6-1『犠牲』
足元に広がっていた輝く文字列が、一筋ずつ闇に溶けていった。転移術の痕跡が消えていく。
魔王城から「跳んで」きた三人分の体重を受け止めた床板は鳴くように軋んで、静寂に覆われていた一室に行き詰まる緊張を与える。先ほどまで牢獄で話し合いをしていた三人は迅速に部屋を検めて人の気配がないとわかると、時計屋が率先して扉にはりつき、音一つ立てない丁寧な手応えをもって室外を窺った。
廊下の奥で光が動き、手燭を持った人影が階段を下りていった。他に物音はない。
主に焔咳病の隔離所になっているこの場所は以前よりもさらに気の滅入る気配があった。廊下には等間隔に燭台が置かれているが、一つの小皿の上に溶け残った蝋があるだけで、支えとなる黒い針が露出して埃が張り付いていた。物資が滞ってから幾日が経過しているかは考えないようにした。
時計屋は一旦扉を戻してしゃがんだままの姿勢でしばらく床に目をそそいだ。単独で忍び込んだ数か月前に引き戻された気分になり、重い空気にごく小さな呼吸さえ発するのが憚られた。一呼吸するだけで湿り気と、薬草の匂い、そして病の匂いとでも言うべき暗鬱が混ざったものを吸い込む。自分という存在は死の前ではまるきり役に立たないということを嫌というほど知らされる。
「……この階には誰もいないようです」
揃いの外套に身を包んだ男女がそれぞれ頷く。頭部の角までも厚手の布と金属で覆った魔族の男と、角出し用の穴を塞いだ丸い頭をした人間の女だ。
女の方は上唇をそっとなめたり、室内を熱心に見まわしたりして落ち着きがない。高熱と負傷で物を考える気力がなくても不思議はないが、眼差しは意外に鮮明で全体が平然としてみえる。身内のことに没頭することで苦痛を凌駕する緊迫をもっているのか、それでも柄を握る手は過剰に白んでいた。
「繰り返しますが、目的の部屋は廊下奥の階段をあがって三つ目にある鍵付きの扉です。いいですね、他の病人は助けません。余計な善意を発揮して傷つけるのはやめてください。貴方に言っているんですよ、人間」
時計屋はルカの意識を戻す為に、外套の内側に挿し込んでいた手で懐中時計の蓋を素早く閉じた。金属の澄んだ音は、常日頃なじんだ安堵感を呼び起こした。敵の本拠地にいることで幾分か緊張していたのは時計屋も同じだった。だが、こわばりを外側へ溢れゆく力へと変換させる術を知っている。この女はどうだろう。時計屋はふと、この人間のことを何も知らないと思った。が、鼻で笑い、人間と共に行動するなどまったく愚かな話だと雑念を流した。
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地下に並ぶ牢獄はどこも手入れされておらず、荒廃するがままになっている。だが一室だけ白い毛布と革張りの箱が置かれて、ここだけは小鳥の餌場のように賑やかだ。
魔王は確かに『弟妹を迎えに行く』と言った。ルカにはその言葉だけで充分だった。王国までは歩いて三か月近くかかり、さらにそうした距離以外に肝心の薬も手離してしまった。人間という事情を考えても、住民があれほど強烈に拒絶し、怖れを抱いているのをみると「人間」そのものに圧倒されているようだった。それにずっと気づかずにいたことを知った。見た限り、ここには魔族しかおらず、魔族のためだけの場所だ。彼らの私的な領域に踏み込んでしまったことは非難されるべきことであり、どう扱われても自分の未熟さが招いたことなのだ。
眼前の二人は、魔族であるのに、見捨てずに助けようとしてくれる。
笑ったり、肩を叩きあったりするような仲ではない。だけど今、真っ白い毛布を与えられ、手当てをされ、正して、叱りつけて、感謝していると言ってくれた。それは親しく会話しあったり、まるで旧知のように名前を呼びあうことよりも、ずっと特別なことだった。
冷たい灰の下で消えかかっていた火が、じわじわと大きくなり、心をあたためていく。抱いてしまったのは、そうした感情の洪水を制御するすべがそれしか浮かばなかったからだった。
喜びは体から、背中にまわした手に、そして目に及び、やがてそれは魔王の目に届いた。
これからについて二人が話し込んでいる間、ルカは最後まで立っているつもりでいたが、関節が悲鳴をあげた。力がゆるみ、倒れ込む。背後には煉瓦の壁があり、鎖を固定するための円環の金具がむきだしになっている。時計屋は当然動かなかったが、魔王はルカの体を引き受けると、自分がすみずみまで手当てした女がこれ以上血色に沈むのを許さなかった。




