10-10『あきらめ、唇を噛み、いつものように』
魔王城は石造りで、黒と灰、焦げ茶の色合いのものが多かった。石畳を歩く靴音は、耳にきつく当たる。けれど、人はそうではない。
鉄騎隊による夜間狩猟の収穫は、朝の内にさばき切り、加工され、昼には城の貯蔵庫に移される。そのときばかりは城外の狩猟や偵察を本業とする兵士と、城付きの召使いたちの交流がもたれ、武勇をせがむ女がいたり、若い女から贈り物を得ては鎧姿の威厳をなくす男も見られた。それが上官の耳に入れば、縁談に発展することもあると教えてくれたのは武官長だ。
ルカは魔王城の奥に部屋を与えられていたが、人払いのされた階層では誰と逢うこともなく、常のように賑やかな階下の声を、壁に寄りかかり聴いていた。
広すぎる部屋には、座面の膨らんだ、落ち着いた色合いの椅子や、寝台にも使えそうな長椅子、脚や取手にまで意匠のほどこされた棚や円卓などが置かれている。それでもルカは部屋の片隅をなにげなく好んだ。少し開けた窓から入ってくる鳥の声やかすかな人の声を聴いていると、空き腹を抱えていても飽きることなく、その静けさに身を浸していられた。
はやく診療所に行かなくちゃ――そう思うのに、めずらしく何かをしようとする気力が集められないでいた。狩猟のあとの体は泥にまみれ、笑うと小鼻のわきが引きつった。指先を合わせて乾いた土をもてあそんでいると、部屋に入室してきた侍女が、まだルカが室内にいるとは知らず、そのまま真っすぐに身支度用の部屋に向かった。
魔王からは気にせず侍女を頼れと言われていたものの、――天井から吊り下がる呼び鈴の使い方まで教わったが、人を頼ることもまだ勇気が要った。部屋にあった掛け布や汚れた衣類などはいつのまにか消え、整えられた状態で戻ってくるので知らないうちに彼女らの手は借りているのだろう。
食事は診療所で取り、睡眠も問題はなかったが、入浴だけは汗を拭うための湯が必要だった。一人用の鍋はあるが暖炉に火を入れることも気が引け、外で焚き木をするわけにもいかず、観念して鈴を――鳴らせなかった。
葉っぱに文字を書いて、湯の運搬をしてほしいと書いて目につく場所に置いた。翌日から、人が近づいてくる気配がすると小部屋に隠れ、声だけで対応した。向こうも「お湯をお持ちしました」と言って去っていくので、侍女とは一度も顔を合わせたことはない。
今日も決まった時間にお湯をもってきてくれた。なのに、ルカは入浴の予定をすっかり忘れていたのだ。やってしまったと苦い顔をつくる。こんこん、と手の甲で扉を叩き、彼女は言った。「お湯をお持ちしました」
まだこちらに気づいていなかったが、返事をしなくてはならない。彼女がもう一度扉を叩く前に、ルカは立ち上がった。
「ありがとうございます。そちらに置いてください」
あまり凝視はしては失礼だと思ったが、謝罪のときは目を合わせるという癖が、ルカの目に侍女の動揺を映した。歳はもしかしたら同じくらいだったのかも知れない。黒い衣に真っ白い前掛け、長い裾から伸びる脚がぴたりと揃えられていた。
彼女はすぐに後退ったが、桶を持ったままであることに気づき、急いで足元に下ろした。そのときに波打ったお湯が胸に掛かってしまい、か細い悲鳴があがった。思わず駆け寄るが、顔にさっと拒絶が走ったのを見てルカは足を止めた。緩く跳ねる髪に、立派な角が生えている。蝶が翅を広げているようで綺麗だと伝えたかったが、拒むように広がった手のひらのようにも見えた。
彼女はルカの頭から爪先、そして最後にまた頭をみて、口を真横に結んだ。
「――――けだもの」
若い侍女はそれだけ言うと、その場を立ち去った。
石の上を走っていく靴音が、いっそう険しくなったルカの顔を曇らせる。
「…………」
鞄から乾布を取り出して、湯の桶を持ち上げる。水面に落ちた雫は思いがけない涙であった。これぐらいのことで、どうして泣いているのだろう。自分の弱さを猛烈に恥じて、唇を噛む。
窓の下から聴こえる賑やかな声、あれは自分には一切関係のない遠くのことだ。呼び鈴を躊躇うこともそうだ。彼女らが仕えたいのは同族であって、人間ではない。
わかっている。わかっているのに、どうして立ち尽くしているのだろう。どうして涙が流れるのだろう。ほんの一瞬考える。人間であることは罪なのか、と。
「――」
息を深く吸い込んで、吸い込んで、止めた。このまま息を吐かなければ、この場所で生きる人々を白けさせることはないように思えた。
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「可愛らしいお客様だね」玉座に腰かける男は言った。ルカの背後では扉を守る番兵が、あえてこちらに聴こえるようにせせら笑っていた。




