8-21『自愛』
「……よかった……本当に、よかった……」
背後から聞こえたその声は、ノクスの心に鋭い棘となって刺さった。頭にあるのは、闇の中に消えていく二つの背中のことだけだった。
妹を助けたかった。守ってやりたかった。けれど、結局自分はただ拘束され、悲鳴を上げるアルバの隣でもがいていただけだ。痛みを代わってやることも、あの嘲笑を止めることもできなかった。
結集させたはずの決意は空回りし、ただ無力さだけが沈殿している。そんな泥のような自己嫌悪に浸る背中に、ルカの柔らかな温もりが重なった。けれど今のノクスにとって、その熱はあまりに眩しすぎて、素直に受け入れることなど到底できなかった。
「……っ、何がだよ……!」
堰を切ったように言葉が漏れる。ノクスは力任せに体を捻り、自分を繋ぎ止める腕を振りほどくと、姉の顔を真正面から見据えた。
「何も良かったことなんて!……っぁ、……え……?」
雪崩を打とうとしていた怒号が、唐突に霧散した。まるで軽い眩暈を覚えたかのようにノクスは瞬きを繰り返し、強張っていた体をすとんと石畳の上に落ち着けた。
目の前にあるのは、姉の、涙でぐちゃぐちゃになった顔だった。けれど、その奥にある瞳が、これ以上ないほど穏やかに凪いでいる。
「……み、え、てる――」
ノクスは息を呑んだ。
姉の瞳に、自分の情けない顔が映っている。自分を映すその「光」が、あまりに優しく、あまりに眩しかった。
「見えている」という事実は、驚きを通り越し、胸の内にあったすべての闇を一瞬で焼き払ってしまった。ノクスは声も出せずに、ただどうする事も出来ず、立ち上がった。
不意に、微かな震えを帯びた声が空気を揺らした。
「お姉ちゃん……、お兄ちゃん……」
おぼつかない足取りで、アルバがこちらへ歩み寄ってくる。その瞳はもう虚空を彷徨ってはおらず、確かな意志を宿していた。
両腕を前に突き出し、今にも転びそうなほど足元をふらつかせながら、必死に家族を求めている。ノクスは妹の名を呼ぶ前に走り出していた。
倒れ込む寸前のアルバを、その小さな体ごと折れんばかりに抱きとめる。
アルバの指先が、ノクスの背中の服をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で掴んだ。耐えて、耐えて、張り裂けそうなほど膨らんでいた孤独と恐怖が、ようやく涙となって溢れ出した。
「ごめん、ごめんな……こわかったよな……ごめん、アルバ、ごめんな……」
祈るように繰り返すノクスの声が、夜の広場に溶けていく。
ルカは二人を追いかけようと立ち上がろうとしたが、膝が笑って力が入らなかった。
何度か石畳に手をついて抗おうとしたものの、やがて諦めたように、ふっと肩の力を抜く。無理に立ち上がるのをやめ、ルカはその場に腰を下ろしたまま、揃えた膝の上にそっと両手を重ねた。
指先はまだ小刻みに震えていたが、不思議と心は穏やかだった。
今は、駆け寄ることさえもどかしい。
ずっと、ずっと夢にまで見た光景だった。もう二度と戻らないかもしれないと、怖くて、考えたくなくて、必死に目を逸らしていたものが、今、青白い月の光に照らされている。
声を上げて泣くアルバと、その背をさするノクス。
あまりに美しくて、二人だけで良くて――ルカは特等席で「幸福」を眺めることを選んだ。何もできなかった自分が入る場所なんて、残っていなくていいのだと、笑っていた。
そこへ、ふわりと体が浮き上がる感覚がした。
驚いて目を見開くと、腰には逞しい腕が回されていた。
魔王が、ルカの体を軽々と持ち上げていた。
「……ぁ」
戸惑い、思わずその首にしがみついても、魔王は何も言わない。ただ、ルカが「特等席」だと思い込んでいた場所から彼女を引き剥がし、迷いのない足取りで弟妹の元へと運んでいく。
ルカの目は魔王の横顔へ注がれていた。
ノクスとアルバが、初めて見る男の姿に緊張した面差しを上げる。射貫くような魔王の視線が二人を捉えた。
ノクスはその冷徹な重圧に射すくめられそうになりながらも、決して瞳を逸らさず、逃げ場のない視界の中で真っ向から見返した。そうして次に渇いた口を開いたノクスは、もはや庇われるだけの子供ではなかった。彼は守るべき家族を背負った「男」の顔で、その場に深く根を張るように、一歩も引かずに告げた。
「……お姉ちゃんを助けてくれて、ありがとう」
魔王はそれを聞き、鼻で短く笑うと、ルカを二人の傍にそっと降ろした。
それから、ノクスとアルバの頭を、大きな掌で順番に、力強く撫でる。
「……似た者兄弟だな」
それだけを低く囁くと、魔王は未練もなく背を向け、闇の中へと消えていった。




