おでんの湯気
前書き
人間って、
「助けてください」
より先に、
「大丈夫です」
って言ってしまう生き物なのかもしれません。
第5話です。
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第5話 おでんの湯気
雨は止んでいた。
けれど空気は湿っていて、
夜の街はどこか重たかった。
岡野敦は、
駅前の小さなおでん屋の暖簾をくぐった。
最近、
この店へ来ることが増えた。
理由は安いから。
あと、
静かだから。
カウンターだけの店。
古いテレビ。
黄ばんだメニュー。
出汁の匂い。
店主の爺さんは、
必要以上に喋らない。
それが楽だった。
敦は端の席へ座った。
「大根と……ちくわ」
「はいよ」
湯気が立つ。
敦は少し息を吐いた。
今日は派遣だった。
工場。
ライン。
怒鳴り声。
「遅い!」
「そこ違う!」
「ちゃんと見ろ!」
帰り道、
ずっと胃が痛かった。
でも、
今日は途中で逃げなかった。
それだけで疲れていた。
敦はおでんをつついた。
その時だった。
「……はぁ」
隣から、
重たい溜め息が聞こえた。
見ると、
スーツ姿の男が座っていた。
ネクタイは緩んでいる。
目の下にクマ。
年は三十前後。
疲れ切っていた。
敦は見覚えがあった。
この人、
前にもいた。
というか、
毎回いる。
いつ来ても、
だいたい座っている。
今日も、
焼酎のお湯割りを飲んでいた。
男はスマホを見ていた。
通知。
また通知。
また通知。
全部、
無視。
敦はなんとなく気になった。
でも話しかける理由もない。
その時。
男のスマホが鳴った。
男は顔をしかめる。
しばらく見つめたあと、
通話を取った。
「……はい」
相手の声は聞こえない。
でも、
怒鳴られているのは分かった。
男は頭を下げていた。
電話なのに。
「はい……」
「申し訳ありません……」
「はい……はい……」
敦は視線を落とした。
なんか、
見てはいけない気がした。
電話は数分続いた。
切れたあと、
男はしばらく動かなかった。
それから、
小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「……終わってんな」
敦は思わず口を開いた。
「……大丈夫ですか」
男は少し驚いた顔をした。
「あ」
敦は後悔した。
知らない人に話しかけるんじゃなかった。
でも男は、
少しだけ苦笑いした。
「いや……
まぁ、大丈夫です」
大丈夫じゃない顔だった。
敦はおでんをつついた。
沈黙。
男は焼酎を飲む。
それから、
ぽつりと言った。
「最近、
“すみません”しか言ってない気がする」
敦は少し笑った。
「分かります」
男は敦を見る。
「……分かるんですか」
「僕も似たようなもんなんで」
男は小さく笑った。
それが、
この人の初めての“人間っぽい顔”だった。
「……田中です」
「岡野です」
「どうも」
それだけ。
でも、
少し空気が軽くなった。
店主が湯気の立つ鍋を覗く。
「兄ちゃんら、
疲れた顔してんなぁ」
田中が笑う。
「してます?」
「してるしてる。
昭和のサラリーマンみてぇだ」
「昭和って……」
「今よりみんな疲れてたぞ」
店主はそう言いながら、
大根を追加した。
「サービス」
「え、悪いです」
「余ってんだよ」
絶対嘘だった。
でも敦も田中も、
何も言わなかった。
田中は焼酎を見つめていた。
「……俺、
昔は真面目だったんですよ」
「今も真面目そうですけど」
「いや、
そういう意味じゃなくて」
田中は少し笑った。
「中学で書記やって、
高校で生徒会長やって」
「すご」
「親にも先生にも、
“お前はちゃんとした大人になる”
って言われてました」
敦は黙って聞いていた。
「でも親父がリストラされて」
田中はお湯割りを飲む。
「大学諦めて、
就職して」
「……」
「そしたら配属先が地獄でした」
その言葉だけで、
敦にはなんとなく分かった。
人が足りない。
怒鳴る。
辞める。
残った人間へ負担。
終わらない。
たぶんそういう場所だ。
田中は苦笑いした。
「最初は頑張ってたんですよ」
「はい」
「でも、
頑張るほど仕事増えるんですよね」
敦は思わず笑ってしまった。
「あー……」
「分かります?」
「めっちゃ」
二人とも少し笑った。
店主は黙って出汁を足していた。
田中は続けた。
「しかも、
ミスするとネチネチネチネチ」
「うわぁ」
「“田中くんさぁ”
から始まるんですよ毎回」
「終わった」
「終わりです」
また少し笑う。
でも笑いながら、
田中の目は死んでいた。
敦は思った。
この人、
ずっと我慢してきたんだろうな。
田中はネクタイを緩めた。
「なんか、
気づいたら会社行く前に吐くようになって」
「……」
「でも辞めるのも怖くて」
敦は返事ができなかった。
それは、
あまりにも分かりすぎた。
辞めるのも怖い。
続けるのも怖い。
どっちへ行っても苦しい。
田中は笑った。
「情けないですよね」
敦は少し考えた。
それから言った。
「……でも、
今日ここ来てる時点で、
まだ壊れてない気します」
田中は驚いた顔をした。
敦自身も、
自分がそんなことを言ったのに驚いていた。
田中はしばらく黙っていた。
それから、
ふっと笑った。
「……変な人ですね、岡野さん」
「よく言われます」
「いや、
普通もっと気まずいでしょ」
「まぁ……」
敦は苦笑いした。
その時。
暖簾が開いた。
「うぃーっす」
木戸だった。
敦は吹き出しそうになった。
木戸も敦を見る。
「……なんでいるんだよ」
「いや僕も思いました」
木戸はカウンターへ座った。
「大根。卵。あと牛すじ」
店主が頷く。
木戸は田中を見る。
「知り合い?」
「いや」
「いやってなんだよ」
敦は少し笑った。
「たまたまです」
木戸は鼻を鳴らした。
「この街、
たまたま多すぎんだよ」
その言い方が少し可笑しかった。
田中は二人を見て、
少しだけ目を丸くしていた。
たぶん、
こういう空気に慣れていない。
真面目に生きてきた人の顔だった。
でも。
少しだけ、
肩の力が抜けていた。
店の外を、
夜風が通り過ぎる。
湯気が揺れる。
敦はぼんやり思った。
人生って、
いきなり変わるわけじゃない。
でも、
こういう小さい夜が、
少しずつ人を繋げていくのかもしれなかった。
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後書き
第5話でした。
田中裕也は、
「ちゃんと生きようとした人」
です。
でも、
ちゃんとしている人ほど、
壊れる時は静かだったりします。
そして木戸、
だんだん街の野良猫みたいになってきました。




