森川修平
前書き
心配している。
その言葉は、
いつも優しいとは限らない。
相手を守りたい時にも使う。
自分から離れてほしくない時にも使う。
そして時には、
相手が何を知っているのか、
確かめたい時にも使われる。
第54話です。
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第54話 森川修平
雨上がりの朝は、街全体が少しだけ明るく見えた。
歩道の隅にはまだ小さな水たまりが残り、通り過ぎる車のタイヤが薄い水しぶきを跳ね上げている。曇り空の向こうでは、夏の太陽が出る場所を探しているようだった。
高架下の事務所では、珍しく早い時間から人が動いていた。
桜井は机の上へ古い住宅地図と数枚の資料を並べ、黒岩はその横で携帯電話の連絡先を確認している。
佐伯は市役所へ出勤する前に立ち寄り、関連法人の登記情報を印刷した紙を置いていった。
前原は窓際の椅子へ座り、火をつけていない煙草を指先で転がしていた。
「森川修平」
桜井が資料の名前を読み上げた。
「当時三十一歳。あさがおへの入居前は、飲食店勤務。最終住所は、例の古いアパート」
黒岩が別の紙を見る。
「緊急連絡先なし。親族情報も空欄」
「住民票は?」
「五年前に別の自治体へ移ってる」
「どこだ」
「それが追えねぇ」
黒岩は舌打ちする。
住所が変わった記録だけはある。
だが、その先が途切れていた。
役所の正式な手続きを通した形跡はあるものの、実際にその住所で生活していた証拠がない。
桜井は腕を組んだ。
「転居先として登録されたのは、倉庫街にあった古い社員寮だ」
「今は?」
「更地」
前原が鼻で息を吐いた。
「また消えてんのか」
「偶然かもしれん」
「何回偶然が続けば気が済むんだよ」
桜井は反論しなかった。
刑事として働いていた頃、前原のような人間を嫌っていた時期がある。
証拠より先に怒り、手続きより先に人を信じ、法では救えない者へ勝手に手を伸ばす。
危うい。
間違えば、本人も周囲も傷つける。
そう思っていた。
今も、その考えは完全には変わっていない。
けれど、法が動けない場所で、前原のような人間しか見つけられないものがあることも、桜井は知っていた。
「まず、森川が働いていた店へ行く」
桜井が地図の一点を指した。
「十年以上前の記録だが、店自体はまだある」
前原が立ち上がる。
「俺も行く」
「来ると思った」
「なんだその言い方」
「止めても来るだろ」
黒岩が笑う。
「昔からそうだ」
「うるせぇ」
前原は煙草をポケットへ戻した。
「カー坊は?」
「車出してる」
「誰に」
「和子さん」
「何してんだあいつ」
「米運び」
前原は数秒黙った。
「……そっちの方が大事だな」
「だろ」
二人は少しだけ笑った。
その時、事務所の奥で、スマートフォンの着信音が鳴った。
翔太のものだった。
ソファに座っていた翔太は画面を見た瞬間、表情を強張らせた。
表示された名前。
**長谷川拓海。**
翔太の親指が、画面の上で止まる。
隣にいた敦が、何も言わずにその様子を見た。
「出なくてもいいぞ」
敦が静かに言う。
翔太は画面から目を離さない。
「でも」
「出たければ出ればいい」
「……どっちなんですか」
「翔太が決める方」
前原が以前言っていた言葉と、ほとんど同じだった。
翔太は少しだけ苦笑する。
「岡野さん、ヨシさんみたいになってきましたね」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
着信が切れた。
しかし、数秒後。
今度はメッセージが届いた。
> この前の話、誰かにした?
短い一文だった。
心配しているようにも見える。
疑っているようにも見える。
翔太は画面を見つめたまま、動けなかった。
胃の奥が、冷たく縮む。
拓海は、高校時代の先輩だった。
数少ない、自分へ普通に声をかけてくれた人。
部活を辞めた後も、廊下ですれ違えば頭を軽く叩いてきた。
コンビニで会えば、ジュースを買ってくれた。
母親の新しい恋人と揉めた時、一晩だけ友人宅へ泊めてもらえるよう動いてくれたこともある。
拓海は、確かに優しかった。
だからこそ。
この一文が怖かった。
「返信するのか」
木戸が、ソファの背もたれ越しに画面を覗こうとする。
「見ないでください」
「見てない」
「見ようとしてました」
「心配してんだよ」
「木戸さんが言うと全部怪しいです」
「なんでだよ」
いつものやり取り。
けれど、翔太は笑えなかった。
ますみがスケッチブックから顔を上げた。
何も聞かない。
ただ、以前翔太へ渡した小さな笑花の絵が、彼の財布へ入っていることだけを知っていた。
翔太はメッセージ入力欄を開く。
何も話していません。
そう打とうとした。
指が止まった。
嘘になる。
確かに、事務所のみんなへ話した。
白石や須藤の証言とも繋がり始めている。
それを正直に言えば、拓海との関係は壊れるかもしれない。
黙っていれば、あちら側へ引き戻されるかもしれない。
「……分かんない」
翔太が呟いた。
「何が?」
敦が聞く。
「先輩が、心配してるのか」
画面を握る。
「俺を疑ってるのか」
敦はすぐに答えなかった。
「両方かもしれない」
翔太が顔を上げる。
「両方?」
「人間って、そんなに綺麗に一個じゃないだろ」
心配している。
でも、自分たちの場所を守りたい。
後輩を助けたい。
でも、逃がしたくない。
本人の中では、それらが矛盾していないこともある。
翔太は少し考えた。
「会ってきます」
木戸が起き上がる。
「一人で?」
「はい」
「危なくね?」
「でも、話さないと分からない」
敦は翔太の顔を見る。
怖がっている。
それでも、自分で決めようとしていた。
「時間と場所は、ここへ送って」
「……分かりました」
「途中で帰りたくなったら帰れ」
「はい」
「先輩に悪いとか考えなくていい」
翔太は少しだけ黙る。
「それが難しいんです」
「知ってる」
敦は苦笑した。
「俺も、ずっと謝ってたから」
翔太はようやく、小さく笑った。
そして、メッセージを打つ。
> 少し話したいです。
> 今日、会えますか。
送信。
既読はすぐについた。
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森川修平がかつて働いていた店は、駅から少し離れた商店街の端にあった。
昔ながらの洋食店。
赤茶色の看板。
ショーケースに並ぶ、色褪せた食品サンプル。
昼時を過ぎていたが、店内には数人の客が残っている。
前原、黒岩、桜井の三人が入ると、カウンターの奥にいた女性店員が一瞬だけ警戒した。
怖い。
本人たちに自覚はないが、三人揃うとかなり怖かった。
「いらっしゃいませ」
女性は営業用の笑顔を作る。
桜井が名刺を出した。
「食事じゃない。少し聞きたいことがある」
「警察の方ですか」
「今は違う」
女性の表情が硬くなる。
その時、厨房の奥から年配の男が顔を出した。
「なんだ」
「店長、昔の従業員について聞きたいって」
男は三人を見る。
六十代半ば。
白い調理服。
額に深い皺。
「名前は」
桜井が答える。
「森川修平」
男の顔が止まった。
ほんの一瞬。
だが、桜井は見逃さなかった。
「知ってるな」
男はしばらく黙っていた。
それから、女性店員へ言う。
「休憩入っていいぞ」
「でも」
「いいから」
女性が厨房から離れる。
店長は三人を、一番奥のテーブルへ案内した。
「何があった」
桜井は座りながら言う。
「それを調べている」
「警察じゃないのに?」
「警察では動けない話だ」
店長は前原を見る。
「そっちは」
「ただのおっさんだ」
「見えねぇな」
「よく言われる」
黒岩が吹き出しそうになる。
店長はため息をつき、向かいへ座った。
「修平は、いい奴だった」
最初に出たのは、その言葉だった。
「料理は?」
「最初は下手だった。オムライスの卵も破くし、皿も何枚か割った」
「長くいたのか」
「七年」
十代後半で店へ入り、二十代半ばまで働いていた。
最初は皿洗い。
少しずつ包丁を覚え、仕込みを任され、最後にはランチの厨房を一人で回せるほどになっていた。
「真面目だったよ」
店長はカウンターの向こうを見る。
そこに、若い頃の森川がまだ立っているような目だった。
「真面目すぎた」
桜井が聞く。
「何があった」
「母親だ」
森川は母子家庭で育った。
母親は病気がちで、働けない時期が長かった。
家賃。
治療費。
生活費。
若い森川がほとんどを背負っていた。
「給料の前借りも何回かあった」
「貸したのか」
「貸した」
「返した?」
「全部な」
店長は少し誇らしそうに言った。
森川は借りた金を必ず返した。
遅れても、少しずつ。
休みの日に手伝いへ出て返そうとした時、店長が怒って帰したこともある。
「けど、母親が亡くなった」
店長の声が低くなる。
「それで終わると思った」
「借金が残った?」
「母親名義だけじゃなかった」
森川自身が保証人になっていたもの。
消費者金融。
知人から借りた金。
何に使ったのか分からないものまで出てきた。
「修平は店を辞めた」
「どうして」
「迷惑を掛けたくないって」
「働いて返せばいいだろ」
前原が言う。
店長は、苦い顔で笑った。
「俺もそう言った」
「だったら」
「聞かなかったんだよ」
森川は、店への取り立てを恐れていた。
従業員へ迷惑が掛かる。
客にも知られる。
店の評判を落とす。
自分が消えればいい。
そう考えた。
「最後に会ったのは?」
「十年くらい前」
「その後、連絡は」
「一度だけ」
店長は席を立ち、レジの下から古い封筒を取り出した。
何度も開いた跡がある。
中には、一枚の葉書。
短い文章。
> 店長へ。
> あの時はご迷惑をかけました。
> 今は住む場所も仕事もあります。
> 一緒に頑張る仲間もできました。
> もう心配しないでください。
> 今までありがとうございました。
差出人住所は、あさがお。
桜井が葉書を見る。
「消印は」
「九年前」
「それ以降は?」
「ない」
店長は腕を組んだ。
「俺は安心した」
「そうだろうな」
「住む場所ができた。仕事もある。仲間もいる。やっと修平も自分の人生を始められるって」
前原は葉書の文章を見つめた。
一緒に頑張る仲間。
もう心配しないで。
今までありがとう。
別れの言葉にも見える。
新しい人生の報告にも見える。
「その後、探さなかったのか」
前原が聞く。
店長の顔が歪んだ。
「本人が心配するなって言ったんだ」
「……」
「俺が追いかけたら、また迷惑かもしれないって」
前原は何も言わなかった。
店長は机の上へ視線を落とす。
「でもな」
「なんだ」
「三年前」
店長は声を小さくした。
「修平に似た奴が、店の前にいた」
桜井の目が鋭くなる。
「話したか」
「店を出た時には、もういなかった」
「見間違いは」
「分からん」
雨の日だった。
閉店間際。
向かい側の歩道に、傘も差さず立っていた男。
髪は長く、頬は痩せていた。
けれど、立ち方が森川に似ていた。
声を掛けようと厨房から出た時には、姿が消えていた。
「防犯カメラは」
「当時はなかった」
「ほかに見た人は」
「パートが一人。修平じゃないかって言ってた」
「その人は今」
「辞めた。連絡先はある」
桜井は頷いた。
「教えてもらえるか」
店長は少し迷った。
「修平をどうするつもりだ」
「見つける」
「それから」
「本人がどうしたいか聞く」
「連れ戻すんじゃないのか」
前原が答えた。
「戻りたきゃ戻る」
「戻りたくなきゃ戻らねぇ」
「それだけか」
「それだけだ」
店長はしばらく前原を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
店を出る前。
前原は振り返った。
「もし見つかったら」
「うん」
「何を言う」
店長は少し考えた。
恨み言。
なぜ消えた。
なぜ連絡しなかった。
言いたいことはいくらでもあった。
けれど、口から出たのは一つだけだった。
「飯、食ってるかって」
前原は少し笑った。
「分かった」
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翔太が拓海と会う場所に選んだのは、駅前のファミリーレストランだった。
人目がある。
出入口が二つある。
何かあれば、すぐ帰れる。
それらは敦と桜井から教えられたことではない。
翔太自身が考えた。
少し前の自分なら、先輩に場所を決めてもらっていた。
その小さな違いに、本人はまだ気づいていなかった。
拓海は先に来ていた。
窓際の席。
スーツではなく、白いシャツと細身のパンツ。
高校時代より少し大人になっただけの、普通の青年に見える。
「おう」
翔太を見ると、いつもの笑顔を見せた。
「座れよ」
「はい」
翔太は向かいへ座る。
注文を取りに来た店員へ、ドリンクバーを二つ頼む。
「俺が出すよ」
拓海が言う。
「大丈夫です」
「いいって」
「自分で払います」
拓海が一瞬だけ止まった。
ほんの少し。
それから笑う。
「そっか」
翔太は財布を確認する。
以前なら、先輩が奢ってくれることを素直に喜んでいた。
今でも、好意を拒みたいわけではない。
ただ、自分で選んで払いたかった。
ドリンクを持って戻ると、拓海が先に聞いた。
「この前の話」
「はい」
「誰かにした?」
メッセージと同じ言葉。
翔太は紙コップを両手で持つ。
「しました」
正直に答えた。
拓海の笑顔が、少しだけ消える。
「誰に」
「一緒にいる人たち」
「あの人たち?」
「はい」
「なんて言ってた」
「まだ分からないって」
拓海は眉を寄せる。
「分からない?」
「先輩が助けられたことも、本当かもしれない」
「かもしれない?」
声が少し強くなる。
翔太の肩が反射的に縮む。
それに気づき、拓海はすぐ表情を緩めた。
「ごめん」
「……」
「責めたいわけじゃない」
「はい」
「ただ、あそこを変に疑ってほしくないんだ」
拓海は本気で心配しているようだった。
「あの会社がなかったら、俺は死んでた」
「……」
「マジで」
仕事を失った。
借金があった。
酒を飲み、朝まで駅前を歩き回った。
友人の家を転々とし、最後には誰からも電話へ出てもらえなくなった。
そんな時、高瀬が助けた。
あさがおへ連れていった。
飯を食わせた。
仕事を与えた。
「俺、初めて言われたんだ」
「何をですか」
「お前には価値があるって」
翔太は言葉を失った。
拓海は少し笑う。
「笑うだろ」
「笑いません」
「昔の俺なら笑った」
そんな言葉で人が変わるか。
夢。
仲間。
新しい人生。
全部、綺麗事だと思っていた。
けれど、本当に何もなくなった時、その綺麗事に救われた。
「だから、あそこを悪く言われると」
拓海はテーブルの上で拳を握る。
「俺まで否定されたみたいになる」
翔太は、その言葉を聞いて初めて理解した。
拓海が守りたいのは、会社だけではない。
あそこで救われた自分自身。
自分が選んだ人生。
それを否定されたくないのだ。
「先輩」
「ん?」
「誰か、いなくなった人いますか」
拓海の表情が固まった。
「何の話」
「シェアハウスから」
「出ていく奴くらいいるだろ」
「荷物を残して?」
拓海は答えない。
翔太は怖かった。
それでも続ける。
「森川さんって知ってますか」
拓海の目が動いた。
それだけだった。
だが、翔太には分かった。
知っている。
「誰から聞いた」
声の温度が変わる。
「それは言えません」
「翔太」
「言えません」
拓海は椅子へ深く座り直した。
店内では、子どもの笑い声が聞こえる。
店員が食器を下げる音。
明るい店内。
なのに、二人の席だけ空気が重かった。
「お前」
拓海は低い声で言う。
「あの人たちに利用されてないか」
翔太が顔を上げる。
「え?」
「元ヤクザなんだろ」
「……」
「怪しいじゃん」
それは正しい。
見た目だけなら。
過去だけなら。
前原たちの方が、よほど危険に見える。
「何を吹き込まれた」
「吹き込まれてません」
「じゃあ、なんで森川さんの名前なんか知ってんだよ」
「話を聞いただけです」
「誰の」
「言えません」
拓海が苛立ったように息を吐く。
「翔太、俺はお前を心配してる」
「はい」
「なら分かれよ」
翔太は、少しだけ俯いた。
その言い方を知っている。
母親。
母親の恋人。
教師。
みんな言った。
心配している。
お前のためだ。
だから言うことを聞け。
拓海は、その人たちとは違う。
そう思いたかった。
けれど今、同じ言葉が重なって聞こえた。
「先輩」
「なんだ」
「俺が、戻らないって言ったら」
拓海が黙る。
「戻らない?」
「会社にも、シェアハウスにも」
「まだ何も見てないだろ」
「だから」
翔太は息を吸う。
「自分で考えたいです」
「俺の話が信用できないのか」
「そうじゃない」
「じゃあ何だよ」
拓海の声が大きくなる。
近くの客が一瞬、こちらを見る。
拓海は気づき、声を落とした。
「ごめん」
謝る。
それでも、顔には焦りが残っている。
「先輩」
「……」
「俺、先輩に助けてもらったこと忘れてません」
「だったら」
「でも、それと」
翔太は、自分の指先を見る。
「先輩の言う通りにすることは、別です」
拓海の目が見開かれる。
翔太自身も、少し驚いた。
こんなことを言えるとは思っていなかった。
声は震えている。
膝も震えている。
それでも言えた。
「俺、自分で決めます」
拓海は、長い間何も言わなかった。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
分からない顔だった。
やがて、笑った。
けれど、その笑顔は高校時代のものとは違った。
「変わったな」
「……そうですか」
「あの人たちの影響?」
「分かりません」
翔太は正直に答える。
「でも、今いる場所では」
「うん」
「出ていってもいいって言われます」
拓海の表情が止まる。
「帰りたければ帰れ」
「残りたければいろ」
「何か返せとも言われない」
「……」
「だから、俺」
翔太は財布の中にある笑花の小さな絵を思い出す。
「帰りたいと思えるんです」
拓海は何も言わなかった。
その言葉が、胸のどこへ刺さったのか。
翔太には分からなかった。
しばらくして、拓海は伝票を取ろうとした。
翔太が先に自分の分を手で押さえる。
「払います」
「……分かった」
二人は席を立つ。
店の入口。
拓海は最後に聞いた。
「森川さんのこと」
「はい」
「誰か、見つけたのか」
「まだです」
拓海は少しだけ目を伏せる。
「そうか」
「知ってるんですか」
返事はなかった。
拓海は外へ出る。
数歩進んだところで振り返る。
「翔太」
「はい」
「気をつけろよ」
その言葉が何を意味するのか。
誰に気をつけろと言っているのか。
最後まで分からなかった。
---
夕方。
高架下の事務所。
前原たちと翔太は、ほとんど同じ時刻に戻ってきた。
「ただいま」
翔太が言う。
ますみが顔を上げる。
「おかえり」
自然な会話だった。
翔太は、それだけで少し息が楽になった。
敦が近づく。
「どうだった」
「話しました」
「うん」
「怖かったです」
「うん」
「でも、自分で決めるって言えました」
敦は少し笑う。
「そっか」
それ以上、詳しく聞かなかった。
翔太は、自分から話したくなった時に話せばいい。
前原は桜井から森川の話を聞き、机に古い葉書を置いた。
ますみが、離れた場所からその文字を見る。
「森川さん、見つかりそう?」
桜井が答える。
「まだ分からない」
「生きてますか」
「それも分からない」
ますみは少し俯く。
前原が言う。
「勝手に殺すな」
ますみが顔を上げる。
「え」
「分かんねぇなら、生きてる方で考えろ」
「……うん」
「見つけるまではな」
その夜。
事務所の壁へ、詩織が撮った新しい写真が一枚貼られた。
食卓を囲む人たち。
笑う者。
食べる者。
何かを話している者。
全員が同じ方向を見ているわけではない。
それでも、同じ場所にいる。
その写真の下で、ますみはスケッチブックを開いた。
雨の中を歩く青年。
前回描いた背中。
今日は、その絵へ細い道を一本描き足す。
道は二つに分かれている。
一方は、大きな建物へ続く道。
もう一方は、小さな灯りのある部屋へ続く道。
どちらを選ぶのかは、まだ描かなかった。
選ぶのは、その青年だから。
---
## 後書き
第54話でした。
今回は、
- 森川修平の過去
- 翔太と拓海の再会
- 「助けられた感謝」と「自分で選ぶ自由」
を描きました。
拓海は、単純な敵ではありません。
彼自身も、本当に救われた人です。
だから会社を疑うことは、
自分の人生そのものを疑うことになってしまう。
一方の翔太は、
初めて先輩へ、
> 「助けてもらったこと」と
> 「言う通りにすること」は別だ
と伝えられました。
次回。
森川を見たという元従業員の証言から、
一つの場所が浮かび上がります。
それはシェアハウスでも、
関連会社でもありません。
街の片隅にある、
小さな無料食堂でした。
そしてそこには、
前原たちとは別の方法で、
行き場のない人へ手を伸ばしている人たちがいました。




