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WAY HOME ――行き場をなくした僕らの、小さな食卓――  作者: 和泉發仙


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53/105

戻ってきた青年

⸻


前書き


助けてもらった。


その気持ちは、


嘘ではない。


感謝している。


それも、


嘘ではない。


けれど。


感謝していることと、


傷つけられていないことは、


同じではない。


⸻


第53話 戻ってきた青年


 雨は、昼を過ぎても止まなかった。


 高架の向こうから聞こえてくる電車の音も、今日はどこか遠い。濡れた路面を車が通るたび、薄い水しぶきが歩道の縁へ跳ね上がる。


 高架下の事務所では、古い除湿機が唸るような音を立てていた。


 窓ガラスは曇り、部屋の中には湿った服と、和子が朝から煮込んでいる大根の匂いが混じっている。


「まだ食べちゃ駄目だからね」


 台所から声が飛んだ。


 鍋の蓋を開けようとしていた木戸が、ぴたりと手を止める。


「開けてないっすよ」


「開けようとしただろ」


「確認です」


「何をだい」


「煮え具合を」


「お前さんが見て分かるのかい」


「分かりません」


「じゃあ座ってな」


 木戸は素直に引き下がり、ソファへ戻った。


 そのやり取りを見ていた翔太が、思わず吹き出す。


「木戸さん、和子さんには弱いですよね」


「弱くねぇよ」


「じゃあ、もう一回鍋見てきたらどうです?」


「お前、俺を殺す気か」


「弱いじゃないですか」


「違う。敬意だ」


 ますみがスケッチブックから顔を上げずに言った。


「怖いだけでしょ」


「お前まで言う?」


 小さな笑いが部屋に広がった。


 説明会以降、事務所には重い話が増えた。


 消えた住所。


 途切れた記録。


 行方の分からない元入居者。


 けれど、四六時中そのことばかり考えているわけではない。


 考え続ければ、人は疲れる。


 怒り続けても、何も見えなくなる。


 前原は、意図しているのかいないのか、調査の話をする時間と、しない時間を分けていた。


 だから今日も、昼まではいつもどおりだった。


 藍はノートパソコンへ物語を打ち込み、航平は世界地図の河川を増やし、レンは新しいロゴ案を広げている。


 グエンは和子の横で包丁の使い方を教わっていたが、切った大根の大きさが一つずつ違う。


「グエンちゃん、これはちょっと大きいね」


「オオキイホウガ、オトク!」


「煮える時間が違うんだよ」


「ジャア、チイサイノ、ハヤクタベル!」


「そういう問題じゃないよ」


 そんな声を聞きながら、敦は窓際の椅子に座り、昨日の聞き取り内容をノートへまとめていた。


 山口という老人が話してくれた、古いアパートの記憶。


 若者たちが仕事へ出かけていく姿。


 共同の台所でカレーを作っていた夜。


 別れも告げずにいなくなった者。


 次の日には、新しい誰かが入っていたこと。


 どこまでが問題で、どこからが異常なのか。


 敦には、まだうまく線を引けなかった。


 住む場所を失った人へ、部屋を貸す。


 仕事を失った人へ、働き口を紹介する。


 一人で食事をしていた人へ、共同生活を勧める。


 言葉だけなら、どれも正しい。


 自分だって、似たようなものだった。


 川本に拾われ、前原のところへ連れてこられ、飯を食わせてもらった。


 仕事の相談にも乗ってもらった。


 ここにいる人たちとの違いを、敦は考える。


 けれど、はっきりと答えを言葉にできない。


 前原が以前言った。


 ここには、出て行く自由がある。


 その違いだけで、すべて説明できるのだろうか。


 敦がペンを止めた時だった。


 事務所の扉が、控えめに二度叩かれた。


 誰もすぐには気づかなかった。


 高架を通過する電車の音に紛れるほど、小さな音だった。


 少し間を置き、もう一度。


 今度は翔太が顔を上げた。


「誰か来ました?」


 川本が新聞を畳み、扉を見る。


 前原は奥の机から動かなかった。


「開けてみろ」


 敦が立ち上がり、扉へ向かう。


 鍵は掛かっていない。


 ノブを回すと、冷たい雨の匂いが室内へ入り込んできた。


 そこに、一人の青年が立っていた。


 二十代半ばくらい。


 濡れた黒髪が額へ貼りついている。


 薄い灰色のパーカー。


 色褪せたジーンズ。


 ビニール傘を持っているが、肩から下までかなり濡れていた。


 頬は痩せ、目の下に濃い隈がある。


「あの……」


 青年は敦を見た。


 何かを確かめるように、事務所の中へ視線を移す。


「ここに、桜井さんって人いますか」


 部屋の空気が変わった。


 桜井はその日、奥の応接スペースで佐伯と資料を見ていた。


 声を聞き、立ち上がる。


「俺だ」


 青年の喉が動いた。


「白石さんから、聞きました」


 白石直人。


 以前、この団体で働かされていたことを証言した青年。


 桜井は表情を変えなかった。


「名前を聞いてもいいか」


 青年は一瞬迷った。


 雨音だけが、事務所の外で続いている。


「……須藤です」


「須藤?」


「須藤直樹」


 桜井の目がわずかに細くなった。


 机の上にあった名簿。


 赤い丸がついた名前。


 途中から記録が消えていた六人のうちの一人。


 敦も、その名前に覚えがあった。


 桜井は青年を見つめたまま、静かに言った。


「中へ入れ」


 須藤直樹は、戸口に立ったまま動かなかった。


「あの」


「なんだ」


「警察じゃ、ないんですよね」


「ああ」


「役所でも」


「違う」


「じゃあ、何なんですか」


 桜井は少し考えた。


 元刑事でもなく、調査員でもなく、弁護士でもない。


 今の自分を、一言で説明する肩書はない。


「話を聞く人間だ」


 須藤は怪訝そうな顔をした。


 その横から、和子が声をかける。


「そんなところにいたら風邪引くよ」


 青年が振り向く。


「ほら、入って。床は濡れても拭けばいいんだから」


「でも」


「傘はそこ。靴は脱がなくていいよ。タオル持ってくるから」


 反論する間を与えず、和子は台所から大きなタオルを持ってきた。


 須藤は戸惑いながら、ようやく中へ入った。


「すみません」


「謝ることじゃないよ」


 和子はタオルを押しつけるように渡す。


「頭から拭きな。風邪引くよ」


 青年は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 グエンが椅子を引く。


「ココ、スワル」


 須藤は室内を見回した。


 人数が多い。


 若者もいれば、年配者もいる。


 外国人もいる。


 絵を描いている少女。


 パソコンへ向かう女性。


 ソファで寝転びながらこちらを見ている男。


 何の集まりなのか、分からない。


 その分からなさに、かえって警戒したようだった。


「大丈夫です」


 須藤は椅子に座らず、壁際へ立った。


「すぐ帰るんで」


 前原が奥から声をかける。


「帰りたきゃ帰れ」


 須藤がそちらを見る。


 前原は机の椅子へ座ったまま、書類から顔を上げていない。


「ただし、服が乾くまではいた方がいい。外はまだ降ってる」


「……」


「話すかどうかは、お前が決めろ」


 須藤は何も答えなかった。


 やがて、グエンが引いた椅子へゆっくり腰を下ろした。


 和子は湯飲みへ温かい茶を注ぎ、青年の前へ置く。


「熱いから気をつけるんだよ」


 須藤は両手で湯飲みを包んだ。


 冷えていた指先に、熱が移っていく。


 しばらく、誰も急かさなかった。


 桜井は向かいへ座ったが、ノートも録音機も出さなかった。


 敦は少し離れた場所へ移る。


 翔太も、ますみも、話を聞こうとする素振りを見せなかった。


 それぞれが自分の作業へ戻る。


 ただ、部屋の隅では前原だけが、青年の様子を静かに見ていた。


 やがて須藤が、湯飲みを見つめたまま口を開いた。


「白石さんが」


 声がかすれている。


「あんたたちは、決めつけないって」


 桜井は頷く。


「そう言ったのか」


「はい」


「白石は今、どうしてる」


「分かりません。連絡は、たまに」


「そうか」


 会話が途切れる。


 須藤は両手に力を入れた。


「俺、先に言っておきますけど」


「うん」


「あそこを、悪い場所だとは思ってません」


 桜井は表情を変えなかった。


「そうか」


「本当に助けてもらったんです」


「分かった」


「いや、分かってないと思います」


 須藤の声が少し強くなる。


 部屋の何人かが、反射的に顔を上げた。


 けれど桜井は動じない。


「じゃあ、教えてくれ」


 須藤は何かを言い返そうとしたが、その言葉に詰まった。


 否定されると思っていたのかもしれない。


 犯罪被害者として扱われるか。


 騙された愚かな若者として見られるか。


 あるいは内部の事情を知る情報源として、最初から利用されるか。


 どれかを想像していた。


 だが桜井は、ただ「教えてくれ」と言った。


「……俺」


 須藤は息を吐いた。


「十九の時、家を出たんです」


 外の雨が、少し強くなった。


「親父が酒飲む人で。毎日ってわけじゃないですけど、飲むと駄目で」


 桜井は黙って聞いている。


「高校出て、工場に入ったんです。寮付きのところ。三交替で」


 敦は思わず青年を見た。


 工場。


 寮。


 三交替。


 自分にも近い言葉だった。


「最初は良かったんです。家に帰らなくていいし、金も入るし。でも、夜勤が全然駄目で。眠れなくなって。ミスして。怒鳴られて」


 須藤は自分の袖を握る。


「半年くらいで辞めました」


「その後は?」


「派遣。倉庫。引っ越し。飲食。色々です」


 仕事を転々とした。


 続かない自分が悪いと思った。


 親には帰ってくるなと言われた。


 友人へ連絡するのも恥ずかしくなった。


 スマートフォンの料金が払えなくなり、やがて電話番号も失った。


 ネットカフェ。


 カプセルホテル。


 二十四時間営業のファミリーレストラン。


 雨の日は、駅の構内で始発を待った。


「寝てる時に、財布取られて」


 須藤は苦笑した。


「全財産、千円ちょっとしかなかったんですけど」


 誰も笑わなかった。


「交番行ったら、身分証がないと色々面倒で。役所も行ったけど、何を話せばいいか分からなくて」


 その時、駅前で声をかけられた。


 若い男だった。


 食事はしたか。


 今夜寝る場所はあるか。


 困っているなら、相談できる場所がある。


 名刺を渡された。


 最初は無視した。


 怪しいと思った。


 けれど、その日の夜は本当に寒く、須藤は名刺に書かれた番号へ電話した。


「車で迎えに来てくれました」


「誰が?」


「スタッフです。名前は……高瀬さん」


 敦と翔太が、同時に顔を上げた。


 説明会の個別相談で会った男。


 元フリーターで、自分もここで救われたと話していた。


「高瀬は、当時もスタッフだったのか」


「はい。今より若かったけど」


「それから、あさがおへ?」


 須藤は頷いた。


「飯を食わせてもらいました」


 その晩の食事を、今でも覚えているという。


 白いご飯。


 豚汁。


 卵焼き。


 ありふれた献立だった。


 けれど、二日近くまともに食べていなかった須藤には、それがひどく温かかった。


「風呂も入れて。布団もあって」


 須藤の声が少し震えた。


「俺、本当に助かったんです」


 桜井は頷いた。


「そうだろうな」


「同じ部屋の人も、優しかった。服も貸してくれて。明日からやり直せるって言われました」


 その「明日」は、須藤にとって本当に希望だった。


 翌朝、スタッフと共に役所へ行った。


 住民票の手続きをし、身分証の再発行について相談した。


 携帯電話も、団体名義で用意された。


 仕事もすぐに決まった。


 関連会社の清掃業務。


 日払い。


 寮費は給与から天引き。


 食費も一定額。


 最初の一か月は研修期間だった。


「何も困らなかったです」


 須藤は繰り返す。


「本当に」


「うん」


「朝、起こしてくれる。仕事へ行く。帰ったら飯がある。部屋に誰かいる。今まで一人だったから……それだけで」


 言葉が途切れた。


 翔太は、青年の横顔を見ていた。


 分かる。


 そう思った。


 朝起きた時、誰かがいる。


 帰った時、電気がついている。


 食卓に椅子がある。


 それだけのことが、どれだけ人を救うか。


 翔太は知っている。


「そこで、どれくらい暮らした」


「二年くらいです」


「長いな」


「出る理由がなかったんで」


 桜井の目が、わずかに動いた。


「出ようとは思わなかった?」


 須藤は答えに詰まった。


「最初は」


「最初は?」


「半年くらいしたら、金を貯めて部屋を借りようと思ってました」


「貯まったか」


「……」


 須藤は湯飲みを置いた。


 小さな音がした。


「給料、いくらだった」


「手取りで、最初は十二万くらい」


「寮費と食費を引かれた後か?」


「いえ、引かれる前です」


「いくら残った」


「三万くらい」


 木戸が思わず顔をしかめた。


 だが前原が視線だけで制し、何も言わせなかった。


「内訳は?」


 桜井が尋ねる。


「寮費。食費。携帯代。作業着。送迎代。研修費」


「研修費?」


「資格を取るためです」


「何の資格だ」


「清掃管理とか、警備とか。俺はよく分からなかったですけど、将来役に立つって」


「その資格は取れた?」


「途中で部署が変わったから」


「費用は?」


「残りました」


「いくら」


「分かりません」


 須藤の声が小さくなる。


「給与明細は」


「アプリでした」


「今も見られるか」


「携帯返したんで」


 桜井は一度頷いた。


 責める口調ではない。


 事実を並べるだけだった。


「部屋を借りる話は、スタッフにしたか」


「しました」


「なんて言われた」


「まだ早いって」


「なぜ」


「一人になったら、また生活が崩れるかもしれない。もう少し安定してからの方がいいって」


 その言葉も、間違ってはいなかった。


 住居を失った経験がある者へ、焦らず生活を整えた方がいいと助言する。


 善意にも聞こえる。


「それで残った」


「はい」


「次はいつ出ようとした」


「一年くらい経ってから」


「その時は?」


「別の仕事へ移る話が出てました」


「自分で探した仕事か」


「団体の関連会社です」


「どんな仕事だ」


「警備です。給料が上がるって」


「上がった?」


「最初は」


「その後は」


 須藤は口を閉じた。


 雨音が、事務所の屋根を細かく叩いている。


「夜勤が増えて」


「うん」


「体調崩して休んだら、罰金みたいなのが引かれて」


「罰金?」


「迷惑をかけた分、みたいな」


「書面は」


「ありません」


「断ったか」


「断れないです」


 その答えは、ほとんど反射的だった。


 桜井が初めて、質問を止めた。


 須藤自身も、自分の言葉に気づいたようだった。


「どうして、断れなかった」


「だって」


 青年は周囲を見る。


 うまく説明できない。


「住ませてもらってたし」


「うん」


「仕事も紹介してもらって」


「うん」


「携帯も」


「うん」


「全部」


 須藤は口元を歪めた。


「借りがあったから」


 前原の目が、わずかに伏せられた。


 飯には値段がある。


 借りは返せ。


 恩は返せ。


 かつて自分がいた世界と、形は違う。


 けれど、言葉の鎖はよく似ていた。


「誰かが、借りを返せと言ったのか」


 桜井が尋ねる。


「直接は」


「じゃあ」


「でも、言われなくても分かるじゃないですか」


 須藤は少し苛立ったように声を上げた。


「普通、分かるでしょ。困ってた時に助けてもらったんだから。少しくらい無理して返すのは当たり前で」


 桜井は反論しなかった。


「それを、お前はどう思ってた」


「どうって」


「嫌だったか」


「嫌じゃないです」


 すぐに答えた。


 けれど、その後に続く言葉がなかった。


「本当に?」


 桜井は問い詰めるのではなく、確かめるように言った。


 須藤は俯いた。


「……分かりません」


 室内の空気が、静かに沈んだ。


 和子が鍋の火を弱める音がする。


 誰も急かさない。


 しばらくして、須藤はぽつりと続けた。


「休みの日でも、講習があったんです」


「何の講習だ」


「考え方とか」


「考え方?」


「過去の自分を捨てるとか。感謝するとか。仲間を信じるとか」


「参加は自由だった?」


「自由です」


「行かなかったら?」


「面談されます」


「何を話す」


「最近、気持ちが落ちてるんじゃないか。仲間から離れようとしてないか。何か不満があるなら話してほしいって」


「不満を話したか」


「話せないですよ」


「なぜ」


「みんな、良い人だから」


 その一言に、敦は胸を突かれた。


 良い人だから、話せない。


 優しくしてくれたから、断れない。


 助けてもらったから、疑えない。


 悪意よりも、善意の方が人を縛ることがある。


「恋人や友人は?」


 桜井が聞く。


「いません」


「あさがおへ入ってから、外の人間と付き合うことは」


「ほとんど」


「連絡は?」


「前の番号、消えたんで」


「新しい番号を教えればいい」


「教える相手がいなかったです」


「家族は」


 須藤の顔が硬くなった。


「連絡しなくていいって言われました」


「誰に」


「スタッフに」


「理由は」


「親は俺を傷つける存在だから。過去との関係を切った方が、新しい人生を始められるって」


「お前は、そう思ったか」


「その時は」


 須藤は、自分の指を見つめる。


「正しいと思いました」


 実際、父親との関係は苦しかった。


 母親は父親を止められず、須藤へ「お前が我慢すれば」と言い続けた。


 家族と距離を置くこと自体は、間違っていなかったのかもしれない。


「でも」


 須藤は言う。


「妹がいたんです」


「何歳だ」


「当時、中学生」


「今は」


「二十歳くらい」


「連絡してないのか」


「番号、分からなくて」


 声が小さくなる。


「手紙を出そうとしたことはありました」


「出した?」


「スタッフに見つかって」


「何と言われた」


「今連絡したら、また家族に引き戻される。妹さんのためにも、まず自分が成功しないとって」


「それでやめた」


「はい」


 桜井は深く息を吐いた。


「直樹」


 初めて、名前で呼んだ。


 須藤が顔を上げる。


「お前は、あそこを出たかったのか」


 長い沈黙。


 青年の唇が、小さく震える。


「……分かりません」


「分からない?」


「出たいと思った時は、ありました」


「いつだ」


「一緒にいた人が、突然いなくなった時」


 敦の手が止まった。


「名前は?」


「森川さん」


「名簿にいるかもしれない」


 桜井は紙を出そうとしたが、須藤は首を振った。


「今は見たくないです」


「分かった」


「森川さん、三十くらいで。俺より先にいた人です。料理が上手くて。最初に服を貸してくれたのも、その人で」


 森川は穏やかな男だった。


 共同生活の中で、年下の入居者をよく気にかけていた。


 仕事で失敗した者がいれば、自分の分の夕食を分けた。


 新しく来た者が眠れなければ、夜中まで話を聞いた。


「ある日、森川さんが言ったんです」


 ここを出る。


 知り合いのところで働くことになった。


 もう団体とは関係を切る。


 須藤にも、一緒に来ないかと誘った。


「なんて答えた」


「無理だって」


「なぜ」


「裏切れないから」


「誰を」


「みんなを」


 須藤は笑った。


 苦しそうな、乾いた笑いだった。


「その時、俺、スタッフに言ったんです。森川さんが出るって」


「報告したのか」


「心配だったんです」


 自分へ言い聞かせるような声だった。


「外へ出たら、また生活が崩れるかもしれない。変な人に騙されるかもしれない。だから、スタッフに相談した方がいいって」


「その後、森川は?」


「次の日、いなくなりました」


「荷物は」


「ほとんど残ってました」


「スタッフはなんて」


「本人の希望で、別施設に移ったって」


「信じたか」


「信じるしかなかったです」


 須藤の指が震え始める。


「でも」


 その夜、森川が使っていた古い財布が、ゴミ捨て場に落ちていた。


 中身は空だった。


 いつも首から下げていた小さな鍵も、一緒に捨てられていた。


 何の鍵かは分からなかった。


「聞かなかったのか」


「聞きました」


「返事は」


「過去の物を処分して、新しい場所へ行ったって」


「納得した?」


「……しようとしました」


 須藤は両手で顔を覆った。


「俺が言ったから」


 声が崩れる。


「俺がスタッフに話したから、森川さん、いなくなった」


「それはまだ分からない」


「でも!」


 須藤は立ち上がった。


 椅子が後ろへ滑り、床を擦る。


「俺が言わなかったら!」


 誰も動かなかった。


 前原も、川本も。


 怒鳴り返さない。


 押さえつけない。


「俺、助けてもらったんです」


 須藤は泣きそうな顔で繰り返した。


「本当に、死ぬところだったんです」


「うん」


 桜井が答える。


「それは嘘じゃない」


「でも、森川さんは」


「それも、まだ分からない」


「じゃあ、俺は何なんですか」


 須藤は桜井を睨んだ。


「被害者なんですか。仲間なんですか。裏切ったんですか。騙されたんですか」


「今決めなくていい」


「決めないと、話せない」


「決めなくていい」


 桜井の声は変わらない。


「助けられたと思っていてもいい」


「……」


「感謝していてもいい」


「……」


「それでも、嫌だったことを嫌だったと言っていい」


 須藤の目から、涙がこぼれた。


「そんなの」


「うん」


「そんな都合のいい話、あるんですか」


「ある」


 前原が答えた。


 須藤が振り向く。


 前原は机から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。


「人間なんざ、都合が悪いことだらけだ」


 須藤は何も言わない。


「世話になった奴を嫌うこともある」


「……」


「助けてくれた場所から逃げたいと思うこともある」


「……」


「恩があっても、断っていい」


 前原は、青年の正面へ立った。


「それで恩知らずになるなら、なればいい」


 須藤の顔が歪んだ。


「でも、俺は」


「お前が何をしたかは、これから考えろ」


 前原は静かに続ける。


「森川って男のことも調べる」


「……」


「ただし」


 前原の目が、まっすぐ須藤を見る。


「お前一人で全部背負うな」


「俺が言ったんです」


「言わせる仕組みを作った奴がいる」


「でも、決めたのは俺です」


「そうだ」


 前原は否定しなかった。


「だから、なかったことにはできねぇ」


 須藤の肩が小さく震える。


「けどよ」


 前原は声を少し低くする。


「間違えた奴が、そこで人生終わりなら」


 部屋の中を見回した。


 川本。


 桜井。


 黒岩。


 木戸。


 敦。


 翔太。


 ますみ。


 藍。


 それぞれに、誰にも話していない過去がある。


「ここにいる奴の半分は、もう終わってる」


 木戸が小さく言った。


「半分で済みます?」


 川本が肘で小突く。


「今それ言うところじゃないだろ」


「すみません」


 須藤は、涙をこぼしたまま、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに消えた。


 だが、張りつめていた糸がわずかに緩んだ。


 和子が立ち上がり、倒れかけた椅子を戻す。


「座りな」


「……すみません」


「謝らなくていいって何度言わせるんだい」


 須藤は椅子へ座った。


 和子は新しい湯飲みを出し、ぬるくなった茶を入れ替える。


「今日は大根があるよ」


「え?」


「煮物。食べていきな」


「いや、俺」


「嫌いかい」


「嫌いじゃないです」


「じゃあ食べていきな」


「でも」


「お金は取らないよ」


 和子の言葉に、須藤の表情が一瞬固まった。


 和子はすぐに気づいた。


「返さなくていい」


 柔らかい声だった。


「手伝わなくてもいい。皿も洗わなくていい。明日ここへ来なくてもいい」


 須藤は、和子を見つめる。


「食べたくなければ、食べなくていい」


「……」


「でも、腹が減ってるなら食べな」


 須藤は唇を噛み、俯いた。


「……食べます」


「そうかい」


 和子はそれ以上、何も言わなかった。


 台所へ戻り、鍋の蓋を開ける。


 湯気が立ち上がり、大根と醤油の匂いが部屋へ広がった。


 グエンが嬉しそうに皿を並べ始める。


「キョウ、ダイコン!」


「知ってるよ」


「ワタシ、キッタ!」


「大きさがバラバラだけどね」


「コセイ!」


「便利な言葉を覚えたねぇ」


 木戸が立ち上がる。


「今度こそ食っていい?」


「皿運んだらね」


「それ、手伝ったら飯がもらえる仕組みじゃ」


 前原が木戸の後頭部を軽く叩いた。


「余計なこと言うな」


「痛っ」


 事務所に、少しずついつもの音が戻ってくる。


 椅子を引く音。


 皿が触れ合う音。


 誰かが箸を落とし、誰かが笑う声。


 須藤は、その様子を呆然と見ていた。


 食卓へ人数分の皿が並ぶ。


 誰が客で、誰が住人なのか分からない。


 誰が世話をする側で、誰がされる側なのかも曖昧だった。


 前原は上座へ座らない。


 和子も、全員へ配り終える前に自分の分を取る。


 木戸は一番大きな大根を狙って叱られ、グエンは自分が切ったものだと主張する。


 ますみは須藤の正面ではなく、少し斜めの席へ座った。


 見られていると感じさせない距離。


 翔太は何も尋ねず、ご飯の入った茶碗を一つ差し出した。


「これ、普通盛りですけど」


 須藤は受け取った。


「ありがとう」


「足りなかったら、あります」


「うん」


 いただきます、という声が揃う。


 須藤は箸を持ったまま、しばらく動けなかった。


 目の前の煮物は、決して特別な料理ではない。


 大根。


 こんにゃく。


 鶏肉。


 少し形の崩れた人参。


 けれど、その湯気を見ていると、昔あさがおで初めて食べた豚汁を思い出した。


 助かった。


 温かかった。


 嬉しかった。


 それは本当だ。


 嘘ではない。


 同時に。


 いつからか、その温かさを失うことが怖くなっていた。


 出て行けば、一人になる。


 断れば、見捨てられる。


 疑えば、裏切り者になる。


 感謝すればするほど、離れられなくなった。


 須藤は大根を一口食べた。


 柔らかく煮えている。


 少し甘い。


「うまいです」


「そうかい」


 和子が笑う。


「グエンちゃんが切ったから、当たり外れがあるけどね」


「ワタシノ、ゼンブアタリ!」


「さっき自分で硬いって言ってただろ」


 木戸が口を挟む。


「ソレハ、アタラシイショッカン!」


「物は言いようだな」


 須藤は、もう一口食べた。


 目から涙が落ち、茶碗の縁へ当たった。


 誰も、そのことを指摘しなかった。


 食事の後、雨は弱くなっていた。


 須藤は乾いたパーカーを借り、濡れた服を袋へ入れた。


「これ、返しに来ます」


 翔太が言う。


「返さなくても大丈夫です」


「でも」


「本当に」


 須藤はパーカーを見下ろす。


 また、何かをもらってしまった。


 その表情を見て、翔太は少し考えた。


「じゃあ、返したくなった時に返してください」


「……」


「来たくなかったら、郵送でもいいし。捨ててもいいです」


「捨てるのは」


「じゃあ、それはなしで」


 翔太は笑った。


 須藤も、わずかに口元を緩める。


 桜井は玄関先で、一枚の紙を渡した。


 事務所の電話番号だけが書かれている。


「連絡先はこれだけだ」


「名前とか、書かなくていいんですか」


「今はいい」


「森川さんのこと」


「ああ」


「調べてください」


「調べる」


「俺も、覚えてることを」


「無理に思い出さなくていい」


「でも」


「思い出した時に話せ」


 須藤は紙を受け取った。


 折り畳み、借りたパーカーのポケットへ入れる。


 扉を開けると、雨は細かな霧のようになっていた。


 傘を差し、一歩外へ出る。


 そこで振り返った。


「あの」


 前原が見る。


「なんだ」


「今日の飯」


「うん」


「本当に、何もしなくていいんですか」


 前原は少し眉を寄せた。


「何をだ」


「返すとか」


「返したきゃ返せ」


 須藤の顔が固くなる。


 前原は続けた。


「誰か別の奴が腹減らしてたら、飯でも奢ってやれ」


「……」


「ここへじゃなくていい」


「それでいいんですか」


「知らねぇよ」


 前原は鼻で笑った。


「お前が決めろ」


 須藤は、しばらく前原を見ていた。


 やがて、小さく頭を下げる。


「分かりました」


 その返事は、まだ完全な理解ではなかった。


 ただ、今までとは違う言葉を、初めて受け取った返事だった。


 須藤は高架下を離れ、雨の街へ歩いていく。


 誰も引き止めなかった。


 誰も次に来る日を聞かなかった。


 敦は戸口から、その背中を見送った。


「ヨシさん」


「なんだ」


「あれでよかったんですか」


「何が」


「連絡先も、住所も聞かなくて」


「聞きたきゃ桜井が聞くだろ」


 桜井は肩をすくめた。


「今日はやめた」


「どうしてです?」


「逃げ道が必要だからだ」


 敦は須藤が消えた道を見る。


「また来ますかね」


 前原は答えなかった。


 代わりに、川本が静かに言った。


「来なくてもいいんだよ」


 敦が振り返る。


「でも、森川さんのことも」


「それはこっちで調べる」


「じゃなくて」


 敦は言葉を探す。


「せっかく、ここまで話してくれたのに」


 川本は少しだけ笑った。


「敦」


「はい」


「話したからって、ここに所属する必要はない」


 敦は黙った。


「助けたから、仲間になれ」


「話を聞いたから、また来い」


「それを言い始めたら、向こうと同じになる」


 胸の奥へ、言葉がゆっくり沈んでいく。


 敦はようやく、前原が言った「出て行く自由」の意味を少し理解した気がした。


 居場所とは、人を囲う場所ではない。


 帰ってきてもいい場所。


 帰ってこなくても、責められない場所。


 そこにいることを、恩返しに変えない場所。


 それを作るのは簡単ではない。


 誰かに必要とされたいと思えば、離れてほしくないと願ってしまう。


 自分が役に立ったと確かめたくて、感謝を求めてしまう。


 善意の中にも、支配は入り込む。


 だから前原は、あれほど不器用に突き放すのかもしれない。


 その夜。


 桜井は机の名簿を開き、須藤直樹の名前の横へ小さく印をつけた。


 生存確認。


 それだけを書き、すぐにペンを止める。


 次の名前へ目を移す。


 森川。


 須藤が話した男の名字と一致する人物が、一人いた。


 森川修平、三十一歳。


 退所理由。


 本人希望による系列施設への転居。


 転居先の欄は空白。


 緊急連絡先もない。


 記録が途切れたのは、五年前。


「桜井」


 前原が呼ぶ。


「ああ」


「その森川って奴」


「名簿にいる」


「見つけろ」


 桜井は頷いた。


「生きてるかどうかも分からんぞ」


「分かってる」


「それでもか」


 前原は煙草を取り出した。


 けれど火はつけず、指の間で転がす。


「近所の爺さんが言ってただろ」


「何を」


「元気でやってるって、聞かせてくれって」


 桜井は名簿へ目を落とした。


「ああ」


「一人くらい、そう言える奴を見つけてやれ」


 外では、雨が上がり始めていた。


 雲の切れ間から、薄い夕暮れの光が高架の向こうへ差し込んでいる。


 濡れた路面が、その光を静かに反射していた。


 事務所の中では、和子とグエンが食器を片づけている。


 木戸は手伝うと言いながら、残った大根をつまみ食いして叱られていた。


 ますみはスケッチブックへ、新しい人物を描き始めている。


 傘を持ち、雨の中を歩く青年。


 その背中の少し先に、小さな灯りがある。


 青年が、その灯りへ向かっているのか。


 灯りから離れていくのか。


 絵だけでは分からない。


 けれど、どちらでもいいのだと。


 ますみは、そう思いながら線を引いた。


⸻


次回予告


第54話 森川修平


須藤の証言から浮かび上がった、元入居者・森川修平。


桜井と黒岩は、わずかに残された記録を辿る。


一方、翔太のもとには長谷川拓海から連絡が入る。


「この前の話、誰かにした?」


疑われているのか。


心配されているのか。


その境界が分からないまま、翔太は再び拓海と向き合うことになる。

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