7-8『花殻を撫でる』
その人が訪ねてきたのは、ルカがようやく診療所を離れ、着替えを済ませて浴室へ向かおうとしていた矢先のことだった。
返事をすると扉が細く開くが、完全には開き切らずに代わりに黒い外套が姿を見せた。銀色の髪が胸元に流れているが、耳の向きからして壁の方を見つめて立っている。ルカの居室を訪ねてきたのはこれで二度目だったが、魔王はあの時と同じように敷居の外に立ったままだ。
「時間はあるか」
「あります」
「少し話をしても」
「はい」
ルカの目線は外套の下の腕を探していた。あの日、鉤爪が深く突き刺さった腕の具合を確かめたかったのだ。
だが、これまで選んでしまったような一方的な手段は避けなければとも思った。例えば外套を勝手にめくり、体に触れることだ。頭では強く心配しているものの、そんな事をしていい相手ではない。また、気持ちを一方的に吐きつくすだけでなく、相手の話も聞かなければならない。相手は弟妹ではないのだ。と、そこまで考えて、並んだ言葉の幼稚さに下唇を噛む。生きてきた時間の長さと、これまでの成果の乏しさを考えると反省ばかりだ。徐々に目線が下がって口角も下がる。
しかしそんな時でも扉に隔てられていたおかげで、まだ二人の間には仄暗い輝きがあった。まるで曇り空越しにみる月明りだ。彼は寡黙だが、逢いに来ることを選んでくれたのだ。まだそこにいてくれている。
顔が見えなくてよかったと安堵する。顔を落ち着け、心を落ち着けて、まだ魔王の前で失態は犯していないと頷く。ならばとルカは一つの勇気を振り絞った。
「食事は済ませましたか」
魔王は、たっぷりと間を置いて答えた。
「……まだだが」
「ではご一緒にどうですか」
「………………晩餐の準備させよう」
寸前に、彼が細く息を吸いこんだのはやはり拒絶だったのだろうか。それを問い直す勇気はなかった。
ルカが関わっていたのは「晩餐」という言葉を人を揶揄う為に使う男たちばかりだった。短剣の痕が複数刻まれた机を連ね、丸椅子を左右に添える。豪華な燭台は蝋燭を乱雑に突き立てた塩壷で代用し、食事の代わりに酒瓶とつまみを置く。それが「豪華な晩餐」なのだと今日まで思っていた。要するに酒盛りだ。
荒くれ者のそばにいれば、ルカは無垢で、かわいそうで、かわいい女だった。無論こうしたルカの無知さを男たちは半ば笑いものにして、あいだに置いていたことをルカは知らない。
母が存命であった時でさえ、穀物と果物だけで充分満たされていたのに、魔王の用意した晩餐は贅の極みといったものだった。白い食卓は長細く、どこにも継ぎはぎはない。備え付けられている椅子は背もたれが高く尖がっている。何より料理の豪勢なことといったらなかった。城全体が黒を基調とした落ち着いた色合いだが、目の前には花畑が用意されている。弟妹のために食事を作っていた頃、ルカは自分の分を節約するためにそこらの草を食べていた。ここにある草は艶から違うのだ。
視線を感じて、はしたなく開けていた口を閉じる。見られている。ひどくどきまぎしながら顔を伏せ、瞬きしてからそれとなく視線をあげた。
明らかに当初の目的とは別のものに気を取られていたことを恥じるも、魔王はまったくいつもの調子で食事をしていた。惚けている顔を見はしたが、何も言うつもりはないらしい。どうやら魔族でも食事中に話す習慣はないようだった。
匙を口に運び、美味しい…などと浸った後、ちらりと魔王の手を盗み見た。
手袋をしている。
「くっ」
それは考えていなかった、とルカは下唇を噛んだ。腕を確かめることができればと食事に誘ったというのに、自分の浅はかさを恨む。また魔王の視線がかすめたので、ルカは顔を伏せようとして、今度はそうしなかった。
目を合わせてにこりとしてみる。試みは失敗したが、あとはもう正攻法で行くしかない。腹をくくった女の笑顔に、魔王はかすかに首を傾げた。が、やはり不快といった様子でも問うほどでもないようだ。あとで少し話す時間をもらわなくては、ルカはそう思ってから気づいた。
こうして共に食事をしていても、沈黙の中に苦痛はひと匙も感じられない。それは何故なのだろうかと考えるが、存外にすぐ答えに辿り着いた。魔王は決して感情的にならないからだ。精神的に成熟しているから、そばにいると深々と落ち着いてしまうのだ。
これは自分の的外れな分析だろうか。ルカの心もとない、隙間だらけの心に、あたたかさが灯っている。




