黄色い傘の女の子
前書き
大人はよく、
子どもを守ると言います。
けれど。
子どもにとって一番怖いのは、
殴られることでも、
怒鳴られることでもなく。
「誰に助けを求めればいいのか分からない」
ことなのかもしれません。
⸻
第57話 黄色い傘の女の子
午後八時十三分。
高架下の事務所。
夕食を終えたばかりの部屋には、まだ味噌汁の匂いが残っていた。
木戸がソファに寝転がり、腹をさすっている。
「食った……」
川本が呆れた顔で見る。
「そりゃ三杯食えばな」
「和子さんの飯は危険なんだよ」
「何が」
「止め時が分からない」
「知らねぇよ」
その横では、グエンが食器を重ねていた。
「キドサン、アライモノ!」
「俺、今動いたら死ぬ」
「ジャア、シンダラ、アラウ!」
「死んだあと働かせるの?」
そんな、いつもの夜だった。
少なくとも。
電話が鳴るまでは。
桜井が受話器を取った。
短い会話。
そして。
「森川は、一人じゃなかった」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
前原が立ち上がる。
「誰といた」
「子どもだ」
木戸まで起き上がった。
「子ども?」
「ああ」
「何歳くらい」
「詳しくは分からん」
桜井は時計を見る。
「店長が、当時のパートと連絡を取ってくれた。佐々木さんとは別の人だ」
「今から会えるのか」
「向こうは構わないそうだ」
前原は上着を取った。
「行くぞ」
桜井が眉を寄せる。
「今から?」
「思い出した時に聞く」
「明日でも」
「人間の記憶なんざ、明日になったらまた変わる」
桜井は少し黙った。
「……それは元刑事として否定できんな」
黒岩も立ち上がる。
敦も反射的に腰を上げた。
「俺も行きます」
「敦」
「はい」
「今日は残れ」
前原に言われ、敦は止まる。
「なんでです?」
「全員で押しかけてどうする」
「でも」
「人探しは人数が多けりゃいいってもんじゃねぇ」
もっともだった。
「翔太も残れ」
「はい」
翔太は素直に頷いた。
少し前なら、自分だけ置いていかれることに不安を覚えたかもしれない。
今は違う。
ここで待つことも、役割の一つだと少しずつ分かってきていた。
前原、桜井、黒岩。
三人が事務所を出る。
扉が閉じた。
敦は小さく息を吐いた。
「子どもか……」
ますみがスケッチブックを閉じた。
「森川さんの子?」
「分からない」
「誘拐?」
木戸が言う。
川本がすぐに睨む。
「勝手なこと言うな」
「可能性としてだよ」
「だったら余計に口にするな」
木戸は黙った。
川本は敦を見る。
「分からない時は、分からないままにしとけ」
「はい」
「想像で穴を埋め始めると、最後には自分が作った話を信じるようになる」
元刑事の桜井が言いそうな言葉だった。
けれど、川本も長く前原と一緒に動いてきた。
彼なりに、人の話を聞く怖さを知っているのだろう。
ますみは再びスケッチブックを開いた。
何も描かない。
真っ白なページを、そのままにした。
⸻
三十分後。
三人が到着したのは、小さな団地だった。
築四十年は経っているだろう。
外壁はところどころ色褪せ、階段の蛍光灯には虫が集まっている。
五階。
エレベーターはない。
「……五階かよ」
前原が見上げた。
黒岩が笑う。
「歳だな」
「お前もだろ」
「俺は鍛えてる」
「知らねぇよ」
桜井だけが無言で階段を上っていく。
「待てよ!」
前原が後を追った。
五階に着いた頃には、前原だけ少し息が切れていた。
「……エレベーターつけろよ」
「管理組合に言え」
桜井がインターホンを押す。
少しして。
「はい」
女性の声。
「桜井です」
「あ、はいはい」
扉が開いた。
六十代くらいの女性だった。
短い髪。
眼鏡。
部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っている。
「夜にすみません」
「いいのよ。私が電話したんだから」
女性は三人を見た。
前原で少し止まった。
黒岩でも止まった。
「……警察?」
「違います」
桜井が即答した。
「じゃあ、この二人は?」
「ただのおっさんです」
「おい」
前原が睨む。
女性が笑った。
「怖いおっさんね」
「よく言われます」
どうやら話しやすい人らしい。
「上がって」
居間へ通される。
名前は、
大塚美智子。
六十二歳。
三年前まで、森川が働いていた洋食店でパートをしていた。
現在はスーパーの惣菜部門で週三日働いている。
「森川くんね」
美智子は麦茶を置きながら言った。
「ずっと引っ掛かってたのよ」
桜井が聞く。
「三年前に見たという話ですか」
「そう」
「店長は向かい側に立っていたと言っていました」
「私はもっと近くで見た」
三人の視線が集まる。
「どのくらい」
「五メートルくらい」
桜井の表情が変わった。
「顔は?」
「見た」
「森川修平本人だと思いますか」
美智子はすぐには答えなかった。
記憶を探すように目を細める。
「……痩せてた」
「はい」
「髪も長かった」
「はい」
「昔の修平くんとは全然違った」
少し間を置く。
「でも」
「うん」
「あの笑い方だった」
「笑ってたんですか」
「女の子に」
前原が身を乗り出した。
「子どもか」
「そう」
「何歳くらい」
「小学校……低学年かな」
美智子は手を膝くらいの高さへ持っていく。
「一年生か二年生くらい」
「森川の娘?」
「分からない」
「似ていた?」
「……似てなかったと思う」
「髪は?」
「黒」
「服装」
「黄色いレインコート」
美智子は、そこで何かを思い出した。
「あ」
「何です」
「傘」
「傘?」
「女の子、黄色い傘を持ってた」
雨の日。
洋食店の向かい。
痩せた男。
黄色いレインコートの少女。
森川はしゃがみ込み、少女と何か話していた。
「楽しそうでした?」
桜井が聞く。
「女の子はね」
「森川は?」
「……笑ってたけど」
美智子は首を傾げる。
「ずっと周りを見てた」
部屋が静かになる。
「何かを警戒していた?」
「そう見えた」
「誰かに追われていた?」
「そこまでは分からない」
美智子は続ける。
「店に入ろうとしてたんだと思う」
「森川が?」
「うん」
「道路を渡ろうとして」
しかし。
森川は立ち止まった。
店の中を見た。
店長が厨房にいる。
美智子もいた。
昔と変わらない店。
戻ろうと思えば、戻れた。
それなのに。
「来なかった」
美智子が言う。
「女の子の手を引いて、行っちゃった」
「どっちへ」
「駅とは反対」
「何かありませんか。その先に」
「商店街抜けたら住宅街」
「それだけ?」
「当時は……」
美智子が考える。
「古い教会があった」
桜井の手が止まる。
「教会?」
「教会っていうか」
「小さな礼拝堂」
「今もありますか」
「たぶん」
前原と桜井が目を合わせた。
⸻
同じ頃。
ひだまり食堂。
営業終了間際。
神谷直人がテーブルを拭いていた。
恵子は厨房で明日の仕込みをしている。
カラン。
扉が開いた。
「ごめんなさい、今日はもう……」
神谷が振り返る。
そこにいたのは。
「……隼人?」
昨日の青年だった。
黒いパーカー。
フード。
同じ服。
神谷はすぐ気づいた。
「おかえり」
隼人は少し困った顔をする。
「それ、まだ言うんすか」
「ここでは言う」
「……変なの」
そう言いながら、帰らない。
「飯?」
神谷が聞く。
隼人は首を横に振る。
「食った」
「じゃあどうした」
「別に」
「そっか」
神谷は追及しなかった。
テーブル拭きを続ける。
隼人は入口に立っている。
一分。
二分。
三分。
「……あの」
「ん?」
「ここ」
「うん」
「夜、何時まで?」
「今日は九時」
「その後は?」
「閉める」
「……」
神谷は手を止めた。
ようやく分かった。
「今日、寝る場所ない?」
隼人の表情が硬くなる。
「あるし」
「そっか」
「……」
「じゃあいい」
「……」
神谷はまたテーブルを拭く。
隼人は帰らない。
しばらくして。
「……ない」
神谷は振り返らなかった。
「うん」
「昨日から」
「うん」
「ネカフェ行こうと思ったけど」
「金?」
「千二百円」
「そりゃ厳しいな」
「……」
神谷はようやく隼人を見る。
「十八?」
「十九」
「成人か」
「一応」
「家は」
「帰れない」
「帰りたくない?」
隼人が睨む。
「同じだろ」
「全然違う」
「……」
「帰れないなら、理由がある」
「帰りたくないなら、気持ちがある」
隼人は黙った。
「どっち?」
「……両方」
「そっか」
神谷はスマートフォンを取り出した。
「知り合いに電話する」
隼人が身構える。
「警察?」
「違う」
「役所?」
「違う」
「じゃあ誰」
神谷は少し笑った。
「怖いおっさん」
「は?」
⸻
高架下の事務所。
敦のスマートフォンが鳴った。
「はい」
『神谷です』
「あ、どうも」
『ちょっと相談いいですか』
敦は声の様子から、すぐに何かあると分かった。
「はい」
『十九歳の子がいるんですけど』
敦は立ち上がる。
『今日、寝るところがないみたいで』
敦は川本を見る。
川本も会話を察した。
「連れてこい」
「え?」
「神谷だろ」
「はい」
「こっち来てもらえ」
敦は電話へ戻る。
「神谷さん」
『はい』
「来られます?」
『大丈夫です』
「じゃあ」
敦は一瞬だけ迷う。
前原はいない。
勝手に決めていいのか。
その迷いを見て。
川本が言った。
「敦」
「はい」
「ここは前原の家じゃない」
敦が顔を上げる。
「みんなの場所だ」
それだけだった。
敦は電話へ答えた。
「来てください」
⸻
四十分後。
事務所の扉が開いた。
神谷。
その後ろに隼人。
「こんばんは」
「どうも」
隼人は中を見た。
また変な場所だった。
ソファ。
古い机。
パソコン。
絵。
大量の漫画。
壁に貼られた写真。
謎の外国人。
寝転がっている男。
「……何ここ」
木戸が答える。
「俺も分からん」
「お前が言うな」
川本が突っ込む。
グエンが立ち上がる。
「アタラシイヒト!」
「だからその言い方やめろって」
敦が笑う。
隼人は完全に困惑していた。
「神谷さん」
翔太が近づく。
「その人?」
「うん」
隼人は身構える。
「別に泊めてくれって言ってないから」
「うん」
翔太は頷く。
「じゃあどうします?」
「……え?」
「ここで休んでから決めます?」
隼人は予想していなかったらしい。
「追い出さないの」
「今すぐ?」
「……」
「外、暑いですよ」
翔太は冷蔵庫を開けた。
「麦茶飲みます?」
「……飲む」
翔太がコップを出す。
ますみは少し離れた場所から隼人を見ていた。
十九歳。
彼女とそう遠くない年齢。
でも。
顔つきは、ずっと大人に見えた。
いや。
大人になったのではない。
大人の顔をしないと生きられなかった。
そんな顔だった。
⸻
その頃。
前原たちは、古い礼拝堂の前に立っていた。
住宅街の奥。
小さな十字架。
古い木造建築。
明かりは消えている。
「ここか」
黒岩が言う。
「たぶんな」
桜井が表札を見る。
今は宗教施設として使われていないらしい。
入口には、
地域交流施設
と書かれている。
「明日出直すか」
桜井が言った。
前原は建物を見上げる。
二階。
暗い窓。
誰もいない。
その時。
「おい」
黒岩が呼ぶ。
建物の横。
古い掲示板。
地域行事の写真が何枚も貼られている。
夏祭り。
餅つき。
クリスマス会。
子どもたち。
老人。
地域住民。
その中に。
三年前の写真。
桜井がライトを向けた。
「……前原」
「ああ」
写真の隅。
子どもたちへ食事を配っている男。
長い髪。
痩せた頬。
横顔しか写っていない。
だが。
洋食店から預かった昔の写真と見比べる。
「森川だ」
そして。
そのすぐ隣。
黄色い服を着た、
小さな女の子。
二人は笑っていた。
桜井が写真の日付を見る。
三年前。
須藤が語った「森川が消えた日」から、
約二年後。
前原は写真を見つめた。
「生きてた」
「ああ」
「逃げたあとも」
「ああ」
森川修平は、
消されたのではなかった。
少なくとも。
あさがおを離れた後、
二年間は生きていた。
だとすれば。
「森川は」
桜井が呟く。
「逃げたんだ」
前原は首を横に振った。
「違う」
「何が」
「一人ならな」
黄色い服の少女を見る。
「こいつを連れてた」
森川は、
自分だけ逃げたのではない。
誰かを連れて、
逃げた可能性がある。
そしてその少女が、
誰なのか。
物語は初めて、
森川修平が姿を消した本当の理由へ近づき始めていた。
⸻
後書き
第57話でした。
今回は二本の線が同時に進みました。
一つは、森川修平と「黄色い傘の少女」。三年前の地域交流施設の写真によって、森川が「あさがお」を離れた後も生きていたことが、かなり確かな形で確認されました。そして森川は単に逃げたのではなく、少女を守るために姿を消した可能性が出てきます。
もう一つは、十九歳の隼人です。
彼は「泊めてください」と言えません。「助けて」とも言えません。だから翔太たちは、無理に事情を聞かず、まず麦茶を渡します。
かつて助けられる側だった翔太が、いつの間にか別の誰かへ椅子を差し出せるようになっている。
この変化も、この物語ではかなり大事な部分です。
次回、第58話。
『今夜だけ』
隼人が初めて事務所で夜を過ごします。
ところが深夜、前原たちが帰ってきた瞬間――隼人の表情が一変します。
彼は前原の顔を知っていました。
しかもそれは、前原がまだ「ヨシさん」と呼ばれていなかった時代の話へ繋がっていきます。




