20−3 正体
ノワールが目を覚ますと、蜘蛛に囲まれている状況に気付いて、ヴェールを叩き起こした。次いでブランドロワに容赦なく頬を叩いてから、グルナディーヌを揺さぶる。
「どうなってるんだ?」
「一体、何があったんだい?」
「何事なの!?」
三人が驚きに呆然としている間に、花奏が弓で蜘蛛の頭を狙った。背中に矢筒が出てきて、花奏はそこから矢を取り出してつがえる。
ローザはどこへ行った? 蜘蛛を目掛けながら、花奏はローザの姿を探した。
青藍の姿も見えないまま。
助けると言って、青藍を連れ出して、彼を危険にさらすことになったのならば、どうすればいいのだろう。
不安で、弓を持っている手が震えてきた。
「花奏、あの女!」
ノワールが指差した先に、ピンク色の髪が見えた。それが空間で開いた扉の中に入っていく。
「きゃっ!」
「グルナちゃん!」
グルナディーヌが倒れ込んだのが見えて、花奏は後ろにいた蜘蛛に矢を放った。ブランドロワがグルナディーヌを抱き上げて、蜘蛛のいない方へ走り出す。
花奏は弓を握り直す。青藍を探さなければ。彼の側にいるために、この場所を乗り切らなければ。
向かってくる蜘蛛に、矢を放ち、もう一度つがえる。
「おい、何やってるんだ!?」
「武器持ってないやつは、下がってなよ」
ヴェールが、いきなり座り込んだノワールに立つように言うが、ノワールがおもむろに落ちていた蜘蛛の足を使って、床の土に絵を描き始めていた。蜘蛛の足には切れた細いチューブがくっついており、そこから透明な液体が垂れている。それを使って、大きなカマキリを描いた。
そのカマキリが地面から浮き上がると、形になって動き出す。
「花奏、あの女を追え!」
ノワールが叫ぶ。グルナディーヌはどこからか剣を出した。ブランドロワも同じ剣を手にすると、蜘蛛に切り掛かる。ヴェールは攻撃を受けたノワールに、癒しをかけた。
花奏は走り始めた。前に、巨大迷路で見た、出入り口が開いていた場所だ。同じ場所にローザが入っていった。
隙間に指を入れて、一気に扉を開く。中に入れば、先ほどの喧騒が嘘のようにシンとした空間に入り込んだ。
入ったはずの扉はもうない。前と同じ、長い廊下で、奥に部屋が見えた。
ローザの姿はない。花奏はゆっくりと扉の方へ進んだ。足音が廊下に響く。前に来た時より、廊下に形がある。真っ白な壁で何もなかったのに、今は虫食い柄の天井。蛍光灯が等間隔で並んでいた。壁には、取っ手のついた扉。光はなく中は暗かったが、前ほどの無機質さがない。
心臓が、どくどく鳴るのが聞こえた。花奏はその胸の音を静めるように、胸元をつかむ。
緊張で、喉が渇きそうだった。
この廊下を、どこかで見たような気がする。
奥の扉は開いていた。明かりが灯って、光が漏れている。扉は引き戸で、取っ手を持って、それをそっと横にスライドさせた。
一瞬香る、消毒のような独特の匂い。雨が滴り落ちるような音。ぽたぽたと落ちるその雫。ぴ、ぴ、という機械音と、白い水蒸気を吐き出し続ける風の音。
真っ白なシーツの上に伸びた腕が、やけに細く、シューシューという呼吸音は、あまりに微かだった。
「ローザちゃん?」
病室の一室で眠っているのは、ローザだ。目をつぶったまま点滴を受けて、人工呼吸器で空気を送ってもらっている。加湿器が動いて、空調が回っている。すべての音が、その部屋に集まって、花奏の耳に届いた。
「どうして、ローザちゃんが」
『どうして? それを、あんたが言うの?』
ローザが、ゆっくりと眠っているローザの上に降り立つ。
「どういう意味?」
言いながら、なぜか心臓の音が大きくなった気がした。
眠っているローザ。顔色は悪く、痩せ細って腕には点滴のあとであざだらけになっている。その上を浮きながら歩いているローザは、眠っているローザより年を重ねているように見えた。眠っているローザがやけに幼いのだ。
そのとき、後ろの扉がガラリと開けられた。
「青藍!?」
いや、違う。青藍より若干若い、青藍に似た男性が、花奏を素通りして、部屋の中に入ってきた。ベッドの上に立っているローザが見えていないのか、眠っているローザを見ながら椅子に腰を下ろした。
ローザの、あざだらけの手に触れる。点滴の痕は手の甲にもあって、青藍に似た男性はそれに触れないようになでて、鼻を啜った。
『……ごめん。俺が、あのとき、引き留めていれば』
男性はローザの顔を見つめる。乱れた前髪を直してやって、もう一度謝った。
『ごめん。花奏ちゃん』
「……え?」
男性の横顔は青藍に見えて、青藍ではない。けれど、青藍に似た男性が、ローザを花奏と呼んで、涙を流した。
急激に、頭に激痛が走った。
吐き気がするほどの痛みで、目も開けていられない。
何かが頭の中を駆け巡るように、光や色が瞼の中を走り去った。
あの神社の建物の中で、青藍に似た男性が立ち尽くしている。大木の隙間から注がれた光の下を、花奏はくぐるように走った。
彼は追いかけてこない。だからもう振り返ることなく、神社を、その敷地を飛び出した。
その花奏に、白い車が勢いよく向かってきた。
『今頃、わかったの?』
ローザの声が、花奏の耳に届く。
いや、ローザではない。あのときの、花奏だ。弱かった頃の、花奏。
「私が、私が、みんなをこの世界に連れてきたの?」
ローザが、幼い頃の花奏が笑っている。
幼い頃、中学一年生の夏の、あのときの花奏が。
『全部忘れちゃったんだから、どうでもいいでしょう? なんにも覚えてないんだから』
花奏がせせらわらう。
「好きで、忘れたわけじゃ」
『だから? だって、忘れてたんでしょう? 青藍のこと。私が付けてあげたの。かわいいでしょ。青藍って名前』
「青藍じゃない。青藍じゃないよ!」
『うるさい! 青藍は、青藍よ! 私の青藍を、取らないで!!』
花奏が叫べば、突風が吹いた。そのまま飛ばされそうになる。背後にある扉は開いたまま。虚空のように真っ白で、あの場所に落ちたら、もう二度と出られなくなる気がした。
「青藍は、彼は、ものじゃないんだから」
名前を呼びたいのに、思い出せない。
遠く褪せている記憶の中に、姿だけは浮かんで残っているのに。
――花奏ちゃん、またおいで。
――の、嘘つき! 側にいたって、何の役にも立たない!
「あ……」
彼を、拒否したのは……。
「花奏!」
扉の外に投げ出されないように、掴んでいた手を、後ろからぐっと握りしめられて、花奏は仰ぎ見た。
「青藍……」
「弓を!」
青藍を背にして、花奏は弓を手にした。
青藍が背中にいる。花奏を支えるように、花奏の右手と一緒に矢をつがえた。
神社の弓道場で、そうやって教えてもらった。神社にいた、年上のお兄さん。
中学に入ってすぐいじめに遭って、学校に行かなくなった花奏。
引きこもるようになってから弓道場に行って、花奏の練習に付き合って、話を聞いてくれた。
彼と一緒に弓を引いて、話して、笑って。青藍、藍田碧。花奏が好きだった時間。
そうだ。知っていた。ずっと前から、花奏の好きが、彼と共にあった。
長く忘れていたのに、ここで感じていた。
形が変わっても、名前が変わっても、花奏の好きはここにあったのだ。
「放せ!」
矢がローザに放たれた。




