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【毎日8:10更新/9章:クライマックス開幕!】きみが死なない、その朝まで  作者: 夜行(やこう)
第五章

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5-6『抱擁』

「……折れよう」


影が動いた。

壁際の暗がりから、すっと人が現れた。燭台の光の中に立ったのは、ルカがよく知っている顔だった。高く結い上げた青い髪。体中に巻きつけた懐中時計。死んだはずの男、時計屋。


「我が主」


魔王の足元に膝をついた時計屋は、軽やかさのない声で床を見続けている。


「聞いていたな」

「すべて」


二人の姿に、時計屋の遊びのない態度に、話しかけるなという鋭い空気が察せられる。そこには一抹の悲愴があった。


「迷っておいででしたら、お時間を頂戴できますか。愚かな男の話をひとつ(さら)したいのです」

「……聞こう」


頬にかかる青髪が弧を描く下に、かすかに笑んだ口元が見えた。時計屋は穏やかに感謝を述べると、すぐに笑みを消した。


「貴方様も知っての通り、私は人間を憎んでいます。ですがそれよりも憎いのは、私の知らぬところで、知り得ざるところで貴方の命が狙われていたことでした。女はどこにも憚らず城内をうろつき、不審で、不敬で、来た理由を問うと何の筋も通っていない具合でした。企てがあるのかと思えばそうでもない。話を聞けば、疑うことも疲れるほど、通り一遍(いっぺん)の考えしか持っていないのです。魔族や人間の考え方の違いというより、この女自体が深く考えていないだけなのです。幼稚な告白をきいて、恨みよりも哀れを感じました。こんなものが勇者と名乗っている。僻地あたりで罪人をするべきような者が」

「…………」

「貴方様にご下命をいただき、城を離れる背中を追いかけた。成すべきことをしろとおっしゃられた。つまりこの女を助けろということに他なりません。ひたすら足を頼りに、王国まで帰ろうと思っているつまらない女をです。うんざりしたのです。だから死の森に響いた角笛を聴いてよからぬことを考えた。他にわけがあったのなら約束を投げてもいいと判断した。魔族と人間を秤にかけ、わかりきった方を選んだ。窮民らの救助は私の役目ではありませんでしたが、体を動かしていれば考える必要がなく。ひとしきり茨を打ち払った。燃えさかる森から出れば、とりわけ濁った目をした集団が何かに熱中している。腕をふりあげて、この世ならざるものを咎めている形相だった。血気盛んといえど異常な変わり方は少なからず気に入らない眺めでした。輪に近づいてみると……」


色白の肌に、角のない頭部。乱れた髪には泥がつき、太腿に刺さった槍が引き抜かれるのをみた。女だ。とっくに森を抜けて、薬を抱いてただひたすらに走っているはずの女がどうしてまだここにいるのか、時計屋にはわからなかった。装備は離れた場所に固まって置かれ、剣は鞘に収まったまま土の上にある。囲む男たちの手だけが赤く、倒れる女には抵抗した傷がない。愕然とした。この無垢すぎる知性のない女は、言葉があれば誰にでもわかってもらえると律儀に信じていた。目に見えない鎧で心を守る術も知らず、論ずる場で、感じていることをたどたどしく言葉にしていた。そうしたものは、自分の中に明確な考えがない者がすることなのだ。だが、それは彼女が唯一行使することのできる純粋な力でもあった。


意識のない女をもてあそぶ集団に分け入って、彼女の体を抱きあげる。それは時計屋がしなければならないことだった。もっと早くに、こんな悲劇が起きる前に。

時計屋は牢獄の石畳の上で膝行してルカを正面から見据えた。


「私は命令を遂行せず、人間だから知ったことではないと同胞の救助を理由に使いました。貴方を呼び止めておけば、そのような傷を負うことはなかったのです。完全に私の失態です。それなのに貴方は一切やり返さず、同胞を傷つけずにいてくれたこと、私からも礼を言わせてください。貴方の誠意に敬意を表します」


何を言われるかわからず、耳を澄ませていたルカは驚きのあまり「…けいい」と、音にはしなかったが口元だけははっきりと繰り返した。時計屋の頬が引きつり、片方だけの皺ができる。失言をしたことを悟るが既に遅く、下唇をかむ。言い訳をさせて欲しかったが、口を噤むことを選んだ。敬意などと言われたことはなかったので、悔恨や怨嗟にも頓着なく、まっすぐに受け取っていた。彼はまだ軽蔑の表情をしていたので、何か言わねばと唇を湿らせて言葉を選ぶうちに、本音が転がり出た。


「貴方を敬っているのは私の方ですが…」

「お前が私を? ただぼんやりと生きているような女が生意気なことを…」


顔をすっと引かれる。相当に嫌悪しているようで、ルカは歯を揺るがして唇を結んだ。


「……返す言葉はありません…」

「当たり前です。その気色の悪い口調も、その要らぬ敬いのせいですか? 不快ですからやめなさい」

「それは……はい……わかった」


「お前たちは…」と、魔王の顔がにわかに鋭くなった。呆れと頭痛に悩まされているようで、頭を押さえている。


「我が主、もう一度ご下命くださいますか。今度こそ必ずやり遂げます」

「……お前も、身を守る術を知るべきだ」

「お言葉ですが三人ともでしょう」

「危うい手法だ」

「貴方の為ならば」


牢獄には三人がいた。傷だらけの女と、漆黒の鎧をまとった男、そして鮮やかな実の一粒を噛んだかのように微笑する男がいる。


「我が片腕よ……王国に()()、勇者の弟妹を迎えに行く。力を貸せ」


はい、という瑞々しい声が応えた。


ルカは言葉を飲み込むまでに時間を要した。いつまでも呆けているので時計屋は悪態をついた。目も口も鋭いが、彼は朗らかであった。

段取りについて話し合う二人をよそに、ルカはまさしく、純粋に、清らに、晴れ晴れしく、天に昇る気持ちになって、そのあとすぐに涙で頬を濡らした。箍が緩まり、しまりがなくなった顔を隠さずに泣いた。

ルカは足がふらつくのを無視して、魔王の前に立った。そのまま両腕を伸ばして、魔王の背中に腕を回した。


「な——」


時計屋が猫のように目を見開いた。口から間抜けな声をだして固まっている。

ルカは構わず、腕をしめつけて強く抱いた。返るのは鎧の固さばかりで、彼自身を抱いているとは思えない。それでも離さなかった。数秒抱いて、それから手を離すと、今度は時計屋の方に向き直った。


「結構です」


時計屋は素早く後退した。


「正気を失いましたか?」

「……熱はある。たぶん、全身痛い」

「でしょうね」

「思い浮かぶ言葉はある。とも一口では言い足りない。私には差し出せるものは何もない」

「熱にうかされていると思慮深い女になるようで」

「だから、親愛の証だ。ノクスとアルバにはいつもそうしている」

「貴方の容貌からして二十くらいなのではありませんか? 主も私も子供ではないのですよ。男に身を寄せてくるとは」


ルカは高熱ということもあり、自分以外にノクスとアルバを助けに行こうとしてくれる人がいてくれることが余りに嬉しくて時計屋の小言は聞いていなかった。自分に差し出せるものは何もない。その言葉に不思議と勇気づけられていた。何も持たないということは、純粋な気持ちだけが残されているということだ。今のルカにはそれで充分だった。


「わかりました、わかりましたから近づかないでください!」


時計屋がわめいている。その隣で魔王は真横を向いていた。視線が宙をさまよい、数度まばたきをした。それからぎゅっと目を瞑って、眉を下げた。

ほんの一瞬だけ。誰にも気づかれないほどの、短い時間だけ彼は噛みしめていた。

魔王の顔が静かに崩れて、静かに戻った。


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