5-4『抱擁』
「お前が助けたのは王国軍の襲撃から逃れてきた東の集落の者たちだ。今は馬も人も怯えて大部屋で抱き合いながら眠っている。鉄騎隊は森に入って、燃え落ちた茨をかき分けながら、残された者を探している」
魔王の方を見ないでいたルカは咄嗟に顔をあげた。
「わかっている、生存者はいないだろう。だが避ける術なく茨に襲われ、四散した手足は残されている。たとえ一片の肉になったとしても待ち望む人がいる」
「…………」
深く頭を下げて瞑目する。ルカは問い詰められていない、責められてもいない。目の前の男は事実だけを述べている。だが心は未練的な言い方を求めていた。それが何であれば納得するのかルカ自身言葉にできない。
「……今は張り詰めているが、薬の効き目が薄れれば痛みがくる。もう休め」
「わたしは……」
「なんだ」
「……」
「話さなくては別物になると言うのなら、聞こう」
『別物になる』——何が変わってしまうのだろう。私の何が。
彼の言葉選びはルカの常識を逸脱していた。ルカは彼のまわりをうろうろする何かになってしまう。格子の向こうに差し向けた体を正して、あんまり誠実にルカだけを見るので、どこか山の頂、あるいは崖の突端に追いやられているようだった。
彼は待ってくれている。無理にも何か言わねばならないと感じた。
「……あのひとたちは…? くすりを、わたした、ひと」
「俺が渡した小箱は潰れて元の形を留めていない。薬を誰に与えた?」
「…………子供連れた男の人、に、ほかにも……おなじにおいが、した子に」
「治癒師からも焔咳病の発症が確認されたと報告を受けている。人間が手ずから薬を与え、命を助けたと。なぜ使ったのか知りたい。それが正しいことだと思ったのか」
「ただ、しい……」
あわれむような目で彼を見た。だがそうではない。見ているのは乱れた布を掛け直して労わろうとしてくれている彼ではなく、彼の向こうに広がる暗闇だった。薬瓶を手放した瞬間から責め続けてくる自分の声が、薄めることのできない声が、鋭い残忍な犬歯となってルカをむさぼっていた。
(どうして薬を渡したの)
(こんなところでなにをしているの?)
(どうして二人のそばにいてあげないの)
押し留められていた沈黙が破られる。ルカの頭の中は声で埋め尽くされた。それは一番考えたくないことから逃れようとするルカを罵倒する声だ。一体どこに自分自身に痛めつけられる人がいるというのだろう。自分で仕組んだ矛盾に、ルカはどうしていいかわからなかった。
「薬の生産は追いついていないと言ったのを覚えているか。お前に渡した薬は俺の生涯のうちで、命を対価にしたもっとも大きな放棄の上に成り立っている。殺気立った時計屋をみて二度とくりかえしてやるまいとも思うが、完成した薬を抱いていたお前を思い出せば、決断も無駄ではないと思えた。けれど、お前は感情のままに動き、薬を手放した。何のためだった」
「ち、……治療のため。そうしなければ彼らは苦しんでしまうから」
「違う。お前も気づいているんだろう」
「な、に……?」
「なら満足しているというのか? 命を救ったことは疑う余地もない。それは他人を喜ばせたいという衝動の為にしたことだったのか?」
「わか、らない。そんな、もの、だれだって……あるでしょう」
「誤魔化すな。お前は薬瓶をみて、思い浮かべた顔があったはずだ。それは魔族の顔だったか」
唾を飲み込んで慌てて言った。「わからない」頭の中で私が返した。嘘だ、と。立ち上がろうとして失敗して、気持ちだけが浮き彫りになっていく。
「どこへ行く。薬はもうない。お前が使ってしまった。人に好かれたくて仕方がなかったんだろう」
「ちがう! ちがう…!! み、すて、て、いけばよかったとでも…!?」
魔王の体を強く掴み、もうどうにもならず額で、頬で鎧を叩いた。彼を傷つけたいのではなく、自分を痛めつけなくてはいけなかった。顔の骨が鈍い音を立てて、牢獄に跳ね返った音はルカのうなじに不快な旋律となって返った。
包帯で塞がれた目を傷めつける。ルカは沈黙すればするほど勢いを増して、魔王は舌打ちをした。厚意を無視する態度に突き刺す言葉を、包み隠さずに言い放つ。
「お前の弟が死の寒さに目覚めるとき、妹がお前の名を呼ぶとき、お前はそこにいない。お前が諦めたからだ」
ルカは声をあげて泣いた。がくがくと体を揺らし、頬の肉を掴み、認めた。
初めて自分を愛せる気がしたが、やはり間違いだったのだ。ただ、何か貴いものに指が届きそうな気がしていた。薬瓶の入った小箱を抱きながら、確かに心の底からそう思った。でも踏み台は崩れてしまった。
ルカの体はみるみるうちに変質して、母でも父でも、姉でもないものに成り果てた。一つの頂点に達し、落ちたのだ。
魔王は立ち上がると、壁際にあった何かを取って戻ってきた。空気といっしょに埃が動いてむせたルカの前に、硬い剣が振り下ろされた。石畳の隙間にそそり立ったそれを見上げ、面に反射した自分の顔の皮という皮をみた。
「死んでみるか」




