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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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66/105

助けるということ





第66話 助けるということ


前書き


助ける。


簡単な言葉だ。


でも、


何をもって「助かった」とするのだろう。


学校へ行けた。


仕事に就けた。


借金を返した。


生活が整った。


それは確かに、


助かったということなのかもしれない。


けれど。


その人が笑わなくなっていたら。


自分で決めることを怖がるようになっていたら。


それでも、


「助けた」と言えるのだろうか。


第66話です。


⸻


 午前八時十三分。


 高架下の事務所。


「ない!」


 グエンの叫び声が響いた。


 前原が新聞をめくる。


「朝からうるせぇ」


「ナイ!」


「何が」


「プリン!」


「知らん」


「ワタシノ!」


「名前書いたのか」


「カイタ!」


「じゃあ木戸だな」


「なんで俺!?」


 ソファから木戸が飛び起きた。


「決めつけんな!」


 翔太が冷蔵庫を開ける。


「本当にないですね」


「キノウ、カッタ!」


「木戸さん」


「俺じゃねぇって!」


「口の横」


 ますみが指差した。


「何」


「カラメル」


「……」


 全員が木戸を見る。


「違う」


「何が」


「これは」


 木戸は口元を拭う。


「昨日食った別のプリン」


「もっとダメじゃん」


 敦が笑う。


「グエンさんのじゃないですか」


「いや待て」


「証拠は?」


 桜井がちょうど入ってきた。


「現行犯に近いな」


「元刑事出てくんな!」


「プリン窃盗事件」


「事件にすんな!」


 グエンが木戸へ詰め寄る。


「カエセ!」


「もう無理だろ!」


「カエセ!」


「どうやって!」


「カエセー!」


 木戸が逃げる。


 グエンが追う。


 二人が机を一周。


 前原が新聞を下ろした。


「外でやれ!」


「ヨシサン!」


「何だ!」


「サバイテ!」


「俺を裁判官にすんな!」


 朝から。


 いつもの事務所だった。


 隼人は台所で目玉焼きを作りながら。


 その騒ぎを見ていた。


 火は弱火。


 油も適量。


 黄身も潰れていない。


 もう和子に言われなくても作れる。


「上達したな」


 翔太が覗く。


「だろ」


「三日前はフライパン叩いてたのに」


「忘れろ」


「写真撮っとけばよかった」


「やめろ」


 隼人は皿へ移す。


「食う?」


「いいんですか」


「二個作った」


「じゃあ」


 翔太が一個取る。


「いただきます」


「……」


「何です?」


「いや」


 隼人が少し笑う。


「なんか変な感じ」


「何が」


「俺が誰かに飯出してんの」


 翔太は目玉焼きを見る。


「そのうち慣れますよ」


「そうかな」


「グエンさんなんか」


 冷蔵庫の方を見る。


「最初ずっと食べる側だったのに」


「イマモ!」


 遠くから聞こえた。


「聞こえてる!」


 翔太が笑った。


⸻


 隼人が母親に会ってから。


 二日が経っていた。


 何かが劇的に変わったわけではない。


 母親のところへ戻ってはいない。


 父親の行方も分からない。


 学校へ戻るとも。


 仕事を始めるとも。


 決めていない。


 ただ。


 母親とは。


 短いメッセージを一度だけ交わした。


『昨日は来てくれてありがとう』


 それに。


『うん』


 とだけ返した。


 それだけ。


 でも。


 以前なら。


 既読をつけることすら嫌だったかもしれない。


 今は。


 その程度の距離なら。


 保てる。


⸻


 午前九時二十一分。


 事務所の電話が鳴った。


「はい」


 敦が取る。


『……岡野さんですか』


「はい」


 知らない男の声。


 だが。


 どこかで聞いたことがある。


『高瀬です』


 敦の背筋が伸びた。


「……高瀬さん?」


 事務所の空気が。


 一瞬で変わった。


 桜井が顔を上げる。


 前原も。


 黒岩も。


 敦は受話器を握り直した。


「どうしてこの番号を」


『調べました』


「どうやって」


『……それは』


「言えない?」


『すみません』


 前原が手を出す。


 代われ。


 敦が首を振る。


 少しだけ。


 自分で話してみたかった。


「何の用ですか」


『会えませんか』


「誰と」


『あなたたちと』


「俺たち?」


『はい』


 一度。


 沈黙。


『前原さんという人も』


 前原の眉が動く。


「知ってるんですか」


『名前だけ』


「誰から」


『……』


「それも言えない?」


『今は』


 敦は桜井を見る。


 桜井が頷く。


 続けろ。


「何を話したいんです」


 電話の向こう。


 高瀬は。


 しばらく黙っていた。


『一つ』


「はい」


『聞きたいことがあります』


「何です」


 高瀬の声。


 説明会で聞いた時とは。


 少し違っていた。


 あの時は。


 自信があった。


 穏やかで。


 迷いがなくて。


 自分の言葉を信じていた。


 今は。


 その足場が。


 少し揺れている。


『あなたたちなら』


 一度。


 息を吸う。


『あの子に』


『何をしたんですか』


⸻


 午前十一時。


 駅前のファミリーレストラン。


 前原。


 桜井。


 敦。


 そして。


 高瀬健。


 四人。


 高瀬は。


 説明会の時と同じように。


 清潔なシャツ。


 整えた髪。


 穏やかな表情。


 でも。


 目の下に。


 薄い隈があった。


「コーヒーでいい?」


 敦が聞く。


「はい」


「ヨシさんは」


「アイスコーヒー」


「自分で頼んでくださいよ」


「お前が聞いたんだろ」


「桜井さん」


「ホット」


「なんで俺が注文係に」


「若いから」


「理不尽!」


 高瀬が。


 少しだけ笑った。


 敦はそれを見た。


 やはり。


 この人は。


 普通なのだ。


 怪物ではない。


 少なくとも。


 そう見える。


⸻


 注文が終わる。


 沈黙。


 前原がストローの袋を破る。


「で」


 高瀬を見る。


「何聞きたい」


「……」


「電話で言ってただろ」


「はい」


「誰のことだ」


 高瀬は。


 少し迷って。


「ユウです」


 やはり。


 敦は思った。


「ユウは今どこにいる」


 桜井が聞く。


「知りません」


「本当に?」


「はい」


「美月も?」


「分かりません」


「森川は」


「分かりません」


 前原が高瀬を見る。


「じゃあ何で俺らに聞く」


「……」


「俺らもユウには会ってねぇ」


「知っています」


「じゃあ」


 高瀬は。


 テーブルの上で。


 両手を握った。


「森川さんと」


「話しましたか」


 誰もすぐには答えない。


 桜井が言う。


「それを聞いてどうする」


「……確認したいだけです」


「何を」


「森川さんが」


 高瀬は。


 苦しそうに言った。


「まだ」


「俺を恨んでいるのか」


 前原が。


 少しだけ顔をしかめた。


「知らねぇ」


「……」


「本人に聞け」


「連絡先が分かりません」


「俺らも教えねぇ」


「やっぱり」


 高瀬は。


 少し笑った。


「知ってるんですね」


 前原は何も言わない。


「まあいいです」


 高瀬は俯いた。


「居場所を知りたいわけじゃない」


「じゃあ」


 敦が聞く。


「何で会いたかったんです」


 高瀬は。


 敦を見る。


「あなた」


「はい」


「説明会に来た時」


「俺の話」


「どう思いました」


 予想していなかった質問。


「どうって」


「救われた話」


「……」


 敦は思い出す。


 高瀬自身。


 過去に生活が崩れ。


 借金。


 仕事。


 住む場所。


 それを団体に助けられた。


 だから。


 今度は自分が誰かを助ける。


「本当なんだろうなって」


 敦は答えた。


 高瀬が。


 少し驚く。


「疑わなかった?」


「いや」


「団体の人だから」


「作り話だと思わなかった?」


「思わなかったです」


「どうして」


「……」


 敦は考える。


「なんとなく」


「なんとなく?」


「自分が助かったって話してる時」


 敦は言う。


「嬉しそうだったから」


 高瀬は。


 目を伏せた。


「……そうです」


「俺」


「本当に助かったんです」


 そこから。


 高瀬は。


 自分のことを話し始めた。


⸻


 二十四歳。


 仕事を辞めた。


 正確には。


 辞めさせられた。


 遅刻。


 欠勤。


 借金。


 酒。


 ギャンブル。


 友人から金を借り。


 返せず。


 連絡を絶った。


 実家にも帰れない。


 アパートを追い出された。


「最低でした」


 高瀬が言う。


「今思っても」


「本当に」


「どうしようもなかった」


 駅で寝た。


 ネットカフェ。


 公園。


 最後。


 所持金。


 四百円。


「その時」


「声掛けられました」


 あさがお。


 最初は疑った。


 でも。


 飯を食わせてもらった。


 風呂。


 布団。


 翌朝。


 職員が。


 言った。


『今日から一個ずつ戻していこう』


「……」


「俺」


 高瀬は。


 少し笑った。


「泣いたんです」


 敦は。


 何も言わない。


「その日から」


「毎日」


「起床時間」


「食事」


「掃除」


「仕事」


「日報」


「反省」


「目標」


「全部」


「最初は」


「息苦しかった」


「でも」


「半年後」


「借金返済が始まって」


「一年後」


「アパート借りられて」


「二年後」


「貯金ができた」


 高瀬は。


 前原を見る。


「俺には」


「必要だったんです」


「そうだろうな」


 前原が答える。


 高瀬が驚く。


「否定しないんですか」


「何で」


「あなたたちは」


「うちを問題にしてるんでしょう」


「問題があることと」


 前原はアイスコーヒーを飲む。


「お前が助かったことは別だろ」


 高瀬が。


 黙った。


「お前が助かったなら」


「それはそれで本当だ」


「……」


「だからって」


「全員助かるとは限らねぇ」


 高瀬の手が。


 少し動いた。


「でも」


「同じ人間です」


「違う」


「何が」


「全部」


 前原は。


 あっさり答えた。


「歳」


「育った家」


「性格」


「身体」


「頭」


「怖いもの」


「欲しいもの」


「耐えられるもの」


「耐えられねぇもの」


「全部違う」


「でも」


「最低限の生活習慣は」


「必要な奴には必要だろ」


「……」


「お前には必要だった」


「そういうことだろ」


 高瀬は。


 言葉を失った。


⸻


「ユウにも」


 高瀬が言う。


「必要だと思いました」


「何が」


「自分で考えること」


「責任を持つこと」


「誰かのせいにしないこと」


「……」


「施設へ来た子は」


「家庭が不安定な子が多い」


「大人を信用できない」


「約束を守れない」


「嘘をつく」


「物を盗ることもある」


「喧嘩もする」


 桜井が聞く。


「だから反省文?」


「はい」


「ユウが書いた」


「僕が悪いです、ってやつ」


 高瀬の顔が。


 固まる。


「見たんですね」


「ああ」


「……」


「どういう意図だった」


 高瀬は。


 すぐには答えなかった。


「最初」


「ユウは」


「何かあると黙りました」


「質問しても」


「分からない」


「覚えてない」


「知らない」


「そればかり」


 敦の胸が。


 少しざわつく。


 分からない。


 ここでは。


 許されている言葉。


 でも。


 高瀬にとっては。


 逃げる言葉だった。


「だから」


「書かせた?」


「はい」


「自分の行動を」


「整理するためです」


「何が起きた」


「自分は何をした」


「次はどうする」


「本来は」


 高瀬は強調する。


「そういうものでした」


「本来は?」


 桜井が聞く。


 高瀬が。


 止まる。


「……いつからか」


「ユウは」


「何があっても」


「自分が悪いと書くようになった」


「気づいてた?」


「……はい」


「いつ」


「途中から」


「なら何で止めなかった」


 桜井の声は。


 責めるものではない。


 だからこそ。


 逃げられない。


「……成長してると」


 高瀬が言った。


「思いました」


「どうして」


「言い訳しなくなったから」


「……」


「自分の責任を」


「認められるようになったから」


 前原が。


 高瀬を見る。


「十歳が?」


「……」


「何でも自分のせいにして」


「それ見て」


「成長したと思った?」


 高瀬の表情が歪む。


「今なら」


「違ったと思います」


「今なら?」


「……はい」


「じゃあ」


 前原が聞いた。


「何で違うって気づいた」


 高瀬は。


 長く黙った。


「森川さんに」


「言われたからです」


⸻


 三年前。


 地域交流施設。


 ジュースをこぼした美月。


 泣く美月。


 その横で。


 ユウが謝る。


『僕が悪いです』


『ちゃんと見てなかったから』


 高瀬は。


 いつものように言った。


『ユウ』


『どうするんだっけ?』


『書きます』


 その瞬間。


 森川が。


『もうやめろ』


 と言った。


 高瀬は。


 最初。


 意味が分からなかった。


『何がですか』


『それだよ』


『これは本人が』


『七歳のガキがジュースこぼしただけだろ!』


『ユウは十歳です』


『そういう話してんじゃねぇ!』


 森川は怒っていた。


 高瀬は。


 むしろ。


 森川が感情的になっていると思った。


『森川さん』


『甘やかすことが優しさじゃないですよ』


『甘やかす?』


『この子たちは』


『将来自分で生きていかないといけない』


『だから今から』


『自分の行動に責任を――』


『十歳だぞ』


『年齢は関係ありません』


『あるだろ!』


 森川の声が。


 施設に響いた。


『責任取るのは大人だろ!』


 高瀬は。


 その言葉に。


 腹が立った。


 なぜなら。


 自分は。


 責任を取らない人生を続けて。


 どん底まで落ちたから。


『そうやって』


『誰かのせいにする人間になるんです』


 高瀬は言った。


『家庭が悪い』


『社会が悪い』


『大人が悪い』


『それで』


『誰かが一生面倒見てくれるんですか』


 森川は。


 しばらく。


 高瀬を見ていた。


 そして。


 言った。


『お前』


『自分が十歳の頃から』


『全部自分で責任取ってきたのか』


 高瀬は。


 答えられなかった。


⸻


「その時は」


 高瀬が言う。


「腹が立ちました」


「森川さんに」


「何も分かってないと思った」


「俺がどれだけ」


「自分の甘さで人生壊したか」


「知らないくせにって」


 前原は。


 黙って聞く。


「でも」


 高瀬は。


 拳を握る。


「ずっと」


「残ったんです」


『お前、自分が十歳の頃から全部自分で責任取ってきたのか』


「俺」


 高瀬が言う。


「十歳の頃」


「普通に」


「母親に起こしてもらって」


「弁当作ってもらって」


「忘れ物したら」


「学校まで持ってきてもらってた」


「……」


「失敗しても」


「親が謝ってくれた」


「なのに」


 声が震える。


「ユウには」


「自分で責任を取れって」


「……」


「俺」


「何してたんですかね」


 誰も。


 すぐには答えなかった。


⸻


 料理が運ばれてきた。


 隣の席では。


 大学生らしい二人が笑っている。


 少し離れたところでは。


 子どもがポテトを食べている。


 店員が食器を片づける。


 普通の昼。


 その中で。


 高瀬だけが。


 三年前に立ち止まっていた。


「それで」


 高瀬が顔を上げる。


「聞きたかったんです」


 前原を見る。


「あなたたちなら」


「ユウに」


「何をしたんですか」


 前原は。


 アイスコーヒーを置いた。


「知らねぇ」


 高瀬の目が。


 大きくなる。


「……は?」


「会ってねぇから」


「いや」


「もし」


「もしユウみたいな子が」


「あなたのところへ来たら」


「何をするんです」


「だから知らねぇ」


「……」


「会わねぇと分からん」


 高瀬は。


 困惑していた。


「方針とか」


「ねぇ」


「ルール」


「靴揃えろ」


「それだけ?」


「飯食う時は手ぇ洗え」


「……」


「あと」


 前原は少し考える。


「人のプリン食うな」


 敦が吹き出した。


 桜井まで顔を背ける。


「真面目に聞いてます」


 高瀬が言う。


「真面目だ」


「あなたたちは」


「どうやって立ち直らせるんです」


 前原の表情が。


 少し変わった。


「立ち直らせねぇよ」


「……」


「何で俺が」


「人の人生」


「直すんだ」


 高瀬は。


 完全に黙った。


「壊れてるとも」


「決めてねぇ」


「……」


「腹減ってりゃ飯食わせる」


「寝るとこなきゃ」


「空いてりゃ寝かせる」


「役所行くなら」


「分かる奴連れてく」


「殴られてんなら」


「殴られねぇとこ探す」


「……」


「その後どうするかは」


「本人が決める」


 高瀬が聞く。


「何も決められなかったら?」


「待つ」


「いつまで」


「知らん」


「ずっと決めなかったら?」


「そいつが困ったら」


「また一緒に考える」


「それじゃ」


 高瀬は。


 少し苛立ったように言う。


「依存する人もいるでしょう」


「いるだろうな」


「甘える人も」


「いる」


「働かない人も」


「いる」


「それでいいんですか」


「良くねぇ時もある」


「じゃあ!」


「だから」


 前原は。


 高瀬を真っ直ぐ見る。


「そいつと話すんだろ」


 高瀬が止まる。


「働けるのに働かねぇなら」


「何で働かねぇのか聞く」


「怖いのか」


「面倒なのか」


「体調悪いのか」


「ただサボってんのか」


「……」


「全部」


「違うだろ」


「……」


「だから」


「最初から答え決めて」


「人間当てはめんな」


 静かだった。


 前原は。


 声を荒げていない。


 怒ってもいない。


 ただ。


 自分が何十年も。


 失敗しながら覚えたことを。


 話していた。


⸻


「じゃあ」


 高瀬が聞く。


「ルールはいらないんですか」


「いる」


「……え?」


「共同生活なら当然だろ」


「掃除」


「金」


「時間」


「他人の物」


「暴力」


「必要なルールはある」


「じゃあ同じじゃないですか」


「違う」


「何が」


「ルール破ったら」


 前原は言った。


「そいつの人格まで否定すんのか」


 高瀬が。


 止まった。


「皿割ったら」


「皿割ったことを話せばいい」


「門限破ったら」


「門限の話をすりゃいい」


「でも」


「お前ら」


 ユウの反省文。


「いつの間にか」


「お前はちゃんとしてない」


「お前は未熟だ」


「お前は自立できてない」


「そっちへ行ったんじゃねぇのか」


 高瀬は。


 反論できなかった。


 桜井が。


 初めて口を挟む。


「ルールは」


「行動を調整するためにある」


「人格を評価するためじゃない」


「……」


「そこが混ざると」


「逃げられなくなる」


 高瀬は。


 小さく聞いた。


「逃げることって」


「そんなに大事ですか」


 前原。


 敦。


 桜井。


 三人が。


 少しだけ違う顔をした。


 敦は。


 自分の過去を思い出した。


 逃げた。


 怖かった。


 情けなかった。


 でも。


 逃げなかったら。


 たぶん。


 ここにはいない。


「俺」


 敦が言った。


「逃げてよかったと思ってます」


 高瀬が見る。


「昔」


「変な仕事に捕まって」


「逃げました」


「……」


「その時は」


「自分、最低だと思ってました」


「仕事も続かない」


「人にも迷惑かける」


「また逃げたって」


「でも」


 敦は。


 前原を見る。


「逃げたから」


「この人たちに会えた」


 前原が鼻を鳴らす。


「俺まで美談にすんな」


「いい話してるんだから黙っててください」


「何だと」


 高瀬が。


 少し笑った。


⸻


「俺は」


 高瀬が言った。


「逃げないことで助かった」


「そうですね」


 敦が答える。


「俺は」


「逃げたことで助かった」


「……」


「だから」


 敦は。


 少し考えて。


「同じやり方じゃ」


「無理なんじゃないですか」


 高瀬は。


 何も言わなかった。


 その言葉は。


 前原の言葉より。


 高瀬には。


 深く入ったようだった。


 同じように。


 一度人生を崩した人間。


 同じように。


 誰かに助けられた人間。


 でも。


 助かった方法は。


 正反対だった。


⸻


 高瀬は。


 長い時間。


 コーヒーを見ていた。


 冷めている。


「……俺」


 ようやく言った。


「森川さんに」


「謝った方がいいですか」


 前原が答える。


「知らねぇ」


「また」


「俺に決めさせんな」


「……」


「謝りたきゃ謝れ」


「許してほしいなら」


「そう言え」


「でも」


 少しだけ声が低くなる。


「許すかどうかは森川だ」


「……はい」


「あと」


「何です」


「ユウにも」


 高瀬の顔が。


 止まる。


「会えたらな」


「……」


「森川に謝って終わりじゃねぇだろ」


 高瀬は。


 ゆっくり。


 頷いた。


⸻


 店を出る。


 高瀬は。


 一人。


 駅とは反対方向へ歩いていった。


 敦が見送る。


「どう思います?」


 桜井が聞く。


「何が」


「高瀬さん」


「分からん」


 前原。


「ですよね」


「でも」


 敦は。


 少し考える。


「悪い人じゃない気がする」


 桜井が言う。


「悪い人じゃないことと」


「悪いことをしないことは別だ」


「……はい」


「逆もある」


「悪いことをした人間が」


「ずっと悪い人間とも限らん」


 前原が。


 高瀬の背中を見る。


「面倒くせぇな」


「人間が?」


「ああ」


「今さらですか」


「今さらだ」


 三人は。


 駅へ向かった。


⸻


 午後四時。


 ひだまり食堂。


「水!」


「はい!」


「三番!」


「はい!」


「スプーン足りない!」


「どこ!」


「そこ!」


「分かんねぇ!」


「目の前!」


「これ!?」


「それフォーク!」


「うるせぇ!」


 隼人が。


 走り回っていた。


 夏休み。


 今日は。


 いつもより子どもが多い。


 恵子。


 神谷。


 そして。


 なぜか翔太も手伝っている。


「翔太!」


「はい!」


「五番カレー!」


「俺に言うな!」


「じゃあ誰!」


「神谷さん!」


「神谷さん!」


「聞こえてる!」


 厨房から声。


 完全に。


 戦場だった。


 グエンもいる。


「ワタシ、サラ!」


「それ洗って!」


「ハイ!」


 カシャーン。


「割るな!」


「ワッテナイ!」


「今割っただろ!」


「ヒトツダケ!」


「一個は割ったって言うんだよ!」


 子どもたちが笑っている。


 隼人も。


 笑う。


 汗だく。


 忙しい。


 でも。


 不思議と嫌ではない。


「お兄ちゃん!」


「何!」


 以前。


 水を持っていった女の子。


「今日も働いてるの?」


「だから働いてねぇ!」


「じゃあ何してるの?」


 隼人が。


 一瞬。


 止まる。


 前回。


 分かんね。


 そう答えた。


 今日も。


 たぶん。


 分からない。


 でも。


「手伝ってんの」


 と言った。


「なんで?」


「人足りねぇから」


「ふーん」


「何だよ」


「えらいね!」


「うるせぇ!」


 女の子が笑う。


 隼人も。


 少し笑った。


⸻


 営業が落ち着いた頃。


 神谷が。


 隼人へスポーツドリンクを渡した。


「お疲れ」


「疲れた」


「働いたな」


「だから働いてねぇって」


「給料出ないからな」


「最悪」


「まかないは出る」


「じゃあ許す」


 二人。


 カウンター。


 神谷が聞く。


「お母さん」


「会った?」


 隼人が少しだけ驚く。


「誰から」


「翔太」


「アイツ!」


「詳しくは聞いてない」


「……会った」


「どうだった」


「分かんね」


「そっか」


「それだけ?」


「他に何言う」


 隼人が笑う。


「みんな同じだな」


「誰と」


「事務所」


「分かんないって言っても」


「怒らねぇ」


「いいじゃん」


「……うん」


 神谷は。


 少しだけ黙った。


「俺」


「会社辞める前」


「毎日」


「分かりませんって言えなかった」


 隼人が見る。


「プログラマーだっけ」


「そう」


「分かりませんって言ったら」


「無能だと思われる気がして」


「調べます」


「できます」


「大丈夫です」


「ずっと」


「……」


「最後」


「本当に何も分からなくなった」


 神谷は笑う。


「腹減ってるかも」


「眠いかも」


「会社行きたくないかも」


「全部」


「分かんなくなった」


「それでここ?」


「うん」


「恵子さんに」


「何したいって聞かれて」


「分かりませんって言った」


「怒られた?」


「味噌汁出てきた」


 隼人が。


 吹き出した。


「意味分かんねぇ」


「俺も」


「でも美味かった」


「……」


「だから」


 神谷が言う。


「分かんない時は」


「とりあえず食え」


「それだけ?」


「寝ろ」


「あと?」


「風呂」


「子どもじゃん」


「人間だいたいそれで少しマシになる」


 隼人は笑った。


「ヨシさんと似てる」


「嫌だな」


「なんで」


「怖いじゃん」


「本人に言うぞ」


「やめて」


⸻


 夕方。


 事務所。


 ますみたちの机では。


 別の話が進んでいた。


「これ」


 藍が。


 印刷した紙を置く。


「何?」


 ますみが見る。


 そこには。


 小さな募集要項。


地域交流文化展

作品展示・自主制作作品募集


「野々村さんのところ」


「うん」


「秋にやるんだって」


 航平が覗く。


「展示?」


「絵」


「写真」


「音楽」


「自主制作」


「何でも」


 カナコが顔を上げる。


「出す?」


 ますみが。


 固まる。


「……何を」


 藍が。


 スケッチブックを見る。


 笑花。


 少女。


 黄色い傘をモチーフにした子。


 道。


 町。


 帰る場所を探す二人の子ども。


「これ」


「無理」


 即答。


「早い」


「無理」


「まだ何も言ってない」


「顔で分かる」


 ますみは。


 スケッチブックを抱える。


「人に見せるの」


「無理」


「私ら見てるじゃん」


「違う」


「何が」


「知らない人」


 ますみの声が。


 少し小さくなる。


「怖い」


 藍は。


 無理に勧めなかった。


「そっか」


「……」


「じゃあ」


 募集要項を机の端へ置く。


「置いとく」


「それだけ?」


「うん」


「説得しないの」


「してほしい?」


「……嫌」


「じゃあしない」


 ますみは。


 紙を見る。


 出さなくてもいい。


 だから。


 少しだけ。


 見ていられる。


⸻


 午後七時。


 高瀬は。


 自分の職場へ戻っていた。


 例の男。


 五十代。


 施設運営側の管理者。


 名前は。


 倉田修一。


「話してきたのか」


 倉田が聞く。


 高瀬が止まる。


「……なぜ」


「君の行動は」


 倉田は微笑む。


「心配だからね」


 その言葉。


 以前なら。


 何とも思わなかった。


 今日は。


 少しだけ。


 引っ掛かった。


「誰と会った?」


「……」


「高瀬君」


「個人的な知人です」


 初めて。


 嘘をついた。


 倉田の笑顔が。


 ほんの少しだけ薄くなる。


「そうか」


「はい」


「ならいい」


 高瀬は。


 自分の机へ戻った。


 引き出し。


 古いファイル。


 ユウ。


 美月。


 行動記録。


 反省文。


 その下。


 今まで。


 ほとんど見たことがなかった紙があった。


 緊急対応記録。


 日付。


 ユウたちが。


 最初に施設から逃げた夜。


 警察から引き渡された日。


 高瀬は。


 ページをめくる。


 そして。


 止まった。


「……何だこれ」


 そこには。


 自分の知らない記録があった。


本人より家庭内暴力を示唆する発言あり。


 その下。


聞き取り継続不要。情緒不安定による誇張の可能性。


 承認欄。


 署名。


 高瀬ではない。


 倉田修一。


「……」


 高瀬の手が。


 震え始める。


 さらに。


 次の行。


関係機関への追加報告は現時点で不要と判断。


 高瀬は。


 ゆっくり。


 顔を上げた。


 壁の向こう。


 倉田の部屋。


 今まで。


 高瀬は信じていた。


 ユウは。


 何も言わなかった。


 助けを求めなかった。


 だから。


 自分たちは気づけなかった。


 そう思っていた。


 違った。


 ユウは。


 一度。


 言っていた。


 大人に。


 ちゃんと。


 言っていた。


 それを。


 誰かが。


 止めていた。


⸻


 高架下の事務所。


 午後八時四十分。


「カレー!」


 グエンが鍋を持って帰ってきた。


「また?」


 木戸が言う。


「ヒダマリ!」


「余った?」


「モラッタ!」


 隼人も一緒だった。


「今日俺も手伝った」


「へぇ」


 木戸が言う。


「偉いじゃん」


「なんで上から」


「先輩だから」


「何の?」


「居候」


「最悪じゃねぇか」


 以前と同じやり取り。


 でも。


 今度は。


 翔太まで笑った。


「隼人さん」


「何」


「今日すごかったですよ」


「何が」


「子どもに水配って」


「カレー運んで」


「グエンさん止めて」


「最後だけ仕事違うだろ」


「ダイジ!」


 グエンが言う。


「オレ、トメル、ダイジ!」


「自分で言うな」


 ますみが。


 その光景を。


 スケッチブックへ描いていた。


 カレーの鍋。


 集まる人。


 笑う隼人。


 グエン。


 翔太。


 木戸。


 敦。


 前原。


 それを。


 少し離れたところから見て。


 ますみは。


 机の端に置かれた。


 文化展の募集要項へ。


 もう一度。


 目を向けた。


⸻


 午後九時十三分。


 敦のスマートフォンが鳴った。


 知らない番号。


「はい」


『……岡野さん』


 高瀬。


 声が。


 昼とは。


 まるで違っていた。


「どうしました」


『俺』


「はい」


『見つけました』


「何を」


 向こうで。


 高瀬が。


 息を呑む。


『ユウは』


 一度。


 声が詰まる。


『助けを求めてました』


 敦が立ち上がる。


 前原が見る。


「高瀬さん」


『はい』


「どういうことです」


『俺たちが』


 高瀬の声が。


 震える。


『聞かなかったんです』


 事務所から。


 笑い声が消えた。


『ユウは』


『ちゃんと』


『言ってたんです』


 敦は。


 受話器を握りしめた。


 電話の向こう。


 高瀬が。


 初めて。


 自分のいた場所を。


 外側から見始めていた。


⸻


後書き


第66話でした。


今回は前原と高瀬を真正面からぶつけました。


ただ、二人の違いは「厳しい人」と「優しい人」ではありません。


高瀬は、


自分が救われた方法を、他人にも適用しようとした。


前原は、


相手によって必要なものは違うから、会ってから考える。


その違いです。


そして敦自身も、


「高瀬は逃げないことで助かった。でも自分は逃げたことで助かった」


と気づきました。


同じ「立ち直る」でも道は正反対だった。


ここは敦の成長としてもかなり重要な地点です。


一方で、ますみたちの創作側にもようやく次の扉が現れました。


地域交流文化展。


まだ、ますみは「無理」と言っています。


ここは急に成功させません。


この先、森川編が決着へ向かう一方で、「笑花」の物語も少しずつ外の世界へ出始めます。


そして最後。


高瀬が見つけた記録によって、状況が変わりました。


ユウは何も言えなかったのではない。


一度、助けを求めていた。


しかし、その訴えは「誇張の可能性」として止められていた。


次回、第67話では、高瀬がこの記録をどう扱うかで初めて大きな選択を迫られます。


組織へ残るのか。


記録を外へ出すのか。


そして何より――


自分を救ってくれた場所が、別の誰かを傷つけていたかもしれない。


その二つの事実を、高瀬が同時に抱える回になります。


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