7-5『花殻を撫でる』
容態の確認や、寝たきりの患者の体位変換などで夜間の巡回をおこなっていた治癒師の一人が、個室の並ぶ廊下でふいに聴こえた音色に仰天して足を止めた。
聞き間違いだと念じながら耳を澄ませると、やはり女が歌っている。
たまらず医官室に駆け込み、不気味な歌声を聴いたと同僚に訴えた。同じく夜間務めの治癒師の男は、呆れはしなかったが「そうか」と目を合わさずに返した。だが同僚は机に両手を突き出して「疑うんですか!?」と身を乗り出したので、すでに勝敗は明白ということで男は巡回の続きを代わることになった。
男は暗闇を怖いと思ったことはなく、友人に脅かされてもくすぐられても動じない性質だったので、本当に何かいたとしても素性を問いただしてやろうと思っていた。
角を曲がる。声を聴いたという場所だ。心の奥の方で風の噴出する窓でもあるのだろうと思っていたが、どうやら施錠はしっかりされている。なのに廊下は生温かい風がこもった感じがあった。およそ闇、手燭の照らせない場所がないようにどんな方向にも腕を向ける。
結局何も見つけられなかったので、忙しさに反してこんなところで壁の染みに顔を見出そうと時間を浪費する空しさに気づく。もはや徒労を感じさせる同僚の企てを疑い、がっくりと肩を落とした。そして首の裏にぞくりと寒気が走ったのはその時だった。
「………へ?」
それは願望がみせた影だったのかも知れない。廊下の奥に光の球がぼんやりと浮かび上がり、ゆっくりと動いている。単なる角灯の灯であったのだが、光のそばに黒い影が二つ立っていたことが不気味さを引き立てていた。治癒師が驚いて固まると、影は顔を寄せあい、なにかひそめて話し合っているような動きをした。そしてこちらに近づいてくる。全身真っ黒で、肌も何も見えないのだ。顔があるべき場所にこの世の一切をそそぎこんだような闇があった。すすり泣く声がどこからともなく聴こえ、それは女の鼻歌にも似ている。
医官室に青白い顔をした治癒師が駆け込んだのはそのあとのことだ。がしゃんと机を腿で押し込み、紙束が散る。驚いた同僚が叫んだので、その声で今度は男が驚いた。
「み、見たんですか?!」
「あれは、女だ。………そうだ! あそこの個室、何年か前に日差しにあたれば怪我も治るって言い張ってた女が、長雨に降られて眠り風になっただろ?!」
「ね、眠り風? そんな人いたような……それで?」
「だからその患者が夜になると必ず明日の天気を晴れに……は? お前なんでそんなに嬉しそうな顔をしてるんだ」
「だって……本当に見たんですか?」
同僚はまるで狂気と興奮の渦の中にある。既に頬は緩み、何か一言でも言えば笑いものにされそうだった。治癒師の男は驚きが怒りに転化して「疑うのか!?」と言い返した。二人は一瞬険悪になるが、明日にはまた別の事で盛り上がる。いつものことである。
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「……私が入っても構わないのですか?」
棚が三方の壁を埋めていて、何百という薬瓶と獣皮紙の本が平置きされている。机の上には書き物が山積みになっていて、どこが机の端であるのか判別ができない。
ルカは室内に入ってすぐに立ち止まった。
主治医であるフッセルルの個人的な部屋が足の踏み場もないといった状態であることに及び腰になっていた、という事も事実だが——室内は別の区画にあった製薬室の物の豊富さとは違って正に「山積している」という形容の仕方が相応しかった。だが一番の理由は、自分が人間であるという覆せない事実の方だ。
外套を目深にかぶったまま肩を竦めているルカに、フッセルルは少し食傷した様子で空いている椅子に座るように命じた。
「立ちてえならそれでいいが。ここは俺の部屋だ。鍵をかけたから誰も入ってこれない」
「……」
「ここでは仕事と仮眠をとる。飯も持ち込むこともある」
放置された皿をみて舌打ちしたフッセルルは、皿を遠ざけて、遠ざけた先にあった別の皿に重ねた。
「先生……来る途中に治癒師の方に姿を見られました。きっと私が人間であることは」
「わかるかよ。今頃笑い話になってるだろうさ」
ルカはまだ立っている。顔を少し俯けると、頭巾に顔が隠れてすっかり見えなくなってしまう。普段であれば角を守る防具飾りも、前面に垂れているので丁度涙を流す悲嘆の表情にみえ、なくもない。
「やっぱり外に出るなんて危険なことは……」
「外だァ? 個室からちょっと来ただけで診療所の中なのは変わらん」
「私は」
「患者だ」
「……でも、外套を脱ぐこともできません」
「慣れてもらう為に連れてきたんだ。明日には自分から見せることになるだろうさ」
フッセルルの静寂さは変わらなかったが、道中で感じた緊張は、何かルカそのものに感じているわけではなかった。治癒師が走っていくのを見て、ルカは恐怖に射抜かれたが、それと全く異なる感じがフッセルルの目に漂っていた。ルカはようやく悟った。
「明日……どなたかが私に逢いにいらっしゃるのですね」
「魔族がな」
最後の一言をわざと付け足したのはフッセルルのやさしさだとルカは感じていた。彼にとって魔族であることは意識することではない。
フッセルルはルカから目を離さないまま言った。
「ここに争いは持ち込ませない」
彼はそれきり書き物に集中し始めた。話は終わりだということらしかった。ルカは部屋の中を見回し、向かい合う椅子と机を見つける。明日ここに自分と誰かが座るのだろう。それを想像してから、一礼して部屋を出た。廊下に出ると薬草の匂いを吸い込む。個室とはまた違う病の匂いがしていた。
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