救われた場所
第67話 救われた場所
前書き
自分を救ってくれた人が、
誰かを傷つけていた。
そんな時。
救われた自分の過去まで、
間違いになるのだろうか。
恩を感じることと、
間違いを指摘すること。
その二つは、
本当に両立しないのだろうか。
第67話です。
⸻
午後九時十四分。
高架下の事務所。
敦はスマートフォンを耳に当てたまま、
立っていた。
『ユウは』
電話の向こう。
高瀬の声。
『ちゃんと助けを求めてました』
誰も喋らない。
前原。
桜井。
黒岩。
川本。
隼人。
翔太。
さっきまで笑っていたグエンまで。
敦を見る。
「高瀬さん」
『はい』
「その記録」
『あります』
「今、手元に?」
『……はい』
「持ち出したんですか」
一瞬。
沈黙。
『まだ』
「まだ?」
『職場にいます』
桜井が立ち上がる。
敦から少し離れた位置へ来る。
「岡野」
「はい」
「スピーカーにできるか」
敦が高瀬に確認する。
「桜井さんたちも聞いていいですか」
『……はい』
通話を切り替える。
高瀬の呼吸音。
事務所全体へ。
小さく響く。
「桜井です」
『はい』
「記録の内容」
「もう一度」
『……』
紙をめくる音。
『緊急対応記録』
『日付は』
『三年前の』
『ユウたちが一度警察に保護された日です』
「続けて」
『本人より』
一度。
高瀬の声が止まる。
『家庭内暴力を示唆する発言あり』
隼人の表情が変わった。
『聞き取り継続不要』
『情緒不安定による誇張の可能性』
そして。
『関係機関への追加報告は』
『現時点で不要と判断』
桜井が。
ゆっくり息を吐いた。
「承認者」
『倉田修一です』
前原の目が細くなる。
「お前は」
桜井が聞く。
「この記録を当時見たか」
『見てません』
「絶対に?」
『はい』
「ユウ本人からも」
「家庭内暴力について聞いてない?」
『聞いてません』
「施設職員間の引き継ぎは」
『ありませんでした』
高瀬は。
声を震わせながら続ける。
『俺』
『ユウは』
『何も言わない子だと思ってたんです』
「うん」
『だから』
『自分の気持ちを言葉にできるように』
『反省文を書かせて』
「……」
『違った』
高瀬が。
小さく言った。
『言ってたんです』
『最初から』
『俺たちが』
『言わせなかったんじゃない』
『言ってたのに』
そこで。
言葉が途切れた。
⸻
「高瀬」
前原が口を開く。
『……はい』
「今」
「その記録」
「どうしたい」
『……』
「こっちに渡したいのか」
『分かりません』
「そうか」
『でも』
「うん」
『このまま』
『引き出しに戻すのは』
『駄目だと思います』
「何で」
『……』
高瀬は。
少し考えた。
『ユウが』
『言ったからです』
「うん」
『一回』
『ちゃんと』
『助けてって言った』
前原は何も言わない。
『それを』
『また』
『無かったことにしたら』
『……』
高瀬が息を吸う。
『俺も』
『倉田さんと同じになる』
静かだった。
「じゃあ」
前原が言う。
「どうする」
『分かりません』
「なら」
前原は。
いつものように答えた。
「一人で決めんな」
『……』
「今まで散々」
「人に自立しろって言ってきたんだろ」
『はい』
「じゃあ今日くらい」
「頼れ」
高瀬が。
少しだけ。
息を呑んだ。
⸻
桜井が前へ出る。
「高瀬さん」
『はい』
「まず」
「原本は勝手に持ち出さない方がいい」
『……はい』
「写真を撮って送れ」
「と言いたいところだが」
少し止まる。
「それも慎重にやる」
敦が見る。
「写真も駄目なんですか」
「駄目とは言ってない」
「ただ」
桜井は。
いつもの慎重な口調で続ける。
「記録には」
「他の利用者情報が含まれている可能性がある」
「個人情報」
「内部規定」
「持ち出しの問題」
「後で」
「記録そのものの扱いを争われた時」
「こっちが雑だと」
「話が全部そっちへ逸れる」
「……」
「だから」
高瀬へ。
「今は」
「その記録の存在」
「ファイル名」
「日付」
「保管場所」
「承認者」
「自分がいつ見つけたか」
「それを」
「自分の手元に時系列でメモしておいてください」
『メモ』
「はい」
『そんなのでいいんですか』
「まずは」
「余計なことをしない」
「これは大事です」
前原がぼそっと言う。
「お前ら刑事って面倒くせぇな」
「面倒だから証拠になるんだ」
「はいはい」
高瀬の向こうで。
ほんの少し。
笑ったような音がした。
⸻
「それと」
桜井が続ける。
「倉田さんに」
「今この件を問い詰めないでください」
『……』
「できますか」
『正直』
一拍。
『今すぐ聞きたいです』
「でしょうね」
『何で』
『どうして』
『ユウの話を止めたのか』
「うん」
『聞きたい』
「でも」
「今聞けば」
「記録を処分される可能性がある」
高瀬が。
黙った。
敦の背中が少し冷える。
「そこまでしますかね」
敦が言う。
桜井は。
「分からない」
と答えた。
「しないかもしれない」
「でも」
「可能性がある以上」
「先に動かない」
「……はい」
「今夜は帰れますか」
『はい』
「なら」
「帰ってください」
『でも記録が』
「今夜」
「誰かが急に処分する兆候は?」
『……ありません』
「なら」
「あなたが妙な動きをする方が」
「逆に警戒される」
高瀬が。
小さく息を吐く。
『分かりました』
「明日」
「佐伯さんとも相談します」
「必要なら」
「正規の通報や記録保全の方法を探します」
『……正規の』
「あなたも守らないといけない」
『俺は別に』
「別じゃありません」
桜井の声が。
少し強くなった。
「内部情報を出した人間が」
「一人で全部背負って」
「生活まで壊す必要はない」
高瀬が黙る。
「それでは」
「今までと同じだ」
敦が。
その言葉に気づく。
また。
全部自分で背負う。
ユウ。
森川。
高瀬。
違う人間なのに。
同じ場所へ。
何度も戻る。
⸻
『桜井さん』
「はい」
『一つ』
「何でしょう」
『俺』
一度。
『ここを』
『辞めた方がいいですか』
桜井は。
すぐ答えなかった。
前原を見る。
前原は。
肩をすくめた。
「俺に振るな」
「振ってない」
桜井が高瀬へ言う。
「それは」
「今夜決めないでください」
『……』
「辞める理由が」
「罪悪感だけなら」
「明日でもいい」
「一週間後でもいい」
「一か月後でもいい」
『でも』
「あなたがそこにいることで」
「確認できることもある」
「逆に」
「そこにいることで」
「苦しくなりすぎることもある」
「……」
「だから」
「今は決めなくていい」
高瀬は。
長く黙った。
『……分からないままで』
「いいです」
敦が。
少し笑う。
「流行ってますね」
桜井が見る。
「何が」
「分からない」
「いい言葉だろ」
「最初から桜井さん言ってましたっけ」
「俺だ」
前原。
「え」
「俺が流行らせた」
「ヨシさん何でも自分の手柄にしますね」
「何だと」
電話越し。
高瀬が。
今度は。
はっきり笑った。
『……すみません』
「何で謝る」
『いや』
『こんな話してるのに』
『ちょっと』
『おかしくて』
「笑いたきゃ笑え」
前原が言う。
「別に」
「反省中は笑っちゃいけねぇルールないだろ」
高瀬が。
また黙った。
その言葉。
意外と。
深く入ったのかもしれなかった。
⸻
電話を切ったあと。
事務所には。
少し重たい空気が残った。
グエンが。
おそるおそる聞く。
「ゴハン……タベル?」
前原が見る。
「何で小声なんだ」
「クウキ」
「読めるようになったんですね」
翔太。
「ヨメル!」
「すごい」
「デモ」
グエンは鍋を見る。
「カレー、ノコル」
「それは困るな」
川本。
「じゃあ食べるか」
黒岩。
「食いますか」
敦。
少しずつ。
また。
日常へ戻る。
隼人は。
黙っていた。
ユウ。
家庭内暴力。
助けてと言った。
でも。
聞いてもらえなかった。
隼人には。
他人事に思えなかった。
⸻
食事のあと。
隼人は外へ出た。
高架下。
夜風。
自動販売機。
缶コーヒー。
飲めないほど苦い。
「それ」
敦が出てくる。
「無理してるでしょ」
「何が」
「ブラック」
「飲めるし」
一口。
顔が歪む。
「苦っ」
「ほら」
「うるせぇ」
敦は。
自分はミルクティー。
「子ども」
「十九だっつーの」
「十九でブラック飲まなくていいでしょ」
「そういう問題?」
二人。
高架の柱にもたれる。
「ユウ」
隼人が言った。
「うん」
「言ってたんだな」
「うん」
「助けてって」
「そうみたい」
「……」
隼人は。
缶を見つめる。
「俺」
「うん」
「言わなかった」
敦は何も言わない。
「親父に殴られても」
「学校でも」
「先生に」
「家、大丈夫かって」
「一回聞かれたことある」
「……うん」
「大丈夫ですって言った」
「そっか」
「だから」
隼人が言う。
「ユウの方が」
「俺よりちゃんとしてたな」
敦が。
隼人を見る。
「何で比べるの」
「え」
「言えたユウが偉くて」
「言えなかった隼人が駄目?」
「いや」
「そういう意味じゃ」
「同じじゃない?」
敦は。
静かに言う。
「高瀬さんたちが」
「みんな同じ方法で助かると思ってたのと」
隼人が。
黙る。
「言える人もいる」
「言えない人もいる」
「言ったけど戻される人もいる」
「言わないで逃げる人もいる」
「……」
「どれが正しいとか」
「ないんじゃないかな」
隼人は。
苦いコーヒーを。
もう一口。
「岡野さん」
「うん」
「最近」
「ヨシさんみたいになってきたな」
「やめて」
即答。
「そこまで嫌?」
「嫌というか」
「先が怖い」
隼人が笑う。
「本人に言うぞ」
「やめて!」
⸻
翌朝。
午前七時五十分。
高瀬は。
職場の前に立っていた。
いつもなら。
何も考えず入る。
カードをかざす。
挨拶。
机。
仕事。
今日は。
扉が。
少し遠く見えた。
昨日まで。
ここは。
自分を救ってくれた場所だった。
今も。
その事実は変わらない。
ここで。
飯を食べた。
眠った。
働き方を覚えた。
借金を返した。
笑えるようになった。
それは。
全部本当。
でも。
同じ建物で。
ユウの言葉は。
止められていた。
「……」
高瀬は。
カードをかざす。
ピッ。
扉が開く。
「おはようございます」
「おはよう」
いつもの同僚。
「昨日遅かったね」
「少し」
「無理すんなよ」
「はい」
普通だ。
みんな。
普通に優しい。
だから。
苦しかった。
⸻
「高瀬君」
午前九時。
倉田が呼ぶ。
「はい」
「昨日」
「少し疲れていたようだけど」
「大丈夫?」
「……はい」
「そう」
倉田は。
いつもの穏やかな笑顔。
「利用者支援で」
「何か気になることが?」
「いえ」
「ならいい」
その目。
以前なら。
安心した。
今日は。
読まれているように感じる。
「高瀬君」
「はい」
「最近」
「外部の人と話しているそうだね」
高瀬の背中に。
冷たいものが走る。
「誰から」
「いや」
倉田は笑う。
「責めてるわけじゃない」
「君にも友人はいる」
「当然だ」
「……」
「ただ」
机の上。
指を組む。
「最近」
「昔の利用者について」
「妙な問い合わせが続いてる」
「……」
「森川君」
「須藤君」
「白石君」
「……」
「偶然かな」
高瀬は。
呼吸を整える。
「俺には」
「分かりません」
倉田が。
少しだけ目を細める。
「そうか」
「はい」
その瞬間。
高瀬は。
自分が初めて。
この場所で。
「分かりません」
と言えたことに気づいた。
今までは。
上司へ。
できません。
知りません。
分かりません。
そういう言葉を。
なるべく使わないようにしていた。
成長した人間は。
自分で答えを出す。
そう思っていたから。
「高瀬君」
「はい」
「君は」
倉田が言う。
「この場所に救われた」
また。
その言葉。
「はい」
「恩を」
「忘れないでほしい」
高瀬は。
倉田を見る。
「……恩って」
「ん?」
「何ですか」
初めて。
倉田の顔から。
笑顔が消えた。
⸻
「どういう意味だい」
「俺」
高瀬は言う。
「ここに助けてもらいました」
「もちろん」
「だから」
「今ここで働いてます」
「ああ」
「でも」
手が震える。
「助けてもらった人間は」
「この場所が間違った時」
「黙らなきゃいけないんですか」
倉田は。
何も言わない。
「高瀬君」
「はい」
「何を見た」
来た。
高瀬は思った。
ここで。
言ってはいけない。
昨日。
桜井に言われた。
問い詰めるな。
余計なことをするな。
証拠を守れ。
「……」
「高瀬君」
「俺」
高瀬は。
ゆっくり息を吐く。
「今」
「自分が何を考えてるか」
「分かりません」
倉田の目が。
ほんの少し。
動いた。
「そうか」
「はい」
「なら」
笑顔が戻る。
「少し休むといい」
「休み?」
「二、三日」
「有給も残っているだろう」
「……」
「疲れている時に」
「大事な判断をしない方がいい」
言っていることは。
正しい。
だから。
怖い。
「ありがとうございます」
「うん」
「今日も」
「帰っていいよ」
高瀬は。
立ち上がる。
扉へ。
「高瀬君」
振り返る。
「はい」
「君を」
倉田は。
穏やかに言った。
「疑っているわけじゃない」
「……はい」
「心配しているだけだ」
高瀬は。
何も言わなかった。
⸻
午前十時三十二分。
高瀬は。
建物の外へ出た。
スマートフォン。
敦の番号。
押そうとする。
止める。
周囲を見る。
誰もいない。
それでも。
少し歩く。
駅。
コンビニ。
公園。
ベンチ。
ようやく。
電話。
「はい」
『岡野さん』
「高瀬さん?」
『俺』
「どうしました」
『休めって言われました』
「え」
『二、三日』
「何で」
『疲れてるように見えるからって』
敦が。
少し黙る。
「それだけ?」
『分かりません』
「……」
『あと』
「はい」
『恩を忘れるなって』
敦は。
何も言えなくなる。
『岡野さん』
「はい」
『俺』
高瀬が。
少し笑う。
『やっぱり』
『ここ好きなんです』
敦の胸が。
締め付けられた。
『嫌いになれない』
「……」
『倉田さんにも』
『助けてもらった』
『本当なんです』
「はい」
『なのに』
「うん」
『あの記録見たら』
『もう』
『前と同じには見れない』
「……」
『これ』
『裏切りなんですかね』
敦は。
長い時間。
答えを探した。
でも。
分からない。
だから。
「俺には」
「分かりません」
『……』
「でも」
「一個だけ」
『はい』
「助けてもらったこと」
「無かったことにしなくていいんじゃないですか」
高瀬が黙る。
「助けてもらった」
「それは本当」
「でも」
「ユウが助けてもらえなかった」
「それも本当かもしれない」
『……』
「両方」
「本当でいいんじゃないですか」
高瀬の向こう。
車の音。
子どもの声。
風。
『……そんなの』
「はい」
『苦しいですね』
「そうですね」
『どっちか嘘なら』
『楽なのに』
「うん」
敦は。
森川。
高瀬。
隼人の母親。
坂口。
みんな。
思い出す。
「人って」
「そういうの多いですね」
『何がです』
「一個じゃない」
『……』
「良かったことも」
「悪かったことも」
「一緒にある」
高瀬は。
少しだけ笑った。
『岡野さん』
「はい」
『やっぱり』
『前原さんに似てきてません?』
「なんでみんな言うんですか!」
電話の向こう。
高瀬が。
久しぶりに。
普通に笑った。
⸻
その日の午後。
佐伯が事務所へ来た。
桜井。
黒岩。
前原。
敦。
机には。
高瀬が口頭で伝えた記録内容。
時系列。
過去の行政記録。
警察保護。
施設への返還。
「直接」
佐伯が言う。
「児童相談所系の古い記録を」
「今すぐ全部照合できるわけではありません」
「でも」
「施設からの報告内容と」
「行政側の記録にズレがある可能性は」
「前からありました」
「今回ので?」
「かなり確認する理由が強くなりました」
前原が聞く。
「高瀬の記録」
「どうやって外へ出す」
「まず」
佐伯は言う。
「本人が内部通報制度を使えるか」
「確認します」
「内部?」
前原が露骨に嫌そうな顔。
「同じ組織に言うのか」
「法人内部だけじゃありません」
「自治体の所管部署」
「委託や補助が絡んでいるなら」
「監督側」
「子どもへの虐待や不適切対応が疑われるなら」
「そちらの窓口」
「……」
「それと」
桜井。
「記録の保全」
「はい」
「高瀬さん本人が」
「無理に持ち出さなくて済む形を探します」
「お前ら」
前原が言う。
「随分ちゃんとしてんな」
「何を今さら」
黒岩が笑う。
「ヨシさん」
「世の中全部」
「殴って解決できないんですよ」
「俺を何だと思ってんだ」
「殴って解決してきた人」
「カー坊!」
「俺じゃないっす」
川本が遠くから返す。
「呼んでねぇ!」
⸻
隼人は。
その話を少し離れて聞いていた。
役所。
通報。
記録。
制度。
難しい。
でも。
以前ほど。
全部を敵だとは思わなかった。
ユウを戻した警察。
話を止めた施設。
記録を見つけた高瀬。
調べる佐伯。
慎重な桜井。
全部。
「大人」。
でも。
全員同じではない。
それだけでも。
少し違った。
⸻
午後四時。
ますみは。
事務所の隅。
文化展の募集要項を。
また見ていた。
藍は。
あえて何も言わない。
ますみが。
紙を持ち上げる。
「これ」
「うん」
「締め切りいつ?」
藍の顔が。
ほんの少し明るくなる。
でも。
大げさに喜ばない。
「三週間後」
「……」
「まだある」
「うん」
「出すって決めたわけじゃない」
「分かってる」
「見るだけ」
「うん」
ますみは。
募集要項を読む。
展示スペース。
壁面。
机。
電源利用。
小冊子。
音源。
「……藍」
「何」
「もし」
「うん」
「もし出すなら」
「絵だけじゃ」
「嫌かも」
「どうしたい?」
ますみは。
少し考える。
「話」
「……」
「笑花の」
「ちゃんと」
「話にしたい」
藍が。
ゆっくり笑った。
「じゃあ」
「書こうか」
「今?」
「今じゃなくていい」
「……」
ますみが。
募集要項を見る。
「分かんない」
「うん」
「でも」
一度。
スケッチブック。
笑花。
笑っている少女。
「ちょっと」
「やってみたい」
藍は。
それ以上。
何も言わなかった。
「じゃあ」
ノートを開く。
「最初だけ」
「考える?」
「……うん」
小さな一歩。
誰にも拍手されない。
それでいい。
⸻
夕方六時。
高瀬は。
自宅。
ワンルーム。
久しぶりに。
早い時間から。
一人だった。
テレビ。
つけない。
カーテン。
閉める。
冷蔵庫。
開ける。
食材はある。
自分は。
生活できている。
昔なら。
ここまで来られなかった。
あの場所のおかげだ。
「……」
高瀬は。
棚から。
一冊のノートを出した。
古い。
自分が支援を受けていた頃のもの。
表紙。
生活改善記録
中。
自分の字。
『今日できたこと』
『できなかったこと』
『次にすること』
最初は。
乱雑。
途中から。
整っていく。
そして。
一年前後。
あるページ。
今日、仕事でミスをした。
逃げずに報告できた。
人のせいにしなかった。
少し前より成長したと思う。
高瀬は。
長い時間。
そのページを見た。
あの時。
本当に嬉しかった。
自分で自分を。
少しだけ好きになれた。
このノートは。
自分を傷つけなかった。
むしろ。
助けた。
「……」
高瀬は。
ユウの字を思い出す。
ぼくがちゃんとできなかったから。
同じ方法。
でも。
違う。
「何が」
高瀬は。
一人で呟いた。
「違ったんだろ」
答え。
少しずつ。
見えてくる。
自分は。
自分で書いた。
大人に。
自分の人生を立て直したいと。
ある程度。
選んでいた。
ユウは。
十歳。
逃げ場がない。
断る力も。
大人と対等に話す力もない。
高瀬は。
ノートを閉じた。
「……同じじゃない」
初めて。
自分の声で。
言った。
「全然」
「同じじゃない」
⸻
その時。
スマートフォン。
着信。
表示。
倉田修一
高瀬は。
しばらく見た。
出る。
「はい」
『高瀬君』
「はい」
『休めてる?』
「……はい」
『それなら良かった』
「はい」
『一つ』
「何でしょう」
『確認したいことがあって』
高瀬の身体が。
少し硬くなる。
『昨日』
『古い行動記録のファイル』
『見た?』
高瀬は。
答えなかった。
『高瀬君?』
沈黙。
そして。
高瀬は。
ゆっくり言った。
「……見ました」
電話の向こう。
倉田も。
黙った。
『そう』
「はい」
『なら』
倉田の声。
穏やか。
でも。
冷たい。
『明日』
『少し話そうか』
「……はい」
『二人で』
電話が切れる。
高瀬は。
スマートフォンを置く。
手が。
震えていた。
怖い。
逃げたい。
でも。
逃げていいのか。
逃げない方がいいのか。
分からない。
高瀬は。
前原の言葉を思い出す。
『一人で決めんな』
スマートフォンを手に取る。
敦。
押しかけて。
止める。
今度は。
自分で。
別の番号。
桜井。
呼び出し。
『はい』
「桜井さん」
『高瀬さん?』
「明日」
一度。
呼吸。
「倉田さんと」
「二人で話すことになりました」
桜井の声が。
すぐに変わる。
『場所と時間は』
「職場です」
『分かりました』
「俺」
「どうすれば」
『まず』
桜井は。
落ち着いた声で言った。
『明日まで』
『余計なことはしない』
「はい」
『そして』
「はい」
『一人にはしません』
高瀬は。
目を閉じた。
「……ありがとうございます」
その言葉を。
今度は。
誰にも止められなかった。
⸻
後書き
第67話でした。
今回は高瀬にとって、
かなり大きな転換点です。
彼が今苦しんでいるのは、
「自分を救ってくれた場所を嫌いになれない」
ということ。
これはとても重要です。
組織側に問題があったからといって、
高瀬が救われた経験まで偽物になるわけではありません。
逆に、
高瀬が救われたからといって、
ユウへの対応まで正しかったことにもならない。
二つとも本当。
だから苦しい。
そして高瀬は、自分が使っていた「生活改善記録」とユウの反省文を比べ、
初めて決定的な違いに気づきました。
高瀬にはある程度、
選ぶ力があった。
ユウには、
それがほとんどなかった。
同じ方法でも、
相手の年齢、立場、逃げ道、同意によって、
意味は全く変わる。
ここがこの組織編の核心になってきます。
一方、ますみもついに、
文化展について、
「ちょっとやってみたい」
と言いました。
森川編の決着が近づくのと並行して、
今度は彼女たちの「笑花」が、
少しずつ外へ出る準備を始めています。
そして次回、第68話。
高瀬と倉田が、
初めて二人きりで正面から話します。
ただし、これは悪役との対決ではありません。
倉田にも倉田なりの理屈がある。
そしてその会話の中で、
美月とユウがなぜ「家」ではなく、あの施設にいたのか。
そこへ繋がる、もう一つの記録が出てきます。




