書かなくてもいいこと
第103話 書かなくてもいいこと
ノートは、三日でぐちゃぐちゃになった。
「誰だよ、これ書いたの」
朝。
敦がテーブルの前で固まっていた。
木戸が新聞越しに訊く。
「何が」
「見てくださいよ」
ノートを持ち上げる。
一ページ目。
『米 5kg』
『カップ麺 4個』
『卵 10個』
ここまではいい。
その下。
『皿洗い 大和』
『ゴミ出し 蒼』
『冷蔵庫整理 敦』
そして。
『何もしてない 陸斗』
「……」
木戸が新聞を下ろした。
「本人?」
「字が違います」
「大和だろ」
「たぶん」
次の行には、別の筆跡で、
『してるわ!!』
さらにその下。
『何を?』
『昨日テーブル拭いた』
『半分だけ』
『全部やった』
『端っこ汚かった』
「交換日記になってるじゃないですか」
「平和でいいだろ」
「帳面ですよ、これ」
「前原に言え」
敦はページをめくった。
今度は、
『牛乳』
その横に、
『誰?』
さらに、
『俺』
「俺って誰だよ……」
敦は頭を抱えた。
*
夕方。
前原がノートを見た。
「……」
ページをめくる。
「……」
もう一枚。
「……」
閉じた。
「ダメだな」
「ですよね」
敦が頷いた。
「やっぱりちゃんとルール決めないと」
「やめるか」
「え?」
「これ」
前原がノートを指で叩く。
「え、やめちゃうんですか?」
「食費だけ俺と木戸でつける」
「でも、せっかくみんなが――」
「敦」
「はい」
「これ見ろ」
前原が一ページ開いた。
そこには、
『皿洗い』
『掃除』
『ゴミ出し』
『買い物』
いろいろ書かれている。
「はい」
「そのうちどうなると思う」
「どうなるって?」
「俺は三回やった」
「……」
「あいつは一回しかやってねえ」
敦は黙った。
「米持ってきた奴が偉い。何も持ってこねえ奴は偉くねえ」
「あ……」
「金入れた奴が一番偉い」
前原はノートを閉じた。
「そういう場所にすんのか?」
「……違いますね」
「だろ」
敦は椅子に座った。
「難しいですね」
「何が」
「みんなで支えるって」
「だから大げさにすんな」
前原は言った。
「できる奴が、できる時にやりゃいい」
「でも、それだと誰が何したか分からないですよ」
「分からなくていいだろ」
敦が前原を見る。
「……なるほど」
「何だよ」
「いや」
敦は少し笑った。
「前原さん、こういうところだけ妙にちゃんとしてるなって」
「こういうところ“だけ”って何だ」
*
その日の夜。
大和がノートを開いた。
「あれ?」
「どうした」
陸斗が覗く。
「なくなってる」
「何が?」
「手伝ったこと書くところ」
ページには食材と金額だけが並んでいた。
「前原さんがやめた」
敦が台所から答える。
「なんで?」
「競争になるから」
「競争?」
「誰がどれだけやったとか、誰が何もやってないとか」
大和は少し考えた。
「別にそんなつもりじゃ」
「分かってるよ」
敦は鍋をかき混ぜながら言った。
「でも、前原さんがさ」
そこで一度止まった。
「何したかなんて、書かなくていいって」
陸斗が笑った。
「じゃあ俺、何もしなくていい?」
「それは違う」
大和が言った。
「なんでだよ」
「汚したら片付けろ」
「それはやるよ」
「昨日コップ置きっぱなしだった」
「忘れただけ」
「ほら」
「うるせえ」
いつものやり取りが始まった。
その横で。
例の少年が立ち上がった。
何も言わず、テーブルに残っていた空きペットボトルを集める。
袋へ入れる。
敦が気づいた。
「あ、それ俺やるよ」
少年は首を横に振った。
そのまま玄関へ向かう。
「ゴミ捨て?」
頷く。
「ありがとう」
少年は返事をしなかった。
外へ出ていった。
大和がその背中を見る。
「……あれは?」
「何が」
「ノートに書かないんですか」
敦は笑った。
「書かない」
「なんで?」
「書かなくても、俺ら見てたから」
大和は少しだけ納得したようだった。
*
午後九時。
須賀が仕事帰りに顔を出した。
「こんばんは」
「お疲れさま」
「これ」
スーパーの袋をテーブルに置く。
中には、値引きシールの貼られたパンがいくつか入っていた。
「帰りに安くなってたんで」
「いいんですか?」
「俺も食べますから」
「じゃあ書いときます?」
敦がノートを出そうとする。
前原の声が飛んできた。
「書かなくていい」
「あ、そうだった」
須賀が不思議そうな顔をした。
「何の話です?」
「ちょっと制度改革がありまして」
「三日で終わったけどな」
木戸が言った。
「制度って三日で終わるんですか」
「ここでは終わる」
前原が答えた。
須賀は笑った。
*
食事が終わった。
敦は流し台に食器を運ぶ。
「置いといて」
蒼が言った。
「やるよ」
「いや、俺が」
「じゃあ一緒にやる?」
「うん」
二人で皿を洗う。
後ろでは陸斗と大和がテレビのチャンネルで揉めている。
須賀は明日の仕事が早いと言って、もう帰った。
前原は電話。
木戸はゴミ袋をまとめている。
例の少年は窓際で漫画を読んでいる。
誰が何をしたか。
誰が何円使ったか。
誰が一番この場所の役に立っているか。
そんなことを数え始めたら。
たぶん、
ここは少し違う場所になってしまう。
「敦さん」
蒼が言った。
「ん?」
「これ、どこ?」
洗い終えた茶碗を持っている。
「ああ、そこ」
敦が棚を指す。
蒼がしまう。
「これ?」
「その隣」
「こっち?」
「そう」
それだけだった。
敦は思った。
たぶん。
こういうのでいい。
*
みんなが帰ったあと。
前原がノートを開いた。
今日の食費を書き込む。
敦が覗き込んだ。
「前原さん」
「ん?」
「それはちゃんと書くんですね」
「金は別だ」
「ですよね」
前原が電卓を叩く。
「……敦」
「はい」
「昨日、お前が買った肉」
「はい」
「高くねえか」
「国産ですよ」
「外国のでいいだろ」
「たまにはいいじゃないですか」
「人数考えろ」
「美味しかったでしょ?」
「……まあな」
「ほら」
「次から安いの買え」
「はいはい」
「返事一回」
「はい」
敦は笑った。
百三回目の夜。
日だまりでは、
今日も誰かが皿を洗い、
誰かがゴミを捨て、
誰かが安くなったパンを持ってきた。
そのほとんどは、
どこにも記録されない。
でも。
記録されなくても、
なくならないものはある。
ここにいる人間が覚えていれば。
それでいい。
前原がノートを閉じた。
表紙には、まだ、
『日だまり 食費』
とだけ書いてあった。




