9-11『一頭の羊』
空気は熱され、大釜の中にいるようだった。
診療所の最奥にある、治癒師たちの集会用にと作られた大部屋には、天井付近に明かり取りの格子窓があるだけで、人が通れるような窓は一つもない。二箇所の扉は棚と机で封じられ、さらに男たちが体で押さえつけていた。それでも扉の向こうにひしめく王国軍の猛攻で、遮断物ごと体は激しく揺れた。
肉壁となる治癒師や薬師たちの背後には、自力で避難できない重症患者たちが、薄布を敷いただけの床に横たわっている。襲撃が早朝であったため見舞い客はいなかったが、室内には患者と治癒師、薬師のほかに、朝の配達人や医官組合の者など、巻き込まれた者たちの姿もあった。
彼らは襲撃を知るとすぐに重症患者の搬送に取り組み、自らの命を患者と共にする覚悟を決めていた。この大部屋が、最後の砦だった。
正面口は破られ、診療所の内部は兵士たちで溢れかえっている。格子窓の向こうには黒煙が立ち込め、木々の弾ける音と火の粉が見えた。
しかしこの部屋は火が回りにくい造りだったため、外の兵士たちは悠長に、かつ執拗に扉を突き破ろうとしていた。手斧や戦斧が叩きつけられる。人間たちは己の剛腕を競い、笑いあっていた。
木屑が弾け、とうとう戦斧の端が露出する。外の感嘆が漏れ聞こえ、「すぐに殺してやる」という狂声に、床の上の誰かがすすり泣いた。
だが、衝撃が止んだ。何も聴こえなくなったのだ。
訪れた静寂のなか、目を下ろし、両手で棚を押さえつけていた治癒師・フッセルルは、隣で肩を突き立てている治癒師と視線を交わした。
「止んだ、のか」
フッセルルが呟くと、周囲の男たちも腕の力を緩め、外の様子を窺った。衝撃はない。兵士たちは諦めたのだろうか。誰も何も言わず、扉の向こうに耳を澄ませる全員の胸に、わずかな希望が生じた。
直後、激しく扉が叩かれた。
「――先生!」
フッセルルは棚を押し退け、扉の閂を外した。あまりの勢いに、男たちも指示を待たずに手を貸して退いた。
飛び込んできたのは、肩で息をするルカだった。その背後にはノクスとアルバの姿があり、さらに後ろの通路には、たった今廊下に詰め寄せていた兵士たちを蹴散らしてきた証である、数本の剣が捨て置かれていた。どれも刃が欠け、根元から折れているものもある。戦いの激しさが想像できるが、ルカはフッセルルを見つけると柔く微笑んだ。
「ルカ……! なんで逃げなかった!」
フッセルルはルカに続いて入ってきたノクスとアルバを誰もいない壁際に寄せた。なぜだと繰り返しながらも、ノクスの肩を叩いて労い、アルバの頭を撫でて落ち着かせる。ルカの体に細かな傷を見つけると、持ち合わせの薬を取り出して手早く処置を施した。
「今ならば逃げられます、先生」
「駄目だ。足を負傷している者がいる。少なくともここにいる人数では、一度に全員を運び出すことはできない」
「部屋の外にいたやつらはお姉ちゃんが全部倒したよ。俺もちょっと頑張った」
ノクスが胸を張った。その手には薬瓶が握られている。皮膚の縫合する際に用いる、透明な麻酔液だった。途中で調剤室に立ち寄り、何かの役に立つかと持ち出してきたものらしかった。
薬瓶を受け取り「よくやった」と褒めると、少年らしい人なつこい笑みを浮かべた。
「あのね、みんな気絶しているだけだから、少ししたら起きちゃう……」
アルバが眉をひそめて言ったが、その体は震えていなかった。フッセルルは少女の小さな肩に大きな手を置き、その勇敢さに頷いてみせた。
「俺たちは正面玄関に障壁を築いていたんだが、火の回りが速くてな……患者を背負って逃げようとした時には、すでに退路を断たれていた」
「退路、とは」
「この先の渡り廊下だ。城壁に抜けられる」
「そこさえ抜けられればいいんですね? 私が――」
ルカの毅然とした声を遮るように、部屋の奥から患者たちの忌々しげな怒号が上がった。
「そいつらを追い出せ!」
「先生……なんで人間なんかと……」
「だめよ! 殺さなくちゃ! こっちが殺されかねないわよ!」
「お前たちが――お前たち人間がここにいるから、王国軍が攻めてきたんだ! そうなんだろう!?」
「消えてくれよ! なぁ!」
ノクスとアルバの体が、浴びせられた悪意の前に硬直する。ルカはすかさず二人の手を掴んだ。
「――黙れ!」
大部屋の空気を切り裂いたのは、フッセルルの怒声だった。命を救い続ける職にある彼が、剥き出しの怒りを同胞たちへぶつけていた。
「この子らを見ろ! 逃げることだってできたんだぞ! それなのに、俺たち魔族を守るために戻ってきた。こんな人間の子供が、命を懸けてだぞ!」
フッセルルの肩が激しく上下している。すぐ後ろに立つルカは、彼が片腕を突き出し、自分の背中に庇おうとする姿を間近に見ていた。
こうして庇われることに、もはや驚かなくなっている自分に気づく。そのことを伝えたなら、彼はどんな顔をするだろう。ルカの胸の奥底にいつも漂っていた暗い靄のようなものが、今、確かな温かさによって押し流されていくのを感じていた。
かけるべき言葉はもう決まっていた。
あらかじめ心にあった気持ちを、彼に手渡す時だった。
ルカは、苛立ちと興奮で震えるフッセルルの腕にそっと触れて、恩人を振り向かせた。




