今夜だけ
第58話 今夜だけ
前書き
「今日だけ」
という言葉は、
便利です。
明日のことを、
考えなくていいから。
「今夜だけ泊めて」
「今日だけ休ませて」
「一回だけ助けて」
そう言えば、
まだ自分は、
誰かに頼り切ったわけではないと、
思えるから。
でも。
本当に苦しい時は、
「今日だけ」を、
何度繰り返してもいいのかもしれません。
⸻
本編
午後十一時四十二分。
高架下の事務所。
隼人は、ソファの端に座っていた。
座っているというより、いつでも立てる姿勢だった。
背中を完全には預けない。
靴も脱がない。
黒いリュックは足元ではなく、膝の上。
ファスナーの部分を右手で握っている。
まるで誰かに取られることを警戒しているようだった。
敦は少し離れた机で、スマートフォンをいじるふりをしていた。
見ない。
聞かない。
気にしていないようにする。
これが意外と難しい。
どうしても気になる。
十九歳。
寝る場所がない。
家には帰れない。
理由を聞きたい。
家族は?
学校は?
仕事は?
金は?
いつから?
どうして?
聞こうと思えば、いくらでも聞ける。
けれど。
敦は聞かなかった。
少し前まで、自分も聞かれる側だったからだ。
何があった。
なぜ仕事を辞めた。
次はどうする。
将来どうする。
ちゃんと考えているのか。
質問する側には悪気がなくても、答える側には逃げ場がなくなることがある。
だから。
敦は黙っていた。
隼人も黙っている。
二人の間で、古い扇風機だけが首を振っていた。
ブーン。
カチ。
ブーン。
カチ。
「……あの」
隼人が先に口を開いた。
「うん?」
「ここ」
「うん」
「何なんすか」
敦は少し考える。
「俺も最初それ聞いた」
「答えは?」
「いまだによく分からない」
隼人が怪訝そうな顔をする。
「宗教とか?」
「違う」
「会社?」
「違う」
「NPO?」
「たぶん違う」
「たぶん?」
「ヨシさんに聞いたら『知らん』って言うと思う」
「ヨシさん?」
「ここの……」
敦は言葉を探す。
代表。
違う。
社長。
もっと違う。
管理人。
それも違う。
「……怖いおっさん」
隼人が眉をひそめた。
「神谷さんと同じこと言ってる」
「あ、やっぱり?」
「何なんすか、その人」
「会えば分かる」
「余計怖いんだけど」
敦は笑った。
隼人は笑わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ、肩から力が抜けた。
⸻
奥では翔太が布団を探していた。
「これ使えます?」
川本が押し入れを見る。
「それ木戸の」
「じゃあ駄目ですね」
「なんでだよ!」
ソファから木戸が叫ぶ。
「俺の布団、汚いみたいに言うな!」
翔太が真顔で言う。
「最後に洗ったのいつです?」
「……」
「いつです?」
「春?」
「今年?」
「たぶん」
「却下」
「ひどくね?」
グエンが別の布団を持ってくる。
「コレ、キレイ!」
「それ来客用だな」
「ジャア、コレ!」
「そうしよう」
隼人はそのやり取りを見ていた。
不思議な場所だった。
誰も自分を見張っていない。
けれど。
完全に無関心でもない。
その距離感が分からない。
「俺」
隼人が言う。
「床でいいっすよ」
翔太が振り向く。
「なんで?」
「別に」
「布団あるよ」
「でも」
「じゃんけんします?」
「何で?」
「床と布団どっち使うか」
「意味分かんねぇ」
隼人が初めて少し笑った。
翔太も笑う。
「じゃあ布団で」
「……はい」
隼人は小さく答えた。
⸻
午前零時十五分。
神谷はひだまり食堂へ戻り、事務所にはいつもの面々が残っていた。
和子も帰った。
藍は奥の小部屋。
ますみはソファの横でスケッチブックを開いている。
レンはイヤホンをして何かを描いていた。
隼人は何度も時計を見る。
敦は気づいていた。
「眠れない?」
「別に」
「電気消そうか」
「いや」
返事が早かった。
敦はそれ以上言わない。
暗い場所が嫌なのかもしれない。
知らない場所だからかもしれない。
何か理由があるのかもしれない。
あるいは、ただ眠くないだけかもしれない。
分からないことを、勝手に意味づけしない。
最近、それを覚えた。
⸻
ガラガラ。
突然。
扉が開いた。
「疲れたぁ……」
黒岩が入ってくる。
続いて桜井。
最後に前原。
「五階は反則だろ……」
「まだ言ってんのか」
「エレベーター作れ」
「俺に言うな」
三人とも疲れていた。
前原は靴の泥を落としながら顔を上げる。
「ん?」
知らない青年。
隼人。
「誰だ」
隼人も前原を見る。
「……」
時間が止まった。
敦が説明しようとする。
「ヨシさん、この子――」
隼人の顔から血の気が引いた。
リュックを掴む。
立ち上がる。
後ろへ下がる。
ガタン。
椅子が倒れた。
全員が驚く。
「おい?」
前原が止まる。
隼人は前原を見ていた。
目を見開いて。
明らかに怯えている。
「……なんで」
「何が」
「なんで、ここにいるんだよ」
前原が眉を寄せる。
「お前、俺を知ってんのか」
「……」
「隼人?」
翔太が近づこうとする。
「来んな!」
隼人が叫んだ。
翔太は止まる。
隼人は出口を見る。
前原がそこにいる。
逃げ道を塞いでいる形になっていた。
それに気づいた前原は、すぐ横へ退いた。
扉から離れる。
「出たきゃ出ろ」
隼人は戸惑う。
「……」
「止めねぇよ」
前原は壁際へ移動する。
出口が完全に空く。
隼人は扉を見る。
逃げられる。
誰も止めない。
それでも。
出なかった。
前原は少し離れた椅子へ座る。
「で」
隼人を見る。
「俺をどこで見た」
「……会ったことはない」
「は?」
隼人は唇を噛む。
「写真」
「写真?」
「家にあった」
前原の表情が変わった。
黒岩も桜井も、同時に隼人を見る。
「誰の家だ」
前原が聞く。
「……俺ん家」
「なんで俺の写真がある」
「知らねぇよ!」
隼人が怒鳴る。
「俺が聞きてぇよ!」
部屋が静まり返る。
隼人の呼吸が荒くなる。
「親父の部屋にあった」
前原の目が細くなる。
「親父?」
「古いアルバム」
「……名前は」
隼人は答えない。
「言いたくなきゃ言わなくていい」
前原が言う。
隼人は驚いたように顔を上げた。
「でも」
前原は続ける。
「俺が写ってたなら、俺にも関係ある」
隼人は拳を握る。
「……坂口」
黒岩の表情が変わった。
前原は動かなかった。
「下の名前」
「正志」
沈黙。
敦は知らない名前だった。
翔太も。
木戸も。
だが。
黒岩と桜井は、前原を見た。
前原は。
完全に固まっていた。
「ヨシ」
黒岩が呼ぶ。
返事がない。
「知ってるのか」
前原は、ゆっくり息を吐いた。
「……知ってる」
隼人が睨む。
「やっぱり」
「ああ」
「親父と何してた」
前原はすぐに答えなかった。
昔の記憶を引きずり出すように、目を閉じる。
「同じ組にいた」
隼人の顔が歪んだ。
敦たちも黙った。
「俺が二十代の頃だ」
「親父も?」
「ああ」
「じゃあ」
隼人は声を震わせる。
「あんたもヤクザだったんだろ」
「そうだ」
否定しなかった。
言い訳もしなかった。
「……最低じゃん」
「ああ」
前原は答える。
「最低だった」
隼人が言葉に詰まった。
もっと反論されると思っていたのかもしれない。
「親父」
隼人は吐き捨てるように言う。
「クソだった」
誰も止めない。
「酒飲んで」
「暴れて」
「母ちゃん殴って」
翔太の表情が少し強張る。
「俺も殴られた」
隼人は笑った。
笑っているのに、目は笑っていない。
「でも外じゃ普通なんだぜ」
「仕事して」
「近所に挨拶して」
「いいお父さんですねって」
「……」
「笑えるだろ」
誰も笑わない。
「家の中だけ」
隼人は自分の腕を掴む。
「別人だった」
前原は黙って聞いていた。
「昔の写真、見つけたのは中二の時」
「親父の押し入れ」
「黒い服着た男がいっぱい写ってて」
「その中に」
前原を見る。
「あんたがいた」
「……」
「若かったけど、顔同じ」
木戸が小さく呟く。
「ヨシさん昔から老け――」
川本が口を塞いだ。
「今じゃない」
「むぐ」
隼人は続ける。
「親父に聞いた」
「この人誰って」
「なんて言った」
前原が尋ねる。
「死んだって」
前原の眉が動いた。
「……俺が?」
「そう」
「とっくに死んだって」
「クズだから死んで当然だって」
黒岩が小さく息を吐く。
「坂口らしいな」
隼人が睨む。
「あんたも知ってるのか」
「少しな」
「じゃあ親父がどこにいるか知ってる?」
「知らん」
「嘘つくな」
「本当に知らん」
黒岩は真っ直ぐ答えた。
「十年以上会ってない」
「……」
隼人の肩が落ちる。
前原が聞く。
「今、親父は」
「知らない」
「家にいないのか」
「三日前から」
敦が顔を上げる。
「三日前?」
「帰ってこない」
「だから家に帰れない?」
隼人は首を横に振った。
「逆」
「え?」
「帰ってくるかもしれないから」
その言葉だけで、部屋の温度が少し下がった気がした。
「何があった」
前原が聞く。
「……」
「言いたくなきゃ」
「母ちゃんが」
隼人が遮った。
「出てった」
「いつ」
「一週間前」
母親は突然家を出た。
荷物もほとんど持たず。
隼人へ、
『ごめんね』
という短いメッセージだけ残して。
父親は荒れた。
酒を飲み。
家具を壊し。
隼人へ母親の居場所を聞いた。
知らないと答えると。
「殴られた?」
川本が静かに聞く。
隼人は答えない。
それが答えだった。
「それで家を出た」
「……うん」
「三日前から親父もいない」
「うん」
「警察は」
「行ってない」
「なんで」
「親父が昔ヤクザだったって言ったら」
隼人は笑う。
「俺までなんか言われそうで」
前原は目を伏せた。
十九歳。
父親の過去。
母親の失踪。
暴力。
そして。
自分まで同じ側の人間だと思われる恐怖。
前原には分かった。
痛いほど。
「隼人」
前原が言う。
「なんだよ」
「お前は坂口じゃねぇ」
「……は?」
「名前じゃなくて」
前原は自分の胸を指す。
「こっちだ」
隼人は黙る。
「親父が何者でも」
「お前が同じになるわけじゃねぇ」
「簡単に言うなよ」
「ああ」
「俺、親父に似てるって言われるんだよ」
「顔が?」
「性格も」
「誰に」
「親父」
前原は鼻で笑った。
「じゃあ信用するな」
「……」
「坂口は昔から適当なこと言う」
隼人が少しだけ目を見開く。
「知ってんの?」
「知ってる」
「どんな奴だった」
前原は答えようとして。
止まった。
「聞きたいか?」
隼人も止まる。
「……」
知りたい。
でも。
怖い。
その両方が顔に出ていた。
「今日はやめる」
前原が言った。
「なんでだよ」
「お前疲れてる」
「関係ない」
「ある」
「逃げんのか」
「逃げねぇよ」
前原は隼人を見る。
「明日でも話せる」
「……」
「一週間後でも」
「……」
「お前が聞きたくなった時に聞け」
隼人は、何も言えなくなった。
前原は立ち上がる。
「それより」
「なんだよ」
「寝ろ」
「は?」
「顔死んでる」
「寝れるわけねぇだろ」
「じゃあ起きてろ」
「どっちだよ!」
思わず隼人が突っ込んだ。
木戸が笑う。
「分かるわぁ」
「お前は寝ろ」
「なんで俺だけ!」
空気が少しだけ緩む。
翔太が布団を敷く。
「ここ使ってください」
隼人は布団を見る。
「……今夜だけだから」
前原は冷蔵庫を開けながら答える。
「好きにしろ」
「明日は出る」
「好きにしろ」
「止めない?」
「なんで止める」
「……」
「でも」
前原は水を飲む。
「明日の夜も寝るとこなかったら」
隼人を見る。
「また来りゃいい」
「……」
「それだけだ」
隼人は布団へ視線を落とした。
今夜だけ。
その言葉に逃げ込むように。
「……分かった」
小さく答えた。
⸻
午前二時。
事務所の明かりは一つだけになっていた。
木戸のいびき。
グエンの寝言。
「……フォー……」
何の夢を見ているのか分からない。
隼人は布団に入っていた。
眠れないと思っていた。
けれど。
いつの間にか。
眠っていた。
リュックを抱えたまま。
靴もすぐ手の届くところ。
完全には安心していない。
それでも。
眠っている。
前原は奥の机で一人、古い写真を見ていた。
黒岩が持っていたものだった。
二十年以上前。
若い男たち。
酒。
煙草。
笑顔。
その中に。
若い前原。
そして。
坂口正志。
今の隼人と、
よく似た青年がいた。
前原は写真を見つめる。
「……馬鹿野郎」
誰に言ったのか。
坂口か。
昔の自分か。
分からない。
その時。
「ヨシさん」
敦だった。
「起きてたのか」
「トイレです」
「寝ろ」
「はい」
敦は戻ろうとして。
写真が目に入る。
「隼人のお父さん?」
「ああ」
「仲良かったんですか」
前原は少し考えた。
「……悪くはなかった」
「そうなんですね」
「ただ」
写真の坂口を見る。
「こいつは」
前原の声が低くなる。
「俺より先に、組を抜けた」
敦が止まる。
「え?」
「二十年以上前にな」
「じゃあ」
「隼人が生まれる前だ」
敦は写真を見る。
「なんで?」
「子どもができたから」
敦の表情が変わった。
「それって……」
「ああ」
前原は眠っている隼人を見る。
「たぶん、こいつだ」
坂口正志は、
子どもができたから組を抜けた。
家族を作るために。
普通の父親になるために。
それなのに。
二十年後。
その息子は、
父親から逃げている。
前原は写真を伏せた。
「人間ってのは」
静かに呟く。
「分かんねぇもんだな」
敦は何も言えなかった。
窓の外。
始発まで、あと三時間。
隼人は眠っている。
今夜だけ。
そう言って。
ここへ来た。
けれど。
誰も知らなかった。
この「今夜だけ」が。
隼人だけではなく。
前原自身が二十年以上閉じていた過去の扉を、
ゆっくりと開き始めていたことを。
⸻
後書き
第58話でした。
今回は隼人と前原が、思わぬ形で繋がりました。
ただし、坂口正志を単純な「元ヤクザのDV親父」にはしません。
彼は隼人が生まれる前、子どものために暴力団を抜けています。
つまり、
「普通の父親になろうとした人間が、なぜ二十年後には家族から逃げられる父親になったのか」
という、もう一つの物語があります。
これは今後、前原自身の過去ともかなり深く絡ませられます。
そして同時進行で忘れてはいけないのが、森川修平と黄色い傘の少女。
次回、第59話では翌朝――隼人が「今夜だけ」と言った通り出て行こうとします。
その直前、前原から坂口正志の昔の話を少しだけ聞くことになります。
そして森川が写っていた地域交流施設からも連絡が入ります。
三年前。
森川が連れていた少女は、施設の職員の子でも地域の子でもなかった。
しかも記録には、彼女とは別に――
もう一人の子どもが残っていました。




