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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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59/105

朝になっても

前書き


親になることと、


親でい続けることは、


たぶん別のことだ。


一度決意しただけでは、


人はずっと正しくはいられない。


でも。


間違えたあとに、


何をするかは選べる。


第59話です。


⸻


第59話 朝になっても


 午前六時十二分。


 高架下の事務所は、まだ静かだった。


 始発電車が高架を抜けるたび、窓ガラスが小さく震える。


 古い冷蔵庫の低い駆動音。


 どこかで木戸のいびき。


 床に敷かれた布団。


 その中で、隼人は目を開けていた。


 眠った。


 思っていたより、ちゃんと眠った。


 それが逆に気持ち悪かった。


 知らない場所。


 知らない人たち。


 なのに。


 目を閉じたあと、何度も起きることもなかった。


 父親の足音を気にしなかった。


 母親が泣いていないか耳を澄ませなかった。


 玄関の鍵が回る音に怯えなかった。


 それが。


 少し怖かった。


 隼人はゆっくり身体を起こす。


 リュックは胸元。


 靴は手の届くところ。


 昨夜、自分で置いたまま。


 逃げる準備だけは、眠っている間も崩していなかった。


 隼人は横を見る。


 翔太が雑魚寝している。


 毛布から足が出ている。


 その先では、グエンが完全に布団から外れて床で寝ていた。


「……何でだよ」


 思わず小さく笑う。


「フォー……」


 寝言。


 隼人はさらに笑いそうになった。


 すぐに口元を引き締める。


 なんで笑ってるんだ。


 意味が分からない。


 昨日ここへ来たばかり。


 今日には出て行く。


 それでいい。


 そう決めた。


 隼人は静かに布団を畳み始めた。


⸻


「帰んのか」


 声がした。


 隼人の手が止まる。


 奥の机。


 前原が座っていた。


 いつから起きていたのか分からない。


 缶コーヒー。


 煙草。


 新聞。


 完全におっさんの朝だった。


「……起きてたのかよ」


「年寄りは朝早ぇんだよ」


「自分で言うんだ」


「四十過ぎりゃみんな年寄りだ」


「雑だな」


 隼人は布団を畳み終える。


 前原は止めない。


「今夜だけって言ったんで」


「そうか」


「出ます」


「そうか」


「……」


 隼人は眉を寄せる。


「止めないの」


「止めてほしいのか」


「違う」


「じゃあいいだろ」


「なんかムカつくな」


「朝から元気だな」


 前原はコーヒーを飲む。


 隼人はリュックを背負った。


 それでも。


 扉へ向かわない。


 前原は新聞をめくる。


 完全に放っている。


 隼人が先に折れた。


「……昨日の話」


「ん?」


「親父」


 新聞が止まる。


 前原はゆっくり顔を上げた。


「聞くのか」


「少し」


「全部じゃなくていいのか」


「全部は今ムリ」


「それでいい」


 隼人は近くの椅子へ座った。


 リュックは背負ったまま。


 前原は煙草を取り出したが、火はつけなかった。


「坂口正志」


 その名前を口にすると、隼人の顔がわずかに硬くなる。


「昔からああだった?」


「どのああだ」


「暴れるとか」


「……」


 前原は少し考えた。


「喧嘩はした」


「やっぱり」


「でも俺らの周り、全員した」


「参考になんねぇ」


「だろ」


 前原は少し笑う。


「ただ」


「何」


「坂口は、俺らの中じゃ珍しく先のこと考える奴だった」


 隼人が眉を寄せる。


「親父が?」


「ああ」


「嘘」


「俺が嘘ついて何になる」


「……」


「金の計算とか」


「うん」


「段取りとか」


「うん」


「こっちが酔っ払って暴れてると、お前ら明日どうすんだって言うような奴だった」


「マジで?」


「マジだ」


 隼人は信じられない顔をする。


 今の父親。


 酒。


 怒鳴り声。


 壊れた家具。


 母親の泣き声。


 その人物と、前原が話す青年が繋がらない。


「で」


 前原が続ける。


「女できた」


「母ちゃん?」


「たぶんな」


「会ったことあんの」


「一回だけ」


 隼人の目が少し動く。


「どんなだった」


「普通」


「それだけ?」


「若かった」


「雑すぎ」


「他人の女をそんなジロジロ見ねぇよ」


 隼人が少し笑う。


 前原は続ける。


「坂口は、子どもできたって聞いた日に」


 そこで、一度止まる。


「俺に言った」


「なんて」


「抜けるって」


 隼人は何も言わない。


「怖くなったんだと」


「何が」


「自分の子どもが、自分みてぇになるのが」


 その言葉だけ。


 隼人の表情が消える。


 前原は遠くを見る。


 昔の事務所。


 煙草の煙。


 酒瓶。


 怒鳴り声。


 若い男たち。


 その中で、いつもより真面目な顔をした坂口。


『俺、抜けるわ』


『は?』


『ガキできた』


『だから何だよ』


『だからだよ』


 前原は笑った。


 馬鹿にした。


 逃げるのかと。


 情けねぇなと。


 その時。


 坂口は怒らなかった。


『お前もいつか分かる』


 そう言った。


 前原には、今でもその言葉が残っている。


「親父」


 隼人が小さく言う。


「俺のために抜けたの」


「そういうことになる」


「でも」


「ああ」


「今、あれじゃん」


「ああ」


 前原は否定しない。


 隼人が拳を握る。


「意味なくない?」


 声が震える。


「結局」


「うん」


「母ちゃん殴って」


「うん」


「俺も殴って」


「うん」


「だったら、抜けた意味なんか」


「ある」


 前原が言った。


 隼人が睨む。


「どこが」


「その時は本気だった」


「……」


「二十年後にクソになるからって、二十年前の決意まで嘘になるわけじゃねぇ」


「でも結果は」


「結果はクソだ」


 はっきり言った。


「そこは変わらん」


「じゃあ」


「人間は一回決めたら、一生そのままじゃねぇって話だ」


 隼人は黙る。


「良くもなる」


「悪くもなる」


「守ろうと思った奴を傷つけることもある」


「……」


「だから」


 前原は隼人を見る。


「お前も、親父みたいになるって決まってねぇ」


 隼人の喉が動く。


「俺、怒ると」


「うん」


「物に当たる時ある」


「うん」


「この前も壁殴った」


「痛かったろ」


「そこ?」


「壁硬ぇからな」


「いやそうじゃなくて」


「分かってる」


 前原は少し笑う。


「怖いんだろ」


「……」


「自分も親父みたいになるのが」


 隼人は返事をしない。


 その沈黙が答えだった。


「隼人」


「何」


「怖がってるうちは、まだ大丈夫だ」


「なんで」


「同じになりたくねぇって思ってるからだ」


「でも」


「間違えたら謝れ」


「……」


「止まれなかったら、人に言え」


「……」


「全部一人でどうにかしようとすんな」


 隼人が苦笑する。


「簡単に言うな」


「ああ」


「できねぇよ」


「最初からできる奴なんかいねぇ」


 少し沈黙。


 始発の次の電車が高架を通る。


 ガタン。


 ガタン。


 ガタン。


 その音が遠ざかる。


「……ヨシさん」


 初めて。


 隼人がそう呼んだ。


 前原は反応しない。


 でも、わずかに口元が動いた。


「何だ」


「親父」


「うん」


「探した方がいい?」


「知らん」


「そこは教えてよ」


「お前が会いたいかどうかだ」


「……分かんない」


「じゃあ今決めんな」


「それでいいの」


「いい」


 前原は缶コーヒーを置く。


「今日はどこ行く」


「……」


 隼人は答えない。


 昨日までなら。


 行く場所がない。


 それが答えだった。


 でも今。


 そう言うのが少し嫌だった。


「ネカフェ」


「金あるのか」


「千円ちょい」


「足りねぇな」


「分かってる」


「じゃあ」


 前原は新聞へ目を戻す。


「今夜も来りゃいい」


「……」


「ただし」


「何」


「靴揃えろ」


 隼人が吹き出した。


「そこ?」


「昨日バラバラだった」


「見てたのかよ」


「玄関狭ぇんだよ」


 笑ってしまった。


 本当に少しだけ。


 それでも。


 隼人は笑った。


⸻


 午前八時。


 事務所が少しずつ起き始める。


「オハヨ!」


 グエンが異様に元気だった。


「うるさ……」


 木戸が毛布へ潜る。


「朝から声量考えろ」


「アサ、ゲンキ!」


「夜も元気だろお前」


「イツモゲンキ!」


「最強じゃん」


 翔太が起きる。


 ますみはまだ眠そう。


 隼人は玄関にいた。


「じゃ」


 翔太が振り向く。


「帰るんですか?」


「帰るっていうか」


 隼人は少しだけ言葉に詰まる。


「出る」


「そっか」


「……」


「また来ます?」


 隼人は反射的に言いそうになる。


 来ない。


 でも。


 止めた。


「分かんね」


「了解」


 翔太は笑う。


「来た時は麦茶あります」


「それだけ?」


「多分、飯もあります」


「……なら」


 一瞬。


「腹減ったら来る」


「はい」


 それだけだった。


 隼人は外へ出る。


 朝の日差し。


 高架下の影。


 人々の通勤。


 世界は普通に動いている。


 昨夜。


 自分はここで眠った。


 その事実だけが、少し変だった。


⸻


 一方。


 午前十時。


 前原たちは昨夜訪れた地域交流施設へ戻っていた。


 古い礼拝堂を改装した、小さな施設。


 昼間に見ると、夜とは印象が違う。


 入口前にはプランター。


 壁には子どもたちが描いた絵。


 古い掲示板。


 そして。


 森川修平と黄色い服の少女が写った写真。


 施設の管理人は、


野々村章一。


 七十一歳。


 元教員。


 退職後、地域活動を続けている。


「森川くんね」


 野々村は写真を手に取った。


「覚えてますよ」


 桜井が尋ねる。


「よく来ていたんですか」


「一年くらいかな」


 前原が眉を上げる。


「一年?」


「はい」


 三年前に一度だけ。


 ではなかった。


 森川は、もっと長くここへ通っていた。


「どういう立場で」


「最初は食事をしに来た」


 野々村が笑う。


「次は手伝い」


「その次から、勝手に料理を作り始めた」


 前原が少しだけ笑う。


 洋食屋で七年。


 森川らしい。


「子どもたちにも人気でした」


「黄色い服の女の子は」


 野々村の表情が少し曇る。


「ああ」


「名前は」


「……美月」


 桜井がメモを取る。


「名字は」


「分かりません」


「分からない?」


「本人も言わなかった」


 前原が聞く。


「何歳」


「当時七歳くらい」


「家族は」


「そこが」


 野々村は少し困ったように息を吐く。


「いなかった」


 部屋が静かになる。


「児童相談所には?」


「もちろん連絡しました」


「それで」


「一時保護になった」


「じゃあ森川とは」


「その後も会っていた」


「どうして」


「森川くんが保護者だったわけじゃない」


「じゃあ」


「美月ちゃんが、彼にだけは懐いていた」


 話によると。


 美月は、近くの公園で森川に出会った。


 一人だった。


 夕方。


 帰る家が分からない。


 名前は言える。


 でも住所が言えない。


 警察へ連れていった。


 そこから行政へ。


 それだけなら。


 普通の保護事案だった。


「ただ」


 野々村が続ける。


「おかしかったんです」


「何が」


「美月ちゃん」


 少し間を置く。


「家へ帰るのを、ものすごく怖がっていた」


 桜井の目が細くなる。


「虐待」


「当時も疑われたそうです」


「親は」


「見つかった」


「なら」


「迎えに来なかった」


 前原が顔を上げる。


「なんで」


「親ではなく」


 野々村は言葉を選ぶ。


「『保護者を名乗る人』が来た」


 桜井のペンが止まる。


「どういう意味です」


「施設職員」


「どこの」


 野々村が古いファイルを出す。


「記録が残ってます」


 一枚のコピー。


 施設名。


 住所。


 担当者。


 桜井が読む。


 そして。


 顔が変わった。


「……前原」


「何だ」


 紙を渡す。


 前原が見る。


 住所。


 法人名。


 関連団体。


 それは。


 例のシェアハウス運営団体と同じ系列だった。


「美月は」


 前原が低く聞く。


「そこから来たのか」


「可能性は高いです」


 野々村が頷く。


「児童施設という登録ではありません」


「じゃあ何だ」


「家族支援施設」


 桜井が言う。


「親子で生活再建するための施設か」


「はい」


「でも、親がいない子がいた」


「そうなんです」


 空気が変わる。


 今までの問題。


 若者。


 住居。


 仕事。


 借金。


 囲い込み。


 そこへ。


 子ども。


 別の層が繋がった。


「森川は何を知った」


 黒岩が呟く。


 誰も答えられない。


 野々村が続ける。


「それだけじゃありません」


「まだあるのか」


「美月ちゃん」


「うん」


「一人じゃなかった」


 前原の表情が変わる。


「どういう意味だ」


 野々村はファイルをめくる。


 一枚の古い写真。


 夏祭り。


 森川。


 美月。


 そして。


 少し離れた場所に。


 もう一人。


 十歳くらいの男の子。


 黒い帽子。


 俯いた顔。


「この子は」


 桜井が尋ねる。


「名前は」


 野々村は答えた。


「ユウ」


「名字は」


「分かりません」


「この子も同じ施設から?」


「本人はそう言っていました」


 前原が写真を見る。


 少女。


 少年。


 森川。


 そして。


 森川が姿を消した時期。


「森川は」


 黒岩が言う。


「この二人を連れて逃げたのか」


 野々村は首を振った。


「分かりません」


「でも」


 写真を見つめる。


「最後の日」


「うん」


「三人とも来ました」


「森川と二人の子ども?」


「はい」


「何をしに」


「森川くんが」


 野々村の声が少し震える。


「俺が戻らなかったら」


 施設の人へ、二人の子どもを渡さないでほしい。


 そう言った。


 桜井の背筋が伸びる。


「それで」


「どうした」


「その夜」


 野々村は目を伏せた。


「三人とも、いなくなりました」


⸻


 昼。


 高架下の事務所。


 隼人は。


 また入口に立っていた。


 今度は。


 自分から。


「……腹減った」


 翔太が顔を上げる。


「麦茶もありますよ」


「それ、セットなの?」


「だいたい」


 ますみが少し笑う。


 グエンが手を振る。


「オカエリ!」


 隼人が止まる。


「……」


 昨日。


 その言葉を聞いた。


 今日も。


 聞いた。


 隼人は少しだけ顔を逸らす。


「ただいまじゃねぇし」


 でも。


 帰らなかった。


 靴を脱ぐ。


 そして。


 少し迷ってから。


 揃えた。


⸻


後書き


第59話でした。


今回は大きく二つ進みました。


隼人側では、前原から坂口正志が「子どものために組を抜けた」という過去を聞きました。父親が昔から怪物だったわけではない。だからこそ、「人はどうして変わってしまうのか」という新しい問いが生まれます。


そして森川側。


黄色い傘の少女の名前は、


美月。


さらにもう一人、


ユウ


という少年がいたことが判明しました。


しかも二人は、例の団体系列の「家族支援施設」から来た可能性が高い。


森川は最後の日、


「俺が戻らなかったら、この二人を施設へ渡さないでほしい」


と言い残していた。


つまり森川修平は、単に団体から逃げたのではありません。


何かを知り、二人の子どもを守ろうとしていた。


一方で、隼人は翌日、自分から事務所へ戻ってきました。


「今夜だけ」が、


もう一日だけ、


続き始めています。

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