21 真珠の光
「……そうだ。お前は今やただの『人間』。助けようとしても無駄だと言うことよ」
「海に、落とすなんて!」
「そうしないとは言っていなかった。それだけのことよ。それに、人間になりたくてここにきたのだろう? 我はそれを叶えてやっただけぞ」
下半身に激痛が走る。黒い鱗が痛みと共に剥がれ落ち、魚の形の尾が徐々に人間の脚へと姿を変えていく。
「あっ、ああ……」
その、強烈な痛みに、吐く息が荒くなる。
「爾らの願いを叶えた。これは我が慈悲である」
強烈な痛みに抗って、船底の木材にぎりりと爪を立て、ハミシエはゆっくりと顔を上げた。
「……それでも、あなたを、父だと、思っていたのです」
そして、静かに呟く。
「私を産んだせいで、お母さまは、あなたの、最愛の人は、命を落としてしまった。私を疎む気持ち、理解しておりました。200年の間、一度も顧みられることなくとも……私は、どこかで、父であるあなたを信じていた」
脚に残った最後の一枚の黒い鱗を、ハミシエは、大きく息を吐いて、自分の手、自らの意思で勢いよく剥ぎ取った。船の床に、ぴしゃりと赤い糸のように血が撥ね飛ぶ。
「けれど、それも今日まで。……私は、私を愛してくれた人を信じます。さようなら。お父さま」
船縁に両手をかけて、慣れぬ力で、まるで生まれたての小鹿のように、ハミシエはよろりと両足で立ち上がった。
そして、荒れる息を整えて、そして大きく息を肺へと吸い込む。そして次の瞬間、海へと沈みゆくアルバートを追って、飛び込んでいった。
水の中で脚を動かしても、思ったように進まない。息が出来ない。人間とは、このような生き物だったのか。水中でハミシエは瞠目する。
左右上下に激しく揺れる海の中、わずかに紅い血の筋が海底へと連なっていくのが見える。海底から沸き上がった白い泡が、紅く染まりながら、行き先を示すように流れていくのもまた目に入る。
(死なせない。ああ、どうか、お母さま………)
腕の力だけで、必死でハミシエは潜っていく。顔を深く傷つけられて、血を流しながら沈んでいく最愛の男。もがくように、その腕を掴む。ぶわっと花が咲くように、二人の周りを白い泡が包み込んだ。
「愛しているわ」
人間になった今、水中で喋ることはできないはずなのに、何故か喉から声が出る。
「私は、あなたと、永遠に、歓びの庭を共にするって、決めているの」
その瞬間、アルバートの胸の奥から輝きだした白い光が、二人を包む。
「私の、真珠……」
何も持たず、何も知らなかった自分を、どこまでも愛してくれた誠実な男。不器用だが嘘偽りのない歓びの中から生まれたあの白い真珠と、何故か母親を思わせる白い泡が、海中の二人を護るように丸く輝き、白い円形の空間を形作っていく。
空気の様な暖かい何かに満たされた不思議な空間で、ごほり、と大きく海水を吐き出したアルバートが、呟く。
「……私は、恐ろしかったのだ」
「恐ろしい?」
「私は、私だけの力で……こうしてそなたを……得たとばかり思っていた。私の目の力など、私の血脈のことなど知らぬ、と。不必要である、と……どうしても、信じたかった」
「私、あなたの緑色の目が好きよ。でも、でも、あなたは、私の心に庭園があるって言ってくれたわ。毎日、本だって読み聞かせてくれたわ。温かい手で、薔薇の花を贈ってくれたわ。だからもう、寂しくないの。それだけでいいの。だから、あんなに怒らなくても、よかったのに」
そして、ぽろり、ぽろりと涙を落とす。
「あなたが好き。どんな姿でも決して変わらない。ああ、やっと人間の姿になれたのよ、バート。お願い、私を見て。……私、いつも貰ってばかりだった愛を、やっと『与える側』になったのよ」
「ハミシエ」
三叉鉾で抉られた顔の傷が生々しい。眼窩から流す赤い血が海水と混じり、ぼとり、ぼとりとアルバートの胸元を赤く染めていく。
「見えなくとも……そなたが美しく、愛らしいことなど、わかっている」
「でも、私は、見て欲しいの。私は、あなたの妻。ベルンシュタットの妃。だから……」
真珠の球体の白い光に包まれながら、海中を漂う二人を見て、海の王が目を見張る。その目が、かつてのアルバートと同じ緑色に変化している。
「返して貰います。夫の、我が陛下の目を。私を、私達の庭園へいざなってくれた、この世で一番貴い宝石。その瞳は、今のあなたには過分なものです」
海の王の鋭い視線を感じてもなお、ハミシエは静かに、そして揺るぎない声で言う。
「あなたが、愛を解していないとはいいません。……私を愛さなくとも、あなたは私に脚をくれた。けれど、私の愛する者に、このような害を成したことを赦すかは、別の話。これから流れる『時』に、赦しを委ねることにします」
そして、彼女本来の美しく柔らかい声で、静かにこう付け加えた。
「それまでに………いつかは誰かを、恐れずに、心から愛して」
200年もの間、一度たりとも顧みなかったこの娘に、このような、『かつての寵姫によく似た美しい声』があったのか。あまりにも懐かしく、だが今も尚、どうしても咀嚼できない言葉を聞いた海の王が、天に向かって独り吼える。
そして、金の三者鉾で、白くまばゆく輝く球体を力の限り刺し貫こうとするが、白い光と泡がそれを阻む。そして光が、海の王が新しく得たばかりの緑の眼を覆う。
甲高い音と共に、真珠の光に触れた金の鉾が砕け散る。潰されたアルバートの眼窩が、真珠の淡い光と海の白い泡と共に癒え、緑色の、以前のそれよりは幾分か柔らかい印象の緑色の瞳が、再び現れ出る。
「……そしてありがとう、お母さま。お会いできて、嬉しかった。……さあ、帰りましょう、バート。いいえ、陛下。私の、大事な人」
砕かれた鉾を海面へと取り落とし、両方の瞳を押さえた海の王の、悲鳴のような咆哮が上がる。白い泡が、そんな海の王を取り囲む。
「メーリエ、か。何故だ、何故……我にはもう、わからぬ。見ることも出来ぬ」
まるで涙のように、海の王の眼窩から流れ落ちたのは赤々とした血だった。
「……お母さま」
「否、否、その声こそは我が妃メーリエ。何故逝ったのだ。我は爾以外を愛せない」
「いいえお父さま。私の名前はハミシエ。ですがもう、私は『不要なもの』ではありません。そしてお母さまは、お父さまを愛していらっしゃる。今も、そして、永遠に」
物言わぬ白い泡が、そんな海の王を優しく包んでいく。そして、血の滴る眼窩を覆う。海の王が元々持っていた蒼い目が再び泡の中から光り、同時に、泡が役目を終えたかのように、静かに海の底へと消えていく。
「限りない、感謝を」
海の底へと消えていく白い泡を見送り、アルバートが静かに顔を上げる。
「……海の王よ。永き寿命と、いかなる海よりも深い愛を持った男よ。海にも庭があるのなら、その庭を共にする者も、いつかまた現れることだろう。いつか、汝の孤独の日々が終わったとき、また相見えることもあろう」
そして、言った。
「……行きて帰りし我が王冠よ」
アルバートの両腕の中に、遠い陸地の遥か彼方にあるはずのベルンシュタットの王冠がゆるやかに顕現する。
「余と妃を、我が国へ迎え入れよ」




