第六十一章
零が目を開けると、白い天井が視界に広がった。
消毒液の匂い。
機械の微かな電子音。
――病院。
その認識と同時に、記憶が一気に蘇る。
暗い地下フロア。
カマキリ型の妖魔。
力尽き、倒れていく中林。
「中林!」
反射的に叫び、上半身を起こす。
その勢いで、視界がぐらりと揺れた。
「ちょっ――!」
隣で、椅子ごと傾きかけた人影が慌てて体勢を立て直す。
「……恵子……」
零が呟く。
「もう! びっくりさせないでよ!」
渡辺恵子は、乱れた髪をかき上げながら椅子に座り直し、じっと零を覗き込む。
「っていうかあんた、何回目? 一ヶ月で何回入院すんのよ。医療費で給料消えるわよ?」
軽口。
だが、その目の奥には、明らかに安堵が滲んでいた。
「……中林は?」
零は、その冗談を無視して問いかける。
「中林はどうなってるの?」
声が、少しだけ震えていた。
恵子の表情が、ほんのわずかに引き締まる。
「……落ち着きなさいよ」
一拍、間を置いてからーー
「大丈夫。命に別状はないわ」
零の肩から、力が抜けた。
「腕も……治るらしいし……」
完全に、緊張が解ける。
息が、深く落ちた。
――だが。
「……でも」
その一言で、空気が変わる。
恵子の目が、真っ直ぐに零を射抜く。
「あんたも、わかってるでしょ」
静かな声だった。
だからこそ、重い。
「中林が――限界を超えて異能を使ったの…」
零の脳裏に、あの光景が蘇る。
血を流しながら。
立つことすらできない状態で。
それでも異能を使い――
銃を撃ち続けた。
最後の一発まで。
「……ええ……」
短く、答える。
それしか言えない。
「命は助かった。腕も戻る」
恵子は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「でも――」
そこで、一度だけ視線を落とした。
「異能が、戻るかどうかは……別よ」
病室が、静まり返る。
機械の音だけが、やけに大きく響いた。
「……そう……」
零の声が、沈む。
異能を失う――それは、この部隊にとって“死”と同じだった。
今度は、はっきりと。
「今……どこにいるの?」
「大学附属病院。……宮岡と同じとこ」
「宮岡……」
その名前に、零は目を伏せる。
あいつも――限界まで使って、倒れた。
二人も。
自分の不甲斐なさで…。
(……隊長失格だな)
胸の奥が、鈍く痛む。
「あ、そうだ」
空気を変えるように、恵子が軽く手を叩く。
「宮岡、意識戻ったって」
零が顔を上げる。
「……本当?」
「加藤中隊長から聞いた。たぶん確定」
「……そっかあ……」
息が、少しだけ軽くなる。
「よかった……」
だが。
「……でも……」
恵子の声が、少しだけ弱くなる。
さっきまでとは違う、言いにくそうなトーン。
「これも……言っとくけど」
視線を外したまま、続ける。
「異能の方は……まだわからないの」
沈黙。
「使えるかどうか……」
言葉が、静かに落ちた。
零は、
言葉が、出せなかった。
ただ――
自分の手を、強く握り締めることしかできなかった。
「……あとさ」
恵子は、少しだけ言葉を探すように黙った。
視線を合わせないまま、ぽつりと続ける。
「これ……あんたにも関係ある話なんだけど」
零の心臓が、嫌な音を立てた。
「……何?」
「カマキリの羽根から出てたやつ。あれ、ただの麻薬じゃないらしいのよ」
一瞬、理解が遅れる。
「まだ、解明できてないんだけど。……神経系……っていうか、“異能の回路”にも干渉してる可能性があるって」
零の呼吸が止まる。
地下フロアでの感覚が蘇る。
異能が――
使えなかった。
確かに、“発動しなかった”。
「今はまだ断定できないけど……」
恵子が、ようやく零を見る。
「……あんたの異能も、しばらくは不安定になるかもしれないって……」
沈黙。
機械音だけが、やけに大きく響く。
「……嘘……」
乾いた声が、零の喉から漏れる。
「嘘、でしょ……」
渡辺は、目を合わせず。
答えなかった。
あのとき。
何も起きなかった“空間”。
あの感触のなさが、頭から離れない。
私も?
私も――使えなくなるのか?
指先が、わずかに震える。




