8-22『自愛』
騒ぎのあと、ノクスとアルバは再び診療所へ戻ることになった。
荒らされた部屋は文官長の指示ですでに整えられていたが、「もし同じ部屋で眠るのが辛ければ、別室を用意しよう」とフッセルルが二人の前に膝をついた。
二人は繋いだ手を一度だけ強く握りしめ、「大丈夫」と静かに答えた。フッセルルはその瞳の奥に、我慢や怯えが潜んでいないかを慎重に見極める。それから、ふんと鼻を鳴らすと、先ほどの魔王の仕草をなぞるように、二人の頭をぶっきらぼうに撫でた。
一方、シェリングは自身の負傷も双子によるものだったと告白し、依然として暗がりに身を置いていた。明日改めて聴取の時間を設けるという文官長の言葉に、彼は短く頷く。
ルカは今すぐにでも彼の傍へ寄り、声をかけたかった。けれど、互いの立場を思えば、今の彼に必要なのは言葉ではなく「時間」なのだと悟った。今、何を伝えてもそれは後付けの慰めにしかならない。自分もそう感じるように、きっと彼も同じ気持ちだと思った。
広場を去ろうとしたシェリングの背中が、一瞬だけ振り返った。
目が合う――唇は動かない。その視線に滲む感情の正体を、ルカはまだ一欠片も理解できていない。けれど、これからたくさんの時間をかけて知っていくことはできる。ルカはそう、自分に言い聞かせた。
「何故あんなことをしたのです」
不意に投げかけられた声。面談室で聞いたあの辛辣な響きとは、明らかに違っていた。補佐官は、まるで果てのない砂海を彷徨い、極限の渇望に喉を焼かれているかのような声を出し、暗がりに立っていた。
ルカは補佐官を見つめていた。感情の浮かばない、静かな色の目で。残る涙が光って、補佐官にはこの世で唯一の、清冽な潤いのように映っていた。
「……何のことですか」
「髪ですよ」
補佐官は石畳に散る毛髪を見下ろした。
ルカは答えを探そうとはしなかった。何故切ったのかと問われても、あの瞬間の自分の心に肉薄することはできないからだ。
「どうしてそこまで耐えるのですか、……何故、……そんな顔で笑っていられるのです……!」
ルカの沈黙に己の心の内を覗き込まれていると感じたのか、補佐官の言葉は次第に鋭く、尖っていく。
「どうして人間の代表面をして、善人を演じているのかと聞いているんです!」
「演じているつもりは……ありません」
ルカは間を置いて俯き、それから少し離れた場所で自分たちを案じる優しい人たちを眺めた。
(……この人は私を嫌っている。けど――)
その嫌悪は、彼自身を苦境に追い込んでいるようにも見えた。
彼が何を望み、何を恐れているのかはわからない。あの双子も、シェリングも、心の深淵に何を閉じ込めているのか、本当のところは誰にもわからないのだ。わかるのは、自分の心に積もった、みすぼらしい感情だけだ。
いつも一歩遅くて、肝心なところで誰かに助けられてばかりの、情けない自分。髪を捨てたことだって、そうする以外に道を見つけられなかった、ただの無様な足掻きに過ぎない。
「私は私です……でも、もしそれが貴方におかしいと思えるなら」
ルカは静かに、けれど逃げずに補佐官の眼差しを受け止めた。
「貴方たちの前では、それしか、許されていなかったからだと思います」
責めるような意図は、微塵もなかった。
ただ、魔族の国という異郷で、人間として、姉として、今日まで命を繋ぐために選んできた唯一の形。それが自分だ。
ルカは静かに会釈して、家族の元へと歩き出した。
石畳には、短く切られた髪が散っていた。
風が吹き抜け、ふっと瞬きをした瞬間、そこにはもう、何ひとつ残っていなかった。
「……なに話してたの」
「なんでもないよ」
追いついてきたルカの腕を、ノクスがひっ掴むようにして取った。その反対側では、アルバが今にも膝を折りそうなほど、うとうとと舟を漕いでいる。極限の興奮が去り、急激な眠気が幼い体を襲っているようだった。
兄として妹の脇を支えて歩くノクスの姿は頼もしく、ルカはアルバを抱え上げようと背後に回った。だが、ノクスはルカの腕を掴んだまま、頑として離そうとしなかった。
「……もっと、自分を大切にしてよ」
それは、怒りの混じった懇願だった。
ノクスの視線が、ルカの瞳から、その頬にかかる不揃いな髪へと移る。無惨に切り刻まれた名残を、ノクスはまるで自分自身の身を裂かれたかのような、痛切な面持ちで見つめていた。
「お願いだよ……お願いだから、もうあんなこと、しないでよ」
ルカは弾かれたように首を振った。
「……ごめんね。もっと、大事にするから……だから……怒らないで」
そう言いながら、また自分の方が泣きそうになっているルカを見て、ノクスの口元が歪んだ。
ノクスはたまらず姉に抱きつき、その胸に顔を埋めて叫んだ。
「怒ってない……っ、ううん、怒ってるけど! 怒ってるけど、そうじゃないんだよ……っ」
くぐもった声が、ルカの服の中に吸い込まれていく。
責めたいわけじゃない。ただ、奪われた髪の短さが、ルカが背負った痛みの深さを物語っているようで、それがたまらなく怖くて、悲しかった。
二人はしばらくの間、重なる温もりを確かめるように動けずにいた。




