残された隣人
前書き
建物はなくなっても、
そこに暮らした人の記憶は、
誰かの中に残っている。
だから、
話を聞くということは、
過去を掘り返すことではない。
そこに生きた人を、
もう一度思い出してもらうことなのかもしれない。
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第52話 残された隣人
翌日の午後。
桜井と敦は、古い住宅地図を片手に住宅街を歩いていた。
昨日訪れた「あさがお」の住所から、一本裏手に入った路地。
古い平屋が並ぶ静かな一角だった。
桜井が立ち止まる。
「この家だ。」
表札には、
「山口」
と書かれている。
インターホンを押すと、ゆっくりと玄関が開いた。
白髪の男性。
七十代半ばくらい。
穏やかな目をしている。
「はい?」
桜井は警察手帳ではなく、名刺を差し出した。
「突然すみません。昔、この近くにあったアパートについてお聞きしたくて。」
男性は少し考え、
「ああ……あそこか。」
と、小さく頷いた。
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縁側へ案内される。
麦茶が運ばれてきた。
「刑事さんじゃないんですね。」
男性が笑う。
「元、です。」
桜井も笑い返した。
「今は違います。」
「そうですか。」
男性は庭を眺めながら話し始めた。
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「あそこは古い木造アパートでした。」
「家賃も安かった。」
「学生さんや若い子が多かったですね。」
敦はメモを取りながら聞く。
「どんな人たちでしたか?」
男性は少し目を細めた。
「普通の子たちですよ。」
「夜遅くまで騒ぐこともなかった。」
「朝になると仕事へ行って。」
「夕方には帰ってくる。」
「たまに皆でカレーなんか作ってね。」
敦は顔を上げた。
「皆で……?」
「ええ。」
「楽しそうでしたよ。」
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桜井は静かに尋ねる。
「運営していた人は?」
男性は首を傾げる。
「毎日いる人じゃなかったな。」
「週に何回か、スーツ姿の人が来ていました。」
「若い子たちと話して、すぐ帰る。」
「怒鳴ったりはしてませんでしたよ。」
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敦は複雑な気持ちになった。
暴力もない。
怒鳴り声もない。
近所から見れば、
ごく普通の共同住宅だった。
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その時。
男性がぽつりと呟く。
「でも、一つだけ不思議だった。」
桜井が身を乗り出す。
「何でしょう。」
「ある日突然、いなくなる子がいるんです。」
「え?」
「引っ越しなのかな、とは思っていました。」
「でも、お別れも言わずに。」
「荷物も少ないまま。」
「次の日には、もう別の子が入ってくる。」
縁側に静かな風が吹いた。
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「寂しかったですよ。」
男性は笑う。
「うちの孫くらいの年でしたから。」
「『頑張れよ』くらい言いたかったんだけどね。」
敦はメモを止めた。
この人は、
事件として話しているのではない。
近所の若者を思い出しているだけだった。
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帰り際。
男性は二人を呼び止めた。
「一つだけ。」
桜井が振り返る。
「もし、あの子たちの誰かと会うことがあったら。」
「はい。」
「元気でやってるって、聞かせてください。」
敦は静かに頭を下げた。
「……はい。」
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帰り道。
商店街を歩きながら、敦が口を開く。
「悪い話ばかりじゃありませんでしたね。」
桜井は頷く。
「ああ。」
「だから難しい。」
「全部が嘘なら簡単だ。」
「全部が悪なら捕まえられる。」
「でも、人を助けた事実まで否定はできない。」
敦は空を見上げる。
「じゃあ、俺たちは何を調べるんでしょう。」
桜井は少し笑った。
「人を助けたことじゃない。」
「助けた後、その人たちが本当に自由だったのか。」
その言葉に、敦は静かに頷いた。
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その夜。
事務所では和子が夕飯を並べていた。
「今日は肉野菜炒めだよ。」
「やった!」
木戸が真っ先に席へ座る。
翔太が笑う。
ますみも小さく笑った。
前原はそんな光景を見ながら、昼間に聞いた老人の言葉を思い返していた。
「元気でやってるって、聞かせてください。」
前原は心の中で呟く。
(……それが一番難しいんだよ。)
誰かを助けることよりも。
誰かが、自分の意思で歩き続けられることの方が、ずっと難しい。
静かな夕食の時間が流れていった。
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次回予告
第53話 「戻ってきた青年」
事務所を訪ねてきた一人の青年。
彼は「あさがお」で暮らしていた元入居者だった。
「悪い場所じゃなかった。」
そう語る彼の表情には、感謝と迷いが入り混じっていた。
そして彼の証言が、「助けること」と「依存させること」の境界線を、少しずつ浮かび上がらせていく。




