5-2『抱擁』
たった一人の人間を前にしただけで激しい鼓動に襲われる面前の人々の方が、よほど恐怖と戦っていると感じられた。実際に彼らはこわばり、この瞬間に両者の間には極限に達した何かが、暴発するたった一つの接点を求めていた。
ルカは訴えたかった。そんな風に怖れなくていい。私はただ一つの命を除いて、何も持っていないのだと全身で表していた。
――――貴方は主体的に意思をもってそれを受け入れたのでは?
――――それとも人間にみえるだけで動物でしたか?
――――なんという知性の無さ
――――貴方は銀の鎧をつけた座棺だ
男の声が脳裏に響いた。それは怯えた窮民の声ではなく、使命を果たせなかったルカを諫めた見本のような言葉だった。薬瓶をもらう前、時計屋はひと匙の遠慮もなく、善人を演じていたルカをたちまち粉にした。
痛罵が、いまの気持ちを支えることがある。それが抱えきれない痛みを転換して自分を剥奪されないようにする一種の防衛術であったのかも知れないが、ルカは流し去ることよりも糧にすることを選んだ。彼の言葉に一つも間違いがないことが愛する理由になったのだ。発端から伸びる四つの紐を握りしめて、いつでも戒めに思い出せるようにしたかった。
ルカは魔族に対して怨恨や憎悪ももっていない。ないが、もっと正しく言えば、弟妹以外の他人に何ら興味を向けたことがなかったのだ。
二人だけを愛することは、とても簡単ですばらしくて、無責任なことだった。だから魔王の命を奪いにこんな遠くまでやってきてしまった。いかに自分が妄想の世界に属していたか、彼の言葉によって意識する。
ルカはいつも誰とどんな話をしたか、何があったかをすぐに忘れる。弟妹や師や、記憶の中の母と遠ざかったあと、流れるままに生きて、今いっそう彼の声がまっすぐに突き刺さっていた。
――――人生を変えてしまう瞬間に、用意周到にはできなかった
こんな不格好な言葉を口にすることができたのもそうだ。こうしたことは昨日でも明日でも存在してはいなかっただろう。
そして、にわかに弾けた後悔のあと、柔らかい光で照らされた薬瓶を抱えた。あの小さな箱は正しくありたいという決意を肯定してくれるかのように手中に収まっていた。魔王と最後に言葉を交わしたとき、あの人は一瞬笑みをみせたような気がした。それは都合の良い幻だったのかも知れない。
城壁から飛び降り、森へ入る。ひたすらに駆けながら思い描いていた。崩れた屋根から漏れ落ちる陽光に、床に敷き詰められた落ち葉がやがて美しく光る。おかえりと言って両手を広げる弟妹を抱き返したい。逢いたい、いますぐに。
今、はじめて自分を愛しかけているような気がした。
眼前に並ぶ騎馬兵の、暗闇のにじむ目を見つめ返す。装備を手放したルカにできることはない。森を逃れる窮民を見つけ、そして彼らからあの黄色っぽい饐えた臭いがしたときに、こうなることはわかっていたのだから。
馬の足元から飛んできた石は肩に当たった。馬同士の隙間をくぐって最前に立った子供が、おかあさんを返せと躓きながら二打目を投げた。兵よりも前に出てきた少年に最初から躊躇いなどなかった。次に側頭部を槍がかすめた。髪が引きつり、皮膚が裂けた場所がカッと熱くなる。その次は太腿に刺さって、ルカは背中を強く打ちつけた。
空しい思いを噛みしめることで体をかたく守ろうとするルカに、馬乗りになった男が叫んだ。お前たちが俺の妻を焼いた、家も失った、まだ奪い足りないのか。叫びはそのあとも続いたが、降りそそぐ殴打が頭を揺らしたあと記憶はない。
乱れた髪の向こうに怒りに震えた拳が振り上げられている。雨のように散ったのは男の涙だったのか、拳についた血であったのかはわからない。
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誰かが体に触れている。口の中で舌をまわそうとしても、粘膜が引きつって上手く動かせない。喉が渇いて、眉と眉のあいだに深い皺を刻みながら、ルカは瞼をあげた。
体が持ち上げられたり、動かされたりして、何か好きにされているようだった。太腿がかつぎおろされると、引き裂かれた下衣の上に布が掛けられる。真っ白な新雪の色が目の端に映ったが、それは牢獄にはあまりに不釣り合いだった。まだ夢をみているらしいと思って言葉を慎むと、自分に被さるようにしてある天井が段々とみえるようになってきた。
ぼんやりと見上げる。天井には灰色の絵具を溶いたような染みがあった。数えるほどもない灯りが星のように散って見えた。美しい夜空に灰色の染みが雲になって広がる。あぁ、なんてうつくしい――。
闇を見ていることにじっと耐えられたならば、そこから喜びを見い出すことができる。そう信じていたルカの胸裏に一滴、一滴と水が滴っていく。
ルカは自分が泣いていることすら気づかず、片目を覆う包帯を濡らし続けた。
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