ここに来なくてもいい
第64話 ここに来なくてもいい
前書き
「居場所」
という言葉は、
優しい。
でも。
優しい言葉ほど、
時々、
少し怖い。
ここにいていい。
それは、
ここにいなきゃいけない、
とは違うから。
第64話です。
---
午前十時。
高架下の事務所。
前原は窓際で新聞を読んでいた。
川本は缶コーヒー。
木戸はソファ。
翔太は床に座って工具箱を整理している。
グエンは冷蔵庫を開けたり閉めたりしている。
「何してんの」
隼人が聞く。
「ミテル!」
「何を」
「ナニカアルカ!」
「泥棒じゃん」
「チガウ!」
その横では、ますみと藍が一冊のノートを挟んで話していた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
この場所は、
生活の中に組み込まれ始めていた。
誰がいつ来るのか。
誰がいつ帰るのか。
誰も把握していない。
でも。
誰かしらいる。
それだけが妙に当たり前になっていた。
敦は、その光景を見ながら。
昨夜の森川との電話を思い出していた。
守ること。
囲うこと。
その境界。
前原は森川へ言った。
守っているつもりで、
全部決めていないか。
でも。
その言葉は。
この場所にも当てはまるのではないか。
「……ヨシさん」
「ん」
前原は新聞から顔を上げない。
「聞いていいですか」
「勝手にしろ」
「ここって」
そこで。
敦は少し迷った。
「……本当に、居場所なんですかね」
新聞が止まった。
木戸も顔を上げる。
翔太も。
藍も。
ますみも。
グエンだけが冷蔵庫を閉じた。
「ナニ?」
「哲学っぽいの始まった」
木戸が言う。
敦は苦笑する。
「いや」
「森川さんの話聞いて」
「なんか」
「ここも」
一度周囲を見る。
「みんな、来すぎじゃないですか」
木戸が即答した。
「俺?」
「特に」
「なんで」
「住んでるじゃないですか」
「住んでない」
「ほぼ住んでます」
前原が新聞を畳む。
「で」
「どういう意味だ」
敦は少し考える。
「ここがあるから助かってる人いると思うんです」
「うん」
「俺もそうだし」
「うん」
「でも」
「ここに来ないと落ち着かない、とか」
「ここが無くなったら何もできない、とか」
「そうなったら」
前原の言っていた言葉を思い出す。
「それって、囲ってるのとそんなに違うんですかね」
少し。
部屋が静かになる。
木戸が言った。
「難しいこと言うなぁ」
奈々恵がコーヒーを持って入ってきた。
「何の話?」
「敦が急に思想家になった」
「違います」
敦が説明する。
奈々恵はしばらく黙って聞いていた。
それから。
「いいんじゃない?」
「何がです?」
「試してみたら」
全員が見る。
奈々恵は紙コップを机へ置いた。
「ここに来なくてもいいとしたら」
「みんな何する?」
「……」
木戸が顔をしかめた。
「休みの日?」
「毎日」
「え」
「今日から事務所禁止」
「なんで!?」
グエンも反応する。
「ダメ!」
「仮の話」
「カリノハナシ、キライ!」
「知らないよ」
少し笑いが起こる。
奈々恵はホワイトボードへ向かう。
藍が使っていたペンを取る。
大きく書いた。
**【ここが無かったら何する?】**
「めちゃくちゃ嫌な質問」
木戸が言った。
「だから面白いんじゃない」
奈々恵は笑う。
「はい木戸」
「俺から?」
「一番暇そうだから」
「差別だ」
「で?」
木戸は腕を組む。
「……寝る」
「今と変わらない」
「完」
「終わるな」
事務所が笑う。
「じゃあ」
木戸は少し考える。
「バイト探す」
敦が驚く。
「ほんとに?」
「なんだよその反応」
「いや」
「意外で」
「金ないし」
「前も言ってたじゃないですか」
「でもここ来ると」
木戸はソファを見る。
「なんか今日でいっかってなる」
笑って言った。
でも。
少しだけ。
本音が混じっていた。
前原が木戸を見る。
「それは駄目だな」
「え」
「明日から来んな」
「極端!」
また笑いが起きる。
だが。
敦には少し分かった。
居心地が良すぎる場所も。
時々。
人を止めることがある。
---
「じゃあグエン」
「ワタシ?」
「ここ無かったら」
グエンは考える。
「ガッコウ!」
「日本語学校?」
「ハイ!」
「そのあと」
「バイト!」
「そのあと」
「ゴハン!」
「どこで」
グエンが止まる。
「……」
「家?」
「……」
少しだけ。
表情が変わる。
「ヒトリ」
部屋が静かになる。
グエンは笑った。
「デモ、ダイジョウブ!」
「前も一人だった!」
その言い方。
敦は少し胸が痛くなった。
一人に慣れている。
それは。
一人が平気という意味ではない。
ただ。
そうするしかなかったというだけ。
木戸が言う。
「じゃあ俺ん家来る?」
「イヤ!」
「即答!?」
「キタナイ!」
爆笑。
「誰だ教えたの」
「ショウタ!」
「俺!?」
翔太が慌てる。
木戸が睨む。
「お前か」
「いや事実として」
「今日の若い奴ら遠慮ねぇな」
---
「翔太は?」
奈々恵が聞く。
翔太は工具箱を閉じた。
「……仕事探すと思います」
「今も探してる?」
「少し」
敦が初めて聞いた。
「そうなの?」
「はい」
「言ってくれれば」
「いや」
翔太は少し笑う。
「前原さんたちに全部やってもらうの」
「なんか違う気がして」
前原は何も言わない。
翔太は続ける。
「自分で探して」
「分かんなかったら聞こうかなって」
前原が鼻で笑った。
「そうしろ」
「はい」
翔太の声は少し嬉しそうだった。
---
「ますみ」
「え」
完全に油断していた。
「私は……」
スケッチブックを見る。
「家」
「それから?」
「絵描く」
「学校は?」
ますみが少しだけ止まる。
以前なら。
ここで空気が固まっていた。
「……行けたら行く」
奈々恵が頷く。
「うん」
「でも」
ますみが小さく続ける。
「たぶん」
「何?」
「藍に連絡する」
藍が止まる。
「私?」
「うん」
「なんで」
「絵見せたいから」
一瞬。
藍が何も言えなくなる。
「……そっか」
「嫌?」
「いや」
藍は少しだけ照れた。
「全然」
ますみが小さく笑う。
ここが無くても。
関係は無くならない。
敦は。
そこに少し安心した。
---
「藍は?」
「私?」
藍は椅子を回す。
「家で書く」
「それだけ?」
「カナコに曲送る」
窓際でギターを触っていたカナコが顔を上げる。
「送って」
「うん」
「あと」
「ますみに絵頼む」
「結局同じことしてるね」
航平が笑う。
「場所が変わるだけだな」
その言葉。
みんなが少し反応した。
場所が無くても。
人は繋がれる。
なら。
ここは。
必要だけれど。
絶対ではない。
もしかすると。
それくらいが。
ちょうどいいのかもしれない。
---
「隼人」
「俺?」
「ここ無かったら?」
隼人は椅子にもたれる。
「……知らね」
「真面目に」
「真面目だよ」
「行くとこないし」
少し間。
「ひだまり食堂」
「お」
「神谷さんとこ」
「その後」
「……」
隼人は笑う。
「分かんね」
前原が言った。
「それでいい」
隼人が見る。
「昨日も言ってたな」
「ああ」
「分かんないままでいいって」
「今はな」
「いつまで?」
「お前が決めたくなるまで」
隼人は少しだけ俯いた。
「……そ」
---
「じゃあヨシさん」
敦が言った。
「俺?」
「ここ無かったら何します?」
「酒」
「最低」
「寝る」
「木戸さんと一緒じゃないですか」
「違う」
「何が」
「俺には金がある」
「嫌な違い」
笑い。
川本が隣から言う。
「ヨシさん昔から一人だとロクなことしないっすよ」
「カー坊」
「はい」
「表出ろ」
「暴力!」
「ほらロクなことしない」
さらに笑いが起きる。
その中で。
敦は少し気づいた。
前原も。
ここが必要なのだ。
若い人たちを助けるためだけではない。
自分自身が。
誰かと飯を食うため。
馬鹿な話をするため。
一人にならないため。
この場所を作ったのかもしれない。
---
奈々恵がホワイトボードを見た。
「結論」
全員が見る。
「ここ無くても」
「みんな一応生きていけそう」
木戸が手を挙げる。
「俺不安」
「お前は働け」
「はい」
「でも」
奈々恵は続ける。
「ここがある方が」
少し笑う。
「楽しい」
誰も反論しなかった。
敦も。
それが一番しっくりきた。
生きられないから来る場所。
ではなく。
生きるのが少し楽になる場所。
必要なら頼る。
離れてもいい。
また来てもいい。
そういう場所なら。
囲い込みとは。
少し違うのかもしれない。
---
午後三時。
川本が電話を取った。
「はい」
少しして。
表情が変わる。
「誰?」
敦が聞く。
川本は受話器を少し離した。
「隼人」
「え?」
「お前」
「俺?」
「お母さん」
部屋の空気が止まった。
隼人の顔から。
一瞬で色が消えた。
「……何で」
誰も答えない。
川本が聞く。
「どうする」
隼人は受話器を見る。
母親。
一週間前。
『ごめんね』
だけ残して。
消えた。
「……出ない」
「分かった」
川本は電話へ戻る。
「本人、今は話したくないそうです」
それだけ。
切ろうとする。
『待ってください!』
電話越しでも聞こえるほど。
女性の声。
震えていた。
『お願いします』
『隼人に』
一度。
声が詰まる。
『帰ってきてって』
隼人の顔が歪んだ。
前原が静かに聞く。
「聞くか?」
「……」
「スピーカーにはしねぇ」
「……」
「電話も代わらなくていい」
隼人は拳を握った。
「何て」
「ん?」
「何て言ってんの」
川本が電話へ耳を戻す。
「本人が聞いてます」
向こうで。
長い沈黙。
『……隼人』
母親の声。
『ごめん』
隼人が目を閉じる。
また。
その言葉。
『お母さん』
『逃げました』
部屋が静かになる。
『あなたを置いて』
『逃げました』
隼人の呼吸が少し乱れる。
『でも』
『今』
『お父さんと離れて』
一度。
『あなたと』
『やり直したい』
隼人が。
小さく笑った。
でも。
その笑顔には。
怒りが混じっていた。
「……勝手だな」
敦が隼人を見る。
川本は何も言わない。
『うん』
母親は。
否定しなかった。
『勝手だと思う』
『だから』
『帰ってきてって言う資格があるかも分からない』
「じゃあ言うなよ」
『……うん』
「なんで俺置いてったんだよ」
ついに。
隼人が電話へ向かって言った。
直接受話器は持たない。
でも。
声は届いた。
『……怖かった』
「俺は?」
『……』
「俺は怖くなかったと思ってんの?」
『ごめん』
「それしか言えねぇの?」
『……』
「母ちゃん」
隼人の声が。
震える。
「俺さ」
「親父が帰ってくるたび」
「今日殴られるかなって」
「ずっと考えてた」
「母ちゃんがいなくなって」
「俺」
「次は俺の番だと思った」
誰も動かない。
前原は。
ただ聞いている。
「なのに」
「母ちゃん」
「自分だけ逃げたじゃん」
『……うん』
「俺十九だよ」
『うん』
「大人だから平気だと思った?」
『違う』
「じゃあ何」
『あなたなら』
一度。
『大丈夫だと思ってしまった』
隼人の顔が。
止まる。
『ずっと』
『我慢してくれてたから』
『働いて』
『家にもお金入れて』
『お父さんが怒っても』
『黙っててくれたから』
『隼人は』
『強いから』
「……」
『だから』
「ふざけんなよ」
低い声。
「俺」
「強くねぇよ」
母親が黙る。
「怖かったよ」
「ずっと」
「学校辞めたのも」
「金入れたのも」
「親父に言い返さなかったのも」
「強いからじゃねぇよ」
息を吸う。
「怖かったからだよ!」
最後は。
ほとんど叫びだった。
グエンが。
少しだけ身体を縮める。
翔太も。
ますみも。
自分の過去と重なるものがあるのだろう。
『……ごめんなさい』
今度。
隼人は。
怒らなかった。
少しだけ。
疲れた顔をした。
「今日」
『うん』
「帰らない」
向こうが静かになる。
「明日も」
「分かんない」
『……うん』
「でも」
隼人は。
前原たちを見る。
それから。
「母ちゃんがどこにいるか」
「住所だけ教えて」
『……来てくれる?』
「分かんないって言ってるだろ」
『……そうだね』
母親は。
少し泣いたような声で笑った。
『送るね』
「うん」
『隼人』
「何」
『生きててくれて』
隼人の眉が寄る。
『ありがとう』
その言葉。
隼人は。
しばらく返せなかった。
「……切る」
『うん』
電話が切れた。
事務所に。
冷蔵庫の音だけが残った。
---
誰も。
すぐに近づかなかった。
大丈夫?
とは。
誰も言わない。
前原が一つだけ聞いた。
「腹減ったか」
隼人が顔を上げる。
「……は?」
「昼食ってねぇだろ」
「今その話?」
「今だからだ」
隼人は。
数秒。
前原を睨んで。
それから。
吹き出した。
「……なんだよそれ」
「食うのか食わねぇのか」
「食う」
「何」
「目玉焼き」
「また?」
「今日は俺が作る」
和子が台所から顔を出した。
「じゃあ火は弱めね」
「分かってるよ」
「油」
「知ってる」
「卵」
「割れる」
「成長したねぇ」
「子ども扱いすんな!」
少しずつ。
部屋へ音が戻る。
隼人は台所へ向かった。
母親のところへ帰るか。
帰らないか。
まだ決めない。
父親を探すか。
まだ決めない。
高校へ戻るか。
仕事をするか。
まだ。
何も決まっていない。
でも。
今は。
目玉焼きを作る。
それでいい。
---
夜。
隼人は一人で玄関に座っていた。
敦が横へ来る。
「隣いい?」
「勝手に」
敦は座る。
しばらく。
何も言わない。
「岡野さん」
「うん」
「今日の話」
「うん」
「みんな聞いてた」
「うん」
「恥ずい」
「俺も最初」
「色々聞かれた」
「そうなの」
「うん」
「裏バイトのことも」
「逃げたことも」
「全部」
隼人は少し笑う。
「それと比べんなよ」
「比べてない」
敦も笑う。
「でも」
「うん」
「明日」
隼人が言う。
「母ちゃんに会うかもしれない」
敦は驚かない。
「そっか」
「まだ分かんないけど」
「うん」
「一人で行く」
「うん」
「止めないの?」
「止める理由ないし」
「怖いって言ったら」
「駅まで送る」
「そこまで?」
「嫌なら送らない」
隼人は笑う。
「ここ」
「ん?」
「ほんと変だな」
「知ってる」
高架の上。
電車が走る。
窓から漏れる光が。
一瞬だけ。
二人の顔を照らした。
---
同じ頃。
別の場所。
高瀬健は。
一人。
机へ座っていた。
目の前には。
古いファイル。
表紙には。
**家族支援プログラム 行動記録**
その中。
子どもの名前。
何人も。
反省。
達成。
課題。
改善。
そして。
ユウの欄。
高瀬は。
長い時間。
そのページを見ていた。
自分は。
正しいことをしていた。
そう思っていた。
少なくとも。
あの頃は。
いや。
今も。
そう思いたい。
ページの端には。
十歳の子どもの字。
> ぼくがちゃんとできなかったから
> ごめんなさい。
高瀬は。
ゆっくり。
ファイルを閉じた。
そして。
誰もいない部屋で。
小さく呟いた。
「……俺は」
続きは。
言葉にならなかった。
---
## 後書き
第64話でした。
今回は、森川編の核心を少し休ませて、**この事務所そのものが本当に「居場所」なのか**を一度問い直しました。
結論はたぶん、
**「ここがないと生きられない場所」ではなく、**
**「ここがあると少し生きやすい場所」**
なんだと思います。
それなら離れてもいい。
別の場所へ行ってもいい。
人同士の繋がりだけ残ってもいい。
そして後半では、隼人の母親が初めて「あなたは強いから大丈夫だと思った」と口にしました。
これは隼人にとって、かなり大きな傷です。
**強い子に見えたから、助けなくても大丈夫だと思われた。**
でも本人はずっと怖かった。
次回、第65話では、隼人が母親に会いに行くかどうかを自分で決めます。
一方、高瀬側でも動き始めました。
彼は「悪事がバレそうだから焦っている」のではありません。
**自分が正しいと信じていたことが、本当に正しかったのか。**
そこに初めて亀裂が入り始めています。
ここから森川編の決着となる70話前後へ向けて、高瀬・森川・前原の三者が少しずつ同じ場所へ近づいていきます。




