9-12『一頭の羊』
「先生、二人を……ノクスとアルバをお願いします」
その先に続く言葉を、壁際に立っていた敏いノクスは察知した。姉が行ってしまう。背筋を伸ばしても、まだ届かない場所にある姉の顔は、もう覚悟を決めていた。
ノクスの心はざわめいた。姉がどうして自分の命を大事にしてくれないのか、何度も繰り返してきた願いが、また破られてしまう気配があった。
自分が幼く、頼りなく、守られるだけの存在だからなのか。わずかな薬瓶を手に、姉が戦っているあいだに陰に隠れていることだけが、自分の運命なのか。
ノクスは何かを叫びたくて目を見開いたが、喉がつかえて声にならなかった。
幼いノクスとアルバにとって、姉は誇りそのものだった。体調を崩しがちの自分たちを、姉は何日も寝ずに看病してくれた。寄り添って眠りについてくれた夜でさえ、目を覚ませば決まって、姉は先に起きて何らかの作業に精を出していた。狩りに出かけ、獲物を捌き、食事を調える。その姿に疲労の影はなく、声をかければいつでも穏やかな声が返ってきた。怒られたことなんて一度もない。声を荒げる姿だって見たことがない。姉ほど誠実に、前を向き続けている人を知らなかった。姉こそが、理想のすべてだった。
歯がゆさのあまり、その衣服を掴んで引き留めてしまいたかった。
だけど、俺だって一人の男だ――ノクスは送り出すことを選んだ。アルバの手が、固く握りしめられた「男」の拳をそっと包み込んでいた。
悔しさに顔を真っ赤に染めた弟を見つめ、ルカは静かに微笑んだ。それからアルバへ優しく目配せすると、言葉を失っているフッセルルの背後から、一歩前へと踏み出した。
目を合わせることすら忌避していた魔族らは、一斉に顔を背け、あるいは口元を覆った。同じ空気を吸いたくないのだ。ルカは彼らの姿を見ても動じることなく、ただ凛とした佇まいで微笑んでいた。
「一人残らず、兵士たちを追い返してきます。ですから、弟と妹のこと、よろしくお願いします」
ルカはフッセルルに向き直ると、その両手を自分の手で包み込んだ。大きな手だった。多くの皺や傷が刻まれた、これまで数え切れないほどの命を救ってきた手だ。
「私、この診療所が本当に好きでした。先生がいつも『おかえり』って言ってくれたから……私、恥ずかしくて言えなかったんです。だから戻ってきたら、今度こそ『ただいま』って言わせてください」
「っ、お前――」
「いってきます」
ルカの顔には、この緊迫した状況には不釣り合いなほど、どこまでも無垢で、柔らかい笑みが浮かんでいた。ルカが静かに手を引いた瞬間、フッセルルの大きな掌の上には何も残らなかった。この関係さえ終わってしまうような気がして、抗うように前へと手を突き出した。
しかし、その指先が届くよりも早く、ルカは身を翻し、扉の向こうへと駆け抜けていった。
静かに扉が閉まる。
残された大部屋には、ただルカの純粋な言葉の余韻だけが漂っていた。さっきまで彼女を罵っていた魔族たちの間に、冷や水を浴びせられたような、重苦しい沈黙が広がっていく。
フッセルルは自分の手を揉みこむと、目を瞑った。手はとても冷たくなっている。心までも凍えていくようだった。
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煤煙が立ち込める大廊下へ飛び出したルカの前に、一斉に王国軍の白銀の鎧が立ちはだかった。後詰のその数、十数人。
「いたぞ!」
先頭の兵士が叫ぶ。旗が大きく振られ、後列の兵士が空に向かって弓を放った。空を鳴らすための鏑矢が、天へと昇っていく。
鋭い高音がルカの発見を報せた。空に赤い線を引いたその不穏な残響は、遠く、魔王城の各地区にまで届いていた。
音が空へ抜けきった瞬間、はるか上方の城壁に潜んでいた弓兵たちから、ルカを正確に狙った矢が一斉に放たれた。
鋭い風切り音が背筋を撫でる。ルカに迷いはなかった。迫る矢に向かって、あえて素手を突き出した。
鈍い衝撃とともに、鋭利な鉄の矢尻がルカの掌を裂く。皮膚を破り、肉を削ぎ、凄まじい勢いで擦過した矢軸から鮮血が噴き出した。激痛に食いしばった歯が鳴る。しかし、溢れる血も構わず、己の握力だけで激しく回転する矢柄を鷲掴みにした。
そのまま足元に転がっている強弓を拾い上げると、掌を食い破った矢をその弦へとつがえた。
狙いは一点。城壁の上の弓兵だ。
限界まで引き絞られた弦が解放され、耳元で音が弾ける。ルカの手を離れた矢は、凄まじい速度で来た道を逆行し、弓兵の肩へと深く突き刺さる。強弓を手放した兵士は短い悲鳴を上げ、そのまま背面へと倒れた。
直後、背後で口笛が吹かれる。




