5-3『抱擁』
瞼の裏が薄暗くなった。大きな手は額の熱を測っただけで慎重に離れていく。瞬きをすると睫毛についた涙が散って、ルカは胸郭の中を埋めていた考えをすこし晴らして、背を向けている人物を見上げた。
石の床と硝子がぶつかる音をきくルカの前で、男の髪がひとかたまり外套に垂れた。男は床に広げた道具を革張りの箱の中に片していた。錠付きの箱で中には薬瓶や器具がつまっている。蓋の裏には銀の匙や長さの異なる針が布にくるまれ、さらに細い帯で固定されて何やらとても厳重だ。
ルカはその顔をよく見ようと身を起こそうとしたが、「動くな」と男は背を向けたまま言った。
作業を終えて身を乗り出してきた男——魔王はルカの顔を一瞥して、それから頬に柔らかい布を宛がった。撫でられた場所が冷たくなり、体から離れていく布は赤みを帯びた褐色に汚れていた。血と泥だということは、まだぼんやりとしている目でも判別できる。
包帯を巻く手はやさしく丁寧で、いわばその男のどこか固く冷たい相貌を甘やかなものに変化させた。良い人なのだ。本当に。
(あなたとちがって)
鋳造した鉄棒で隔たれている檻の中で、彼は外套も膝も床につけて的確に処置を進めている。
彼の他には誰もいない。どうしてこんなところにいるの――――その質問がたとえ音になったとしても彼は答えなかっただろう。
彼が背中の傷を診るために上体を起こそうとすれば、ルカは肘をついて一緒に起き上がろうとした。が、首が少し浮き上がっただけで後頭部はすぐに地面に戻った。自分の体が重く、どこか別の物になってしまったようだった。
「動くなと言った筈だ」
極めて警告的な冷たい声だ。だが、魔王はルカの体を抱きあげてもっと柔らかな布の上に置きなおした。ルカはまだ混乱を口の中で味わっている。
「そのまま口を閉じていろ。処置は済んだ。傷は深いが、今日明日どうなるという事でもない。目探るのはやめて休め」
「……ど、のくらい」
ルカは言い切れずに大きく咳き込んだ。少し喋っただけで刺すような痛みに襲われる。咽喉が渇いているだけではなく、唾液を飲み込むことも躊躇うほどの痛みがあった。
溜息をついた魔王はルカを抱き起して、水差しを差し出した。体を起こされてようやく自身をみると、腰から下には毛布がかけられており、裂かれた衣服の下にはきっちりと包帯が巻かれていた。それ以外も紫の痣だらけで、酷い有り様だった。
だがルカは目の前の男に視線を戻した。自分の体を甲斐甲斐しく手当てしてくれた人を眺めた。やっぱり彼は良い人なのだと思った。治療を受けた事実も、又、魔王という名称そのものも偏った認識の壁に使われたようであった。今でさえ彼は悩まし気な視線を向け、少し冷たくみえるが、飲み口を顔の前に置いてくれている。唇を開くとひそかに予感したとおりに傾きがつくられて、ルカはぬるい水を含んだ。
いくらか咽喉が潤う頃には嚥下する痛みにも慣れていく。肘から先が動いて、水差しを戻す手を掴むことができた。
「……どのくらい、っう、……経ったの…?」
「喋るなと……まだいくらも経っていない」
「ここは、どこ」
「城の地下牢だ。何があったか覚えているのか?」
頷くと、彼は寝かせようと肩を少し押してきたので、ルカはめいっぱい首を振った。魔王は説明を求める視線にしぶしぶ応えた。
「ここにはお前を罰するつもりで入れたのではない。そうしなければ人々は憎悪に調子を合わせて、お前を殺していたからだ。人間は殺さなければならない、そう連呼していたのは家族を奪われた者たちだ。俺が把握しているだけでも、お前に危害を加えた十九人は罰を受けなければならない」
「ちがう」
魔王は多少閉口した雰囲気があったが、ルカは止まらなかった。
「私は、逃げないことを選んだ。よく考えて選んだ。すべて。もうすんだ事だと思ってほしい……」
「選んだ?」
頷くと魔王の顔色が変わり、その相貌にかすかに漂っていた柔さは消え失せた。彼は身を引き、二人の間に距離が生じた。
「お前はなにも考えていない。今日まで、俺たち魔族が受けた被害はお前一人が贖えるものではない。当たり障りのない献身をすることで、お前は生きようと努力することを放棄した。もはやその命はお前のものではなくなったのだ」
ルカは投げ出された手を石の上に下ろすことしかできなかった。
生きる努力、その言葉が頭をめぐった。




