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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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58/105

今夜だけ

第58話 今夜だけ


前書き


「今日だけ」


という言葉は、


便利です。


明日のことを、


考えなくていいから。


「今夜だけ泊めて」


「今日だけ休ませて」


「一回だけ助けて」


そう言えば、


まだ自分は、


誰かに頼り切ったわけではないと、


思えるから。


でも。


本当に苦しい時は、


「今日だけ」を、


何度繰り返してもいいのかもしれません。


⸻


本編


 午後十一時四十二分。


 高架下の事務所。


 隼人は、ソファの端に座っていた。


 座っているというより、いつでも立てる姿勢だった。


 背中を完全には預けない。


 靴も脱がない。


 黒いリュックは足元ではなく、膝の上。


 ファスナーの部分を右手で握っている。


 まるで誰かに取られることを警戒しているようだった。


 敦は少し離れた机で、スマートフォンをいじるふりをしていた。


 見ない。


 聞かない。


 気にしていないようにする。


 これが意外と難しい。


 どうしても気になる。


 十九歳。


 寝る場所がない。


 家には帰れない。


 理由を聞きたい。


 家族は?


 学校は?


 仕事は?


 金は?


 いつから?


 どうして?


 聞こうと思えば、いくらでも聞ける。


 けれど。


 敦は聞かなかった。


 少し前まで、自分も聞かれる側だったからだ。


 何があった。


 なぜ仕事を辞めた。


 次はどうする。


 将来どうする。


 ちゃんと考えているのか。


 質問する側には悪気がなくても、答える側には逃げ場がなくなることがある。


 だから。


 敦は黙っていた。


 隼人も黙っている。


 二人の間で、古い扇風機だけが首を振っていた。


 ブーン。


 カチ。


 ブーン。


 カチ。


「……あの」


 隼人が先に口を開いた。


「うん?」


「ここ」


「うん」


「何なんすか」


 敦は少し考える。


「俺も最初それ聞いた」


「答えは?」


「いまだによく分からない」


 隼人が怪訝そうな顔をする。


「宗教とか?」


「違う」


「会社?」


「違う」


「NPO?」


「たぶん違う」


「たぶん?」


「ヨシさんに聞いたら『知らん』って言うと思う」


「ヨシさん?」


「ここの……」


 敦は言葉を探す。


 代表。


 違う。


 社長。


 もっと違う。


 管理人。


 それも違う。


「……怖いおっさん」


 隼人が眉をひそめた。


「神谷さんと同じこと言ってる」


「あ、やっぱり?」


「何なんすか、その人」


「会えば分かる」


「余計怖いんだけど」


 敦は笑った。


 隼人は笑わなかった。


 ただ。


 ほんの少しだけ、肩から力が抜けた。


⸻


 奥では翔太が布団を探していた。


「これ使えます?」


 川本が押し入れを見る。


「それ木戸の」


「じゃあ駄目ですね」


「なんでだよ!」


 ソファから木戸が叫ぶ。


「俺の布団、汚いみたいに言うな!」


 翔太が真顔で言う。


「最後に洗ったのいつです?」


「……」


「いつです?」


「春?」


「今年?」


「たぶん」


「却下」


「ひどくね?」


 グエンが別の布団を持ってくる。


「コレ、キレイ!」


「それ来客用だな」


「ジャア、コレ!」


「そうしよう」


 隼人はそのやり取りを見ていた。


 不思議な場所だった。


 誰も自分を見張っていない。


 けれど。


 完全に無関心でもない。


 その距離感が分からない。


「俺」


 隼人が言う。


「床でいいっすよ」


 翔太が振り向く。


「なんで?」


「別に」


「布団あるよ」


「でも」


「じゃんけんします?」


「何で?」


「床と布団どっち使うか」


「意味分かんねぇ」


 隼人が初めて少し笑った。


 翔太も笑う。


「じゃあ布団で」


「……はい」


 隼人は小さく答えた。


⸻


 午前零時十五分。


 神谷はひだまり食堂へ戻り、事務所にはいつもの面々が残っていた。


 和子も帰った。


 藍は奥の小部屋。


 ますみはソファの横でスケッチブックを開いている。


 レンはイヤホンをして何かを描いていた。


 隼人は何度も時計を見る。


 敦は気づいていた。


「眠れない?」


「別に」


「電気消そうか」


「いや」


 返事が早かった。


 敦はそれ以上言わない。


 暗い場所が嫌なのかもしれない。


 知らない場所だからかもしれない。


 何か理由があるのかもしれない。


 あるいは、ただ眠くないだけかもしれない。


 分からないことを、勝手に意味づけしない。


 最近、それを覚えた。


⸻


 ガラガラ。


 突然。


 扉が開いた。


「疲れたぁ……」


 黒岩が入ってくる。


 続いて桜井。


 最後に前原。


「五階は反則だろ……」


「まだ言ってんのか」


「エレベーター作れ」


「俺に言うな」


 三人とも疲れていた。


 前原は靴の泥を落としながら顔を上げる。


「ん?」


 知らない青年。


 隼人。


「誰だ」


 隼人も前原を見る。


「……」


 時間が止まった。


 敦が説明しようとする。


「ヨシさん、この子――」


 隼人の顔から血の気が引いた。


 リュックを掴む。


 立ち上がる。


 後ろへ下がる。


 ガタン。


 椅子が倒れた。


 全員が驚く。


「おい?」


 前原が止まる。


 隼人は前原を見ていた。


 目を見開いて。


 明らかに怯えている。


「……なんで」


「何が」


「なんで、ここにいるんだよ」


 前原が眉を寄せる。


「お前、俺を知ってんのか」


「……」


「隼人?」


 翔太が近づこうとする。


「来んな!」


 隼人が叫んだ。


 翔太は止まる。


 隼人は出口を見る。


 前原がそこにいる。


 逃げ道を塞いでいる形になっていた。


 それに気づいた前原は、すぐ横へ退いた。


 扉から離れる。


「出たきゃ出ろ」


 隼人は戸惑う。


「……」


「止めねぇよ」


 前原は壁際へ移動する。


 出口が完全に空く。


 隼人は扉を見る。


 逃げられる。


 誰も止めない。


 それでも。


 出なかった。


 前原は少し離れた椅子へ座る。


「で」


 隼人を見る。


「俺をどこで見た」


「……会ったことはない」


「は?」


 隼人は唇を噛む。


「写真」


「写真?」


「家にあった」


 前原の表情が変わった。


 黒岩も桜井も、同時に隼人を見る。


「誰の家だ」


 前原が聞く。


「……俺ん家」


「なんで俺の写真がある」


「知らねぇよ!」


 隼人が怒鳴る。


「俺が聞きてぇよ!」


 部屋が静まり返る。


 隼人の呼吸が荒くなる。


「親父の部屋にあった」


 前原の目が細くなる。


「親父?」


「古いアルバム」


「……名前は」


 隼人は答えない。


「言いたくなきゃ言わなくていい」


 前原が言う。


 隼人は驚いたように顔を上げた。


「でも」


 前原は続ける。


「俺が写ってたなら、俺にも関係ある」


 隼人は拳を握る。


「……坂口」


 黒岩の表情が変わった。


 前原は動かなかった。


「下の名前」


「正志」


 沈黙。


 敦は知らない名前だった。


 翔太も。


 木戸も。


 だが。


 黒岩と桜井は、前原を見た。


 前原は。


 完全に固まっていた。


「ヨシ」


 黒岩が呼ぶ。


 返事がない。


「知ってるのか」


 前原は、ゆっくり息を吐いた。


「……知ってる」


 隼人が睨む。


「やっぱり」


「ああ」


「親父と何してた」


 前原はすぐに答えなかった。


 昔の記憶を引きずり出すように、目を閉じる。


「同じ組にいた」


 隼人の顔が歪んだ。


 敦たちも黙った。


「俺が二十代の頃だ」


「親父も?」


「ああ」


「じゃあ」


 隼人は声を震わせる。


「あんたもヤクザだったんだろ」


「そうだ」


 否定しなかった。


 言い訳もしなかった。


「……最低じゃん」


「ああ」


 前原は答える。


「最低だった」


 隼人が言葉に詰まった。


 もっと反論されると思っていたのかもしれない。


「親父」


 隼人は吐き捨てるように言う。


「クソだった」


 誰も止めない。


「酒飲んで」


「暴れて」


「母ちゃん殴って」


 翔太の表情が少し強張る。


「俺も殴られた」


 隼人は笑った。


 笑っているのに、目は笑っていない。


「でも外じゃ普通なんだぜ」


「仕事して」


「近所に挨拶して」


「いいお父さんですねって」


「……」


「笑えるだろ」


 誰も笑わない。


「家の中だけ」


 隼人は自分の腕を掴む。


「別人だった」


 前原は黙って聞いていた。


「昔の写真、見つけたのは中二の時」


「親父の押し入れ」


「黒い服着た男がいっぱい写ってて」


「その中に」


 前原を見る。


「あんたがいた」


「……」


「若かったけど、顔同じ」


 木戸が小さく呟く。


「ヨシさん昔から老け――」


 川本が口を塞いだ。


「今じゃない」


「むぐ」


 隼人は続ける。


「親父に聞いた」


「この人誰って」


「なんて言った」


 前原が尋ねる。


「死んだって」


 前原の眉が動いた。


「……俺が?」


「そう」


「とっくに死んだって」


「クズだから死んで当然だって」


 黒岩が小さく息を吐く。


「坂口らしいな」


 隼人が睨む。


「あんたも知ってるのか」


「少しな」


「じゃあ親父がどこにいるか知ってる?」


「知らん」


「嘘つくな」


「本当に知らん」


 黒岩は真っ直ぐ答えた。


「十年以上会ってない」


「……」


 隼人の肩が落ちる。


 前原が聞く。


「今、親父は」


「知らない」


「家にいないのか」


「三日前から」


 敦が顔を上げる。


「三日前?」


「帰ってこない」


「だから家に帰れない?」


 隼人は首を横に振った。


「逆」


「え?」


「帰ってくるかもしれないから」


 その言葉だけで、部屋の温度が少し下がった気がした。


「何があった」


 前原が聞く。


「……」


「言いたくなきゃ」


「母ちゃんが」


 隼人が遮った。


「出てった」


「いつ」


「一週間前」


 母親は突然家を出た。


 荷物もほとんど持たず。


 隼人へ、


『ごめんね』


 という短いメッセージだけ残して。


 父親は荒れた。


 酒を飲み。


 家具を壊し。


 隼人へ母親の居場所を聞いた。


 知らないと答えると。


「殴られた?」


 川本が静かに聞く。


 隼人は答えない。


 それが答えだった。


「それで家を出た」


「……うん」


「三日前から親父もいない」


「うん」


「警察は」


「行ってない」


「なんで」


「親父が昔ヤクザだったって言ったら」


 隼人は笑う。


「俺までなんか言われそうで」


 前原は目を伏せた。


 十九歳。


 父親の過去。


 母親の失踪。


 暴力。


 そして。


 自分まで同じ側の人間だと思われる恐怖。


 前原には分かった。


 痛いほど。


「隼人」


 前原が言う。


「なんだよ」


「お前は坂口じゃねぇ」


「……は?」


「名前じゃなくて」


 前原は自分の胸を指す。


「こっちだ」


 隼人は黙る。


「親父が何者でも」


「お前が同じになるわけじゃねぇ」


「簡単に言うなよ」


「ああ」


「俺、親父に似てるって言われるんだよ」


「顔が?」


「性格も」


「誰に」


「親父」


 前原は鼻で笑った。


「じゃあ信用するな」


「……」


「坂口は昔から適当なこと言う」


 隼人が少しだけ目を見開く。


「知ってんの?」


「知ってる」


「どんな奴だった」


 前原は答えようとして。


 止まった。


「聞きたいか?」


 隼人も止まる。


「……」


 知りたい。


 でも。


 怖い。


 その両方が顔に出ていた。


「今日はやめる」


 前原が言った。


「なんでだよ」


「お前疲れてる」


「関係ない」


「ある」


「逃げんのか」


「逃げねぇよ」


 前原は隼人を見る。


「明日でも話せる」


「……」


「一週間後でも」


「……」


「お前が聞きたくなった時に聞け」


 隼人は、何も言えなくなった。


 前原は立ち上がる。


「それより」


「なんだよ」


「寝ろ」


「は?」


「顔死んでる」


「寝れるわけねぇだろ」


「じゃあ起きてろ」


「どっちだよ!」


 思わず隼人が突っ込んだ。


 木戸が笑う。


「分かるわぁ」


「お前は寝ろ」


「なんで俺だけ!」


 空気が少しだけ緩む。


 翔太が布団を敷く。


「ここ使ってください」


 隼人は布団を見る。


「……今夜だけだから」


 前原は冷蔵庫を開けながら答える。


「好きにしろ」


「明日は出る」


「好きにしろ」


「止めない?」


「なんで止める」


「……」


「でも」


 前原は水を飲む。


「明日の夜も寝るとこなかったら」


 隼人を見る。


「また来りゃいい」


「……」


「それだけだ」


 隼人は布団へ視線を落とした。


 今夜だけ。


 その言葉に逃げ込むように。


「……分かった」


 小さく答えた。


⸻


 午前二時。


 事務所の明かりは一つだけになっていた。


 木戸のいびき。


 グエンの寝言。


「……フォー……」


 何の夢を見ているのか分からない。


 隼人は布団に入っていた。


 眠れないと思っていた。


 けれど。


 いつの間にか。


 眠っていた。


 リュックを抱えたまま。


 靴もすぐ手の届くところ。


 完全には安心していない。


 それでも。


 眠っている。


 前原は奥の机で一人、古い写真を見ていた。


 黒岩が持っていたものだった。


 二十年以上前。


 若い男たち。


 酒。


 煙草。


 笑顔。


 その中に。


 若い前原。


 そして。


 坂口正志。


 今の隼人と、


よく似た青年がいた。


 前原は写真を見つめる。


「……馬鹿野郎」


 誰に言ったのか。


 坂口か。


 昔の自分か。


 分からない。


 その時。


「ヨシさん」


 敦だった。


「起きてたのか」


「トイレです」


「寝ろ」


「はい」


 敦は戻ろうとして。


 写真が目に入る。


「隼人のお父さん?」


「ああ」


「仲良かったんですか」


 前原は少し考えた。


「……悪くはなかった」


「そうなんですね」


「ただ」


 写真の坂口を見る。


「こいつは」


 前原の声が低くなる。


「俺より先に、組を抜けた」


 敦が止まる。


「え?」


「二十年以上前にな」


「じゃあ」


「隼人が生まれる前だ」


 敦は写真を見る。


「なんで?」


「子どもができたから」


 敦の表情が変わった。


「それって……」


「ああ」


 前原は眠っている隼人を見る。


「たぶん、こいつだ」


 坂口正志は、


子どもができたから組を抜けた。


 家族を作るために。


 普通の父親になるために。


 それなのに。


 二十年後。


 その息子は、


父親から逃げている。


 前原は写真を伏せた。


「人間ってのは」


 静かに呟く。


「分かんねぇもんだな」


 敦は何も言えなかった。


 窓の外。


 始発まで、あと三時間。


 隼人は眠っている。


 今夜だけ。


 そう言って。


 ここへ来た。


 けれど。


 誰も知らなかった。


 この「今夜だけ」が。


 隼人だけではなく。


 前原自身が二十年以上閉じていた過去の扉を、


ゆっくりと開き始めていたことを。


⸻


後書き


第58話でした。


今回は隼人と前原が、思わぬ形で繋がりました。


ただし、坂口正志を単純な「元ヤクザのDV親父」にはしません。


彼は隼人が生まれる前、子どものために暴力団を抜けています。


つまり、


「普通の父親になろうとした人間が、なぜ二十年後には家族から逃げられる父親になったのか」


という、もう一つの物語があります。


これは今後、前原自身の過去ともかなり深く絡ませられます。


そして同時進行で忘れてはいけないのが、森川修平と黄色い傘の少女。


次回、第59話では翌朝――隼人が「今夜だけ」と言った通り出て行こうとします。


その直前、前原から坂口正志の昔の話を少しだけ聞くことになります。


そして森川が写っていた地域交流施設からも連絡が入ります。


三年前。


森川が連れていた少女は、施設の職員の子でも地域の子でもなかった。


しかも記録には、彼女とは別に――


もう一人の子どもが残っていました。

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