16−2 食事
「え?」
「……うまいな」
「え? あ、良かった! じゃあ、ナンも食べてみて。こっちのおかずも。……青藍?」
青藍が、眉尻を下げて、まるで泣きそうな、けれど口元は上がり、柔らかな表情をする。
ナンを手に取り、カレーをつけて、口に運ぶ。今度は恐れるような時間はかけず、素直に頬張った。
「カレー、久しぶりに食べたの?」
「ああ、とても、久しぶりだ」
何に引っ掛かっていたのか、晴れやかな顔だ。何が、彼を留めていたのだろう。
青藍が口に頬張るのを眺めてから、花奏はふと置いておいた自分のカバンを見やった。
「あれ、ぱぺ?」
カバンにつけておいたパペがいない。どこかで落としただろうか。青藍を模した、青のぱぺ。
「どうした?」
「ぱぺが、あ、いたいた。なんでそんなとこに落ちたの? 猫でも咥えてっちゃった?」
パペがなぜか、枯山水の砂場に落ちている。
靴を持ってきて、縁側から庭に降りると、枯山水の砂を崩さないように、そっと手を伸ばしてぱぺに手を伸ばした。
しかし、指がぎりぎり届かない。
「うーん、もうちょっと」
「おい、転ぶぞ?」
青藍が立ち上がり、縁側の手前までやってきた。しかし、足は畳で止まったまま、そこから近寄ってこようとしない。
「青藍、本殿から出られないのって、庭園もダメなの? 縁側から足を出すのも?」
庭園は囲まれていて、本殿の出入り口から出るように、外に繋がってはいない。外は外だが、本殿のみに繋がる庭園で、外側には出られないような作りになっていた。
だから、庭園は出られると思ったのだが、青藍は首を振る。
外が天気だろうが、なんだろうが、顔を出すこともできないのか。
「ちょっと、来てみない?」
「無理だ」
「私じゃ、ぱぺに手が届かないから。青藍の手なら届くと思うの」
だから、試してみないか。そう言っても、青藍は畳の部屋から少しも動こうとしない。
今まで、何度も出ようと試みたのだろうか。だから、諦めている。そんな悲壮な姿が浮かんだ。
「じゃあさ、縁側で食べようよ。縁側なら大丈夫でしょ? だって、お天気だよ」
まだ日は高い。乙女ゲーの仕様なのか、花奏が寮に戻らないと、暗くならないのではないかというくらい明るい。
花奏は縁側から降りたまま手を伸ばすと、青藍を促した。青藍は立ち尽くしつつ、伸ばしている花奏の手を見つめる。
縁側だ。外ではない。青藍は恐る恐る、縁側にやってくる。
花奏の手に触れた。指先から温もりが届く。けれど足りない。花奏はその手を握りしめた。びくりと強張ったが、すぐに握り返してくる。
「大丈夫だよ」
なぜか、そう思えた。
花奏は伸ばした両手を握ると、ゆっくりと、庭園の方へ後ろ足で下がる。
「これ以上は、無理だ」
「手を繋いでるから。ゆっくりだったら、わかるでしょう?」
弾かれる前に、手が進まなくなるのだから。
それは言わず、花奏は青藍の手を引いた。ゆっくり、けれどひたすら青藍の目を見つめた。
青藍は左右に目を揺らげたが、すぐに花奏の目と合わせた。
何者にも入り込めない瞬間だと感じたとき、青藍が足元に視線を向けた。
「わっ!」
「おい!?」
砂利に足を取られて、花奏が尻餅をつきそうになった。
繋いでいた手は離れたが、それを青藍が受け止める。青藍の腕が、花奏を支えていた。
吐いた息が触れそうなほど近付いて、その双眸と目があったとき、ズキリと頭に激痛が走った。
目の前がチカチカする。青藍が何か言って、花奏に手を伸ばした。足の力が抜けて、崩れるように倒れたのか、青藍が大声を上げて、花奏を呼んだ。
いや、違う。――あれは。
「おい! 大丈夫か!?」
「青藍。……屋根、越えてる。庭に出てるよ」
「え?」
花奏を支えている青藍の足が、枯山水の砂に入り込んでいる。それを目にして、青藍が花奏に向き直した。
ずっと近くにいる青藍の顔が、急に緩んで、小さく息を吐き出した。
「は、はは」
「庭園は、出られたね」
「……ああ。出られた。出られるんだな」
青藍が脱力したように、花奏の肩に頭を乗せた。
身体が震えているのがわかる。今まで庭園ですら出られなかった青藍のことを思うと、急激に悔しさが込み上げてきた。
必ず、出してあげるから。
口にはせず、花奏は青藍の背中をさすった。
大きな背中がこんなに小さくなるほど、彼は苦しんでいたのだ。
私が、必ず自由にする。
「すまない。立てるか?」
花奏が砂場に座り込んでいるのを思い出したと、青藍が花奏を引っ張りながら立ち上がった。
目が赤い。それをごまかすように、頬をこすって咳払いをする。
「わざと、倒れるふりを?」
「んーん、頭痛がして」
「体調が悪いのか!?」
「もう、平気。ちょっと、偏頭痛? 前もあったんだよね」
目の奥が痛むような、頭の後ろが痛むような、刺すような痛み。それから、瞼の中で、何かが見えた気がした。
前にも、あんなシーンがなかっただろうか?
誰かが、花奏に手を伸ばすような。
青藍はぱぺをひろって、砂を落としてくれる。自分を模したぱぺだと気付いていないのか、気にしたふうもなく手渡してくる。よく似ていると思うのだが。
「枯山水、踏んじゃった。竹箒みたいなのないの?」
「外に出たことがないから、知らんな」
「じゃあ、いっか」
「ああ、そのままでい」
青藍は朗らかに笑うと、まぶしそうに空を見上げた。
「食べよ。カレー」
「ああ」
縁側に座り込み、ナンを手にする。スパイスの香りを鼻にいっぱい吸い込んで、匂いを感じた。こんなに香るものは、こちらに来てから初めてだ。
そういえば、こちらにきてほとんど匂いを感じたことがない。たまに青藍が言う、妙な匂い、だけだろうか。
匂いも、風もない。まるで閉じ込められた空間にいるよう。
花奏も空を見上げた。
急激に暗くなっていく空。夕暮れもあっという間で、すぐにでも夜になりそうだ。まるで、青藍が外へ出たから、それを封じ込めるように。
「ねえ、青藍、今日泊まってっていー?」
なぜか、口からそんな言葉がこぼれた。
「は?」
言ってから、我に返って青藍に振り向いたが、青藍は、花奏の言葉に、ナンからカレーをポトリと地面に落としていた。




