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きみが死なない、その朝まで  作者: 夜行(やこう)
第七章

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7-17『花殻を撫でる』

ルカは後ろへすさった。破砕された床と巻き上がった粉塵が二人の間に漂い、その煙幕のおさまらぬうちにもう一閃薙ぎ払われ、ルカは目の下を通り過ぎた剣筋をかろうじて避けた。


「剣を取れ! お前が嬲り殺されるところをみれば不安も解ける。聴こえるか、お前の死を望む声が!」


男は最初から返答など求めていない。顔は笑っていても目は氷のように冷たかった。ルカは次の一撃に備えて身を屈めた。声の方へ目が泳いだ瞬間、武官長は刺突の体勢で駆け込んできた。予想以上の素早さに、受ける前からルカの体はのけ反った。大剣を振る速度を抑えて、わざと鈍足を装っていたのだ。


紙一重で躱したが、脚を払われて仰向けざまに倒れた。素早く起き上がるも、足首を掴まれて石の上を引きずられる。蹴りたててみても迫る勢いを削ぐことはできない。

放り出されたルカの体は石畳の上を転がって広場の端へ追い出された。壁となる兵士たちの声が近づき、顔をあげたルカの視界の端でめくれた唇から歯を剥き出しにして怒る顔が並んで見えた。


花はまだ手の中にある。


ルカは体を沈めたまま、何もない空間へ手を突き出した。指を握り込めば、柄に行きつくと疑いもしない。

向かい合った瞬間、悪寒が背を走った。男の姿がはっきりと見えている。ルカは自覚していた。こうしてたった一人に集中している時は、自分の気持ちが槍ぶすまめいた形になっている。気持ちが「男の命」に剣先を向けている。それでは「意味」がないのだ。


広場は静まり返った。二人は構えたまま、重心を低くして両腕を自然に下ろしていた。そのうちに、鼓動ばかりを拾う耳に砂利を蹴りたつ一歩が大きく響いた。


先に動いたのはルカだ。

最初の一合は武官長が受けた。女の体のように軽いが、剣より迸った衝撃が腕を痺れさせる。押し返そうと上腕に込めた力が、予想以上に押し返せずに踏みとどまった。

一歩、二歩、武官長の足が石畳を沈み込ませながら下がっていく。だが、咆哮と共に弾き返した。力の差は明らかだった。体格が違いすぎるのだ。


だがルカは下がりながら相手を見ていた。身軽さならば誰にも負けやしない。男の重心の動き方、足の踏み込み、腕の上がり方を読む。

走り込み、直前で身を滑らせる。武官長の花に手が届く距離に入った。


武官長はにっと歯を見せた。


「舐める、なァ!」


特性が発動した。


剣閃と共に生み出された突風が衝撃波となってルカを襲う。空気が圧縮され、目に見えない壁に体ごと吹き飛ばされる。皮膚が、裂ける、と思った瞬間、横から別の力が来た。


衝撃波が、搔き消えた。

ルカは体勢を立て直すことに集中し、閃光の方角を振り返ることはなかった。広場の端で、誰かが息を呑んだ。何もない空中を、光が一瞬だけ走っていた。見知った者には、それが陛下の剣閃だとわかった。擁壁の上の人影は、もうそこにはなかった。

ルカは地面を蹴った。

武官長の懐に飛び込む。予想外の角度に武官長がわずかに反応を遅らせた。その隙に、ルカは手首を返した。


白い花びらが散った。




広場の沈黙を破ったのは武官長の笑い声だった。腹の底から愉快で仕方がないという、豪快な笑い方だった。

周囲がざわめく。武官長の胸元の花が散っている。彼が負けたのだ。人間に、人間の女に。その事実を、集う魔族たちは処理しきれずにいる。


当人ばかりが重苦しい沈黙や動揺など訳知らず、大剣を石畳に突き刺すと、腰を反らし、大きく伸びをした。彼は武官を束ねる武勇にも人徳にも優れた男だ。誰がなんと言おうと大抵の事は覆し、大剣で叩き潰してしまう。開け放ちの口から次に何が出るか固唾を呑む全員が、心の底で結果を否定してほしいと思っていることもわかっていた。


武官長はルカに手を伸ばし、へたり込んだままの体を起こした。大きな手に引き上げられて、ルカは肩が外れるかと思った。


「見事だ!」

「…………あ、りがとう、ございます」


礼を言うべきなのかはわからない。ルカの衣服は縦に裂けている。衝撃波を受けた皮膚が、火傷のように白く爛れていた。


「本気でやり、本気でやられたのだ。お主、わかっているのか?」


武官長はルカをもう一度見た。上から下まで、改めて確かめるような目だった。それからまだ咲いているルカの花を帯から引き抜くと、耳の上に挿し込んだ。急激な光と高温にさらされて焼け焦げ、花弁は黒く変色していた。武官長は花を指先でなぞった。ルカの耳元で、かさりと、乾いた音が響く。


「お主の願いはなんだ」

「……私の弟妹の身の安全です」

「自分より兄弟が大事か」

「この世で家族を守らず何を守るというのです」

「良い答えだ。だがお主は頭が弱いとみえる。わしも大概そう言われるが、お主には負けるぞ」


ルカは口を結ぶ。


「ヴェルクサルトの子供の頃を見ているようだ」


知らない名前だった。誰のことか、ルカにはわからなかった。「聞け」と武官長は続けた。


「お主をわしの娘とする、いやとは言わせん」

「…………」


ルカは目を瞬いた。言葉の意味を理解しようとしたが、追いつかなかった。娘、と口の中で繰り返してみても、それが自分に向けられた言葉だとは到底思えなかった。

武官長は至極真面目な顔で周囲を見渡した。


「我、ヴァルター・ゼーリヒ・クラーレ・グリュックスゾーンが宣言する! この瞬間をもって、この者、人間の女ルカを、我が娘として迎える! 名を、ルカ・ヴァルテラ・クラーレ・グリュックスゾーン。異議ある者は今この場で申し立てよ。さもなくば、今後いかなる時も永久に口を閉ざせ!」


この人は何といった――


名前を与えられたのだと気づいた瞬間、その意味が雪崩のように押し寄せた。城に居られる。あの子たちの治療が続けられる。武官長の娘となれば、人間である自分を断罪することは誰にもできない。ルカは言葉を失った。


「遅い」と、清々しい笑みを浮かべた男は、黒い花をみて頷く。


「魔族に似合いの花となった」



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