僕が悪い
第62話 僕が悪い
前書き
子どもは、
大人よりずっと早く、
空気を読むことがあります。
怒らせないように。
嫌われないように。
置いていかれないように。
そしていつの間にか、
本当は大人が背負うべきものまで、
「自分が悪い」
と思い始める。
第62話です。
---
午前十一時。
高架下の事務所では、
今日も誰かが何かをしていた。
藍はノートパソコン。
ますみはスケッチブック。
航平は地図。
レンはデザイン。
カナコは窓際でギター。
グエンは、
なぜか床に寝転がっていた。
「何してんの」
隼人が聞く。
「スズシイ!」
「床が?」
「ユカ、ツメタイ!」
「お前ほんと自由だな」
「ハヤトモ!」
「俺はやらねぇよ」
言いながら。
隼人はもう、
この部屋で普通に話していた。
四日前。
入口から三歩以上入ろうとしなかった人間とは思えない。
とはいえ。
まだリュックは近くに置いている。
スマートフォンも、
常にポケット。
眠る時も靴はすぐ履ける場所。
完全に安心しているわけではない。
でも。
少なくとも、
逃げ道を確認する回数は減った。
翔太はそれに気づいていた。
自分も似たことをしていたから。
「隼人」
「何」
「今日どうするんです?」
「何が」
「夜」
隼人の手が止まる。
「……分かんね」
「じゃあ」
翔太は段ボールを畳みながら言った。
「分からないままでいいんじゃないですか」
「それでいいの?」
「俺もずっとそうでした」
「今は?」
翔太が少し考える。
「今も分からないこと多いです」
「じゃあ何も変わってねぇじゃん」
「前より焦らなくなりました」
隼人は少し黙った。
その答えは、
意外と悪くないと思った。
---
その頃。
別室。
前原。
桜井。
黒岩。
佐伯。
敦。
五人が机を囲んでいた。
中央には、
三浦から聞いた話を整理した資料。
森川修平。
美月。
ユウ。
そして。
ユウが「警察」という言葉だけで過呼吸を起こしたこと。
「まず確認だ」
桜井が言う。
「警察が悪いとは限らん」
木戸なら、
またそれかと言いそうだった。
だが今回は誰も笑わない。
「過去に警察沙汰になった」
「親が警察を怖がらせた」
「施設でそう教えられていた」
「本人が何かを経験した」
「可能性はいくらでもある」
佐伯が頷く。
「児童相談所側にも、当時の照会記録があるか確認しています」
「見られるのか」
敦が聞く。
「全部は無理です」
「やっぱり」
「でも、匿名化された対応記録なら残っている場合があります」
前原は椅子にもたれた。
「で」
「ユウってガキの本名は」
「分かりません」
「美月も?」
「はい」
前原が舌打ちする。
「名前だけありゃ人間探せると思ってた時代が懐かしいな」
桜井が言う。
「お前の場合、昔は名前も聞かず殴ってただろ」
「俺を何だと思ってんだ」
黒岩が即答する。
「だいたい合ってる」
「お前まで言うな」
少しだけ笑いが起きる。
敦は最近、
こういう瞬間が大事なのだと分かってきた。
重い話を、
ずっと重いままにしない。
息をする場所を作る。
前原たちは、
意識しているのかいないのか、
自然とそれをやっていた。
---
桜井が一枚のコピーを机へ出した。
「野々村さんの施設に残っていたものだ」
手書き。
子どもの文字。
短い文章だった。
敦が読む。
> ぼくがちゃんとできなかったから
> みんながおこりました。
> つぎはちゃんとします。
> ごめんなさい。
「これ」
敦の声が小さくなる。
「ユウ?」
「野々村さんはそう言ってる」
「何の時に書いたんですか」
「夏祭りの翌日」
「何があった」
「分からん」
また。
分からない。
だが。
今回はその言葉が、
少し違う重さを持っていた。
前原は紙を取る。
ゆっくり読む。
「ちゃんと」
呟く。
「このガキもか」
敦が顔を上げる。
「も?」
前原は答えなかった。
隣の部屋。
藍。
ますみ。
翔太。
田中。
ここへ来た人間の何人が、
その言葉に苦しめられてきたのだろう。
ちゃんとしろ。
ちゃんと働け。
ちゃんと学校へ行け。
ちゃんと家族をやれ。
ちゃんとした人間になれ。
その「ちゃんと」が、
誰の基準なのか。
誰も説明しない。
「子どもにこれ書かせるの」
敦は言う。
「普通なんですかね」
佐伯が少し顔をしかめる。
「反省文そのものは珍しくありません」
「でも」
「内容は気になります」
「何が」
「何について謝っているのか書いていない」
桜井が頷く。
「そう」
「自分が何をしたのかではなく」
紙を指す。
「自分そのものが悪いと書いてる」
部屋が静かになる。
「それ、違うんですか」
敦が聞く。
桜井は少し考えた。
「例えば」
「皿を割った」
「なら」
「皿を割ってごめんなさいだ」
「喧嘩した」
「なら」
「叩いてごめんなさいだ」
「でも」
紙を見る。
「こいつは」
「僕がちゃんとできなかったから」
主語が。
行動ではない。
自分になっている。
「何度も書かされていた可能性があります」
佐伯が言った。
「あるいは」
「普段から」
「問題が起きるたびに、自分の責任だと教えられていた」
前原の顔が、
ゆっくり険しくなる。
「洗脳ってやつか」
「そこまで言うには早いです」
佐伯はすぐ止める。
「でも」
「心理的に支配されていた可能性はある」
桜井が続ける。
「問題は」
「誰が何のために」
その時。
佐伯のスマートフォンが鳴った。
「はい」
数秒。
表情が変わる。
「……分かりました」
電話を切る。
「どうした」
前原が聞く。
佐伯は少し息を整えた。
「児童相談所側に」
「三年前の記録がありました」
全員が見る。
「美月とユウ?」
「名前は一致しません」
「じゃあ」
「年齢と時期」
「施設名」
「それから」
一度止まる。
「逃走」
敦の背中に冷たいものが走る。
「逃走?」
「記録上は」
「施設から児童二名が無断で外出」
「職員が捜索」
「一名は地域住民によって保護」
「待て」
桜井が手を上げる。
「一名?」
「はい」
「二人逃げて」
「一人しか保護されてない?」
「そうです」
前原が低く聞く。
「どっちだ」
「分かりません」
「その後の記録は」
「保護児童は施設へ戻された」
「もう一人は」
佐伯は画面を見る。
「翌日」
「本人が自力で戻ったことになっています」
「本人が?」
敦が聞く。
「十歳くらいの子が?」
「記録では」
桜井の表情が、
一気に鋭くなった。
「誰が報告した」
佐伯が画面を拡大する。
「施設側」
「行政は本人確認した?」
「……記載がありません」
静かになる。
黒岩が言う。
「戻ってない可能性もある?」
桜井は答えない。
佐伯も。
でも。
全員が同じことを考えた。
---
午後。
ひだまり食堂。
恵子は、
今日も大鍋でカレーを作っていた。
神谷が玉ねぎを炒める。
「今日多くないですか」
「夏休みだからね」
「子ども多いか」
「多いよ」
そこへ。
カラン。
扉。
「おかえり」
恵子がいつものように言う。
入ってきたのは、
隼人だった。
「……こんにちは」
「今日はそっちなんだ」
「何が」
「おかえりじゃないの?」
「言わねぇよ」
神谷が笑う。
「そのうち言う」
「絶対言わねぇ」
「みんな最初そう言う」
隼人は嫌そうな顔をした。
「怖ぇなここ」
「前原さんとこよりマシだろ」
「あそこは別方向で怖い」
「分かる」
神谷は笑った。
隼人は店を見回す。
小学生。
母親。
老人。
作業着姿の男性。
今日はかなり多い。
「手伝います?」
言ってから。
隼人自身が止まった。
恵子も。
神谷も。
「……何」
恥ずかしくなり、
少し睨む。
恵子は何でもない顔で言った。
「じゃあ水お願い」
「それだけ?」
「最初からカレー百人分作らせるわけないでしょ」
「そりゃそうだけど」
「コップそこ」
「はい」
隼人はトレーを持った。
一つ。
二つ。
三つ。
水を入れる。
子どもの前へ置く。
「ありがと!」
「……おう」
知らない女の子が笑う。
隼人は少し戸惑う。
自分が何かをして。
ありがとう。
それだけ。
恩に着せない。
褒めすぎない。
責任も背負わせない。
ただ。
水を一杯置いただけ。
「ねぇお兄ちゃん」
女の子が聞く。
「何」
「ここで働いてるの?」
「働いてねぇ」
「じゃあ何してるの?」
隼人が止まる。
「……分かんね」
女の子は笑った。
「へんなの!」
「うるせぇ」
でも。
隼人も笑った。
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高架下の事務所では。
ますみが、
珍しく藍へ自分からスケッチブックを見せていた。
「ここ」
「うん」
「変?」
「何が」
「この子」
黄色い傘の少女をモチーフにしたキャラクター。
でも。
顔は美月とは違う。
ますみの中で生まれた、
新しい少女だった。
「笑ってるけど」
「うん」
「目、怖がってる」
藍がページを見る。
「……それでいいんじゃない」
「変じゃない?」
「人間ってそんなもんでしょ」
「そうかな」
「だって」
藍は少し笑う。
「ますみも最初そんなだったじゃん」
「え」
「笑ってないけど」
「そこ?」
「でも」
藍は続ける。
「平気な顔してた」
ますみは少し黙る。
「私」
「うん」
「そんなに分かりやすかった?」
「今なら」
藍は笑う。
「当時は分かんなかった」
「なんで今は分かるの」
「私も似たようなもんだったから」
ますみも笑った。
最近。
二人はこういう話をするようになった。
解決するわけではない。
ただ。
分かる。
それだけ。
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夕方六時。
桜井たちは、
野々村の地域交流施設へ再び来ていた。
「ユウが書いた文章」
野々村が言う。
「あれですか」
「何か覚えてます?」
桜井が聞く。
野々村は困ったように椅子へ座る。
「正直」
「当時は深く考えなかった」
「何がありました」
「子ども同士の喧嘩」
「誰と」
「美月ちゃんと」
桜井が顔を上げる。
「二人が?」
「正確には」
「美月ちゃんが泣いて」
「ユウくんが謝ってた」
「理由は」
「聞いても言わなかった」
「その反省文は」
「ユウくんが自分から書いた」
「誰にも言われず?」
「そうです」
敦が違和感を覚える。
「なんで」
誰も書けと言ってない。
なのに。
反省文を書く。
しかも。
自分が悪いと。
「習慣だった?」
桜井が言う。
「何かあると、書くように教えられてた」
野々村の顔が曇る。
「……可能性はあります」
「森川はそれを見た?」
「はい」
「なんて」
野々村は少し考えた。
「怒りました」
「ユウに?」
「違います」
「誰に」
「大人に」
前原の目が動く。
「そこに施設職員がいた?」
「一人」
「名前」
「高瀬」
敦が止まる。
説明会。
個別相談。
爽やかな笑顔。
自分もここで救われたと言っていた男。
「高瀬健?」
敦が聞く。
野々村は古い記録を見る。
「はい」
敦の背中に、
ぞわっと鳥肌が立った。
「何があったんです」
野々村は語り始める。
三年前。
地域交流イベント。
美月が、
屋台のジュースをこぼした。
ただそれだけ。
服が濡れた。
本人は驚いて泣いた。
すると。
ユウが突然、
美月の代わりに謝り始めた。
『ごめんなさい』
『僕がちゃんと見てなかったから』
『僕が悪いです』
何度も。
何度も。
周囲の大人が、
もういいよと言っても。
止まらない。
そこへ高瀬が来た。
そして。
『ユウ』
穏やかな声で言った。
『どうするんだっけ?』
ユウは。
泣きながら。
『書きます』
と言った。
野々村は、
その時初めて意味が分からなかったという。
「森川くんは」
桜井が聞く。
「それを見てた」
「はい」
「高瀬に何て」
野々村は目を伏せた。
「子どもに何教えてんだって」
「それから」
「かなり揉めました」
前原が低く聞く。
「殴った?」
「殴ってません」
「森川、偉いな」
黒岩が小さく言う。
「お前基準やめろ」
桜井が返す。
「ただ」
野々村は続ける。
「高瀬さんはずっと穏やかでした」
「何て」
「これはユウくん自身が決めたルールです」
「……」
「自分の行動を振り返るためです」
「誰かに責任を押しつける子にならないため」
敦は。
その言葉を聞いて。
説明会を思い出した。
高瀬。
優しい。
穏やか。
共感してくれる。
悪い人には見えない。
今も。
この話だけなら。
善意にも聞こえる。
「森川は納得した?」
「いいえ」
野々村が答える。
「森川くん」
「こう言いました」
少し間を置く。
「十歳のガキが全部自分の責任にする方が」
「よっぽどおかしいだろ」
前原が、
小さく笑った。
「会ってみたかったな」
桜井が見る。
「まだ生きてる」
「ああ」
「だから過去形にするな」
「分かってる」
そして。
この出来事の一週間後。
美月とユウは施設から姿を消した。
森川のところへ。
「じゃあ」
敦が言う。
「森川さんが二人を連れ出したんじゃなくて」
「この喧嘩がきっかけで」
桜井が頷く。
「二人が森川を頼った可能性がある」
「高瀬は」
前原が聞く。
「今もいる」
「説明会に」
敦が答える。
「会いました」
前原は黙る。
「行くんですか」
「何が」
「高瀬に」
「まだ行かねぇ」
「意外」
敦が言う。
「何で」
「今行ったら」
前原は鼻を鳴らす。
「ぶん殴りそうだから」
桜井が頭を抱える。
「お前は本当に成長してるのかしてないのか分からんな」
「殴らないって言ってるだろ」
「そこを褒める段階なのが問題なんだ」
少し。
笑いが起きた。
けれど。
敦の中には。
一つの疑問が残った。
高瀬は。
悪い人なのか。
本人も。
本当に、
「子どもの成長のため」
と思ってやっていたのではないか。
そして。
もしそうなら。
それは。
悪意よりも。
もっと厄介なのかもしれなかった。
---
夜。
隼人が事務所へ戻ってきた。
「ただいま!」
グエンが先に叫ぶ。
「お前が言うなよ」
隼人が笑う。
翔太が顔を上げる。
「おかえり」
「……」
隼人が止まる。
「何すか」
「いや」
少し照れる。
「別に」
靴を脱ぐ。
揃える。
リュックをいつもの椅子の横へ置く。
そして。
自然に。
「腹減った」
と言った。
木戸がソファから叫ぶ。
「俺も!」
「お前ずっといるじゃん」
「腹減るのに場所関係ないだろ!」
和子が台所から顔を出す。
「今日はカレー!」
グエンが両手を上げる。
「カレー!」
隼人も。
一瞬だけ。
同じように手を上げそうになった。
途中で気づき。
止める。
ますみが見ていた。
「今やろうとした」
「してねぇ」
「した」
「してない」
「見た」
「見るな!」
笑い声。
いつもの夜。
でも。
隼人はもう。
「今夜だけ」
とは言わなかった。
---
深夜。
前原は一人。
ユウの反省文を見ていた。
> ぼくがちゃんとできなかったから
> みんながおこりました。
「……馬鹿野郎」
小さく呟く。
子どもへではない。
この言葉を書かせるところまで、
追い詰めた大人たちへ。
そして。
少しだけ。
昔の自分へ。
前原にも。
誰かへ。
「お前が悪い」
と言った過去がある。
何度も。
何人にも。
言葉で。
力で。
黙らせた。
今。
その言葉の先にいる子どもを見て。
初めて。
昔の自分が、
少しだけ。
遠くから見えるようになっていた。
その時。
机の上の電話が鳴った。
知らない番号。
前原が取る。
「はい」
無言。
「誰だ」
しばらく。
息だけ。
そして。
男の声。
『……三浦から聞きました』
前原の表情が変わる。
「誰だ」
沈黙。
『森川です』
前原が立ち上がった。
高架下の事務所。
深夜。
誰も起きていない。
長い間探していた男。
森川修平。
その本人が。
ついに。
向こうから電話を掛けてきた。
---
## 後書き
第62話でした。
今回はユウの
**「僕が悪いです」**
の背景が少し見え始めました。
大きな問題が起きたから謝るのではなく、日常の小さな失敗まで「自分がちゃんとしなかったせい」と考える癖がついていた。
そして、その状況へ初めて強く疑問を持った大人が森川でした。
さらに重要なのは、当時そこにいた職員が**高瀬健**だったことです。
ただ、高瀬もまだ単純な悪役とは限りません。
本人は本当に「自立のため」「責任感を身につけるため」と信じていた可能性があります。
善意と支配の境界。
そこが、この編の核心になっていきます。
そしてラスト。
ついに、
**森川修平本人から前原へ電話が入りました。**
次回、第63話。
# 「森川修平」
いよいよ本人の口から、
美月とユウ。
高瀬。
あの施設。
そして三年前に何が起きたのかが語られ始めます。
ただし森川は最初に、前原へ一つだけ条件を出します。
**「子どもたちの居場所は、聞かないでください」**
前原がその条件を受け入れるところから、森川修平という男との本当の対話が始まります。




