↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
65/105

会いに行く

第65話 会いに行く


前書き


会う。


たったそれだけのことが、


ひどく難しい時がある。


許すためではない。


仲直りするためでもない。


帰るためでもない。


ただ、


自分の目で確かめるために会う。


そんな再会もある。


第65話です。


⸻


 午前六時四十二分。


 高架下の事務所。


 まだほとんどの人間が眠っている。


 木戸はソファから片足を落とし。


 グエンは毛布を完全に蹴飛ばし。


 翔太は壁際で丸くなっていた。


 窓の向こうでは、街が少しずつ明るくなっている。


 隼人は。


 一人だけ起きていた。


 玄関。


 靴を履いて。


 また脱ぐ。


 スマートフォンを見る。


 母親から届いたメッセージ。


 住所。


 それだけ。


 何度見ても変わらない。


 隣の市。


 電車を乗り継いで四十分ほど。


 知らないアパート。


 母親は今、そこにいる。


「……」


 隼人は靴紐を結んだ。


 また解いた。


「行くのか」


「うわっ!」


 後ろ。


 前原が立っていた。


「びっくりさせんなよ!」


「勝手にびっくりしたんだろ」


「いつからいたんだよ」


「今」


 前原は欠伸をする。


 髪も少し乱れている。


「で」


「……何が」


「行くのか」


 隼人はスマートフォンを見る。


「分かんね」


「そうか」


 前原は台所へ向かった。


「それだけ?」


「何が」


「普通なんか言わない?」


「例えば」


「会った方がいいとか」


「帰ってこいとか」


「親子なんだからとか」


 前原が冷蔵庫を開ける。


「言ってほしいのか」


「いや」


「じゃあ言わねぇ」


「……」


 牛乳。


 卵。


 ハム。


 前原が取り出す。


「何作るの」


「朝飯」


「作れんの?」


「馬鹿にすんな」


「目玉焼き?」


「……」


「目玉焼きなんだ」


「うるせぇ」


 隼人が少し笑う。


 それだけで。


 靴紐を結ぶ手の震えが。


 ほんの少し止まった。


⸻


 七時十五分。


 和子が来た。


 前原の目玉焼きを見る。


「焼きすぎ」


「食えりゃいい」


「黄身カチカチ」


「俺はこれが好きなんだよ」


「強がらなくていいのに」


「何がだ!」


 隼人は笑いながら食べていた。


 今日は。


 昨日より少しだけ固い目玉焼き。


 でも。


 ちゃんと美味かった。


「隼人」


 和子が聞く。


「今日出掛ける?」


「……たぶん」


「そっか」


 それ以上聞かない。


 隼人は。


 少しずつ分かってきた。


 ここにいる大人は。


 聞かないわけではない。


 興味がないわけでもない。


 ただ。


 答えるかどうかを。


 こっちに残してくれる。


「母ちゃんに」


 隼人から言った。


「会いに行くかもしれない」


 和子の手が止まる。


「そう」


「でもまだ分かんない」


「うん」


「……怖い」


 口から出て。


 隼人自身が驚いた。


 昨日。


 電話で言った。


 俺は強くない。


 怖かった。


 でも。


 今まで。


 こういう言葉を、


 日常の中で普通に口にしたことはなかった。


 怖い。


 それだけ。


 和子は。


「そりゃ怖いよ」


 と答えた。


 慰めない。


 大丈夫とも言わない。


 それが。


 隼人には助かった。


⸻


 八時十分。


 敦が起きてきた。


「行くの?」


「……たぶん」


「駅まで送ろうか」


「いらない」


「了解」


「……」


「何」


「もう一回聞けよ」


「面倒くさいな!」


「普通一回くらい!」


「じゃあ送ろうか」


「いらない」


「何なんだよ!」


 隼人が笑った。


「冗談」


「朝からやめろ」


 敦も笑う。


 それから。


 隼人は玄関に立った。


 靴を履く。


 今度は脱がない。


「じゃ」


「うん」


「行ってくる」


 自然に。


 その言葉が出た。


 隼人が止まる。


 敦も。


 前原も。


 和子も。


 一瞬だけ。


 静かになった。


 隼人の顔が赤くなる。


「……何」


「いや」


 敦が笑う。


「行ってらっしゃい」


 和子も。


「行ってらっしゃい」


 前原はコーヒーを飲みながら。


「気ぃつけろ」


 隼人は。


「……おう」


 と言って。


 扉を閉めた。


⸻


 電車。


 午前九時。


 平日の朝。


 通勤の波は少し落ち着いている。


 隼人は窓際に立っていた。


 流れる街。


 マンション。


 工場。


 住宅。


 川。


 駅。


 また住宅。


 イヤホンは持っている。


 でも。


 音楽は流していない。


 頭の中が。


 うるさすぎた。


 何を言う。


 何で逃げた。


 どうして俺を置いていった。


 親父はどこだ。


 離婚するのか。


 俺はどうすればいい。


 帰ってほしいのか。


 帰りたいのか。


 母親を許せるのか。


 許せないのか。


「……」


 全部。


 分からない。


 昨日までなら。


 そのことが怖かった。


 でも。


 今は。


 少しだけ違う。


 分からないまま。


 会いに行ってもいい。


 それを。


 あの事務所で覚えた。


⸻


 午前九時五十八分。


 古いアパート。


 二階建て。


 外階段。


 壁は少し色褪せている。


 隼人は住所を見る。


 203号室。


 階段を上がる。


 一段。


 二段。


 三段。


 途中で止まる。


「……帰ろかな」


 誰も聞いていない。


 もう一段。


 203。


 インターホン。


 指を伸ばす。


 止まる。


 もう一度。


 押す。


 ピンポーン。


 数秒。


 足音。


 ガチャ。


 扉が開いた。


「……隼人」


 母親だった。


 久しぶり。


 と言うほど。


 時間は経っていない。


 なのに。


 随分変わったように見えた。


 髪。


 化粧。


 服。


 そんなものではない。


 顔。


 疲れている。


 でも。


 家にいた頃より。


 少しだけ。


 呼吸が楽そうに見えた。


「……来た」


 隼人が言う。


「うん」


「入っていい?」


「もちろん」


 その言葉に。


 隼人の胸が少し痛んだ。


 もちろん。


 ここは。


 もう自分の家ではないのに。


⸻


 部屋は狭かった。


 六畳。


 小さな台所。


 布団。


 段ボール。


 まだ家具も少ない。


「コーヒー」


「いらない」


「麦茶は?」


「いい」


「……そっか」


 母親が座る。


 隼人も。


 少し離れて座った。


 沈黙。


 時計。


 冷蔵庫。


 外を走る車。


「……」


「……」


 隼人は。


 何のために来たのか分からなくなった。


 昨日は。


 言いたいことがたくさんあった。


 今は。


 目の前に母親がいる。


 それだけで。


 全部飛んだ。


「痩せた?」


 母親が聞く。


「知らん」


「ちゃんと食べてる?」


「食べてる」


「どこで?」


 隼人は少し警戒した。


「……知り合いのとこ」


「そう」


 母親は。


 場所を聞かなかった。


「いい人?」


「変な人」


「え?」


「でも」


 隼人は少し笑った。


「悪くない」


 母親も。


 少しだけ笑った。


「そっか」


⸻


「親父」


 隼人が言った。


 母親の顔が固くなる。


「今どこ」


「分からない」


「連絡は?」


「来てる」


「何て」


「戻ってこいって」


「戻るの?」


「戻らない」


 即答だった。


 隼人が母親を見る。


 今まで。


 父親の話になると。


 母親はいつも言葉を濁した。


 お父さんも大変なの。


 仕事がうまくいかないから。


 疲れてるから。


 お酒飲んでるから。


 本当は優しい人だから。


 でも。


 今日は。


「戻らない」


 と言った。


「……なんで今」


 隼人が聞く。


「え?」


「なんで今になって」


 母親が俯く。


「もっと早く」


「出ればよかったじゃん」


「……うん」


「俺が高校辞める前に」


「うん」


「親父が仕事しなくなる前に」


「うん」


「殴られる前に」


 母親の手が震える。


「なんで」


 隼人の声も震える。


「もっと早く逃げなかったんだよ」


「……怖かった」


「昨日もそれ言った」


「うん」


「でも」


 母親は。


 ゆっくり顔を上げる。


「逃げた後の方が」


「もっと怖いと思ってた」


「……」


「お金」


「家」


「仕事」


「周りに何て言われるか」


「あなたをどう育てるか」


「全部」


 母親は苦笑する。


「だから」


「今日より明日の方がマシになるかもしれないって」


「ずっと」


「待ってた」


 隼人は。


 何も言えない。


「でも」


 母親は続ける。


「明日になっても」


「何も変わらなかった」


 その言葉。


 隼人には。


 少し分かる気がした。


 明日から学校へ行こう。


 明日から仕事探そう。


 明日から家を出よう。


 明日から。


 明日から。


 そう思って。


 動けない。


 それを。


 自分も知っている。


「じゃあ」


 隼人が言う。


「なんで俺置いてった」


 そこだけは。


 分からない。


 いや。


 分かりたくなかった。


 母親の目に。


 涙が浮かぶ。


「……ごめん」


「それじゃ分かんねぇ」


「うん」


「理由」


「……」


「言って」


 母親は。


 長い間。


 黙っていた。


「あなたが」


 一度。


 息を吸う。


「止めると思った」


「俺が?」


「うん」


「親父のところに戻れって?」


「違う」


「じゃあ」


「私と一緒に行くって」


 隼人が止まる。


「……当たり前じゃん」


「そう」


「だから」


「なんで」


「私」


 母親は。


 震える声で言った。


「あなたまで連れて逃げる自信がなかった」


 隼人の顔が。


 ゆっくり歪む。


「……は?」


「一人なら」


「どこかに泊めてもらえる」


「仕事も探せる」


「でも」


「あなたもいたら」


「……」


「怖かった」


「十九だぞ俺」


「うん」


「子どもじゃねぇよ」


「分かってる」


「じゃあ」


「でも」


 母親は。


 初めて。


 逃げずに言った。


「私には」


「あなたを支える余裕がなかった」


 隼人は。


 何も言えなくなった。


 それは。


 聞きたくなかった答えだった。


 母親なら。


 子どもを守る。


 そうであってほしかった。


 十九歳でも。


 大人でも。


 自分より弱い母親でも。


 最後には。


 自分を選んでほしかった。


 でも。


 選ばれなかった。


「……最低だな」


「うん」


 母親は否定しなかった。


「最低だと思う」


「……」


「でも」


「今さら」


 母親は泣きながら言う。


「ちゃんとした母親だったみたいに」


「嘘つきたくない」


 隼人は。


 俯いた。


 腹が立つ。


 悲しい。


 でも。


 少しだけ。


 昨日より。


 母親が人間に見えた。


 母親という役割ではない。


 怖くて。


 弱くて。


 逃げて。


 間違えた。


 一人の人間。


 だからといって。


 許せるわけではない。


「俺」


 隼人が言う。


「今すぐ許せない」


「うん」


「たぶん」


「しばらく無理」


「うん」


「帰るのも」


「今は嫌」


「……うん」


「でも」


 少しだけ。


 言葉を探す。


「また来るかもしれない」


 母親が。


 顔を上げる。


「ほんと?」


「分かんない」


「あ」


「そうだった」


 母親が。


 涙を拭きながら笑った。


「分かんないんだったね」


「何それ」


「昨日からずっと言ってるから」


「……」


 隼人も。


 少しだけ笑った。


「うん」


「分かんない」


 それで。


 今日はよかった。


⸻


 同じ頃。


 高架下の事務所。


 敦は。


 森川の件をまとめていた。


 ホワイトボード。


 森川。


 美月。


 ユウ。


 高瀬。


 家族支援施設。


 あさがお。


 児童相談所。


 行政。


 そして。


 中央に大きく。


「なぜ警察を怖がった?」


 桜井が入ってくる。


「まだそこか」


「気になるんですよ」


「俺もだ」


「何か分かりました?」


「少し」


 桜井が封筒を机へ置く。


 敦が見る。


「何です?」


「三年前より前」


「うん」


「ユウらしき児童について」


 一枚の紙。


「警察への通報記録があった」


 敦の顔が変わる。


「いつ」


「失踪の約半年ほど前」


「内容は?」


「深夜徘徊」


「誰が通報?」


「コンビニ店員」


「一人?」


「いや」


 桜井は資料を見る。


「年下の女児と一緒」


 敦の背中に。


 ぞわっとしたものが走る。


「美月」


「可能性は高い」


「その時も逃げてた?」


「かもしれない」


「で」


「警察は?」


 桜井が。


 少し黙る。


「保護した」


「それから」


「施設へ照会」


「……戻した?」


「ああ」


 敦が椅子へ座る。


「じゃあ」


「ユウは」


「警察に助けてもらえなかったと思った?」


「可能性はある」


 桜井は言う。


「警察官が悪かったとは限らん」


「うん」


「深夜に子ども二人を保護」


「施設が正規の受け入れ先として登録されている」


「虐待の申告なし」


「目立った外傷なし」


「なら」


 敦が言う。


「戻す」


「ああ」


「正しい対応?」


「当時の情報だけなら」


「たぶんな」


 敦は。


 また思う。


 正しい。


 正しい。


 正しい。


 みんな。


 その時。


 自分に見えている範囲では。


 正しいことをしている。


 なのに。


 子どもは。


 救われていない。


「難しいですね」


「ああ」


 桜井が答える。


「だから」


「仕組みは」


「正しい人間がいるだけじゃ足りない」


 敦が見る。


「どういうことです?」


「間違ってるって言えない人間が」


「助けを求められる仕組みも要る」


 桜井は。


 ユウの反省文を見る。


「この子は」


「助けてと言う前に」


「自分が悪いと思うようになってた」


 敦は。


 何も言えなかった。


⸻


 午後。


 隼人は。


 母親のアパートを出た。


 外階段。


 一段。


 二段。


 下りる。


「隼人!」


 上から。


 母親。


 振り返る。


「何」


「これ」


 小さな袋を投げる。


「危なっ!」


 受け取る。


 中。


 おにぎり。


 二個。


「いらねぇよ!」


「朝から何も食べてないでしょ!」


「食った!」


「じゃあ昼!」


「……」


「食べて!」


 母親は。


 笑った。


 隼人は。


 袋を見る。


「……分かった」


「またね」


 隼人は。


 返事をしなかった。


 でも。


 少し歩いて。


 振り返る。


 母親はまだ。


 二階に立っていた。


 隼人は。


 小さく。


 手を上げた。


 母親も。


 上げた。


 それだけ。


 仲直りではない。


 許したわけでもない。


 家族が元に戻ったわけでもない。


 ただ。


 次に会う可能性を。


 残した。


⸻


 午後二時。


 駅のホーム。


 隼人はベンチに座った。


 おにぎりを一個。


 食べる。


 鮭。


「……」


 昔。


 よく弁当に入っていた。


 それだけで。


 少し泣きそうになった。


「クソ」


 鼻を啜る。


「こんなんで泣くなよ」


 誰もいない。


 だから。


 少しだけ泣いた。


⸻


 高架下へ戻ったのは。


 三時過ぎ。


 扉を開ける。


「ただいま」


 今度は。


 自然に言えた。


「オカエリ!」


 グエン。


「おかえり」


 翔太。


 ますみも。


「おかえり」


 藍も。


「どうだった?」


 隼人が一瞬止まる。


「……それ聞く?」


「あ、ごめん」


「いや」


 靴を脱ぐ。


「分かんね」


 藍が笑う。


「便利だね、それ」


「最近覚えた」


 敦が来る。


「おかえり」


「うん」


「会えた?」


「会った」


「そっか」


 それだけ。


 隼人は少し安心する。


 やっぱり。


 ここは。


 結果を報告しなくてもいい。


「これ」


 隼人が袋を出す。


「おにぎり一個余った」


 グエンが。


 ものすごい速さで振り返る。


「オニギリ!?」


「お前だけにはやらん」


「ナンデ!」


「絶対一口じゃ済まない」


「ヒトクチ!」


「昨日も聞いた!」


「ハンブン!」


「増やすな!」


 事務所が笑う。


 隼人も。


 笑った。


⸻


 夕方。


 桜井が全員を集めた。


「一つ分かった」


 ホワイトボード。


 半年前の通報。


 深夜。


 子ども二名。


 警察保護。


 施設へ戻す。


 森川は。


 電話越しで参加していた。


『……知りませんでした』


「本人から聞いてない?」


『はい』


「じゃあ」


 桜井は言う。


「ユウが警察を怖がった理由」


「これだけじゃ断定できない」


「でも」


『一度逃げて』


 森川が続ける。


『警察に保護されて』


『戻された』


「可能性は高い」


『……』


 電話の向こう。


 森川の息が。


 少し重くなる。


『俺』


「何だ」


『警察行こうって』


「言ったな」


『あの子に』


「うん」


『また』


『同じことしようとしたんですね』


「違う」


 桜井が即答した。


『でも』


「お前は知らなかった」


『……』


「知らない情報で」


「完璧な判断なんかできん」


『でも』


「森川」


 今度は前原。


「お前」


「また始まってんぞ」


『何が』


「全部自分が悪い」


『……』


「ユウと同じことしてどうすんだ」


 電話の向こうが。


 静かになった。


 敦は。


 その言葉に。


 少し驚いた。


 そうだ。


 森川も。


 同じだった。


 母親が死んだ。


 借金。


 仕事。


 逃げた。


 人に迷惑を掛けた。


 だから。


 自分が消えればいい。


 ユウだけではない。


 森川もずっと。


 自分を責める人間だった。


『……似てますかね』


「似てる」


『嫌だな』


「何が」


『俺』


『あの子に』


『自分みたいになるなって』


『ずっと言ってたのに』


「じゃあ」


 前原は笑う。


「一緒に直せ」


『……』


「大人だけ完成してると思うな」


 森川が。


 少し笑った。


『それ』


『結構難しいですね』


「知らん」


『言った本人が』


「俺も直してる途中だ」


 部屋が静かになる。


 前原が。


 自分から。


 そんなことを言った。


 川本が。


 少しだけ笑った。


「ヨシさん」


「何だ」


「歳取りましたね」


「カー坊」


「はい」


「表出ろ」


「ほら直ってない」


 笑いが起きた。


⸻


 その夜。


 高瀬健は。


 一人ではなかった。


 向かいに。


 一人の男が座っている。


 五十代。


 眼鏡。


 落ち着いたスーツ。


「高瀬君」


「はい」


「最近」


「昔の利用者について」


「嗅ぎ回っている人がいるそうだね」


「……はい」


「森川君?」


「分かりません」


「彼は」


 男は。


 穏やかに笑った。


「昔から誤解が多かった」


 高瀬の顔が。


 少しだけ動く。


「誤解……ですか」


「我々は」


 男は言う。


「誰かを傷つけるために活動しているわけじゃない」


「はい」


「むしろ」


「誰も引き受けない人を」


「引き受けてきた」


「……はい」


「行政も」


「警察も」


「家庭も」


「学校も」


「手が回らない人たちを」


「我々が受け入れてきた」


 高瀬は。


 答えない。


「多少」


 男は。


 ゆっくり言う。


「厳しい指導が必要なこともある」


「でも」


「それを外から見た人間が」


「一部分だけ切り取って」


「虐待だ」


「支配だ」


「そう騒ぐ」


 高瀬は。


 ユウの反省文を思い出していた。


ぼくがちゃんとできなかったから。


「高瀬君」


「はい」


「君は」


 男は微笑む。


「救われただろう?」


 その言葉。


 高瀬の胸に。


 深く刺さる。


「……はい」


「なら」


「分かるね」


「……」


「自分が救われた場所を」


「守るんだ」


 高瀬は。


 長い間。


 黙った。


 そして。


「……はい」


 と答えた。


 でも。


 その声は。


 以前より。


 ずっと小さかった。


⸻


 同じ頃。


 高架下。


 隼人は。


 母親からもらった袋を畳んでいた。


 捨てようとして。


 止める。


 結局。


 リュックのポケットへ入れた。


 前原が横を通る。


「帰るのか」


「どこに」


「母親んとこ」


「今日は帰らない」


「そうか」


「……また行くかも」


「そうか」


「それだけ?」


「何が」


「もう慣れたわ」


 隼人が笑う。


「ヨシさん」


「ん」


「俺さ」


「うん」


「母ちゃんのこと」


「許さなくてもいい?」


 前原は。


 少し考えた。


「俺に聞くな」


「……」


「お前の母ちゃんだろ」


「うん」


「許したくなったら許せ」


「許したくなきゃ」


「今は許すな」


「……それでいいの?」


「知らん」


 隼人は。


 吹き出した。


「適当すぎ」


「俺は神様じゃねぇ」


「知ってる」


「じゃあ聞くな」


「でも」


 隼人は少し笑う。


「聞いてよかった」


 前原は。


 何も言わなかった。


 ただ。


 隼人の頭を。


 一度だけ。


 乱暴に撫でた。


「うわ!」


「寝ろ」


「髪ぐちゃぐちゃ!」


「知らん」


「クソ親父!」


 前原が止まる。


 隼人も。


 止まる。


「……」


「……」


「今のなし」


「誰が親父だ」


「なしって言ってんだろ!」


 隼人は逃げた。


 前原は追わなかった。


 ただ。


 少しだけ。


 笑った。


⸻


後書き


第65話でした。


隼人は母親に会いました。


でも今回は、


仲直りさせませんでした。


母親も「実は全部息子のためだった」という綺麗な人物にはしていません。


彼女は怖くて、


自分一人だけ逃げた。


息子まで背負う余裕がなかった。


その結果、


隼人を置き去りにした。


これは間違いです。


でも同時に、


彼女自身も追い詰められた一人の人間でした。


隼人はそれを知った。


だからといって、


許す必要はない。


ただ、


次に会う可能性だけ残した。


今回はそれで十分です。


そして森川側でも重要なことが判明しました。


ユウは以前にも美月と施設から逃げ、


警察に保護され、


再び施設へ戻されていた可能性が高い。


だから彼にとって「警察」は、


助けてくれる場所ではなく、


自分を元へ戻す場所


になってしまった可能性があります。


一方、高瀬の上にいる人物も初めて姿を見せました。


彼らの論理は、


「誰も助けなかった人間を、我々は助けてきた」。


これは完全な嘘ではありません。


だからこそ難しい。


次回、第66話では、


高瀬が初めて前原たちへ自分から接触します。


告発ではありません。


謝罪でもありません。


彼が聞きたいのは一つだけ。


「あなたたちなら、あの子に何をしたんですか?」


そこから、


前原と高瀬。


二つの「人を助ける方法」が、


初めて真正面からぶつかります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。