7-12『花殻を撫でる』
わかっていた。それでも、目の前に兵士たちが倒れていた。
報告の怒声が飛び交う中、ルカは指笛を吹いた。鋭く高い音が夜の空気を切り裂く。
獣たちが、押さえ込んでいた兵士から顔をあげた。一斉に動きを止めて、空を見る。頭が、ゆっくりとルカを捉え、もの言わず立つ姿に血の滴る牙をみせる。
外套も装備も持たないルカのもとへ、まっすぐに剣が落ちてきた。勇者の剣は、ルカを選んでいた。広げた指先におさまった柄を、縦に振る。くいしばった口からぎりと音が鳴る。
獣は即座に剣を避け、身を引いては後ろ足と長い尻尾でルカを引っかけ、ニヤニヤと笑うばかりだった。だが、動き方に規則があった。ルカはそれを見切って、一頭ずつ居住区から引き離した。人のいない場所に誘導しながら倒していく。
技術区と庭園区をつなぐ長廊下まで獣を引き付けた時、最後の一頭が仕留められた。
血が飛んだ。
通路の左右にはねじれ角をもつ牡羊の彫像があった。白い石でできた大きな像だ。
血は像の足元から角にかけてびしゃりとかかった。角の先端から赤い血が滴り落ちていく。
ルカは剣を下ろした。荒い息を整えながら、彫像を見上げる。目を注ぐうちに、同じ角を持つ人の顔が浮かんだ。
「人間が、よくも!」
怒鳴り声がすぐそばで弾ける。
狩りから戻ってきた鉄騎隊だ。複数の兵士が廊下に駆け込んできた。既に剣を抜いている者もいた。
「我らの心を穢しおった!」
「剣を抜いている! 俺たちを殺す気なんだろう!」
「どうやって城に入り込んで…!」
ルカはすぐに剣を石畳へ滑らせ、両手を開いてみせた。これで伝わるはずだ、と思いながら。
「私は貴方たちを傷つけません。獣が入り込んでいたから剣を——」
「黙れッ!」
誰かが体当たりしてきた。
ルカは壁面に叩きつけられ背中や手首を捻ったが、そのまま駆け出した。追声が遠ざかる。心臓が耳の奥で暴れていた。聞こえるのは自分の足音だけだった。
走りながら、頭の中で言葉がぐるぐると回る。診療所に戻っていいのか。ノクスとアルバを連れて逃げるべきか。でもどこへ。どこへ行けるというのだろう。
個室に戻り、へたり込んだ。床を見つめていたルカは寝台の上に動くものがあることに気づいていなかった。
返り血のついた手で握りこぶしをつくって、それからまた指先を開いた。ようやく床の木目までみえるようになると、聴力も戻ってきた。息遣いがある。どこから、頭の少し上、寝台だ。
ノクスは体を起こして、暗がりの中で座っていた。アルバは今まさに目を擦りながら身を起こしている。二人とも目が見えず、だがそれが暗闇のせいだと思っているのだろう。音で状況を把握しようと腕を伸ばしたり、あくびをしている。ルカの歯はかちかちと鳴っていた。二人の顔がルカの方を向いた。
ルカは一歩踏み出した。
服が汚れていた。獣の血が袖についていた。腕を広げかけて、止まった。抱きしめたかったが、汚れたまま触れることが躊躇われた。
迷っているのが伝わったのかもしれなかった。
アルバが先に動いた。寝台から身を乗り出して、ルカの腕を掴んだ。縁がわからず滑り落ちそうになるアルバを、とっさに引き寄せた。触れた体温に、頭の中でうずまいていたものが溶かされていく。片腕でノクスも抱き寄せて、ひたすらに体をたぐりよせる。
「お、おねえちゃん……ん、んぅ、おかえり、なさい」
アルバが言った。肩の隙間から息をたくさん吸い込んで、それから首筋に頬を寄せてくる。
「おかえり、おしごとながくかかったね」
ノクスが言った。
ルカは息を詰めたが、かろうじて「おしごと」とノクスの言葉をなぞった。
アルバが続けた。「さかばに行ってたんでしょう? あのこわいおじちゃんたちのとこ」
二人はまだ王国での日々の中に生きていた。怖い男たちがたむろする酒場で、ルカが遅くまで働いていた頃の話をしているのだ。あの頃の言葉で、あの頃のまま、二人はルカを迎えていた。
ただいまと言うべきだった。わかっているのに、涙が目を溺れさせ、ルカは二人に気取られぬように声を押し殺して泣いた。
アルバの背中は小さくて、細くて、柔らかくて、あたたかい。ノクスはこんなにもしっかりと背中を抱き返してくれる。二人ともここにいる。
「おしごと、たいへんだったの?」
「……うぅん」否定でも肯定でもない半端なものが漏れる。
声が少し割れたことに二人は気づいていたのかもしれない。ただ幼い「だいじょうぶだよ」という声が、やさしく包んでいた。
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