戻らなかった男
前書き
「守る」
という言葉は、
とても簡単に使える。
でも。
本当に誰かを守ろうとすると、
自分の生活も、
仕事も、
居場所も、
全部変わってしまうことがある。
それでも。
手を離せない時がある。
第60話です。
⸻
第60話 戻らなかった男
昼過ぎ。
高架下の事務所。
窓の外を、貨物列車がゆっくりと通り過ぎていく。
ガタン。
ガタン。
重い音が、古い窓ガラスを震わせる。
その音の中で、桜井は机へ一枚の写真を置いた。
三年前。
地域交流施設の夏祭り。
森川修平。
黄色い服の少女、美月。
黒い帽子を被った少年、ユウ。
三人が同じ写真に写っている。
前原は煙草を指に挟んだまま、その写真を見つめていた。
「最後に三人で来た」
桜井が言う。
「それで?」
「森川が野々村さんに言った」
黒岩が続ける。
「『俺が戻らなかったら、二人を元の施設へ返すな』」
部屋が静かになる。
敦は写真を見る。
美月は笑っている。
ユウは少し俯いている。
森川は二人の後ろ。
子どもたちを見守っているようにも、
周囲を警戒しているようにも見える。
「何を知ったんですかね」
敦が呟く。
「それを調べる」
桜井は別の資料を広げた。
例の「家族支援施設」。
表向きは、
生活困窮世帯。
母子家庭。
父子家庭。
住居を失った親子。
そういった家庭を一時的に受け入れる民間施設。
宿泊。
食事。
就労支援。
学習支援。
行政窓口への同行。
パンフレットだけを見れば、
むしろ必要な場所に見えた。
佐伯も頷く。
「実際、行政から紹介されたケースもあります」
「問題なかったのか」
川本が聞く。
「当時の記録上は」
「またそれか」
木戸が顔をしかめる。
「記録の上では全部まとも」
「だから簡単に悪だと決めるな」
前原が言う。
「でもヨシさん」
「何だ」
「子ども二人が逃げてんだろ?」
「逃げたかも分からん」
「じゃあ何」
「分からん」
木戸が頭を掻く。
「最近そればっかだな」
奈々恵がコーヒーを飲みながら笑う。
「現実ってそういうものじゃない?」
「物語なら黒幕出てくるのに」
藍が言う。
「便利だね物語」
ますみがスケッチブックから顔を上げる。
「でも」
「ん?」
「物語でも」
笑花のページを見る。
「誰が悪いか分からない話、あるよ」
藍が少し笑う。
「それ、最近好きになったでしょ」
「……うん」
敦は、そのやり取りを聞きながら思った。
この数週間で、
ますみの描くものも少し変わっている。
最初は、
泣きそうで笑う少女だけだった。
今は、
街がある。
人がいる。
誰かと誰かの関係がある。
そして。
簡単に善悪へ分けられない人間が増えていた。
現実を見ているからだろう。
⸻
その日の午後。
佐伯の協力で、桜井たちは古い行政記録を確認することになった。
正式な捜査ではない。
閲覧できる範囲だけ。
個人情報に踏み込めない部分も多い。
だからこそ、断片的だった。
施設名。
運営法人。
契約期間。
支援実績。
そこまではある。
だが。
「美月という名前がない」
桜井が言った。
佐伯が画面を見る。
「ユウも」
「偽名?」
黒岩。
「可能性はあります」
「施設にはいたんだろ」
「野々村さんの証言では」
「じゃあ記録なしでいた?」
佐伯の表情が硬くなる。
「それが本当なら問題です」
前原が腕を組む。
「子どもを帳簿に載せず住ませてた?」
「まだ分かりません」
佐伯は慎重だった。
「一時的な滞在者」
「緊急保護」
「親族の同伴」
「いくつか可能性はあります」
桜井は頷く。
「だから証拠がいる」
そして。
一つだけ。
おかしな記録が見つかった。
三年前。
同施設から、
「児童二名の所在不明」
という相談記録が行政側に残っていた。
ただし。
「届け出たのは親じゃない」
佐伯が画面を見る。
「施設側です」
「警察にも?」
「相談のみ」
「捜索願は」
「出ていません」
桜井の目が鋭くなる。
「なんでだ」
「親権者ではないから?」
「だったら本当の親は」
「記録がありません」
佐伯の額に汗が浮かぶ。
冷房の効いた室内なのに。
「これ」
敦が小さく言う。
「かなり変じゃないですか」
「変だ」
桜井は即答した。
「ただし」
資料から顔を上げる。
「変なだけだ」
「まだ犯罪じゃない」
前原が小さく舌打ちする。
「刑事って面倒だな」
「だから昔お前みたいなの捕まえてたんだ」
「俺は捕まってねぇ」
「運が良かっただけだ」
黒岩が笑う。
「それはそう」
「お前はどっち側だ」
少しだけ空気が緩む。
けれど。
敦は画面から目を離せなかった。
所在不明。
児童二名。
美月。
ユウ。
三年前。
森川が二人と姿を消した時期と一致している。
⸻
同じ頃。
高架下の事務所。
隼人はまた来ていた。
「三日目」
木戸が言った。
「数えるなよ」
「皆勤賞」
「まだ三日だろ」
「連続記録は連続記録だ」
隼人は少しムッとした顔をする。
それでも帰らない。
今日は自分でコンビニ袋を持ってきた。
中にはペットボトルの麦茶と、
安い菓子パン。
翔太が袋を見る。
「飯食べてきました?」
「これ」
「それ飯じゃないですよ」
「飯だろ」
「和子さんに聞かれたら怒られますよ」
「なんで和子さん基準なんだよ」
翔太が笑う。
その時。
グエンが袋を覗き込む。
「パン!」
「お前は食うな」
「ヒトクチ!」
「絶対一口じゃないだろ」
「ハンブン!」
「増えたじゃねぇか」
隼人が笑った。
昨日より自然に。
その様子をますみが少し離れたところから見ていた。
鉛筆が動く。
新しいキャラクター。
黒いパーカー。
少し目つきが悪い。
でも。
手にはパンを持っていて、
横から謎の外国人に狙われている。
隼人が気づく。
「何描いてんの」
ますみが即スケッチブックを閉じる。
「別に」
「今俺見てたろ」
「見てない」
「絶対見てた」
「見てない」
藍が横から覗く。
「あ、隼人だ」
「言うな!」
「やっぱり!」
隼人が立ち上がる。
「見せろ」
「嫌!」
「俺がモデルなんだろ!」
「全部じゃない!」
「それ翔太にも言ってたやつ!」
翔太が笑う。
「僕の時も言われました」
「じゃあ認めてんじゃん!」
事務所が笑いに包まれる。
隼人は結局見せてもらえない。
「なんなんだよ」
ぶつぶつ言いながら椅子へ戻る。
でも。
少し嬉しそうだった。
自分が誰かの絵の中へ入る。
そんな経験はなかった。
⸻
「隼人」
奈々恵が声を掛ける。
「何」
「学校は?」
隼人の表情が一瞬だけ硬くなる。
奈々恵はすぐ気づいた。
「ごめん」
「……別に」
「聞かれたくなかった?」
「まぁ」
「じゃあやめる」
それだけ。
隼人が少し戸惑う。
「聞かないの」
「嫌なんでしょ」
「……」
「話したくなった時に話せばいい」
隼人は少し黙った。
この場所は、本当に変だった。
聞く。
でも。
嫌だと言えば止まる。
止まったあと、不機嫌にもならない。
「……高校」
隼人が自分から言った。
奈々恵が見る。
「うん」
「辞めた」
「そっか」
「去年」
「うん」
「理由は」
少し間。
「……家」
奈々恵は頷くだけ。
「母ちゃんが働いてて」
「うん」
「親父、仕事続かなくなって」
「うん」
「金なくて」
隼人は膝を見る。
「俺も働いた」
「何してたの」
「居酒屋」
「大変そう」
「深夜まで」
「学校は」
「朝起きれなくなった」
少し笑う。
「当たり前だけど」
奈々恵は笑わなかった。
「先生には?」
「バイト減らせって」
「減らせた?」
「減らしたら家賃払えない」
「……」
「親父には」
隼人の顔が少し歪む。
「お前が根性ないから学校続かねぇんだって」
奈々恵は小さく息を吐いた。
「それで辞めた?」
「まぁ」
「働きたくなかった?」
「働くのは別に」
「学校行きたかった?」
隼人が止まる。
そこは。
考えたことがなかった。
「……分かんね」
「そっか」
奈々恵はそれ以上聞かなかった。
隼人は少しだけ悔しそうな顔をした。
自分のことなのに。
分からない。
でも。
最近この場所へ来ると、
そういう「分からない」が許される。
ますみも。
藍も。
翔太も。
みんな一度、
分からないと言っていた。
それでも誰も、
すぐ答えを出せとは言わなかった。
⸻
夕方。
前原たちが戻った。
扉を開けるなり、
前原が隼人を見る。
「またいる」
「悪い?」
「別に」
「そこは歓迎しろよ」
「なんでだ」
「普通するだろ」
「普通じゃねぇからここ」
木戸が笑う。
「自覚あったんだ」
「お前黙れ」
隼人は少しだけ笑った。
昨日ほど前原を怖がってはいない。
それでも。
父親の昔を知る人。
その事実は意識している。
「親父」
「ん?」
「まだ聞きたいことある」
前原は隼人を見る。
「今?」
「……今日はやめとく」
「そうか」
「また今度」
「ああ」
短いやり取り。
でも。
それでいい。
⸻
夜。
桜井が全員へ今日分かったことを話した。
「美月とユウ」
ホワイトボードへ名前を書く。
「二人は例の団体系列の施設にいた可能性が高い」
藍たちも静かに聞いている。
「ただし」
「記録がない」
田中が眉を寄せる。
「存在しない扱い?」
「可能性としては」
佐伯が答える。
「行政上、正式利用者ではなかったのかもしれません」
翔太が聞く。
「それって」
「どういうことですか」
「例えば」
佐伯は言葉を選ぶ。
「親が施設にいた」
「その子として一緒にいた」
「でも本人の登録が不十分だった」
「そういうケースは考えられます」
「他には?」
敦が聞く。
佐伯は黙った。
「言ってください」
「……施設が独自に預かっていた」
部屋が静かになる。
「それ、できるんですか」
「正式には手続きが必要です」
「じゃあ」
「まだ決めつけないでください」
桜井が言う。
「そこは俺も同意だ」
木戸がぼそっと言う。
「ずっと決めつけるなって言われてるな俺ら」
「お前が一番決めつけるからだ」
川本。
「確かに」
「納得すんなよ」
少し笑いが起きる。
でもすぐに。
桜井は続けた。
「重要なのは」
「森川が、その二人を元の施設へ戻すなと言ったこと」
「何か理由がある」
「その理由を探す」
前原が写真を見る。
森川。
美月。
ユウ。
「野々村のところには、他の写真もあるんだろ」
「ああ」
「全部見る」
「何を探す」
「森川が誰と会ってたか」
「……」
「それと」
前原は二人の子どもを見る。
「このガキらが、どこから来たか」
⸻
その夜。
ますみは遅くまで絵を描いていた。
笑花の世界。
雨の街。
そこへ。
二人の子どもが加わる。
黄色い傘を持つ少女。
黒い帽子の少年。
でも。
その二人は、
美月とユウではない。
あくまで、
そこから生まれた別のキャラクター。
藍が後ろから見る。
「また増えた」
「うん」
「この子たち、どんな子?」
ますみは少し考える。
「帰る場所探してる」
「二人とも?」
「うん」
「見つかる?」
ますみは鉛筆を止める。
しばらく考える。
「……分かんない」
藍が少し笑う。
「最近、それ言えるようになったね」
ますみも笑う。
「うん」
「前は決めなきゃって思ってた」
「今は?」
「この子たちが決めるまで待つ」
藍はその言葉を聞いて、
少し驚いた。
ますみ本人は気づいていない。
でも。
それは。
前原がみんなへやっていることと、
ほとんど同じだった。
⸻
深夜。
ほとんどの人が帰ったあと。
桜井のスマートフォンが鳴った。
知らない番号。
「はい」
数秒。
桜井の表情が変わる。
「……誰です?」
相手は何かを話している。
短い。
本当に短い通話だった。
そして。
切れた。
前原が顔を上げる。
「誰だ」
桜井はスマートフォンを見つめる。
「分からん」
「何て」
桜井はゆっくり言った。
「森川を探すな」
前原の目が細くなる。
「それだけ?」
「ああ」
「男か」
「男」
「年齢」
「分からん」
「番号は」
「非通知じゃない」
桜井が履歴を見せる。
見慣れない番号。
前原が鼻で笑う。
「やっと向こうから来たか」
桜井は睨む。
「喜ぶな」
「喜んでねぇ」
「顔がそう言ってる」
「俺は元々こういう顔だ」
「知ってる」
しかし。
二人とも分かっていた。
この電話。
ただの悪戯かもしれない。
関係者かもしれない。
森川本人かもしれない。
まだ。
何も分からない。
ただ一つだけ。
今までこちら側だけが探していた森川修平という名前を、
向こう側の誰かも知っている。
それだけは確かだった。
窓の外。
夜の高架を、
最終電車が通り過ぎていく。
そして。
誰も知らない街のどこかで。
一人の男が、
古い携帯電話の電源を切った。
⸻
後書き
第60話でした。
今回は大きく三つ進みました。
まず、美月とユウの行政記録が見つからないという違和感。施設にいた可能性は高いのに、正式な利用記録がありません。
次に隼人。家を離れた背景が少し見えてきました。
彼は単に「学校が嫌で辞めた子」ではありません。
家計を支えるため深夜まで働き、学校との両立が崩れた。
それでも本人の中では、
「自分に根性がなかった」
という父親の言葉が残っています。
そしてラスト。
桜井へ、
「森川を探すな」
という電話が入りました。
ここから森川編は、いよいよ「過去を調べる話」から「現在も誰かが動いている話」へ変わります。
ただし、まだ敵が動いたとは限りません。
この電話を掛けた人物が誰なのか。
森川を守りたい側なのか。
隠したい側なのか。
それすらまだ分かりません。




