戻ってきた青年
⸻
前書き
助けてもらった。
その気持ちは、
嘘ではない。
感謝している。
それも、
嘘ではない。
けれど。
感謝していることと、
傷つけられていないことは、
同じではない。
⸻
第53話 戻ってきた青年
雨は、昼を過ぎても止まなかった。
高架の向こうから聞こえてくる電車の音も、今日はどこか遠い。濡れた路面を車が通るたび、薄い水しぶきが歩道の縁へ跳ね上がる。
高架下の事務所では、古い除湿機が唸るような音を立てていた。
窓ガラスは曇り、部屋の中には湿った服と、和子が朝から煮込んでいる大根の匂いが混じっている。
「まだ食べちゃ駄目だからね」
台所から声が飛んだ。
鍋の蓋を開けようとしていた木戸が、ぴたりと手を止める。
「開けてないっすよ」
「開けようとしただろ」
「確認です」
「何をだい」
「煮え具合を」
「お前さんが見て分かるのかい」
「分かりません」
「じゃあ座ってな」
木戸は素直に引き下がり、ソファへ戻った。
そのやり取りを見ていた翔太が、思わず吹き出す。
「木戸さん、和子さんには弱いですよね」
「弱くねぇよ」
「じゃあ、もう一回鍋見てきたらどうです?」
「お前、俺を殺す気か」
「弱いじゃないですか」
「違う。敬意だ」
ますみがスケッチブックから顔を上げずに言った。
「怖いだけでしょ」
「お前まで言う?」
小さな笑いが部屋に広がった。
説明会以降、事務所には重い話が増えた。
消えた住所。
途切れた記録。
行方の分からない元入居者。
けれど、四六時中そのことばかり考えているわけではない。
考え続ければ、人は疲れる。
怒り続けても、何も見えなくなる。
前原は、意図しているのかいないのか、調査の話をする時間と、しない時間を分けていた。
だから今日も、昼まではいつもどおりだった。
藍はノートパソコンへ物語を打ち込み、航平は世界地図の河川を増やし、レンは新しいロゴ案を広げている。
グエンは和子の横で包丁の使い方を教わっていたが、切った大根の大きさが一つずつ違う。
「グエンちゃん、これはちょっと大きいね」
「オオキイホウガ、オトク!」
「煮える時間が違うんだよ」
「ジャア、チイサイノ、ハヤクタベル!」
「そういう問題じゃないよ」
そんな声を聞きながら、敦は窓際の椅子に座り、昨日の聞き取り内容をノートへまとめていた。
山口という老人が話してくれた、古いアパートの記憶。
若者たちが仕事へ出かけていく姿。
共同の台所でカレーを作っていた夜。
別れも告げずにいなくなった者。
次の日には、新しい誰かが入っていたこと。
どこまでが問題で、どこからが異常なのか。
敦には、まだうまく線を引けなかった。
住む場所を失った人へ、部屋を貸す。
仕事を失った人へ、働き口を紹介する。
一人で食事をしていた人へ、共同生活を勧める。
言葉だけなら、どれも正しい。
自分だって、似たようなものだった。
川本に拾われ、前原のところへ連れてこられ、飯を食わせてもらった。
仕事の相談にも乗ってもらった。
ここにいる人たちとの違いを、敦は考える。
けれど、はっきりと答えを言葉にできない。
前原が以前言った。
ここには、出て行く自由がある。
その違いだけで、すべて説明できるのだろうか。
敦がペンを止めた時だった。
事務所の扉が、控えめに二度叩かれた。
誰もすぐには気づかなかった。
高架を通過する電車の音に紛れるほど、小さな音だった。
少し間を置き、もう一度。
今度は翔太が顔を上げた。
「誰か来ました?」
川本が新聞を畳み、扉を見る。
前原は奥の机から動かなかった。
「開けてみろ」
敦が立ち上がり、扉へ向かう。
鍵は掛かっていない。
ノブを回すと、冷たい雨の匂いが室内へ入り込んできた。
そこに、一人の青年が立っていた。
二十代半ばくらい。
濡れた黒髪が額へ貼りついている。
薄い灰色のパーカー。
色褪せたジーンズ。
ビニール傘を持っているが、肩から下までかなり濡れていた。
頬は痩せ、目の下に濃い隈がある。
「あの……」
青年は敦を見た。
何かを確かめるように、事務所の中へ視線を移す。
「ここに、桜井さんって人いますか」
部屋の空気が変わった。
桜井はその日、奥の応接スペースで佐伯と資料を見ていた。
声を聞き、立ち上がる。
「俺だ」
青年の喉が動いた。
「白石さんから、聞きました」
白石直人。
以前、この団体で働かされていたことを証言した青年。
桜井は表情を変えなかった。
「名前を聞いてもいいか」
青年は一瞬迷った。
雨音だけが、事務所の外で続いている。
「……須藤です」
「須藤?」
「須藤直樹」
桜井の目がわずかに細くなった。
机の上にあった名簿。
赤い丸がついた名前。
途中から記録が消えていた六人のうちの一人。
敦も、その名前に覚えがあった。
桜井は青年を見つめたまま、静かに言った。
「中へ入れ」
須藤直樹は、戸口に立ったまま動かなかった。
「あの」
「なんだ」
「警察じゃ、ないんですよね」
「ああ」
「役所でも」
「違う」
「じゃあ、何なんですか」
桜井は少し考えた。
元刑事でもなく、調査員でもなく、弁護士でもない。
今の自分を、一言で説明する肩書はない。
「話を聞く人間だ」
須藤は怪訝そうな顔をした。
その横から、和子が声をかける。
「そんなところにいたら風邪引くよ」
青年が振り向く。
「ほら、入って。床は濡れても拭けばいいんだから」
「でも」
「傘はそこ。靴は脱がなくていいよ。タオル持ってくるから」
反論する間を与えず、和子は台所から大きなタオルを持ってきた。
須藤は戸惑いながら、ようやく中へ入った。
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
和子はタオルを押しつけるように渡す。
「頭から拭きな。風邪引くよ」
青年は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
グエンが椅子を引く。
「ココ、スワル」
須藤は室内を見回した。
人数が多い。
若者もいれば、年配者もいる。
外国人もいる。
絵を描いている少女。
パソコンへ向かう女性。
ソファで寝転びながらこちらを見ている男。
何の集まりなのか、分からない。
その分からなさに、かえって警戒したようだった。
「大丈夫です」
須藤は椅子に座らず、壁際へ立った。
「すぐ帰るんで」
前原が奥から声をかける。
「帰りたきゃ帰れ」
須藤がそちらを見る。
前原は机の椅子へ座ったまま、書類から顔を上げていない。
「ただし、服が乾くまではいた方がいい。外はまだ降ってる」
「……」
「話すかどうかは、お前が決めろ」
須藤は何も答えなかった。
やがて、グエンが引いた椅子へゆっくり腰を下ろした。
和子は湯飲みへ温かい茶を注ぎ、青年の前へ置く。
「熱いから気をつけるんだよ」
須藤は両手で湯飲みを包んだ。
冷えていた指先に、熱が移っていく。
しばらく、誰も急かさなかった。
桜井は向かいへ座ったが、ノートも録音機も出さなかった。
敦は少し離れた場所へ移る。
翔太も、ますみも、話を聞こうとする素振りを見せなかった。
それぞれが自分の作業へ戻る。
ただ、部屋の隅では前原だけが、青年の様子を静かに見ていた。
やがて須藤が、湯飲みを見つめたまま口を開いた。
「白石さんが」
声がかすれている。
「あんたたちは、決めつけないって」
桜井は頷く。
「そう言ったのか」
「はい」
「白石は今、どうしてる」
「分かりません。連絡は、たまに」
「そうか」
会話が途切れる。
須藤は両手に力を入れた。
「俺、先に言っておきますけど」
「うん」
「あそこを、悪い場所だとは思ってません」
桜井は表情を変えなかった。
「そうか」
「本当に助けてもらったんです」
「分かった」
「いや、分かってないと思います」
須藤の声が少し強くなる。
部屋の何人かが、反射的に顔を上げた。
けれど桜井は動じない。
「じゃあ、教えてくれ」
須藤は何かを言い返そうとしたが、その言葉に詰まった。
否定されると思っていたのかもしれない。
犯罪被害者として扱われるか。
騙された愚かな若者として見られるか。
あるいは内部の事情を知る情報源として、最初から利用されるか。
どれかを想像していた。
だが桜井は、ただ「教えてくれ」と言った。
「……俺」
須藤は息を吐いた。
「十九の時、家を出たんです」
外の雨が、少し強くなった。
「親父が酒飲む人で。毎日ってわけじゃないですけど、飲むと駄目で」
桜井は黙って聞いている。
「高校出て、工場に入ったんです。寮付きのところ。三交替で」
敦は思わず青年を見た。
工場。
寮。
三交替。
自分にも近い言葉だった。
「最初は良かったんです。家に帰らなくていいし、金も入るし。でも、夜勤が全然駄目で。眠れなくなって。ミスして。怒鳴られて」
須藤は自分の袖を握る。
「半年くらいで辞めました」
「その後は?」
「派遣。倉庫。引っ越し。飲食。色々です」
仕事を転々とした。
続かない自分が悪いと思った。
親には帰ってくるなと言われた。
友人へ連絡するのも恥ずかしくなった。
スマートフォンの料金が払えなくなり、やがて電話番号も失った。
ネットカフェ。
カプセルホテル。
二十四時間営業のファミリーレストラン。
雨の日は、駅の構内で始発を待った。
「寝てる時に、財布取られて」
須藤は苦笑した。
「全財産、千円ちょっとしかなかったんですけど」
誰も笑わなかった。
「交番行ったら、身分証がないと色々面倒で。役所も行ったけど、何を話せばいいか分からなくて」
その時、駅前で声をかけられた。
若い男だった。
食事はしたか。
今夜寝る場所はあるか。
困っているなら、相談できる場所がある。
名刺を渡された。
最初は無視した。
怪しいと思った。
けれど、その日の夜は本当に寒く、須藤は名刺に書かれた番号へ電話した。
「車で迎えに来てくれました」
「誰が?」
「スタッフです。名前は……高瀬さん」
敦と翔太が、同時に顔を上げた。
説明会の個別相談で会った男。
元フリーターで、自分もここで救われたと話していた。
「高瀬は、当時もスタッフだったのか」
「はい。今より若かったけど」
「それから、あさがおへ?」
須藤は頷いた。
「飯を食わせてもらいました」
その晩の食事を、今でも覚えているという。
白いご飯。
豚汁。
卵焼き。
ありふれた献立だった。
けれど、二日近くまともに食べていなかった須藤には、それがひどく温かかった。
「風呂も入れて。布団もあって」
須藤の声が少し震えた。
「俺、本当に助かったんです」
桜井は頷いた。
「そうだろうな」
「同じ部屋の人も、優しかった。服も貸してくれて。明日からやり直せるって言われました」
その「明日」は、須藤にとって本当に希望だった。
翌朝、スタッフと共に役所へ行った。
住民票の手続きをし、身分証の再発行について相談した。
携帯電話も、団体名義で用意された。
仕事もすぐに決まった。
関連会社の清掃業務。
日払い。
寮費は給与から天引き。
食費も一定額。
最初の一か月は研修期間だった。
「何も困らなかったです」
須藤は繰り返す。
「本当に」
「うん」
「朝、起こしてくれる。仕事へ行く。帰ったら飯がある。部屋に誰かいる。今まで一人だったから……それだけで」
言葉が途切れた。
翔太は、青年の横顔を見ていた。
分かる。
そう思った。
朝起きた時、誰かがいる。
帰った時、電気がついている。
食卓に椅子がある。
それだけのことが、どれだけ人を救うか。
翔太は知っている。
「そこで、どれくらい暮らした」
「二年くらいです」
「長いな」
「出る理由がなかったんで」
桜井の目が、わずかに動いた。
「出ようとは思わなかった?」
須藤は答えに詰まった。
「最初は」
「最初は?」
「半年くらいしたら、金を貯めて部屋を借りようと思ってました」
「貯まったか」
「……」
須藤は湯飲みを置いた。
小さな音がした。
「給料、いくらだった」
「手取りで、最初は十二万くらい」
「寮費と食費を引かれた後か?」
「いえ、引かれる前です」
「いくら残った」
「三万くらい」
木戸が思わず顔をしかめた。
だが前原が視線だけで制し、何も言わせなかった。
「内訳は?」
桜井が尋ねる。
「寮費。食費。携帯代。作業着。送迎代。研修費」
「研修費?」
「資格を取るためです」
「何の資格だ」
「清掃管理とか、警備とか。俺はよく分からなかったですけど、将来役に立つって」
「その資格は取れた?」
「途中で部署が変わったから」
「費用は?」
「残りました」
「いくら」
「分かりません」
須藤の声が小さくなる。
「給与明細は」
「アプリでした」
「今も見られるか」
「携帯返したんで」
桜井は一度頷いた。
責める口調ではない。
事実を並べるだけだった。
「部屋を借りる話は、スタッフにしたか」
「しました」
「なんて言われた」
「まだ早いって」
「なぜ」
「一人になったら、また生活が崩れるかもしれない。もう少し安定してからの方がいいって」
その言葉も、間違ってはいなかった。
住居を失った経験がある者へ、焦らず生活を整えた方がいいと助言する。
善意にも聞こえる。
「それで残った」
「はい」
「次はいつ出ようとした」
「一年くらい経ってから」
「その時は?」
「別の仕事へ移る話が出てました」
「自分で探した仕事か」
「団体の関連会社です」
「どんな仕事だ」
「警備です。給料が上がるって」
「上がった?」
「最初は」
「その後は」
須藤は口を閉じた。
雨音が、事務所の屋根を細かく叩いている。
「夜勤が増えて」
「うん」
「体調崩して休んだら、罰金みたいなのが引かれて」
「罰金?」
「迷惑をかけた分、みたいな」
「書面は」
「ありません」
「断ったか」
「断れないです」
その答えは、ほとんど反射的だった。
桜井が初めて、質問を止めた。
須藤自身も、自分の言葉に気づいたようだった。
「どうして、断れなかった」
「だって」
青年は周囲を見る。
うまく説明できない。
「住ませてもらってたし」
「うん」
「仕事も紹介してもらって」
「うん」
「携帯も」
「うん」
「全部」
須藤は口元を歪めた。
「借りがあったから」
前原の目が、わずかに伏せられた。
飯には値段がある。
借りは返せ。
恩は返せ。
かつて自分がいた世界と、形は違う。
けれど、言葉の鎖はよく似ていた。
「誰かが、借りを返せと言ったのか」
桜井が尋ねる。
「直接は」
「じゃあ」
「でも、言われなくても分かるじゃないですか」
須藤は少し苛立ったように声を上げた。
「普通、分かるでしょ。困ってた時に助けてもらったんだから。少しくらい無理して返すのは当たり前で」
桜井は反論しなかった。
「それを、お前はどう思ってた」
「どうって」
「嫌だったか」
「嫌じゃないです」
すぐに答えた。
けれど、その後に続く言葉がなかった。
「本当に?」
桜井は問い詰めるのではなく、確かめるように言った。
須藤は俯いた。
「……分かりません」
室内の空気が、静かに沈んだ。
和子が鍋の火を弱める音がする。
誰も急かさない。
しばらくして、須藤はぽつりと続けた。
「休みの日でも、講習があったんです」
「何の講習だ」
「考え方とか」
「考え方?」
「過去の自分を捨てるとか。感謝するとか。仲間を信じるとか」
「参加は自由だった?」
「自由です」
「行かなかったら?」
「面談されます」
「何を話す」
「最近、気持ちが落ちてるんじゃないか。仲間から離れようとしてないか。何か不満があるなら話してほしいって」
「不満を話したか」
「話せないですよ」
「なぜ」
「みんな、良い人だから」
その一言に、敦は胸を突かれた。
良い人だから、話せない。
優しくしてくれたから、断れない。
助けてもらったから、疑えない。
悪意よりも、善意の方が人を縛ることがある。
「恋人や友人は?」
桜井が聞く。
「いません」
「あさがおへ入ってから、外の人間と付き合うことは」
「ほとんど」
「連絡は?」
「前の番号、消えたんで」
「新しい番号を教えればいい」
「教える相手がいなかったです」
「家族は」
須藤の顔が硬くなった。
「連絡しなくていいって言われました」
「誰に」
「スタッフに」
「理由は」
「親は俺を傷つける存在だから。過去との関係を切った方が、新しい人生を始められるって」
「お前は、そう思ったか」
「その時は」
須藤は、自分の指を見つめる。
「正しいと思いました」
実際、父親との関係は苦しかった。
母親は父親を止められず、須藤へ「お前が我慢すれば」と言い続けた。
家族と距離を置くこと自体は、間違っていなかったのかもしれない。
「でも」
須藤は言う。
「妹がいたんです」
「何歳だ」
「当時、中学生」
「今は」
「二十歳くらい」
「連絡してないのか」
「番号、分からなくて」
声が小さくなる。
「手紙を出そうとしたことはありました」
「出した?」
「スタッフに見つかって」
「何と言われた」
「今連絡したら、また家族に引き戻される。妹さんのためにも、まず自分が成功しないとって」
「それでやめた」
「はい」
桜井は深く息を吐いた。
「直樹」
初めて、名前で呼んだ。
須藤が顔を上げる。
「お前は、あそこを出たかったのか」
長い沈黙。
青年の唇が、小さく震える。
「……分かりません」
「分からない?」
「出たいと思った時は、ありました」
「いつだ」
「一緒にいた人が、突然いなくなった時」
敦の手が止まった。
「名前は?」
「森川さん」
「名簿にいるかもしれない」
桜井は紙を出そうとしたが、須藤は首を振った。
「今は見たくないです」
「分かった」
「森川さん、三十くらいで。俺より先にいた人です。料理が上手くて。最初に服を貸してくれたのも、その人で」
森川は穏やかな男だった。
共同生活の中で、年下の入居者をよく気にかけていた。
仕事で失敗した者がいれば、自分の分の夕食を分けた。
新しく来た者が眠れなければ、夜中まで話を聞いた。
「ある日、森川さんが言ったんです」
ここを出る。
知り合いのところで働くことになった。
もう団体とは関係を切る。
須藤にも、一緒に来ないかと誘った。
「なんて答えた」
「無理だって」
「なぜ」
「裏切れないから」
「誰を」
「みんなを」
須藤は笑った。
苦しそうな、乾いた笑いだった。
「その時、俺、スタッフに言ったんです。森川さんが出るって」
「報告したのか」
「心配だったんです」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「外へ出たら、また生活が崩れるかもしれない。変な人に騙されるかもしれない。だから、スタッフに相談した方がいいって」
「その後、森川は?」
「次の日、いなくなりました」
「荷物は」
「ほとんど残ってました」
「スタッフはなんて」
「本人の希望で、別施設に移ったって」
「信じたか」
「信じるしかなかったです」
須藤の指が震え始める。
「でも」
その夜、森川が使っていた古い財布が、ゴミ捨て場に落ちていた。
中身は空だった。
いつも首から下げていた小さな鍵も、一緒に捨てられていた。
何の鍵かは分からなかった。
「聞かなかったのか」
「聞きました」
「返事は」
「過去の物を処分して、新しい場所へ行ったって」
「納得した?」
「……しようとしました」
須藤は両手で顔を覆った。
「俺が言ったから」
声が崩れる。
「俺がスタッフに話したから、森川さん、いなくなった」
「それはまだ分からない」
「でも!」
須藤は立ち上がった。
椅子が後ろへ滑り、床を擦る。
「俺が言わなかったら!」
誰も動かなかった。
前原も、川本も。
怒鳴り返さない。
押さえつけない。
「俺、助けてもらったんです」
須藤は泣きそうな顔で繰り返した。
「本当に、死ぬところだったんです」
「うん」
桜井が答える。
「それは嘘じゃない」
「でも、森川さんは」
「それも、まだ分からない」
「じゃあ、俺は何なんですか」
須藤は桜井を睨んだ。
「被害者なんですか。仲間なんですか。裏切ったんですか。騙されたんですか」
「今決めなくていい」
「決めないと、話せない」
「決めなくていい」
桜井の声は変わらない。
「助けられたと思っていてもいい」
「……」
「感謝していてもいい」
「……」
「それでも、嫌だったことを嫌だったと言っていい」
須藤の目から、涙がこぼれた。
「そんなの」
「うん」
「そんな都合のいい話、あるんですか」
「ある」
前原が答えた。
須藤が振り向く。
前原は机から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
「人間なんざ、都合が悪いことだらけだ」
須藤は何も言わない。
「世話になった奴を嫌うこともある」
「……」
「助けてくれた場所から逃げたいと思うこともある」
「……」
「恩があっても、断っていい」
前原は、青年の正面へ立った。
「それで恩知らずになるなら、なればいい」
須藤の顔が歪んだ。
「でも、俺は」
「お前が何をしたかは、これから考えろ」
前原は静かに続ける。
「森川って男のことも調べる」
「……」
「ただし」
前原の目が、まっすぐ須藤を見る。
「お前一人で全部背負うな」
「俺が言ったんです」
「言わせる仕組みを作った奴がいる」
「でも、決めたのは俺です」
「そうだ」
前原は否定しなかった。
「だから、なかったことにはできねぇ」
須藤の肩が小さく震える。
「けどよ」
前原は声を少し低くする。
「間違えた奴が、そこで人生終わりなら」
部屋の中を見回した。
川本。
桜井。
黒岩。
木戸。
敦。
翔太。
ますみ。
藍。
それぞれに、誰にも話していない過去がある。
「ここにいる奴の半分は、もう終わってる」
木戸が小さく言った。
「半分で済みます?」
川本が肘で小突く。
「今それ言うところじゃないだろ」
「すみません」
須藤は、涙をこぼしたまま、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
だが、張りつめていた糸がわずかに緩んだ。
和子が立ち上がり、倒れかけた椅子を戻す。
「座りな」
「……すみません」
「謝らなくていいって何度言わせるんだい」
須藤は椅子へ座った。
和子は新しい湯飲みを出し、ぬるくなった茶を入れ替える。
「今日は大根があるよ」
「え?」
「煮物。食べていきな」
「いや、俺」
「嫌いかい」
「嫌いじゃないです」
「じゃあ食べていきな」
「でも」
「お金は取らないよ」
和子の言葉に、須藤の表情が一瞬固まった。
和子はすぐに気づいた。
「返さなくていい」
柔らかい声だった。
「手伝わなくてもいい。皿も洗わなくていい。明日ここへ来なくてもいい」
須藤は、和子を見つめる。
「食べたくなければ、食べなくていい」
「……」
「でも、腹が減ってるなら食べな」
須藤は唇を噛み、俯いた。
「……食べます」
「そうかい」
和子はそれ以上、何も言わなかった。
台所へ戻り、鍋の蓋を開ける。
湯気が立ち上がり、大根と醤油の匂いが部屋へ広がった。
グエンが嬉しそうに皿を並べ始める。
「キョウ、ダイコン!」
「知ってるよ」
「ワタシ、キッタ!」
「大きさがバラバラだけどね」
「コセイ!」
「便利な言葉を覚えたねぇ」
木戸が立ち上がる。
「今度こそ食っていい?」
「皿運んだらね」
「それ、手伝ったら飯がもらえる仕組みじゃ」
前原が木戸の後頭部を軽く叩いた。
「余計なこと言うな」
「痛っ」
事務所に、少しずついつもの音が戻ってくる。
椅子を引く音。
皿が触れ合う音。
誰かが箸を落とし、誰かが笑う声。
須藤は、その様子を呆然と見ていた。
食卓へ人数分の皿が並ぶ。
誰が客で、誰が住人なのか分からない。
誰が世話をする側で、誰がされる側なのかも曖昧だった。
前原は上座へ座らない。
和子も、全員へ配り終える前に自分の分を取る。
木戸は一番大きな大根を狙って叱られ、グエンは自分が切ったものだと主張する。
ますみは須藤の正面ではなく、少し斜めの席へ座った。
見られていると感じさせない距離。
翔太は何も尋ねず、ご飯の入った茶碗を一つ差し出した。
「これ、普通盛りですけど」
須藤は受け取った。
「ありがとう」
「足りなかったら、あります」
「うん」
いただきます、という声が揃う。
須藤は箸を持ったまま、しばらく動けなかった。
目の前の煮物は、決して特別な料理ではない。
大根。
こんにゃく。
鶏肉。
少し形の崩れた人参。
けれど、その湯気を見ていると、昔あさがおで初めて食べた豚汁を思い出した。
助かった。
温かかった。
嬉しかった。
それは本当だ。
嘘ではない。
同時に。
いつからか、その温かさを失うことが怖くなっていた。
出て行けば、一人になる。
断れば、見捨てられる。
疑えば、裏切り者になる。
感謝すればするほど、離れられなくなった。
須藤は大根を一口食べた。
柔らかく煮えている。
少し甘い。
「うまいです」
「そうかい」
和子が笑う。
「グエンちゃんが切ったから、当たり外れがあるけどね」
「ワタシノ、ゼンブアタリ!」
「さっき自分で硬いって言ってただろ」
木戸が口を挟む。
「ソレハ、アタラシイショッカン!」
「物は言いようだな」
須藤は、もう一口食べた。
目から涙が落ち、茶碗の縁へ当たった。
誰も、そのことを指摘しなかった。
食事の後、雨は弱くなっていた。
須藤は乾いたパーカーを借り、濡れた服を袋へ入れた。
「これ、返しに来ます」
翔太が言う。
「返さなくても大丈夫です」
「でも」
「本当に」
須藤はパーカーを見下ろす。
また、何かをもらってしまった。
その表情を見て、翔太は少し考えた。
「じゃあ、返したくなった時に返してください」
「……」
「来たくなかったら、郵送でもいいし。捨ててもいいです」
「捨てるのは」
「じゃあ、それはなしで」
翔太は笑った。
須藤も、わずかに口元を緩める。
桜井は玄関先で、一枚の紙を渡した。
事務所の電話番号だけが書かれている。
「連絡先はこれだけだ」
「名前とか、書かなくていいんですか」
「今はいい」
「森川さんのこと」
「ああ」
「調べてください」
「調べる」
「俺も、覚えてることを」
「無理に思い出さなくていい」
「でも」
「思い出した時に話せ」
須藤は紙を受け取った。
折り畳み、借りたパーカーのポケットへ入れる。
扉を開けると、雨は細かな霧のようになっていた。
傘を差し、一歩外へ出る。
そこで振り返った。
「あの」
前原が見る。
「なんだ」
「今日の飯」
「うん」
「本当に、何もしなくていいんですか」
前原は少し眉を寄せた。
「何をだ」
「返すとか」
「返したきゃ返せ」
須藤の顔が固くなる。
前原は続けた。
「誰か別の奴が腹減らしてたら、飯でも奢ってやれ」
「……」
「ここへじゃなくていい」
「それでいいんですか」
「知らねぇよ」
前原は鼻で笑った。
「お前が決めろ」
須藤は、しばらく前原を見ていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「分かりました」
その返事は、まだ完全な理解ではなかった。
ただ、今までとは違う言葉を、初めて受け取った返事だった。
須藤は高架下を離れ、雨の街へ歩いていく。
誰も引き止めなかった。
誰も次に来る日を聞かなかった。
敦は戸口から、その背中を見送った。
「ヨシさん」
「なんだ」
「あれでよかったんですか」
「何が」
「連絡先も、住所も聞かなくて」
「聞きたきゃ桜井が聞くだろ」
桜井は肩をすくめた。
「今日はやめた」
「どうしてです?」
「逃げ道が必要だからだ」
敦は須藤が消えた道を見る。
「また来ますかね」
前原は答えなかった。
代わりに、川本が静かに言った。
「来なくてもいいんだよ」
敦が振り返る。
「でも、森川さんのことも」
「それはこっちで調べる」
「じゃなくて」
敦は言葉を探す。
「せっかく、ここまで話してくれたのに」
川本は少しだけ笑った。
「敦」
「はい」
「話したからって、ここに所属する必要はない」
敦は黙った。
「助けたから、仲間になれ」
「話を聞いたから、また来い」
「それを言い始めたら、向こうと同じになる」
胸の奥へ、言葉がゆっくり沈んでいく。
敦はようやく、前原が言った「出て行く自由」の意味を少し理解した気がした。
居場所とは、人を囲う場所ではない。
帰ってきてもいい場所。
帰ってこなくても、責められない場所。
そこにいることを、恩返しに変えない場所。
それを作るのは簡単ではない。
誰かに必要とされたいと思えば、離れてほしくないと願ってしまう。
自分が役に立ったと確かめたくて、感謝を求めてしまう。
善意の中にも、支配は入り込む。
だから前原は、あれほど不器用に突き放すのかもしれない。
その夜。
桜井は机の名簿を開き、須藤直樹の名前の横へ小さく印をつけた。
生存確認。
それだけを書き、すぐにペンを止める。
次の名前へ目を移す。
森川。
須藤が話した男の名字と一致する人物が、一人いた。
森川修平、三十一歳。
退所理由。
本人希望による系列施設への転居。
転居先の欄は空白。
緊急連絡先もない。
記録が途切れたのは、五年前。
「桜井」
前原が呼ぶ。
「ああ」
「その森川って奴」
「名簿にいる」
「見つけろ」
桜井は頷いた。
「生きてるかどうかも分からんぞ」
「分かってる」
「それでもか」
前原は煙草を取り出した。
けれど火はつけず、指の間で転がす。
「近所の爺さんが言ってただろ」
「何を」
「元気でやってるって、聞かせてくれって」
桜井は名簿へ目を落とした。
「ああ」
「一人くらい、そう言える奴を見つけてやれ」
外では、雨が上がり始めていた。
雲の切れ間から、薄い夕暮れの光が高架の向こうへ差し込んでいる。
濡れた路面が、その光を静かに反射していた。
事務所の中では、和子とグエンが食器を片づけている。
木戸は手伝うと言いながら、残った大根をつまみ食いして叱られていた。
ますみはスケッチブックへ、新しい人物を描き始めている。
傘を持ち、雨の中を歩く青年。
その背中の少し先に、小さな灯りがある。
青年が、その灯りへ向かっているのか。
灯りから離れていくのか。
絵だけでは分からない。
けれど、どちらでもいいのだと。
ますみは、そう思いながら線を引いた。
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次回予告
第54話 森川修平
須藤の証言から浮かび上がった、元入居者・森川修平。
桜井と黒岩は、わずかに残された記録を辿る。
一方、翔太のもとには長谷川拓海から連絡が入る。
「この前の話、誰かにした?」
疑われているのか。
心配されているのか。
その境界が分からないまま、翔太は再び拓海と向き合うことになる。




