6-2『犠牲』
毛布の上に戻され、治療のために千切れた服をさらに裂いて引きはがされる。包帯は血と膿で黄色く病んでいたが、緩んだりほどけたりはしていない。時計屋はすでに影の中に消えており、視線で問えば新しい衣服を見繕いに行っていると答えが返った。
『聞いても構わない?』
と、ルカは静かに魔王を見上げた。そこに嗚咽は混じっておらず、心の鍵はすでに錠さえついていない。「跳ぶ」というのがどんな意味であるのか訊ねたかったが、やつれが見える顔をそばでみると、もう少しだけ近づく時間が用意されているような気がした。
そしてそれは彼の耳にだけ届くささやきとなった。魔王と勇者であること以外に名をわざわざつけるまでもない何かが二人の間に持ち込まれる。静かな問いかけに魔王は太い眉をぴくりと動かし、痛切以外の表情をみせるルカを見つめ返した。
『言い淀んでいたのはどうして?』
『……』
『貴方は折れたと言った。邪魔をしていたのは私が省みるべきことのように思う……私はよく間違える。前へ前へと、動いてしまうから』
『……欠点ではない』
ルカはその言葉を心行くまで受け止めてから、味わうように頷いた。咀嚼して、苦笑いする。自分の選択で他者を踏みつけたということを、ふるえるほど理解しているのだ。
彼女のこうした純粋な探究と表面上の流されやすさは、誤解されるもととなっている。だが、既に彼女の形やたたずまいを受け入れていた魔王にとっては何一つ影を落とすものではなかった。
魔王は躊躇った。そもそも言い淀んだということは、声そのものの形にならずに紛れ入るのを拒んだ潔癖の塊だ。元より言えないことの方が多い身で何を差し出せばいいのだろうと、線引きさえ出来兼ねる。
耳の中でごうごうと鳴っているのが鼓動の音であるのか、自らの宿命であるのかさえ見当がついていないのだ。
魔王は小さな真実さえ差し出さないと決める。だがふと視線を流すと彼女の体にある拭いきれなかった血が目に飛び込んできて、悪夢の根源ともいえる最初の覆しようのない、遠い死を思い出した。体が冷たくなり、するすると命がこぼれていったあの瞬間のことが今に限って目の前で生きる女に重なる。
そのとき魔王の目は今のルカではなく、ただ共に生きた女の影を追っていた。
声をあげて笑うような、そんなあたたかな記憶もいくつか残されている。彼女はいつまでも弟妹との時間が続くのだと信じていて、人前でもあからさまに弟妹の事を褒め、いかに二人に人の一生を変える力があるか説いていた。そうした光景に身を置き、歳月が流れても変貌しないと思っていたのは魔王も同じだった。
一体誰が、弟妹の死が、数多の苦悩の夜を生みだし、細い肩に重くのしかかることになると想像していただろう。そんな者は誰一人として居なかった。今日あったものが明日消え去っていると、わかっていたのなら、この手で――――
どくりと心臓が激しく脈打つ。今、空は何色だろうか。
『俺は……』
『私は魔族のことも、貴方のことも、なにも知らないから』
深い自省から発せられたそれは、決定的な一言となった。
あたかも種族間の問題に向き合おうとするひたむきな姿勢で、城に来た当初の目的を思えば随分と変貌した。魔族が本来望む「対話のできる人間」の姿だ。
だというのに、聞きたくなかったと魔王はつぶやきそうになった。
『…………結構な話だな』
魔王は顔を背け、怜悧な容貌を銀髪の壁に隠した。もともと内心の動きが外にあらわれにくい性質だ。ルカはただ単に彼が言葉を探す時間を作っているのだと思った。魔王はますます沈黙し、永遠に近しい時間を静寂に費やす。
深く付き合いすぎては損だ。魔王は深く息を吐いた。これは何千回と繰り返し、彼女が死なない道を試みているときに最も多く感じたことだった。一言のもとに断るべきだ。ほかのことはいざ知らず、「まだ弟妹は生きている」のだから運命の語るところによると「まだ生き続けて良い」ということなのだ。
黙っていればまとわりつく視線も離れるだろうと思っていたが、彼女は沈黙の中に居座った。時計屋はまだ戻ってこない。
魔王は自分のことを、無愛想で、冷たい目でじろりと眺めるところがあると自覚していた。だが彼女は冷たさに懲りることなく、深い海の底から感情を引き上げるのを待っている。
自分のいる一段と深い底に下りてきてくれたような感じがして、とっくの昔にとらえ、馴染み、今は薄れた感覚が蘇った。彼女は変わらず、ここにいる。手の届く場所に。
眺めれば眺めるほど、この色も形も、何もかもに引き込まれていく。




