聞く。


「それもあります」


「でも」


 高瀬は。


 少し考えた。


「聞きたい」


「何を」


「俺たちが」


「見てなかったもの」


「森川さんには」


「何が見えてたのか」


 桜井は。


 すぐには答えなかった。


「本人に聞いてみます」


「はい」


「会うかどうかは」


「森川さんが決める」


「……はい」


 高瀬は。


 少しだけ笑った。


「それでいいです」


⸻


 夜。


 高架下。


 前原のスマートフォンが鳴った。


 森川。


「おう」


『……前原さん』


「何だ」


『高瀬さんが』


「会いてぇって」


『はい』


「嫌なら断れ」


『……』


「今決めなくてもいい」


『……』


「俺に決めさせんな」


 電話の向こう。


 森川が。


 小さく笑った。


『最近』


『そればっかりですね』


「うるせぇ」


『……前原さん』


「ん」


『会います』


 前原の表情が。


 少しだけ変わる。


「いいのか」


『分かりません』


「そうか」


『でも』


 一度。


 森川が息を吸う。


『俺も』


『高瀬さんに』


『言ってないことがあります』


「……」


『ユウのこと』


『美月のこと』


「うん」


『それから』


 森川の声が。


 少し低くなる。


『三年前』


『俺たちが逃げたあと』


『誰に助けてもらったのか』


 前原が。


 ゆっくり身体を起こす。


「誰だ」


『会った時に』


「今言え」


『すみません』


「おい」


『でも』


 森川は。


 少し笑った。


『俺も』


『自分で話したいんです』


 前原は。


 しばらく黙った。


 そして。


「……分かった」


『ありがとうございます』


「場所は」


『できれば』


 一度。


 迷って。


『ひだまり食堂で』


 前原の口元が。


 ほんの少し。


 緩んだ。


「いいんじゃねぇか」


『はい』


「飯もある」


『……それが一番ですね』


「だろ」


 電話が切れる。


 前原は。


 スマートフォンを置いた。


「ヨシさん」


 敦。


「会うって?」


「ああ」


「森川さんと高瀬さん?」


「ああ」


「どこで」


「ひだまり」


 隼人が。


 奥から顔を出す。


「俺その日手伝う」


「まだ日決まってねぇぞ」


「じゃあ決まったら」


「何で」


「……」


 隼人は。


 少し考えた。


「分かんね」


 前原が笑う。


「好きだなお前ら」


「ヨシさんが流行らせたんだろ」


「そうだったな」


 敦が。


 思わず笑った。


⸻


 その夜。


 ますみは。


 一人。


 スケッチブックへ。


 新しい絵を描いた。


 道。


 二人の子ども。


 遠く。


 灯り。


 でも。


 今回は。


 灯りのある建物へ向かっているわけではない。


 道の途中。


 何人か。


 人がいる。


 座っている人。


 立っている人。


 食べ物を持っている人。


 地図を持っている人。


 誰も。


 子どもの手を。


 引っ張っていない。


 ただ。


 一緒に。


 道を見ている。


 ますみは。


 その絵の下へ。


 小さく。


 仮の題名を書いた。


『笑花――帰る場所を探す子どもたち』


 少し見て。


 消そうとする。


 手が止まる。


「……」


 消さなかった。


⸻


後書き


第68話でした。


今回は倉田を、単純な「黒幕」にはしませんでした。


彼にも始まりがあった。


制度の隙間から落ちる人を見て、


「だったら自分たちが先に拾う」


と考えた。


実はこれは、前原とかなり近いところから始まっています。


しかし違いが生まれた。


前原は、


「相手が自分のところを出ていく可能性」を残した。


倉田は、


「また落ちるくらいなら、こちらが正しい方向へ導くべきだ」


と考えるようになった。


そこから、


保護と管理の境界が曖昧になっていった。


そして美月とユウについても、新しい事実が出ました。


美月は母親と緊急宿泊に来て、その後母親との連絡が途切れた。


ユウは「父親」を名乗る男に連れてこられたものの、後に本人が、


「お父さんじゃない」


と話していた。


ただし、ここもまだ断定はしません。


誘拐だったのか。


親族だったのか。


母親の交際相手だったのか。


別の事情があったのか。


現段階では分からない。


重要なのは、


ユウがちゃんと、


「前の家には帰りたくない」

「森川さんと話したい」


と意思を示していたこと。


その意思を、大人たちが「本人のため」に退けた。


ここが森川編の核心です。


そして次回、第69話。


いよいよ――


森川修平と高瀬健が、ひだまり食堂で再会します。


前原たちは立ち会いますが、主役は二人です。


高瀬は謝る。


しかし森川は、


簡単には「許す」と言わない。


そして森川が三年間、美月とユウを完全な孤立状態にせず生活させられた理由――


彼らを助けた、もう一人の人物


が明らかになります。


森川編は、いよいよ終盤です。

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