森川修平
第63話 森川修平
前書き
会いたかった人に、
本当に会えた時。
人は案外、
何を聞けばいいのか分からなくなる。
聞きたいことは山ほどある。
でも。
最初の一言は、
意外なくらい普通だったりする。
第63話です。
────────
深夜二時十一分。
高架下の事務所。
前原は受話器を握ったまま立っていた。
電話の向こう。
男の声。
『……森川です』
たった四文字。
それだけで。
この数週間、紙の上にしか存在しなかった男が。
突然、
人間になった。
前原はすぐには返事をしなかった。
何を言う。
どこにいる。
美月は。
ユウは。
何があった。
全部聞きたい。
だが。
最初に出た言葉は。
「……飯食ってるか」
だった。
電話の向こうが。
少しだけ静かになった。
『……は?』
「聞こえなかったか」
『いや』
「飯」
『食ってます』
「そうか」
『……』
「ならいい」
森川が小さく笑った。
本当に。
ほんの少し。
『三浦さんの言ってた通りですね』
「何が」
『変な人だって』
「アイツ今度殴る」
『そういうところです』
前原も少しだけ笑った。
緊張が。
ほんの少しだけ緩む。
奥では桜井が目を覚ましていた。
黒岩も。
敦も。
声を出さない。
前原だけが電話を持っている。
『一つ』
森川が言った。
「何だ」
『条件があります』
「言ってみろ」
『子どもたちの居場所は』
一拍。
『聞かないでください』
前原は。
すぐに答えた。
「分かった」
桜井が少しだけ目を上げる。
早い。
あまりにも。
『……いいんですか』
「聞くなって言うなら聞かねぇ」
『でも』
「お前が生きてるって分かった」
前原は椅子へ座る。
「今日はそれで十分だ」
電話の向こう。
しばらく何も聞こえなかった。
そして。
『……ありがとうございます』
「礼はまだ早ぇ」
『そうですか』
「まだお前、何にも話してねぇだろ」
森川がまた少し笑った。
『確かに』
────────
桜井が紙を用意する。
だが。
前原は手で制した。
メモしなくていい。
今日は。
そういう空気だった。
「森川」
『はい』
「俺のこと知ってんのか」
『三浦さんから』
「前から?」
『名前だけは』
「悪い噂?」
『かなり』
「アイツほんと殴る」
『やめてあげてください』
「冗談だ」
黒岩が小声で言う。
「半分な」
前原が睨む。
森川には聞こえたらしい。
『誰かいるんですか』
「いる」
『警察?』
「元警察」
桜井が眉を寄せる。
「ちゃんと元刑事と言え」
「うるせぇ」
森川が笑う。
その笑い。
敦は初めて聞いた。
思っていたより普通だった。
もっと。
低くて。
疲れていて。
何かを背負った男を想像していた。
もちろん。
疲れているのだろう。
でも。
森川修平は。
ちゃんと笑う人だった。
「で」
前原が言う。
「何から話す」
『……』
「話したくないなら切っていいぞ」
『それ』
「何」
『みんなそう言うんですか』
「何が」
『帰りたきゃ帰れ』
『話したくなきゃ話さなくていい』
『出て行きたきゃ出て行け』
前原は少し眉を寄せる。
「悪いか」
『いや』
森川の声が。
少しだけ柔らかくなる。
『羨ましいなと思って』
その言葉。
前原は返せなかった。
────────
森川は。
最初。
自分のことから話した。
子どもたちではない。
団体でもない。
自分のこと。
飲食店で働いていた。
母親と二人暮らし。
母親が病気になった。
治療費。
生活費。
借金。
借りて。
返して。
また借りた。
母親が亡くなった。
借金だけ残った。
『店長には』
「うん」
『助けるって言われました』
「聞いた」
『……会ったんですか』
「会った」
森川が黙る。
「飯食ってるかって聞いてたぞ」
『……』
「見つかったら」
『……』
「そう聞いてくれって」
森川の呼吸が。
少しだけ乱れる。
『店長』
「うん」
『まだ店やってるんですね』
「やってる」
『そうですか』
長い沈黙。
前原は待つ。
『俺』
森川の声が小さくなる。
『店長に会いたかったです』
「じゃあ会え」
『簡単に言いますね』
「簡単だろ」
『十年ですよ』
「十年なら十年ぶりに会えばいい」
『……』
「怒られると思ってんのか」
『それもあります』
「だったら怒られろ」
『……』
「そのあと飯食わせてもらえ」
森川が。
少し泣きそうな声で笑った。
『本当に変な人ですね』
「よく言われる」
────────
森川が団体と関わったのは。
店を辞めたあとだった。
借金取りを避け。
仕事を転々とし。
住む場所もなくなり。
あさがおへ。
『最初は』
森川は言う。
『本当に助かりました』
「そうだろうな」
『ご飯』
『布団』
『仕事』
『全部ありました』
「うん」
『須藤も』
敦の目が動く。
「知ってんのか」
『一緒に住んでました』
「アイツ来たぞ」
『……え?』
「ここに」
『元気ですか』
「元気かどうかは知らん」
『そうですよね』
「ただ飯は食った」
『なら』
森川は少し笑う。
『大丈夫かな』
この人は。
人の飯を気にする。
敦は思った。
洋食屋。
共同生活。
子ども。
たぶん。
森川にとって。
誰かがちゃんと食べているかどうかは。
かなり大事なのだ。
────────
『あさがおは』
森川が続ける。
『悪い場所じゃありませんでした』
前原は何も言わない。
『今でも』
「うん」
『全部悪かったとは思ってません』
「そうか」
『否定しないんですね』
「何を」
『普通』
『こういう話すると』
少し苦笑する。
『騙されてたんだよって言われます』
「騙されてたのか」
『……分かりません』
「なら分からんでいい」
『またそれですか』
「便利だぞ」
森川が笑う。
『分からないまま生きてるの』
『結構怖いですよ』
「知ってる」
前原は短く答えた。
「でも」
『はい』
「分かったふりする方がもっと怖ぇ」
森川は黙った。
────────
最初に違和感を持ったのは。
子どもたちではない。
若者たちだった。
誰かが出て行く。
翌日には、
まるで最初からいなかったように扱われる。
名前を出すと。
『前を向きましょう』
と言われる。
過去に執着するのはよくない。
去った人間へ固執するのは、
自分の成長を止める。
『でも』
森川は言った。
『昨日まで一緒に飯食ってたんですよ』
「うん」
『それを』
『今日から忘れろって』
「うん」
『無理じゃないですか』
前原は。
小さく笑う。
「無理だな」
『そう思ったのが』
『始まりでした』
────────
森川は。
施設を出た。
表向きには。
本人希望。
転居。
だが。
実際は。
逃げた。
『借金があった』
「うん」
『仕事も失いました』
「うん」
『携帯も返しました』
「うん」
『俺』
森川が少し笑う。
『またゼロになったんです』
「でも生きてた」
『はい』
「ならゼロじゃねぇ」
『……』
「身体残ってんだろ」
森川は何も言わなかった。
それから。
『三浦も』
と言った。
「公園で会った?」
『はい』
「おにぎり二個」
『聞いたんですか』
「聞いた」
『恥ずかしいな』
「何が」
『俺も腹減ってたんです』
「半分やったんだろ」
『はい』
「いいじゃねぇか」
森川は笑う。
『あれ』
『本当は二個とも食べたかった』
「だろうな」
『でも』
「うん」
『三浦の方が死にそうな顔してたから』
たぶん。
そういう男なのだ。
森川修平は。
何か大きな理念があるわけではない。
正義感が人一倍強いわけでもない。
ただ。
目の前で腹を減らしている人間がいると。
自分の一個を渡してしまう。
それだけ。
そして。
それを続けた結果。
美月とユウに出会った。
────────
「美月は」
前原が言う。
少し慎重に。
「話していいか」
『……はい』
「居場所は聞かねぇ」
『ありがとうございます』
「出会ったのは公園?」
『そうです』
夕方。
雨。
美月は一人でいた。
黄色い傘。
靴は濡れている。
森川が声をかけても。
最初。
返事をしなかった。
『誘拐犯に間違われたら嫌だから』
「うん」
『警察呼ぼうと思いました』
「普通だ」
『でも』
美月が言った。
警察は嫌。
帰るのも嫌。
誰かへ連絡するのも嫌。
『その時』
森川は言う。
『俺』
『子どもって』
『大人が助ければいいと思ってたんです』
「……」
『でも』
『助ける先を選べない子もいるんだって』
前原は。
ユウの話を思い出す。
警察という言葉で。
過呼吸。
『結局』
森川は続ける。
『警察へ連れていきました』
「美月は?」
『泣きました』
「それでも?」
『他に方法知らなかったから』
森川は。
そのことを。
今でも悔やんでいるようだった。
『正しいと思ったんです』
「たぶん正しい」
『でも』
「正しいことして傷つける時もある」
『……』
「それだけだ」
森川が黙る。
正解を。
前原はくれない。
それが。
少し楽だった。
────────
美月は。
行政を経由し。
元の施設へ戻った。
その後。
地域交流施設で。
また森川と会った。
『俺』
「うん」
『嫌われてると思ったんです』
「警察連れてったから?」
『はい』
「でも?」
『美月』
森川が。
少しだけ声を詰まらせる。
『俺見た瞬間』
『走ってきたんです』
抱きついた。
泣いた。
そして。
『ごめんなさい』
と言った。
森川が。
何に謝っているのか聞くと。
『迷惑かけたから』
と。
七歳の子どもが。
「……」
前原の顔が険しくなる。
『それで』
『おかしいと思いました』
────────
ユウは。
美月より少し後に知った。
十歳くらい。
いつも。
美月の少し後ろ。
荷物を持つ。
道を確認する。
大人の顔色を見る。
『兄妹?』
「違う?」
『血は繋がってないです』
「じゃあ」
『同じ施設にいただけ』
なのに。
ユウは。
美月を守らなければならないと思っていた。
『自分が年上だから』
「十歳だろ」
『はい』
「ガキじゃねぇか」
『俺もそう言いました』
でも。
ユウは。
『僕がやらないと』
と繰り返した。
服を汚せば。
僕が悪い。
迷子になれば。
僕が悪い。
美月が泣けば。
僕が悪い。
『そのうち』
森川の声が少し低くなる。
『腹が立ってきて』
「ユウに?」
『大人にです』
前原は。
少しだけ口元を上げる。
「分かる」
────────
『高瀬さん』
森川が言った。
部屋の空気が変わった。
「知ってる」
『会ったんですか』
「敦が」
敦が電話へ少し近づく。
「説明会で会いました」
『……そうですか』
森川の声。
そこには。
怒りだけではない。
悲しさが混じっていた。
「高瀬が何した」
前原が聞く。
『難しいんです』
「何が」
『あの人』
一度止まる。
『いい人なんです』
敦が。
説明会で感じたことと同じだった。
『本当に』
『俺も助けてもらいました』
「うん」
『飯食わせてもらって』
『仕事も教えてもらって』
『失敗しても怒らなかった』
「……」
『でも』
森川は言う。
『あの人』
『自分が救われた方法を』
『全員に当てはめるんです』
前原の目が。
少しだけ変わった。
『高瀬さん自身』
『昔は本当に滅茶苦茶だったらしいです』
「うん」
『団体に入って』
『生活が整って』
『働けるようになって』
『借金も返して』
『だから』
森川は。
静かに言った。
『このやり方が正しいって』
『心の底から信じてる』
敦の背中に。
冷たいものが流れる。
悪意ではない。
成功体験。
自分が救われた。
だから。
あなたも同じようにすれば救われる。
『ユウに反省文を書かせたのも』
「高瀬?」
『はい』
『でも』
「虐めるためじゃない?」
『違います』
森川は即答した。
『あの人』
『ユウのためだと思ってた』
それが。
一番怖かった。
────────
『俺』
森川が言う。
『高瀬さんと何回も話しました』
「何て」
『ユウは子どもだって』
『責任感より先に』
『安心させないと駄目だって』
「高瀬は?」
『だからこそ自立させる必要があるって』
「七歳十歳に?」
『あの人は』
森川は苦しそうに言う。
『年齢じゃないって』
『苦しい状況でも』
『自分で考えて行動できる人間にならなきゃいけないって』
「……」
『言ってること』
『全部間違ってるわけじゃないんです』
前原が答える。
「だから厄介なんだろ」
『……はい』
────────
その出来事の。
一週間後。
深夜。
森川のいた部屋の扉が叩かれた。
ドン。
ドン。
ドン。
『誰だ』
返事はない。
開ける。
そこに。
二人。
美月。
ユウ。
裸足。
濡れていた。
美月は泣いている。
ユウは。
震えながら。
『ごめんなさい』
と言っていた。
『何があった』
聞いても。
『僕が悪いです』
だけ。
森川は。
中へ入れた。
タオル。
着替え。
温かい飲み物。
翌朝。
警察へ行こうと言った。
ユウが壊れた。
『イヤ』
初めて。
大声で叫んだ。
『警察はイヤ!』
『戻される!』
『ごめんなさい!』
『ちゃんとします!』
過呼吸。
美月も泣く。
森川は。
何もできなかった。
『その時』
森川が言う。
『俺』
『初めて』
『この子らが逃げてきたんじゃなくて』
一拍。
『逃げないと駄目だったんだって』
『思いました』
誰も言葉を出せなかった。
────────
「で」
前原が静かに聞く。
「何があった」
『……』
「ユウが何で警察を怖がった」
長い沈黙。
『それは』
森川が言う。
『まだ』
「話せない?」
『はい』
「分かった」
『すみません』
「謝るな」
『……』
「美月とユウは」
前原は。
ここで止める。
居場所は聞かない。
「元気か」
森川も。
それを分かった。
『……はい』
「飯食ってる?」
森川が笑った。
『食べてます』
「学校は」
『……行ってます』
「そうか」
『今は』
森川の声が。
少しだけ明るくなる。
『普通の子どもです』
「普通?」
『ゲームして』
『宿題忘れて』
『喧嘩して』
『先生に怒られて』
森川が笑う。
『それくらいの』
『普通です』
前原も。
少し笑った。
「ならいい」
────────
『前原さん』
「何だ」
『俺』
『怖いんです』
「何が」
『見つかることじゃない』
「うん」
『あの子たちが』
『また』
『誰かに』
『お前のためだって言われるのが』
前原は。
眠っている事務所の面々を見る。
翔太。
ますみ。
隼人。
藍。
グエン。
ここにいる人間たち。
何度。
「お前のため」
と言われただろう。
「森川」
『はい』
「一個だけ言うぞ」
『はい』
「お前」
「子どもら守ってるつもりで」
一度止まる。
「お前が全部決めてねぇか」
森川が黙った。
敦も。
桜井も。
前原を見る。
『……どういう意味ですか』
「居場所聞くな」
「分かった」
「会わせたくない」
「それも分かった」
「でも」
『……』
「あの二人」
「自分で決めてるか」
長い。
本当に長い沈黙。
『……』
「森川」
『分かりません』
初めて。
森川が。
そう答えた。
「なら」
前原は少し笑う。
「そこから考えろ」
『……』
「守るって」
「囲うのと似てっからな」
森川は。
何も言えなかった。
それは。
この物語がずっと追っていた。
同じ問いだった。
あさがお。
家族支援施設。
森川。
前原。
全部。
善意から始まる。
そして。
善意だからこそ。
境界が見えなくなる。
『……また』
森川が言う。
「ん?」
『電話してもいいですか』
「好きにしろ」
『ありがとうございます』
「だから礼はいらねぇ」
『じゃあ』
少し笑う。
『また』
「ああ」
電話が切れた。
深夜二時五十九分。
前原は受話器を机へ置いた。
誰もすぐに話さなかった。
最初に口を開いたのは。
桜井だった。
「ヨシ」
「何だ」
「今の」
「うん」
「お前にも言えるぞ」
「何が」
「守ると囲うは似てる」
前原が眉をひそめる。
「俺は囲ってねぇ」
敦が小さく言う。
「でもヨシさん」
「何だ」
「最近」
「みんな帰らなくなってません?」
前原が。
部屋を見る。
ソファ。
木戸。
床。
翔太。
奥。
グエン。
隼人。
いつの間にか。
宿泊者多数。
「……」
黒岩が吹き出した。
「囲ってんじゃねぇか」
「違ぇよ!」
「完全に集まってるぞ」
「勝手に来てんだ!」
その声で。
木戸が起きた。
「……何」
「寝ろ!」
「なんで怒られた?」
深夜三時。
高架下の事務所に。
小さな笑いが戻った。
────────
後書き
第63話でした。
ついに森川修平本人が、本格的に登場しました。
そして今回、重要なのは森川を「完全な善人」にもしなかったことです。
森川は、美月とユウを守りました。
でも前原から、
「守っているつもりで、お前が二人の人生を全部決めていないか」
と問われます。
これは、この森川編全体の核心です。
高瀬も、
「本人のため」。
森川も、
「子どもを守るため」。
前原も、
「困っている奴を放っておけない」。
出発点はどれも善意です。
違うのは、
相手が『嫌だ』『出たい』『自分で決めたい』と言った時、その言葉を受け入れられるかどうか。
ここが、この作品における「居場所」と「囲い込み」の境界になっていきます。
そして美月とユウは現在も生きており、学校へ通っています。
次回、第64話では少しだけ事務所の日常へ戻します。
森川との電話を聞いていた敦が、自分たちの場所について初めて疑問を持ちます。
> 「ここって、本当に居場所なんですかね?」
そこでメンバー全員に、
「ここへ来なくてもいいとしたら、みんなはどうする?」
という妙な話が始まります。
笑い多めの日常回ですが、後半――
隼人の母親から、突然一本の電話が入ります。




