20 代償
船縁に身体を寄せると、アルバートは母エルミーネの木箱を開ける。そして金色の指輪のような『妖精の冠』を、そっと手に取って、海へと投げ入れる。
「海の王よ、聞き入れ給え」
金の小石が沈むように、冠が海の底へと吸い込まれていった。目を細めて、アルバートは海の底へと静かに呼ばわる。
「我が名はアルバート・リ・フィーリアス・ベルンシュタット。汝の末の姫君を、我が妻に迎え入れたく参った」
ゆらりと船が揺れる。
「捧げるは妖精の冠。我が母の宝物を、汝への供物としよう。そして、人と人ならぬものの婚姻にあたり、余はこうして承諾を得に参った次第」
晴れていたはずの空に、静かに雲が集まってくる。
「余とここなるハミシエが願うのはただひとつ」
その途端、巨大な金の三叉鉾が、突如として波間を裂いて現れる。船が大きく揺れ、思わずアルバートが船縁に手をかける。
「ベルンシュタットの王よ。そのような、海なき小さな国など知らぬが、陸の小さな国から、妙な土産を携えてきたものだ」
人間の身体の十倍以上はある背丈に、筋骨隆々とした蒼い肌、長い金の髪、そして威厳ある壮年の男の姿をした『海の王』が現れた。
冷たく蒼い、そして巨大な王の瞳が、二人を射抜く。海の王が掌を開くと、そこには金色の小さな冠が乗せられていた。
「陸の妖精の金は、この海では決して手に入らない逸品。爾の話を、聞いてやっても良かろう。……概ね、そこなる姫を人間にせよ、などという戯れ言であろうがな」
アルバートの緑の目と、海の王の蒼い目が交差する。蒼い目が、すうっと細くなり、今度はハミシエの黒い瞳を射抜く。ハミシエが、両手で両肩を押さえ込み、身震いをしないように船の生け簀の中から顔を上げる。
「……王宮から消えたと聞いて清々していたが、帰ってきたか。呪われし我が娘よ。しかも、願いを叶えよという。妖精の冠を持つ男を連れてくるとは予想だにしなかったが……どうやってその小さな舟で、ここまで来たのだ」
ハミシエが、小さく息を整えて、答える。
「……私は既にアルバート陛下のもの。陛下の許しなくば、お答えは致しかねます」
船が大きく揺れる。
「末の姫ハミシエよ。お前の母はお前を産み落として死んだ。あれほど美しかった女は、この世に百の海があろうと永遠に見つからぬ。お前が生まれなければ、あの宝石は永遠に我の者であったというのに」
「……お父さま」
「故にお前が何になろうが我に興味は無い。そして、ベルンシュタット王、人にして妖精の裔よ」
「……妖精?」
「爾の様な『人間』は珍しい。我が末の姫など幾らくれてやっても良いが、爾の身体には、我らでは持ち得ない力が在る」
「力、だと」
ぞわり、と身体の奥から全身が総毛立つ。それはどこか危険信号にも似ている、と直感するが、
「……そのようなものは余は相知らぬゆえ、返答致しかねる。だが、我が妻を『幾らくれてやってもよい』とは何事か。大事な『娘』であろうが!!」
隣のハミシエが思わず瞠目するほどの大音声で、アルバートが目の前の『海の王』を怒鳴りつけた。
「……命とは有限のものであり、最愛の者の命は何者にも代え難きもの。然しながら、それが絶えたのを理由に、我が妻へ200年もの理不尽な孤独を強いたのか」
「理不尽?」
小首を傾げた海の王が、問いかけに答えることもなく言った。
「アルバート・ベルンシュタット、緑の瞳を持つ陸の王よ。妖精の血の混じった稀有な人の子よ。そこなるハミシエを人にしてやっても良いが、代わりに貰い受けるべきものがある」
自分に妖精の血が混じっている、という話こそは初耳だったが、母のエルミーネが妖精の王冠を持っていたことなどを鑑みて、アルバートは息を小さく吐いてから言う。
「聞こう」
「爾のその緑の両眼だ」
隣のハミシエが息を呑むのがわかる。
「人でないものを魅了するその瞳なくして、お前の『妻』はお前を愛するのか。抉りだして、確かめて見ねばならぬ」
「やめて、やめてくださいお父さま!!」
ハミシエが悲鳴にも似た声を上げる。アルバートが、呵々と笑う。
「……宜しい。やってみるがいい」
「バート!?」
海の王の黄金に輝く三叉鉾が、ゆっくりと顔の前に差し向けられ、波に揺られた小舟が大きく揺れる。そんな小舟の上に仁王立ちになったアルバートが、鉾を持つ海の王を正面から見据えて言った。
「……だが、汝の宮の書記官にこう伝えよ。百万の薔薇より美しい黒薔薇を王宮にも呼ばなかったことを悔い改めよ、とな」
海の王が不思議そうに問う。
「……陸の世界では、薔薇よりも、黒い薔薇が美しいと爾は言うのか」
「勿論。故に余はこの海で一番美しい娘を妃にする。これからはせいぜいこの紙に、真に美しいものを正しく書き記すがよい」
懐から紙の束を掴み出し、海面へと投げつけた。白い紙が宙を舞い、海面へと落ちていく。そして、水を含んだ花びらのようにじわりじわりと海底へ沈んでいく。
「私の国には、私より政に優れた友がいる。そして、私の美しい『庭』は、この心に在り、ここにいる美しい妻と、既に共有している。私の瞳が奪われようが、何一つ困ることはない!」
ガエターノが聞いたら何というだろうか。やはり自分に『交渉』は向いていなかったのだと、心のどこかで痛感しながら、アルバートは背筋を伸ばし、揺れる小舟の上でしかと両足で立ち続ける。
「爾のその矜持、いつまで保つやら」
「矜持を正しく持たぬ者を王とは呼べまい。だが海の王にして我が『義父上』よ。もし、そう呼んでも良いのであれば、私にはもうひとり、挨拶をせねばならぬ者がいる」
「何だ」
アルバートが、海の王を正面から見据えて、今度は静かに、夜の海のように静かな声音で言った。
「我が妻の亡き母君の魂に。……どうか安心なされよ。この命ある限り、私はそなたの娘御に、愛を与え続けることを誓おう」
すると、まるでその言葉に呼応するかのように、アルバートとハミシエを乗せた船の周りの海面が海が、波もないのに静かに泡立った。ハミシエの頬が薔薇色に染まる。
「お母さま……?」
会ったことのない母、200年も前に自分を産み落とし、泡となって海の底へ消えたはずの、美しい海の妃。歓びで海面を染めるように、白い泡がいくつもいくつも浮かび上がる。海の王が瞠目する。
そして、長い、長い沈黙の後、言った。
「……否、否、我以外に、我以外の者が妻の魂に安寧と歓びをもたらすというか。あれは我だけの女だ。今までも、そして、これからもだ」
アルバートが深く息を吐いた。そして、顔を上げて言う。
「……これは、他ならぬ汝こそが、娘の幸せを願わぬような母を、愛したわけではない、という証であろう」
「メーリエ、か」
海面から沸き立つ泡を、信じがたいものを見るような瞳で一瞥し、海の王は何度も、何度も首を振った。
「……永く生きることも出来ぬ人間の男よ、我から愛しい女を奪った末の娘よ。あれは、メーリエは、我だけを愛していればよかった。そして我もまた、そうすればよかったのだ。さすれば我が愛しい女は海の泡に還ることもなかった」
アルバートが、呟く。
「その言葉はきっと、汝の愛しい者全てを、傷つけることであろう。海にも臣下が、民が、そして家族がいるのであれば」
「知ったことではない。我は王である。王の意向は全てに優先する。我にまだ愛しい者がいるなどという戯れ言をほざくな。二度とだ」
アルバートがまなじりを吊り上げる。そして、緑の瞳で鋭く、目の前にいる自分の十倍以上はある海の王の体軀と、蒼い瞳を睨め付けて、言い放った。
「……それならば、我が目を持っていくがいい。この目ならば見ることもできよう。汝を、愛し続けた者達の姿を!!」
「よかろう。その緑の目、我に寄越すがよい!!」
次の瞬間、金の三叉鉾の先端がアルバートの顔を、横薙ぎに薙いだ。眼窩から血が飛び散り、膝から崩れ落ちる。
そして、海の王が勝ち誇るかのように嘲う。
「我が『義理の息子』よ。これが返礼である。爾の願いを、叶えてやろう」
巨大な蒼い腕が、顔面から血を流して気を失ったアルバートの襟首を掴み上げて、海面へと叩きつけた。水音と共に、血で染まった泡立つ海面から、身体が波間へとゆるやかに沈んでいく。そして海の王が振り返る。
「我が末の呪わしき娘よ、さあ、『今こそ』人の姿を与えてやろうぞ。これが爾へ与える、我が愛である!!」
船の生け簀から飛び出して、海に飛び込もうとしたハミシエが、がくり、と、船底に倒れ込んだ。




