8-16『自愛』
「魔王」とは、単なる恐怖の別名ではない。
人間が抱く非情な怪物という虚像は、実態を知れば崩れ去る。
彼は日々、合議の場に臨んで政務を裁決し、兵員の訓練もたびたび刷新している。時に場当たり的に兵を指名して手合わせを命じ、補佐官が介入するまでの時間を、ただ純粋に楽しむこともあった。
この若き指導者が同族から崇敬と親愛を受ける理由は、単なる個の武勇に留まらない。その本質は、困窮する民への「救済」と「生活の保障」にある。王国軍によって郷里を追われ、生存の基盤を喪失した同族に対し、彼は不落の要塞たる城を安住の地として開放した。
いかなる苦境にあっても法規を厳守し、城内を区画して住居を整え、食料を公平に分配する。この盤石な統治体制こそが、魔族という種の存続を支える根幹であり、彼こそがその絶対的な守護者であった。
だからこそ、法を犯した者への処罰は徹底している。
それが子供であっても、例外はない。
魔王はしばらくその場に足を止め、双子の覇気の消え失せた目を眺めていた。
まったく同じ顔をした子供たちは、支えを失った腰を石畳に落とし、立っていることすら叶わなくなっている。乱れた髪がひとかたまり、汗ばんだ額に垂れる。青白い顔はようやく動き出した。
「なんで……」
「なんで動けないの?」
目線は必死に自分の足に向けられている。動けと、癇癪を起こして石畳を叩くが、まるで頑丈に釘留めされているようだった。
双子は、自分たちがすでに「特性」を解除していることにさえ気づいていなかった。ノクスとアルバの体がゆっくりと降下し、抱きしめていたルカの腕に確かな生身の重みを戻した。
「ノクス、アルバ…!」
唾液で膨らんだ口枷を剥ぎ取ると、二人は大きく息を吸った。緩まった掛け布から手足が這い出てくる。荒い呼吸を繰り返す二人の体を、喉に詰まったものを逃がすように、素早くうつ伏せへと転がした。
荒い息が砂礫を吹き飛ばし、泡立った唾液が黒い染みとなって、石にまだらの模様を描く。
「……もう、だいじょうぶ……おわったの……おねがい、私をおいていかないで……」
体に触れていなければ、どこか遠くへ連れていかれてしまうような気がしていた。大丈夫、そう繰り返した言葉の数々が、脆く崩れかけた自分を繋ぎ止めるための、唯一の糸だった。それさえ途切れれば、一瞬で心が潰されてしまう、そんな予感に震えていた。
ぽっかりと開いた口が、唾液を吐き切り、やっと空になった。二人はおそろしいほど静かになった。時が長く感じられる。唾液で濡れた顎の上を、すぅと細い息が通った。そのかすかな音が届いた――届いていた。瞼を開けて、恐る恐るアルバの口元に耳を寄せる。
呼気が触れる―――あぁ――――
一瞬、ほんの一瞬、ルカは自分をかたく抱き締めた。二人を抱き締めてしまえば、全部が真っ白になってしまう。二人を壊してしまわないように、地面の上に丸くなり、額を砂礫に押しつけたまま零した。連れ出し、病を癒やし、そして涙を拭ってくれた幾つもの優しさに、ありったけの感謝を。
めくれ上がった石畳の上を震える手が伸びていく。小さな手を砕けんばかりに握りしめて、女は何よりも大切な者たちの間で鼻をすする。魔王は静かにその光景を見下ろしていた。
ルカが顔をあげただけで、泣き濡れた熱い吐息がもれ出た。慈しみに満ちた眼差しで二人を包み込むと、寝かしつける母親のような手つきで、弟の額にそっと口づけを落とした。その行為は、暗闇の底を静かに照らす、一欠片の光のようだった。心の震えを吐き出しきった女の動きを、魔王はいつまでも心の中に引き入れておこうとした。
それから、魔王が一歩を踏み出した。座り込んだままの幼い瞳が、得体の知れない存在を前に強張る。まだ数年しか生きていないその瞳は、なぜ自分たちがこれほどまでに追い詰められ、怯えなければならないのかと、声なき悲鳴を上げていた。
わずかな接近が、双子の限界を超えさせた。肺の底から絞り出されたのは、言葉を成さない、生への本能的な叫びだった。
「陛下!」
広場に駆け込んできた補佐官と文官長が、魔王の前で短く頭を下げた。状況を鑑みた、形式を削ぎ落した礼だけをすると、二人は即座に視線を巡らせる。石畳に座り込む双子。そして魔王の背後で身を寄せ合う三人の人間。魔王は両者の間に立っているが、無関心ではなく、鋭く相手を睨んでいた。双子の――魔族を。そうする理由があるのだろうと二人はすぐにくみ取る。ただその事は、ふつうの住民には気づかれて欲しくないことだった。
補佐官はまず隊列を組む衛兵に指示を飛ばした。集まりかけていた住民たちを、家屋へと押し返させる。形成されかけていた人だかりは、解散を告げる兵士に押されて散り始めた。




