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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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54/105

森川修平

前書き


心配している。


その言葉は、

いつも優しいとは限らない。


相手を守りたい時にも使う。


自分から離れてほしくない時にも使う。


そして時には、


相手が何を知っているのか、

確かめたい時にも使われる。


第54話です。


---


第54話 森川修平


 雨上がりの朝は、街全体が少しだけ明るく見えた。


 歩道の隅にはまだ小さな水たまりが残り、通り過ぎる車のタイヤが薄い水しぶきを跳ね上げている。曇り空の向こうでは、夏の太陽が出る場所を探しているようだった。


 高架下の事務所では、珍しく早い時間から人が動いていた。


 桜井は机の上へ古い住宅地図と数枚の資料を並べ、黒岩はその横で携帯電話の連絡先を確認している。


 佐伯は市役所へ出勤する前に立ち寄り、関連法人の登記情報を印刷した紙を置いていった。


 前原は窓際の椅子へ座り、火をつけていない煙草を指先で転がしていた。


「森川修平」


 桜井が資料の名前を読み上げた。


「当時三十一歳。あさがおへの入居前は、飲食店勤務。最終住所は、例の古いアパート」


 黒岩が別の紙を見る。


「緊急連絡先なし。親族情報も空欄」


「住民票は?」


「五年前に別の自治体へ移ってる」


「どこだ」


「それが追えねぇ」


 黒岩は舌打ちする。


 住所が変わった記録だけはある。


 だが、その先が途切れていた。


 役所の正式な手続きを通した形跡はあるものの、実際にその住所で生活していた証拠がない。


 桜井は腕を組んだ。


「転居先として登録されたのは、倉庫街にあった古い社員寮だ」


「今は?」


「更地」


 前原が鼻で息を吐いた。


「また消えてんのか」


「偶然かもしれん」


「何回偶然が続けば気が済むんだよ」


 桜井は反論しなかった。


 刑事として働いていた頃、前原のような人間を嫌っていた時期がある。


 証拠より先に怒り、手続きより先に人を信じ、法では救えない者へ勝手に手を伸ばす。


 危うい。


 間違えば、本人も周囲も傷つける。


 そう思っていた。


 今も、その考えは完全には変わっていない。


 けれど、法が動けない場所で、前原のような人間しか見つけられないものがあることも、桜井は知っていた。


「まず、森川が働いていた店へ行く」


 桜井が地図の一点を指した。


「十年以上前の記録だが、店自体はまだある」


 前原が立ち上がる。


「俺も行く」


「来ると思った」


「なんだその言い方」


「止めても来るだろ」


 黒岩が笑う。


「昔からそうだ」


「うるせぇ」


 前原は煙草をポケットへ戻した。


「カー坊は?」


「車出してる」


「誰に」


「和子さん」


「何してんだあいつ」


「米運び」


 前原は数秒黙った。


「……そっちの方が大事だな」


「だろ」


 二人は少しだけ笑った。


 その時、事務所の奥で、スマートフォンの着信音が鳴った。


 翔太のものだった。


 ソファに座っていた翔太は画面を見た瞬間、表情を強張らせた。


 表示された名前。


 **長谷川拓海。**


 翔太の親指が、画面の上で止まる。


 隣にいた敦が、何も言わずにその様子を見た。


「出なくてもいいぞ」


 敦が静かに言う。


 翔太は画面から目を離さない。


「でも」


「出たければ出ればいい」


「……どっちなんですか」


「翔太が決める方」


 前原が以前言っていた言葉と、ほとんど同じだった。


 翔太は少しだけ苦笑する。


「岡野さん、ヨシさんみたいになってきましたね」


「それ、褒めてる?」


「半分くらい」


 着信が切れた。


 しかし、数秒後。


 今度はメッセージが届いた。


> この前の話、誰かにした?


 短い一文だった。


 心配しているようにも見える。


 疑っているようにも見える。


 翔太は画面を見つめたまま、動けなかった。


 胃の奥が、冷たく縮む。


 拓海は、高校時代の先輩だった。


 数少ない、自分へ普通に声をかけてくれた人。


 部活を辞めた後も、廊下ですれ違えば頭を軽く叩いてきた。


 コンビニで会えば、ジュースを買ってくれた。


 母親の新しい恋人と揉めた時、一晩だけ友人宅へ泊めてもらえるよう動いてくれたこともある。


 拓海は、確かに優しかった。


 だからこそ。


 この一文が怖かった。


「返信するのか」


 木戸が、ソファの背もたれ越しに画面を覗こうとする。


「見ないでください」


「見てない」


「見ようとしてました」


「心配してんだよ」


「木戸さんが言うと全部怪しいです」


「なんでだよ」


 いつものやり取り。


 けれど、翔太は笑えなかった。


 ますみがスケッチブックから顔を上げた。


 何も聞かない。


 ただ、以前翔太へ渡した小さな笑花の絵が、彼の財布へ入っていることだけを知っていた。


 翔太はメッセージ入力欄を開く。


 何も話していません。


 そう打とうとした。


 指が止まった。


 嘘になる。


 確かに、事務所のみんなへ話した。


 白石や須藤の証言とも繋がり始めている。


 それを正直に言えば、拓海との関係は壊れるかもしれない。


 黙っていれば、あちら側へ引き戻されるかもしれない。


「……分かんない」


 翔太が呟いた。


「何が?」


 敦が聞く。


「先輩が、心配してるのか」


 画面を握る。


「俺を疑ってるのか」


 敦はすぐに答えなかった。


「両方かもしれない」


 翔太が顔を上げる。


「両方?」


「人間って、そんなに綺麗に一個じゃないだろ」


 心配している。


 でも、自分たちの場所を守りたい。


 後輩を助けたい。


 でも、逃がしたくない。


 本人の中では、それらが矛盾していないこともある。


 翔太は少し考えた。


「会ってきます」


 木戸が起き上がる。


「一人で?」


「はい」


「危なくね?」


「でも、話さないと分からない」


 敦は翔太の顔を見る。


 怖がっている。


 それでも、自分で決めようとしていた。


「時間と場所は、ここへ送って」


「……分かりました」


「途中で帰りたくなったら帰れ」


「はい」


「先輩に悪いとか考えなくていい」


 翔太は少しだけ黙る。


「それが難しいんです」


「知ってる」


 敦は苦笑した。


「俺も、ずっと謝ってたから」


 翔太はようやく、小さく笑った。


 そして、メッセージを打つ。


> 少し話したいです。

> 今日、会えますか。


 送信。


 既読はすぐについた。


---


 森川修平がかつて働いていた店は、駅から少し離れた商店街の端にあった。


 昔ながらの洋食店。


 赤茶色の看板。


 ショーケースに並ぶ、色褪せた食品サンプル。


 昼時を過ぎていたが、店内には数人の客が残っている。


 前原、黒岩、桜井の三人が入ると、カウンターの奥にいた女性店員が一瞬だけ警戒した。


 怖い。


 本人たちに自覚はないが、三人揃うとかなり怖かった。


「いらっしゃいませ」


 女性は営業用の笑顔を作る。


 桜井が名刺を出した。


「食事じゃない。少し聞きたいことがある」


「警察の方ですか」


「今は違う」


 女性の表情が硬くなる。


 その時、厨房の奥から年配の男が顔を出した。


「なんだ」


「店長、昔の従業員について聞きたいって」


 男は三人を見る。


 六十代半ば。


 白い調理服。


 額に深い皺。


「名前は」


 桜井が答える。


「森川修平」


 男の顔が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、桜井は見逃さなかった。


「知ってるな」


 男はしばらく黙っていた。


 それから、女性店員へ言う。


「休憩入っていいぞ」


「でも」


「いいから」


 女性が厨房から離れる。


 店長は三人を、一番奥のテーブルへ案内した。


「何があった」


 桜井は座りながら言う。


「それを調べている」


「警察じゃないのに?」


「警察では動けない話だ」


 店長は前原を見る。


「そっちは」


「ただのおっさんだ」


「見えねぇな」


「よく言われる」


 黒岩が吹き出しそうになる。


 店長はため息をつき、向かいへ座った。


「修平は、いい奴だった」


 最初に出たのは、その言葉だった。


「料理は?」


「最初は下手だった。オムライスの卵も破くし、皿も何枚か割った」


「長くいたのか」


「七年」


 十代後半で店へ入り、二十代半ばまで働いていた。


 最初は皿洗い。


 少しずつ包丁を覚え、仕込みを任され、最後にはランチの厨房を一人で回せるほどになっていた。


「真面目だったよ」


 店長はカウンターの向こうを見る。


 そこに、若い頃の森川がまだ立っているような目だった。


「真面目すぎた」


 桜井が聞く。


「何があった」


「母親だ」


 森川は母子家庭で育った。


 母親は病気がちで、働けない時期が長かった。


 家賃。


 治療費。


 生活費。


 若い森川がほとんどを背負っていた。


「給料の前借りも何回かあった」


「貸したのか」


「貸した」


「返した?」


「全部な」


 店長は少し誇らしそうに言った。


 森川は借りた金を必ず返した。


 遅れても、少しずつ。


 休みの日に手伝いへ出て返そうとした時、店長が怒って帰したこともある。


「けど、母親が亡くなった」


 店長の声が低くなる。


「それで終わると思った」


「借金が残った?」


「母親名義だけじゃなかった」


 森川自身が保証人になっていたもの。


 消費者金融。


 知人から借りた金。


 何に使ったのか分からないものまで出てきた。


「修平は店を辞めた」


「どうして」


「迷惑を掛けたくないって」


「働いて返せばいいだろ」


 前原が言う。


 店長は、苦い顔で笑った。


「俺もそう言った」


「だったら」


「聞かなかったんだよ」


 森川は、店への取り立てを恐れていた。


 従業員へ迷惑が掛かる。


 客にも知られる。


 店の評判を落とす。


 自分が消えればいい。


 そう考えた。


「最後に会ったのは?」


「十年くらい前」


「その後、連絡は」


「一度だけ」


 店長は席を立ち、レジの下から古い封筒を取り出した。


 何度も開いた跡がある。


 中には、一枚の葉書。


 短い文章。


> 店長へ。

> あの時はご迷惑をかけました。

> 今は住む場所も仕事もあります。

> 一緒に頑張る仲間もできました。

> もう心配しないでください。

> 今までありがとうございました。


 差出人住所は、あさがお。


 桜井が葉書を見る。


「消印は」


「九年前」


「それ以降は?」


「ない」


 店長は腕を組んだ。


「俺は安心した」


「そうだろうな」


「住む場所ができた。仕事もある。仲間もいる。やっと修平も自分の人生を始められるって」


 前原は葉書の文章を見つめた。


 一緒に頑張る仲間。


 もう心配しないで。


 今までありがとう。


 別れの言葉にも見える。


 新しい人生の報告にも見える。


「その後、探さなかったのか」


 前原が聞く。


 店長の顔が歪んだ。


「本人が心配するなって言ったんだ」


「……」


「俺が追いかけたら、また迷惑かもしれないって」


 前原は何も言わなかった。


 店長は机の上へ視線を落とす。


「でもな」


「なんだ」


「三年前」


 店長は声を小さくした。


「修平に似た奴が、店の前にいた」


 桜井の目が鋭くなる。


「話したか」


「店を出た時には、もういなかった」


「見間違いは」


「分からん」


 雨の日だった。


 閉店間際。


 向かい側の歩道に、傘も差さず立っていた男。


 髪は長く、頬は痩せていた。


 けれど、立ち方が森川に似ていた。


 声を掛けようと厨房から出た時には、姿が消えていた。


「防犯カメラは」


「当時はなかった」


「ほかに見た人は」


「パートが一人。修平じゃないかって言ってた」


「その人は今」


「辞めた。連絡先はある」


 桜井は頷いた。


「教えてもらえるか」


 店長は少し迷った。


「修平をどうするつもりだ」


「見つける」


「それから」


「本人がどうしたいか聞く」


「連れ戻すんじゃないのか」


 前原が答えた。


「戻りたきゃ戻る」


「戻りたくなきゃ戻らねぇ」


「それだけか」


「それだけだ」


 店長はしばらく前原を見ていた。


 それから、静かに頷いた。


「分かった」


 店を出る前。


 前原は振り返った。


「もし見つかったら」


「うん」


「何を言う」


 店長は少し考えた。


 恨み言。


 なぜ消えた。


 なぜ連絡しなかった。


 言いたいことはいくらでもあった。


 けれど、口から出たのは一つだけだった。


「飯、食ってるかって」


 前原は少し笑った。


「分かった」


---


 翔太が拓海と会う場所に選んだのは、駅前のファミリーレストランだった。


 人目がある。


 出入口が二つある。


 何かあれば、すぐ帰れる。


 それらは敦と桜井から教えられたことではない。


 翔太自身が考えた。


 少し前の自分なら、先輩に場所を決めてもらっていた。


 その小さな違いに、本人はまだ気づいていなかった。


 拓海は先に来ていた。


 窓際の席。


 スーツではなく、白いシャツと細身のパンツ。


 高校時代より少し大人になっただけの、普通の青年に見える。


「おう」


 翔太を見ると、いつもの笑顔を見せた。


「座れよ」


「はい」


 翔太は向かいへ座る。


 注文を取りに来た店員へ、ドリンクバーを二つ頼む。


「俺が出すよ」


 拓海が言う。


「大丈夫です」


「いいって」


「自分で払います」


 拓海が一瞬だけ止まった。


 ほんの少し。


 それから笑う。


「そっか」


 翔太は財布を確認する。


 以前なら、先輩が奢ってくれることを素直に喜んでいた。


 今でも、好意を拒みたいわけではない。


 ただ、自分で選んで払いたかった。


 ドリンクを持って戻ると、拓海が先に聞いた。


「この前の話」


「はい」


「誰かにした?」


 メッセージと同じ言葉。


 翔太は紙コップを両手で持つ。


「しました」


 正直に答えた。


 拓海の笑顔が、少しだけ消える。


「誰に」


「一緒にいる人たち」


「あの人たち?」


「はい」


「なんて言ってた」


「まだ分からないって」


 拓海は眉を寄せる。


「分からない?」


「先輩が助けられたことも、本当かもしれない」


「かもしれない?」


 声が少し強くなる。


 翔太の肩が反射的に縮む。


 それに気づき、拓海はすぐ表情を緩めた。


「ごめん」


「……」


「責めたいわけじゃない」


「はい」


「ただ、あそこを変に疑ってほしくないんだ」


 拓海は本気で心配しているようだった。


「あの会社がなかったら、俺は死んでた」


「……」


「マジで」


 仕事を失った。


 借金があった。


 酒を飲み、朝まで駅前を歩き回った。


 友人の家を転々とし、最後には誰からも電話へ出てもらえなくなった。


 そんな時、高瀬が助けた。


 あさがおへ連れていった。


 飯を食わせた。


 仕事を与えた。


「俺、初めて言われたんだ」


「何をですか」


「お前には価値があるって」


 翔太は言葉を失った。


 拓海は少し笑う。


「笑うだろ」


「笑いません」


「昔の俺なら笑った」


 そんな言葉で人が変わるか。


 夢。


 仲間。


 新しい人生。


 全部、綺麗事だと思っていた。


 けれど、本当に何もなくなった時、その綺麗事に救われた。


「だから、あそこを悪く言われると」


 拓海はテーブルの上で拳を握る。


「俺まで否定されたみたいになる」


 翔太は、その言葉を聞いて初めて理解した。


 拓海が守りたいのは、会社だけではない。


 あそこで救われた自分自身。


 自分が選んだ人生。


 それを否定されたくないのだ。


「先輩」


「ん?」


「誰か、いなくなった人いますか」


 拓海の表情が固まった。


「何の話」


「シェアハウスから」


「出ていく奴くらいいるだろ」


「荷物を残して?」


 拓海は答えない。


 翔太は怖かった。


 それでも続ける。


「森川さんって知ってますか」


 拓海の目が動いた。


 それだけだった。


 だが、翔太には分かった。


 知っている。


「誰から聞いた」


 声の温度が変わる。


「それは言えません」


「翔太」


「言えません」


 拓海は椅子へ深く座り直した。


 店内では、子どもの笑い声が聞こえる。


 店員が食器を下げる音。


 明るい店内。


 なのに、二人の席だけ空気が重かった。


「お前」


 拓海は低い声で言う。


「あの人たちに利用されてないか」


 翔太が顔を上げる。


「え?」


「元ヤクザなんだろ」


「……」


「怪しいじゃん」


 それは正しい。


 見た目だけなら。


 過去だけなら。


 前原たちの方が、よほど危険に見える。


「何を吹き込まれた」


「吹き込まれてません」


「じゃあ、なんで森川さんの名前なんか知ってんだよ」


「話を聞いただけです」


「誰の」


「言えません」


 拓海が苛立ったように息を吐く。


「翔太、俺はお前を心配してる」


「はい」


「なら分かれよ」


 翔太は、少しだけ俯いた。


 その言い方を知っている。


 母親。


 母親の恋人。


 教師。


 みんな言った。


 心配している。


 お前のためだ。


 だから言うことを聞け。


 拓海は、その人たちとは違う。


 そう思いたかった。


 けれど今、同じ言葉が重なって聞こえた。


「先輩」


「なんだ」


「俺が、戻らないって言ったら」


 拓海が黙る。


「戻らない?」


「会社にも、シェアハウスにも」


「まだ何も見てないだろ」


「だから」


 翔太は息を吸う。


「自分で考えたいです」


「俺の話が信用できないのか」


「そうじゃない」


「じゃあ何だよ」


 拓海の声が大きくなる。


 近くの客が一瞬、こちらを見る。


 拓海は気づき、声を落とした。


「ごめん」


 謝る。


 それでも、顔には焦りが残っている。


「先輩」


「……」


「俺、先輩に助けてもらったこと忘れてません」


「だったら」


「でも、それと」


 翔太は、自分の指先を見る。


「先輩の言う通りにすることは、別です」


 拓海の目が見開かれる。


 翔太自身も、少し驚いた。


 こんなことを言えるとは思っていなかった。


 声は震えている。


 膝も震えている。


 それでも言えた。


「俺、自分で決めます」


 拓海は、長い間何も言わなかった。


 怒っているのか。


 悲しんでいるのか。


 分からない顔だった。


 やがて、笑った。


 けれど、その笑顔は高校時代のものとは違った。


「変わったな」


「……そうですか」


「あの人たちの影響?」


「分かりません」


 翔太は正直に答える。


「でも、今いる場所では」


「うん」


「出ていってもいいって言われます」


 拓海の表情が止まる。


「帰りたければ帰れ」


「残りたければいろ」


「何か返せとも言われない」


「……」


「だから、俺」


 翔太は財布の中にある笑花の小さな絵を思い出す。


「帰りたいと思えるんです」


 拓海は何も言わなかった。


 その言葉が、胸のどこへ刺さったのか。


 翔太には分からなかった。


 しばらくして、拓海は伝票を取ろうとした。


 翔太が先に自分の分を手で押さえる。


「払います」


「……分かった」


 二人は席を立つ。


 店の入口。


 拓海は最後に聞いた。


「森川さんのこと」


「はい」


「誰か、見つけたのか」


「まだです」


 拓海は少しだけ目を伏せる。


「そうか」


「知ってるんですか」


 返事はなかった。


 拓海は外へ出る。


 数歩進んだところで振り返る。


「翔太」


「はい」


「気をつけろよ」


 その言葉が何を意味するのか。


 誰に気をつけろと言っているのか。


 最後まで分からなかった。


---


 夕方。


 高架下の事務所。


 前原たちと翔太は、ほとんど同じ時刻に戻ってきた。


「ただいま」


 翔太が言う。


 ますみが顔を上げる。


「おかえり」


 自然な会話だった。


 翔太は、それだけで少し息が楽になった。


 敦が近づく。


「どうだった」


「話しました」


「うん」


「怖かったです」


「うん」


「でも、自分で決めるって言えました」


 敦は少し笑う。


「そっか」


 それ以上、詳しく聞かなかった。


 翔太は、自分から話したくなった時に話せばいい。


 前原は桜井から森川の話を聞き、机に古い葉書を置いた。


 ますみが、離れた場所からその文字を見る。


「森川さん、見つかりそう?」


 桜井が答える。


「まだ分からない」


「生きてますか」


「それも分からない」


 ますみは少し俯く。


 前原が言う。


「勝手に殺すな」


 ますみが顔を上げる。


「え」


「分かんねぇなら、生きてる方で考えろ」


「……うん」


「見つけるまではな」


 その夜。


 事務所の壁へ、詩織が撮った新しい写真が一枚貼られた。


 食卓を囲む人たち。


 笑う者。


 食べる者。


 何かを話している者。


 全員が同じ方向を見ているわけではない。


 それでも、同じ場所にいる。


 その写真の下で、ますみはスケッチブックを開いた。


 雨の中を歩く青年。


 前回描いた背中。


 今日は、その絵へ細い道を一本描き足す。


 道は二つに分かれている。


 一方は、大きな建物へ続く道。


 もう一方は、小さな灯りのある部屋へ続く道。


 どちらを選ぶのかは、まだ描かなかった。


 選ぶのは、その青年だから。


---


## 後書き


第54話でした。


今回は、


- 森川修平の過去

- 翔太と拓海の再会

- 「助けられた感謝」と「自分で選ぶ自由」


を描きました。


拓海は、単純な敵ではありません。


彼自身も、本当に救われた人です。


だから会社を疑うことは、

自分の人生そのものを疑うことになってしまう。


一方の翔太は、

初めて先輩へ、


> 「助けてもらったこと」と

> 「言う通りにすること」は別だ


と伝えられました。


次回。


森川を見たという元従業員の証言から、

一つの場所が浮かび上がります。


それはシェアハウスでも、

関連会社でもありません。


街の片隅にある、

小さな無料食堂でした。


そしてそこには、

前原たちとは別の方法で、

行き場のない人へ手を伸ばしている人たちがいました。

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